12月に入ると、痰の切れが悪いせいか 咳が頻々と起きるようになり、
しかも痰に血が混じることも増えてきました。
ふつうなら、咳止めの薬や痰を切れ易くする薬、それから止血剤を
服用することになるのでしょうが、わたしは、その手のものは
一切断っています。
たしかに、咳が続くとしんどいですし、エネルギーの消耗もあるとは
思いますが、痰を出そうとして咳が出るのでしょうから、むやみに
止めようとしてはよくないと考えています。
痰は殺された がん細胞の残骸や炎症産物のはずです。
それを体外へ出そうとする自然の働きが咳なのです。
また、がんにより壊れた細胞や死んだ がん細胞に
由来するのが出血でしょうから、止血剤などで止められる
ものではありません。
以上のように考えていますので、くすりは全く服用しないのです。
さらに、みぞおちから右の肋骨の下のおなかの部分が、硬く触れ、
かなり腫れているようです。がんが肝臓に転移しているからと
思われます。そこで、訪問診療医は、エコーの検査をして
確かめようといわれましたが、断りました。
なぜなら、転移がわかったからといって、わたしに何の益する
ところもないわけですから。
ただ、わたしも医者ですから、どういう理由で肝臓が腫れているか
知りたいという気持ちはよくわかります。
(たとえ、わかったとしても、患者には、何のプラスにならないにしても)
また血液検査も断りました。くすりをのんでいれば副作用のチェックと
いういいわけもできるでしょうが、何ものんでいませんので この理由づけ
もできません。
結果がどう出ようと今の状態を好転させることはできませんので医療費の
無駄使いになります。
もっとも、血痰が続いている以上、貧血は進むでしょう。しかし わたしは
どんなに貧血が進んでも、輸血をするつもりはありません。
老人ホームでの体験から、吐血とか大喀血とか 一時的に大量の出血を
生じる場合でなく、徐々に減る場合は、身体の方もそれに慣れ、
かなり貧血が進んだ状態でも耐えられるということを知っているからです。
人工呼吸器の装着も希望しません。Q.O.Lの低下した状態での延命は
願い下げだからです。
ただ、医者の申し出を断れるのは、在宅で療養している場合だけです。
なぜなら、在宅での主役は患者だからです。
病院へ通院している場合や入院の場合は、こうはいきません。
いや、本来は、負担するお金の問題も含めて、患者の了解がなければ
医療行為はできないのですから、在宅と変わらないはずなのです。
しかし病院の場合、医療者主導ですから、自己主張しようものなら、
入院なら、いうことが聞けないなら退院してくれと迫られますし、
通院の場合は、機嫌をそこねて、診てもらえなくなっては困ると
患者側が気を回して黙ってしまうのが現状です。
これは、悪いようにはしないだろうという“お任せ主義”と
恵まれた医療保険制度のおかげで懐具合を患者、医療者の双方が
あまり考慮しなくていいという事情が深く関係していると思われます。
たとえば、75歳以上ですと原則1割負担でさらに高額療養費制度が
ありますので、医療費が1千万円かかろうと2千万円かかろうと、
わずかの負担で済んでしまうことになるのです。
そのため、死が目前に迫っている状態でも、できることは目一杯してくれ
という要望が家族から出されたり、死の当日まで血液検査をされたという
家族の嘆きが聞かれたりするのです。
また、通院でも高血圧や糖尿病の場合、落ち着いている、うまくいっていると
いわれながら、毎月血液検査が行われるという事態が生じるのです。
本来、患者側は、その検査は何のためにするのか、そしてそれをすれば
何がわかって、病状の好転にどう役立つのか尋ね理解した上でOK
しなくてはならないはずなのです。それを放棄して医療側の勝手に
させている状況下では 世界に冠たるいい医療保険制度が破綻し、
若い者に残してやることができなくなることを深刻に考えなくては
いけないと思います。また、多少の延命ができるようになっただけなのに、
マインド・コントロールされ医療に過大な期待を抱かされるようになっています。
しかし、現実は治らない生活習慣病で、日本中病人だらけになっています。
もし発達したというなら、病気が治って、病人が減っていなくては
ならないはずです。
16世紀のフランスの外科医、アンブロワーズ・パレが
「時に治し、しばしば和らげ、常に癒す」といいましたが、発達したといわれる
現代の医療技術も中途半端なもの(ハーフウェイ・テクノロジー)で
本質的には、当時とさほど変わっていないような気がするのです。
だから、高度な医療ほど、助かったとしても重度の障害者を生むことになるのです。
(こんな姿で助かるなら、あの時死んでくれていた方がどれほどよかったか。)
“修繕”に出す前よりひどい状態で生還(軽度の障害が重度の障害になっている)し、
結局、もて余されて施設へということになったりするのです。
1.本人に治せないものが他人の医者に治せるはずがない
日本人は病気やケガは医者やくすりが治してくれると思っています。
だから「どこかに腕のいい先生はいませんか」「特効薬はありませんか」
となるわけです。しかし、病気やケガを治す主役は、本人が
自分で治す力(自然治癒力)なのです。医療者は、お助けマンであり、
くすりはお助け物質、器械はお助けマシーンで、本人の治すのを
手伝う脇役にすぎません。
たとえば、外科医は悪い所を切り取ったり、切れたものをつないだりして
くれますが、くっつけたり、後始末をして再び使えるようにしているのは
当人であって、外科医ではありません。
くすりについても、肺炎にはよく効く抗生剤がありますが、年寄りの
場合には、いくらいい抗生剤を使っても助からない場合があります。
もし、くすりが主役なら死ぬことはないはずです。
器械についても同様です。今、新型コロナの重症者に 人工呼吸器や
エクモが使われています。しかし、あの器械が治してくれるわけでは
ありません。あなたに替わって時間稼ぎをしてやるから、その間に勝手に
治しなさいというわけです。治せる人は助かるのですが、治せない人は、
いのちを落とすのです。いずれにしても 本人の治す力(自然治癒力)が
主役で医療者もくすりも器械も脇役にすぎないことを証明しているのです。
最近は超高齢社会を迎えて、「治す」医療から「支える」医療へ変わらないと
いけないなどといわれています。しかし、「治す」医療などといわれると
医療者が主役のように聞こえます。
正しくは「本人が治すのを手伝う医療」から「本人が治せないものを支え、
死にゆく時に 無用な手出しをして苦しめない医療」になると思います。
(その2へつづく)