「平清盛」そっちのけで、「チャンネル銀河」の太平記にはまり中。。
あ、ケンイチくんもいいんだけどね。
あれから回が進み、今週は#20「足利決起」#21「京都攻略」#22「鎌倉炎上」と、前半のクライマックス。
台詞の格調の高さは相変わらずです。
#9のところで、「家時の置き文」の話が出たでしょ。
貞氏(緒形拳)が高氏(真田広之)にその「血の置き文」を渡し、執事も高師重から高師直(柄本明)に世代交代しました。
したのですが、この時、高氏は、これはいつか来るべきときがきたときに読もう、いまはやめておこうって、その置き文を封印してたのね。
#22「足利決起」で、高氏が鎌倉の北条に反旗を翻すことを決意し、全国の足利一族が三河に集結。
てか、ここにこさせるまでの21回分の話は、ほとんどこのときのための伏線できたようなものなんで、ここはすごく重要なシーンですよね。
その中で、ようやっとこの家時の置き文を開封して読み上げるシーンが登場します。
ゆっくりと、しっかりした口調です。
「故あらばこそ、ここに書き置くなれ。死するにあたり我よりのちの子に託す。
我に代わって天下を取り、遠祖の遺沢(いたく)を成し遂げよ。
我、盛運を思うや多年、しかれども我徳なく夢むなしく破れ、わづかに家名を守らんがため、一命をなげうつのみ。我よりのちの子に託す。
我が意を継げよかし。
我に代わりて、天下をとれ!」
こういうの観てるとつくづく思いますよね。日本のサムライというのは、武士というのは、血であり、歴史だなあと。
怨念というか、執念というかね。父祖代々の思いが、脈々と受け継がれている。
まるで勇者ロトの伝説みたいに。
足利氏の決起をきっかけに、諸国の「源氏」の血脈の武士たちが、なだれをうって北条氏に反旗を翻しました。
京都の六波羅探題は西国の大名と足利軍により制圧され、関東では高氏の嫡子千寿王(後の室町2代将軍足利義詮)を奉じた新田義貞が兵を膨れあげさせながら、小手指原、分倍河原、関戸と、北条軍を次々に撃破しつつ、鎌倉へ進撃。。
この間の北条氏の描き方も、なんかいいです。
序盤からずっと、「北条の横暴」「腐りきった北条氏の世」を描き続けてきてるんで、いわば悪役なんですけどね。
まぁ散るんですけど、散り方がきれいというかなかなか心を打つんです。悪役なのに。
近年の大河だと、やたら大々的にべたべたに悲壮感たっぷりでうるさかったり、なにやら戦争イクナイ!同じ人間なのに殺しあうなんて!罪のない人がたくさん死ぬのよ!
みたいな謎な演出にめちゃめちゃ萎えたりすることが増えた気がするんですが。
なんですが、この北条一族の皆さんは、実に美しく散る。この人たちもやっぱり武士なんですよね。
なかでも、片岡鶴太郎が怪演する北条高時がいーんです。
基本的に阿呆に描かれてるんですが、要所要所で鋭く本質を突いた台詞をいわせる。
なので、「この人アホなふりをしているだけで、実はものすごい判断力決断力、時代を見る眼、家臣を心服させるカリスマ性、およそ帝王が持つべきといわれるいろんなものを全部もったすごい人なのでは?」と思わせられたりして。
天然の要害に鎧われた鎌倉に苦戦していた新田軍も、かの有名な「稲村ヶ崎」。
干潮で海が引いて馬が通れるようになったときを狙ってこの岬を迂回し、ついに鎌倉に乱入。
鎌倉市街は炎上、北条の主だった人たちは菩提寺である東勝寺で最期を迎えることになります。
ここでも高時が熱演。
彼もまた北条得宗家に生まれて時の執権となり、その宿命を背負って生き、滅ぶ運命にあったんですというね。
そういう脚本になっています。
執権をもしのぐ権勢を誇り、北条政権の悪玉の権化みたいな描かれ方をしてきた内管領・長崎円喜(フランキー堺)も、どっかの悪左府みたいに逃げ惑ったり泣きわめいたりせず、威風堂々と最期を遂げるわけだ。
こうして鎌倉は灰燼に帰したわけですが、一色右馬介って高氏の近臣がその模様を見聞し、六波羅の高氏に手紙に報告するのね、それがまた雰囲気をつくるんだ。
この頃の大河は手紙も候文です。
…
五月二十二日、北条殿の御最期、しかと見届け候。
僅か、五日の戦にて候。
新田殿の戦の采配、見事に候。
鎌倉も、北条も、焼き尽くして候。
千寿王殿、御台殿、二十五日、鎌倉に御帰着遊ばされ候。
変わり果てた鎌倉の様(さま)に、皆、袖を濡らし候。
足利の陣営に勝ったと笑う者一人も無く、不思議な勝ち戦にて候。
これを高氏が沈痛な面持ちで読み、弟の直義と執事の師直に投げ渡し、複雑な表情で表に出て。
このあたり、西国大名や後醍醐天皇とそれを取り巻く公家との戦勝に対する喜び方の温度差というか。
倒幕に対する受け止め方というかね。そのあたりのコントラストをうまく際立たせていて、「これからどんな世にすべきか」というところで、早くも食い違いを予感させるような感じをうまく出せてる。
楠木正成は、天皇の忠臣の見本みたいな感じで後世「大楠公」といわれて祭り上げられた時代があります。
鎌倉を倒すときに真っ先に旗を揚げて頑張ったのもあるし、あくまでも後醍醐天皇に忠誠を尽くして、足利尊氏に最後まで抵抗して戦死したというのもあるのだと思います。
戦もうまかったそうだし、それで英雄で。「天皇に忠義を尽くした人」の代表格みたいなね。
いつの時代かっていうと、幕末のドラマみてたら出てくるでしょ。
「尊王攘夷」ってんで、京都で佐幕派の人たちが斬殺されまくる時代です。
そういう天皇を神のように崇めるのが正義だという史観に立つと足利尊氏は賊なんですな。
なぜかというと、後醍醐天皇の親政に反旗を翻して京都に攻め入り、天皇を追い出して室町幕府を作ったから。
そんなわけで、楠木正成の銅像は今も皇居に立っています。
いつだったか、だいぶ昔の話ですが、皇居のあたりで、外国人観光客に尋ねられたことがありました。
とても印象深い出来事だったので、今でもはっきり覚えています。
「あの銅像は誰の銅像ですか」と。
それには答えられたのですが、その次の質問はうまく説明できませんでした。
「なぜ、その人の銅像があそこにあるのですか」。
まぁ、
「特に天皇に忠義を働いたということで日本人に非常に賞賛されている偉い武士だからです。
日本人は彼をとても尊敬しているのです」。
とでもいえたらいいのかも知れませんが、それもなんかヘンな誤解を与えてしまいそうな気がしてね。
例えば、仙台城に伊達政宗の銅像がなんであるのか、というのとはちょっと違うからなぁと思ってしまって。
日本は歴史のある国だから、いろいろあるんですよと。
どの本か忘れましたが、そしてたぶん内容も正確には覚えていませんが、司馬遼太郎さんがこんなニュアンスのことをどこかで書いてました。
学問の世界に、善玉と悪玉は普通はない。
例えば、化学の世界で、酸素は善玉で、水素は悪玉であるなんてことはないでしょう。
だけど、歴史という学問にはその時その時の時代の都合で、何々は善、何々は悪、というのがついてきてしまった。
人物やら政権やらというものについて、本来は善とか悪とかいうものはないはずですよと。
たぶん「過去の歴史を評価するときに、いま現在の価値観のモノサシで計ったらダメだと思う」ということがいいたいんだと思います。
「過去を振り返るとき、人は神になりうる」っていうのは、私の好きな司馬さんの言葉のひとつです。
時にはそういう善だの悪だのが、ものすごい磁力を帯びてしまって、自由にモノが言えない空気に世の中がなってしまったり、タブーなことをいうと命が危なかったり、そういう風に働いたこともあったんだと思いますが、そこまで大げさでなくても。
例えば吉良上野介はすげえ悪いやつだったり、真田幸村はすごい英雄だったり、源義経は罪もないのに疎んじられて非業の最期を遂げたかわいそうな人だったりするでしょ。
足利尊氏という人も、そんな扱いを受けてきた人のうちの一人です。
例えば皇居に足利尊氏の銅像ができることは、まぁないでしょ。
太平記という大河ドラマは、そういうのをさらっとスルーしてるところも実はけっこうすごいと思ってます。
結局なにが書きたいんだかよくわからん日記になってますが。
要するに、今風の平和とか正義とかの気持ち悪い目線で描く大河ドラマはもうやめて。
この頃の大河ドラマはとってもおもしろかったのに!頼むよNHK、ということがいいたいんだと思いますw
これから先も楽しみなんですが、実はここから先はあまり記憶に残っていません。
整理できていないというかね。ここからは登場人物がどんどん死んで退場していって、最後の最後は尊氏がひとり残って、死んで、そして誰もいなくなった・・・
みたいな印象だったりするので。
では、またね。