なんといいますかね、複雑な気持ちでニュース映像をみました。
正直、心洗われるシーンでした。
この飯塚さんという方のお母さんから日本語を教わったといいます。
その方は、海辺で連れ去られて、北朝鮮にきたと。
日本の歌もきかせてくれたと。
2人の幼い子に会いたいといってたと。
会見や面会のときの様子を見ていると、その1年8ヶ月間という時間が彼女にとりどんな時間で、また田口さんが彼女にとってどんな人だったのか、何となくうかがい知ることができるような・・そんな気がしました。
その映像は今でも鮮明に脳裏に焼きついています。
舌を噛み切って自殺を図ったりしないように、口にテープを貼られて、「KOREAN AIR」と大書された青い飛行機のタラップから、両脇を抱えられて下を向いて降りてくるその人の映像。
今も、イラクやパレスティナやアフガンや・・・いろんなところで紛争が絶えない世界ですが、当時の国際情勢は子供心にも「恐ろしい」と感じ取れるような緊張がありました。
「ソビエト連邦」なんてそれはそれは恐ろしい強大な悪の帝国で、戦争が起きたら日本人
なんかひとたまりもなく皆殺しにされる。そうなったらどうしようって。
お互いオリンピックには代表を送らないし。
領空侵犯したとかで民間の旅客機をソ連の戦闘機が撃墜したり。
核開発競争で、核実験しまくりで。そのたびに荒木市長(当時)が抗議の声明をして。
横須賀とか佐世保とかに原子力空母がくるたびに「核兵器積んでるんじゃないか」って
ニュースになって。
ドイツはベルリンの壁で分断されてて。東から脱出しようとする人は容赦なく射殺されて。
イランとイラクはずーっと戦争やってるし。
どこで知った知識か、スイスっていう国は永世中立なんだって、スイスにいきたいなー
とか半ば本気で思っていました。
そんな流れがなんか変わったなとはっきり感じられたのは、ゴルバチョフがソ連の大統領になってからです。難しいことはおいといて、私の本当に「感覚の中」でしかないんですが、この人の登場というか歴史的功績は本当にでかいと思います。
ノーベル平和賞じゃ足りないくらい。
話が逸れていますが、金賢姫のその映像を当時テレビでみたとき、普通に「怖い・・・」
「悪いヤツ」という印象を持ちましたよ。この人が飛行機に爆弾を仕掛けたのか、と。
その後、先日まで表舞台には出てきませんでしたから、私の中での彼女の印象もその当時
からそんなに変わってなく。
けれど、変わりました。
北朝鮮の工作員であり、大韓航空機爆破事件の実行犯として多くの乗員乗客を殺害し、
韓国では(というかたぶん国際的にも)「テロリスト」と言われ悪魔のように非難されています。
無論のことですが、その飛行機に乗っていたたくさんの方々にもそれぞれの人生や大切な人がいて、それが突然断ち切られたわけで、その罪は非常に重いものです。
が、私の中では、例えば、自分の都合とか欲望のままに秋葉原で通行人を次々に殺傷したり、小学校に乱入して子供たちの命を奪ったり、人をドラム缶にコンクリート詰めにしたり、監禁の挙句遺体を切り刻んで・・・というような犯罪と同列に「人殺し」として見ることはできないでいます。
人を殺すことは悪ですが、罪はその人個人というよりも、むしろ国家権力や時代や民族やナショナリズムや宗教や・・・そういうものが背景にあるとき、単純に自分勝手な犯罪犯行と同じようには見られないときがあります。
当たり前ですよねそれ。
「聖戦」といって群衆の中に爆弾を抱えて飛び込んで自爆する人たち、東京裁判で裁かれたB・C級戦犯の方々、民族紛争の報復の連鎖の中で同胞の「敵」と戦う人々、天安門広場で民衆を戦車で轢き殺した人民解放軍の兵士とか。
同じだったんじゃないのかなぁと。
その前では自分の命なんて紙くずに等しいくらいの巨大な力の前に、なすすべもなく他に選択肢もなくってところ、きっとあっただろうと想像せざるを得ないのです。
罪はその人ではなくその国家にある。
そうしたことを踏まえると、今回のこの行動や、会見で言ってること、とても勇気がある行動だと思えてきます。そんなことしてたら暗殺されるかもって思うでしょ普通。
立派だと思う。
やっぱり苦労をした人は違いますよね。
そこらの甘ちゃんとは「人間としての出来が違う」と思ってしまう。
不謹慎ですか。
飯塚さんは32歳だそうで。私と大して変わらんな。
金賢姫さんの気持ちが伝わったようで、とても感謝している様子でしたね。
北朝鮮の地で母親とつながりがあった人ですよ。私みたいな幸せな人生の人間からしたらちょっとその気持ちは想像する材料が見つからない。
生きて会える日が来ることを心から願う次第です。
何冊か著書もあるそうです。読んでみようかな。