自分の死を考える集い開催スケジュール掲示板

「大往生したけりゃ医療とかかわるな」の著書である父中村仁一が皆様へ遺言としてお伝えしたかった内容を載せております

父との幼き頃の思い出

2021-06-29 12:55:39 | 日記

少し 幼い頃の父との思い出を書いてみます。ですので ご興味ない方は

読み飛ばしてください。

 私は(兄妹はかも?)幼き頃 あまり父に遊んでもらった記憶がございません。

ただ覚えているのが 数少ない思い出になるのですが 数回父と二人で出かけた記憶は

ございます。当時 幼稚園児ぐらいだったと思うので 「パパ」とまだ呼んでいたような。。

そしてそのパパとのお出かけはめちゃくちゃ嬉しかった。確か大阪の弁天町にあった

交通博物館に連れて行ってもらい 当時国鉄だった切符の買い方や 料金表の見方など

教えてもらいました。あと 京阪電車に乗ってどこか連れて行ってもらったかな?

その程度です。それから私は父に何か物を買ってもらったり「買ってくれ」と

いった事もありません。と書くと 長年の父のファンの方からは 昔の本に

「息子がバイクを買ってくれと言って来て 取っ組み合いのケンカとなり 心臓が・・・」

なんてあったよね?と思われるかもしれませんが 父が生きている時に

 「あれちゃうやん!そもそも一度も なんか買ってくれなんていったこともないし

そういう物を買ってくれそうもない人にいうわけないだろ?あれは バイクを自分で

買うけど良いか?って反対され 諦めた事は確かにあって 

あの心臓バクバクは ・・・・・の理由やん」 って 文句いった時の

父の 気まずそうな顔は忘れられません。

ちなみに 気になるかもしれませんが・・・・の理由は 

めちゃめちゃつまらなく 恥ずかしい理由でございますので

そこは父の名誉のため書きませんが。。(笑) 改竄か?とも思いましたが

あの父の性格からすると そういう事はないと思うので 記憶違いかな?

(それもあり得ませんけどね)ちなみに死んだら 

私の名誉挽回のためいつか書いてやろうと思ってました。(笑)

 

買ってもらっていたもので そういえば唯一 雑誌の「小学x年生」という雑誌を

毎月 我々兄妹に買って来てくれてました。それが毎月楽しみで その時は

父を玄関で待っていたものです。

しかしながら 巻末の懸賞の期間が終わっていたり あるはずの付録が無かったりと

大きくなるにつれ「何か変だぞ?」と思い母に聞いたら どうやら毎月1月遅れの

売れ残りの雑誌を知り合いの本屋さんで 安く譲ってもらっていたようです。

これも父らしいなぁーと思う話です。

 

 父の父(私の祖父)の話は 遺言シリーズで書いてましたが 父も祖父から父らしい事を

してもらっていない(目が悪くてできなかった)のではないかと思います。

なので我々兄妹の扱いにどうしたらいいのかわからなかったのと、母方の祖父母と

同居してまして、私はおばあちゃん子だったので祖母に私との時間を取られていく内に、

それが当たり前になってしまったのかと思います。

今考えると 少し可哀相だなとも思います。

 そんな父が目指す父親像だったのかはわかりませんが あの漫画など読まないような父が

唯一読んでいたのが 「巨人の星」でした。なのであのスパルタな 星一徹を

目指していたのでは?なんて思う話を書いてみます。

 父の趣味ってほとんどありません。後半は皆さまに このような会を通し 自分の考えを

お伝えすることが趣味みたいな感じでしたし 若い頃はクイズ番組に出まくり 

あらゆるところでチャンピオンになり 実はそういう功績から

 「第一回アメリカ横断ウルトラクイズ」にも招待され出てます。ただ正統派のクイズ王で

あった父は あの罰ゲームなどを交えた構成が好きではなく途中問題が間違っていたとかで

抗議して わざと負けて シャチにキスをされるところで帰ってきてますけどね。

その他の趣味は 昔住んでた 家の斜め前の荒れた土地を借りて80坪ほどあった雑草だらけの

土地を ツルハシやシャベルなどを使って一人で 耕し 畑にし 家族に自家製の野菜を

作る事ぐらいです。

 さて前置きが長くなりましたが ここからなのですが 我が家の小さい頃からの

ルールなんですが 食事に出された物は 一旦 箸をつけた物は 死んでも食って飲み込め!と

いうのが父のルールでして さすが貧乏な時代を乗り越えてきた人だと思われるでしょうが 

ある日 母が作ってくれた ちらし寿司を食べておりましたら 奥歯で突然ガリっという

音とともに 強烈なにおいが口中でしたのです。それはいわゆる カメムシとか クサ虫とか

触った時の臭い匂いです。もちろん人間 そういった場合 咄嗟に吐き出しますよね?

でも その時 間髪入れずに言った 父のスパルタと思える一言

 

「吐くなぁーーーー」  です。 

 

もう私は 泣きじゃくりながら だって無理やぁーって(笑)

原因は 父が畑で取ってきた野菜に クサ虫(テントウムシみたいな茶色の物)がちらし寿司に

乗り移ったのは間違いございません。。。

さて 何故 我が家のルールに 「箸を付けた物は死んでも食って飲み込め!」なのか 

普通 躾なら「出された物は食え」ですよね。

これは 父の食べ物の好き嫌いが・・・嫌いな物は 逆に言えば 箸を付けなければ・・ 

なのです。 死人に口無し なので 父は反論できませんが 本当の話です。(笑)

 これぐらいかな?父との 小さい頃の思い出は。。。

私は 端から見ると 医者にならなかったバカ息子です。ただ父も 医者になれとは

一言もいいませんでしたし 何かしら贅沢をさせてもらうとか 医者の息子らしく

小遣いを一杯もらっていたとかはありません。むしろ今 サラリーマンの私の息子の

方が 高校生から 私立に行かせてますし 大学も私立 まぁ父の頭を引き継いでいるのか

優秀な高校と大学行って ちゃんと勉強はしているので そこはバカ息子の私とは違いますけど

私なんか 高校受験で 滑り止めの私立を受ける事すらダメ 高校は公立1校のみ受験

落ちたら 中学出のお前が役にたつであろう自衛隊に入隊しろ!ですからね。

私は 高校1年生の時から 夕刊ですが新聞配達してまして 今みたいにバイトが当たり前の

時代ではない 当時の高校生にしたら お金を持っており 母との折り合いが悪く 

父の許しを得て 高校3年生から 自宅を出て一人暮らしをしております。

(家賃1万少しの 共同便所 風呂という感じのところです。)

と 17年間しか 父と住んでないのです。なので これ以上 小さな頃の思い出って

ないのです。

 

最後にこの話は 父の部屋に大量にありました 原稿用紙をもらって

きてまして 下書きとして それに万年筆で書いてます。

しかしながら 父の部屋の残った遺品整理をしてると 思うのが ほんと贅沢とは

無縁の人だなぁーと思います。ちなみに 形見の万年筆で。。。なんて 感動的な話ですが

父の部屋には そんな高価な物もなく 100円ぐらいのボールペンが山のようにあり

メーカー物の文房具なんぞ 皆無でした。

なので残念ながら 万年筆は 形見ではなく 私が自分で買った物です。

IT屋の私は 普段紙に書く事があまりなく 結構面白いなと思います。

今回 父の死を皆様にお伝えしようと お葬式の当日の夜に 父と心の中で

会話し書いた話も 我ながらというか 家族には好評なので ちょっと今回も調子に

乗って今回もつまらない物を長々と書かせていただきました。

と 長文のお付き合いありがとうございました。

 

 

 

 

 

 


父の部屋の整理

2021-06-19 19:45:34 | 日記

ただいま 19日土曜の19時30分でございますので ちょうど2週間前

父が永眠したんだなぁと思いながら書いてます。

 さて2週間経ちましたので 父の部屋の整理でもしようかと夕方から

実家に行き 思い切って不要な物は 捨てる事としました。

 確かに まだ元気だったころは 調べ物の紙類がいろいろあったのですが この1年で

いろいろ捨ててくれていたので たいぶ物は無くなっているので かなり助かりますが

それでも まだまだ物はあります。(今時 インターネットが自分で使えない人でしたので

私が 実家に行くと 「これ調べて印刷して来てくれ」てな感じで とにかく紙と本が多い

部屋でございました。)

 おそらくうちの実家に来られた方でも 父の部屋に入った事がある方は

数人だと思います。もしかしたら ほとんどいないかも?

我々家族も この部屋には 数えるほどしか入った事がなく

晩年 父を呼びに行く際 扉をあけると この大きな机の向こう側に 一人用の小さなこたつがあり

そこで いろいろ原稿を書いておりました。なので この部屋って おそらく12畳ぐらいあるのですが

実際使っているのは 畳 二畳分ほど その炬燵の前にテレビがありましたので 

父の居住空間は部屋の隅っこで おそらく学生時代の貧乏生活の空間が いくら年をとっても

落ち着く空間だったのではないかと思います。(写真の机とその奥の窓までが その空間で

左側にテレビが写っておりますね。撮影したのは ちょうど部屋の真ん中ぐらいです。)

 だいぶ自分で整理して逝ったのですが 中にはこんな物も残っており

多分 これは 遺言で書いておりました 「一休道歌」を書き写して 選定していたんだろうなぁ

なんて思いながら ぼつぼつ整理しておりました。

 

納骨の件は どうやら 妹が寺に聞いてくれているようなので お坊さん お経抜きで

我々だけで 墓に 掘り込むことができそうです。その際は じいちゃんばあちゃんの

骨から少しだけ離して 入れてあげようかなんて 思ってますが まだ母の気持ちの整理も

ついておりませんし 別に初盆までにとかも 考えておりませんので 年内ぐらいまでには

できればと思ってます。

 

 

 


四十九日

2021-06-18 23:21:15 | 日記

本日は 6月18日金曜日 

明日で父が亡くなってから 2週間になります。タイトルにある四十九日ですが

もちろんそんなイベントはやりませんが 実は 数えると私の誕生日が

一応父の四十九日にあたる日でございました。 そんなプレゼントいらないのに

父らしいプレゼントでございます。

 

 このブログも一旦は終わろうかとも思ったのですが ここ最近で 一番多い日は 353人

この2週間 毎日170人以上の方が見ていただいているようです。ありがとうございます。

それで この1年に渡る 長編大作の「やはり死ぬのはがんで良かった」主演 中村仁一の

ドラマを見た感想を書かなければ 死にっぷりを見せたかった父に申し訳ないかな?

なんて思ったのですが このバカ息子はその台本である「やはり・・」を

最初から最後まで読んでおりませんでした。なのでまずは読んで見てから ちょっと

書いてみようかと思ってます。

 また機会があれば(妹が貸してくれれば)最後の1週間ぐらいに撮った 父の写真も

載せる事ができれば 自分の死の過程において 点滴を一度も打たなければ

骨と皮の状態になり 枯れていく姿とはこういう物だと このドラマのエンディングに相応しい姿を

お見せするのも有りかな?本人も希望しているかな?なんて思っております。

写真が手に入ればですけど まずは今夜 恨めしそうに枕元に立たれていなければokでしょう!

 

 明日の休日からやらなければならないのは 本人が希望していた二度焼き製法をせず

骨を残してしまいましたので その処分方法として 納骨せざるを得ません。

墓は じいちゃんが近くのお寺に立派な物を作ってくれてますが 父が墓のお守りなど

するわけもなく、私がお彼岸や盆暮れなどには 草抜きをしたり花を供えをしています。

 なので環境はあるのですが その墓は寺の管理する墓地なので どうやら内緒で

入れるわけにもいかないようです。 

そうなると戒名がない状態ですし、また 葬儀でお経も唱えてもらってないのに ここに来て

お坊さん登場では それこそ化けて出てこられそうです。生前ここのお寺の

朝会で 父は講義などしておりましたので 人脈はあるはずなので 生きている時に

そこまでしとけよ!って 思うのですが 死んだもんには 文句言っても

仕方がないので 父は 義理の父母である じいちゃん、ばあちゃんと あまり仲が

よろしくありませんでしたので 仕返しに一緒に仲良く入ってもらうことにいたします。

さてさて どうなることやら。。。 このあたりの寺とのやり取りは

また 書かせていただきます。

 


近藤誠先生の本が発売されております。

2021-06-13 22:36:42 | 日記

父が亡くなり 早1週間経ちました。

本人の望む最高の死に方で 旅立ちましたので

もう正直あまり悲しくありません。

 

 さて前回 父の事をご報告した内容に 2.3名の方以外にはお伝えしていないと

書きましたが その内のお一人は 近藤誠先生です。先生には 斎場での待ち時間に

メールにてお伝えしました。そして以下 文章を夕方頃いただいております。

父の遺骨の前には印刷した物を供えておりますので あちらの世界で読んでくれて

いる事と思います。

このブログへの掲載の許可をいただいておりますので ご紹介させていただきます。

 

+++以下近藤先生より

中村仁一先生の訃報に接し、衷心よりお悔やみ申し上げます。

奥様を始め、ご家族のかたがたから愛され、尽くされていることを

この目で見ることもでき、大変うらやましいご経過だと思いました。

仁一先生と僕とは、2012年に対談本『どうせ死ぬならがんがいい』(宝島新書)で

ご一緒させていただいたのが始まりです。

  その時「これはすばらしい人物だ」と思い、その後も仕事をご一緒させていただきました。

実は、口幅ったい言い方になりますが、僕が他の医師を「先生」と呼ぶことも滅多に

ないことなのです。

ご本人から昨年、末期の肺がんで長くはないこと、がん治療を受ける気はなくご自宅で

療養されるつもりであることを伺い、「さすが仁一先生」と思っていました。

そして今年に入っていよいよ体調が落ちてこられたと伺い、お見舞いを兼ねて、

京都のご自宅に伺ったのでした。

その時の対話を、僕の近著『最高の死に方』(宝島新書)に収めることができ、

刷り上がった見本を仁一先生に見てもらうことができたのは、僥倖でした。

 その対話に示された仁一先生の考え方や、がんへの身の処し方は多くの読者の心を

とらえ、灯台の灯のようにみなさまを導くことと思います。

 

「がんで死にたい」(ただし医者にかからず)と言い続けてこられたことを完遂されて、

まさに有言実行。僕にとっては、うらやましくて仕方ない逝き方でした。

 

奥様を始め、ご家族のみなさまはお気落ちでしょうが、心痛のあまり、病など

召されませぬようにお願いいたします。

 

仁一先生のご冥福を、お祈り申し上げます。

近藤誠

+++

 

発売日まで 父は間に合いませんでしたが 近藤誠先生の

本が6月10日に発売されております。この京都に来ていただいた時の

対談が巻末に書かれております。

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父 中村仁一が永眠いたしました。

2021-06-07 23:42:16 | 日記

いつかこのブログを立ち上げた時 最後はこのようなご報告を書くのが

私の役目だと思ってはいましたが 

2021年6月5日(土)19:30に

ガンで死にたいと皆様に伝えていた通り 肺ガンで 自宅にて

父が 永眠いたしました。81歳でした。

「遺言1」では去年の6月に自覚症状が出たと書いてありましたので

ちょうど1年でございました。訪問医として関わっていただいた先生に

診断していただいたのは9月3日で 自分でレントゲンを撮ってもらい

自身でわかったのはおそらく8月22日です。

 私が近況という事で21年5月4日に書かせてもらってから6月5日までの

様子ですが 最後まで持論を貫き もちろん点滴は最後まで 1回もせず、医学的な

ものは、酸素吸入器ぐらいでした。 5月の中旬ぐらいまでは、普段 過ごすリビングと

自分の寝室を自らの足で歩き過ごしていたのですが それ以降 息切れが激しくなり

、今まで周囲が用意し使っていなかった介護ベッドをリビングに移し 日中は

その横にあるソファーにて過ごし しんどくなったら ベッドに寝るという生活に

なってきました。

 そこから亡くなるまでの 2週間程 最後まで 特にQ.O.L(生活の中身)にこだわった

生き方でした。

 生前 父は 遺言5で「もう生きたくないと考えるのは 自力で食べられなくなった時」

と書いておりましたが 実は 亡くなる当日の朝まで 妹が作ってくれたトンカツを数切れ 

食べていたそうです。

私は、その2日前にお寿司を皆で取り 父は マグロの寿司2/3を4つにしてもらったものを

ベッドに座わって 自らの箸でネタとシャリを別々に醤油をつけて 美味しそうに食べて

いるのを見ております。

 また、小便に関しては 最後の方は 自力で立ち上げる事はできませんでしたが

私らに助けてもらい立ち上がり 介護ベッドをお尻の高さまで上げて それにもたれ掛かる

ような恰好で 尿瓶にではありますが補助無しでしておりました。なので最期まで 尿道に

管を入れて小便を貯めるような事もしておりません。

 そんな感じで 自分でできる事は精一杯自分でしておりました。

そしてできない事(自分で立ち上がる事など)をしてもらった時は 必ず

私達に対し「ありがとうすまんな」と言ってくれました。

私も コロナ禍でテレワーク状態となってましたので 昼間は実家に行き

そこで仕事をしていたりしてましたが 毎回「お前は 仕事が忙しく大変なんだから

無理しなくていい」と言ってくれてましたし 私の大学生の息子(孫)に対しても

「万一の場合 お前は学業を優先するように」と話してくれていたそうです。

なので7日(月)の告別式の日は ちょうど単位にかかわるテストと実験が重なり

息子(孫)もかなり悩んでいましたが 父の教え通り 学業を優先させ

お通夜のみ出させて 告別式には おじいちゃんも言ってくれていたからと

いう事で学校に行きました。

 

最後まで 父曰く ガンでの痛みは無いと言っておりました。

ただ最後の2週間は 骨と皮のような身体にもかかわらず ソファーに座り

ウトウトと過ごす状態ですので お尻の骨が長く座っていると痛くて

起きてしまい 動かしてくれと言っていました。またそのあとベットに

横たわる際は呼吸が苦しそうでした。こういった最終段階の状態になった場合

楽にする為 セデーション(鎮痛剤などを使い 意識レベルや痛みを低下させる処置)

を行うのも手だそうです。しかしながら父は やはり最後まで 我々に死というものは

こういう物だという事を見せたいのか 使いませんでした。

(1日前の4日10時52分ごろの父の様子)

 

〇最後の状態

私は 実家から車で5.6分の所に住んでますが 呼吸が変だから

すぐに来てと連絡が入りすぐに行きましたが 間にあいませんでした。

母ら曰く 少し苦しそうだったが おそらく持論通り 体内の炭酸ガスなどで

麻酔状態であったであろうとの事でした。その証拠に 穏やかな死に顔で

ございました。

私が到着し、父風に書くと「確実に息の根が止まっている」のを家族で確認し

訪問医の先生にご連絡をし 夜分20時頃に来ていただき 家族が看取った時間の

19:30に永眠した診断書を書いていただいております。

そんな感じの最後でした。

 

〇告別式、葬儀について

 告別式、葬儀については 家族葬という事で我々兄妹の家族10名のみで 

父の遺言通り お坊さんを呼ばずに エレクトーンにて生前好きであった音楽を

流してもらう音楽葬のような感じでした。

お坊さんを呼んでおりませんので 戒名もありませんし お経も読んでません。

お経に関しては 最後の遺言12で 書いておりました 般若心経をわかり易く日本語に

訳したものを 妹が読んで送りました。

 ちなみに父のファンの方であれば 気になっている方もおられるかと思いますが

例のダンボール棺桶(エコ棺桶)については 葬儀場は快くOKが出たのですが

その後 京都市の斎場からNGと言われました。その際 葬儀社の方も

いろいろ考えていただき

 ①.出棺前に入れ替える

 ②.ダンボール棺桶ごと入る大きな棺桶に入れる

とご提案いただきましたが 私と義理の弟とで ①の案にしていただきました。

母は 父の生前 ダンボールの棺桶なんて使いたくないと父に言っていたそうで

その際 父はダンボールでないと「化けてでてやるぞ!」なんて冗談交じりを

言っていたそうですが、父には申し訳ないですが、斎場NGでは ①か②に

せざるを得ません。ただ②案の場合値段が一桁違い エコ棺桶という事で

使用しようとしていたにもかかわらず 高価な物となってしまうので

それは父の意に反するという事で一番安い①のコースにさせてもらいました。

出棺前まではダンボール棺桶で行いましたので 化けて出てくるかどうかは

また母に聞いてみたいと思います。(母は望むところだと言っていましたけどね)

 

〇最後に

最後となりましたが 25年295回続いた「自分の死を考える集い」で

お世話になった方々や、参加して頂きました方々、また今まで父の活動の

お手伝いをしていただいた方々、出版関連の方々、最後父の考える死にっぷりに

お付き合いいただきました方々 皆様方に対し 父に代わりお礼申し上げます。

又、全国で父の意志や考えを基に ご活躍頂いている方々に対しても

「ありがたい事だ」と生前感謝しておりました。

 

このブログは3年前に父の活動を手伝う事となり、開催案内を当時手紙のみで

行っているのを 無理くりブログにも載せる形とし 会を終えたのちも

父の手書きの原稿を 遺言という形で載せさせていただきました。父も

亡くなりましたので このブログの更新は 一旦 ここまでとする事も

考えております。ただこのブログは父との思い出の場所なので 閉鎖せず

残させていただきます。

今回 2.3名の方を除き ほとんどの皆さまへのご報告は このブログに

なるかと思います。父の住所や 発送しておりました私の住所などもご存じの

方もおられ 何かしらの物をしたいと思っていただける方もおられるかと思いますが

これも父の意向により 全て申し訳ございませんが ご辞退申し上げますので

できましたら 心の中で お祈りいただければ 父も喜ぶと思います。

 

最後に今日の葬儀の際 妹が般若心経を日本語に訳した物を読んだと書きましたが

最後の 「蘇婆訶(そわか)」の日本語訳を妹が読んだ際 父の声に聞こえ私は

父らしい その言葉に 泣いてしまいました。

その日本語訳にて 最後しめさせていただきます。

めでたし めでたし