開催日時:2020年8月28日(金曜日) 10:00~12:00
開催場所:大磯町立図書館2F小会議室、参加者:5名
課題図書:青木冨貴子著 「GHQと戦った女 沢田美喜」 新潮文庫 (2018)
今回の課題図書の主人公「沢田美喜」は三菱財閥の創始者岩崎弥太郎・喜勢夫妻の長男で三菱3代目の当主岩崎久弥・寧子(しずこ)夫妻の長女として、1901年9月19日に東京茅町の三菱本邸で生まれました。彌太郎の母「美和」と妻「喜勢」から一字ずつもらって「美喜」と名付けられ、初めての孫娘の誕生を喜んだ祖母喜勢の下で厳しく大切に育てられました。
華族嫌いの美喜は、祖母の期待に反し、1922年に鳥取県出身のクリスチャンでエリート外交官の澤田廉三と結婚し、自分もクリスチャンの洗礼を受け、三菱財閥の財力に支えられた裕福な外交官夫人として世界各国を回り多くの著名人と交友を重ねました。
その間、3男1女(信一・久雄・晃・恵美子)を生み育てました。ロンドン駐在中には「ドクター・バーナードス・ホーム」という孤児院でボランティアとして奉仕する機会を得て、その運営に感銘を受けたと言われています。廉三は外務次官を務めた後、吉田内閣の下で国際連合代表部特命全権大使を務め、長男信一と長女恵美子をニューヨークに同行させています。1970年に82歳で逝去。
沢田美喜は戦後の財閥解体で財産税支払いのために国に物納されていた岩崎家の大磯別邸を個人で借金して買い戻し、英国聖公会の信徒エリザベス・サンダース女史の遺贈金170ドルを設立基金として孤児院を創設、彼女を記念して「エリザベス・サンダース・ホーム」と命名し、美喜が初代園長に就任しています(最初の入所者2名)。
1948年に「社会福祉法人エリザベス・サンダース・ホーム」を創立して、美喜は理事長兼園長に就任しました。以後、私財をなげうって運営を続けるとともに、GHQや日本政府から嫌がらせを受ける中、ジョセフィン・ベーカー、パールバックなど、海外の多くの支援者から寄付を受けて苦しい財政を補填してきました。
沢田美喜は1980年に旅の途中で訪れたスペインのマヨルカ島で心臓発作に襲われ78歳の生涯を閉じるまでの30年間に、約2000人(560人の混血児を含む)の孤児を育て上げ、その業績で、この年に大磯町の名誉町民に選ばれています。
このノンフィクション小説の著者青木冨貴子氏は、2005~2015年の10年間をかけて詳細な取材を重ね、その成果が2015年に新潮社から「GHQと戦った女 沢田美喜」として出版され、2018年に文庫版が出版されています。
著者は生存する多数の関係者に直接面談し、沢田美喜に関する様々な資料や、米国公文書館に出向いて、GHQによる日本占領期の資料などを読み込み、ある時は、美喜の祖先岩崎家発祥の地土佐井ノ口村を訪ね、またある時は、美喜の終焉の地スペインのマヨルカ島に渡り、最期を看取った人たちから話を聞いて取材を進めています。
青木冨貴子氏は、奇しくも、沢田美喜が大磯の社団福祉法人エリザベス・サンダース・ホームを設立した年(1948年)に神田神保町で本屋の娘として生まれています。2017年11月11日には「澤田美喜 戦後史に残る社会福祉事業」特別講演会に聖ステパノ学園に招かれ、 「海の見えるホール」で「GHQと戦った女 沢田美喜」という題で講演しています。
エリザベス・サンダース・ホームの設立時からずっと沢田美喜の下で働いてきた沢田記念館の前館長「鯛茂」氏には何度も会って貴重な話を聞いていましたが、青木冨貴子の講演会直前の10月6日に百歳を目前にして逝去されています。
著者は文庫本のあとがきで「戦前、戦後の歴史を知る証人がほとんどいなくなった現在、(あの10年間に)本書の取材と調査ができたのは実に幸運だった」と述べています。
「昼間はオニババ、夜はマリア」(鯛茂の言葉)や、「実子が孤児になり、孤児が実子になった」(長男信一の言葉)から、沢田美喜が孤児を育てるために注いだ情熱がうかがえます。
読書会の参加者の中には、生前の鯛茂さんと面会して澤田記念館を案内してもらったという人や、小学校時代にエリザベス・サンダース・ホームの孤児たちを目にして、当時の日本人の子供と比べてはるかに立派な服装をしてよい生活をしていたのが印象に残っているという話が出ました。また、戦後GHQのキャノン機関に接収された岩崎本邸での話、GHQとの折衝の話、美喜がなぜこのような事業を独力で成し遂げたかについて突っ込み不足だという意見も出ました。
(注) 「澤田」と「沢田」が混在していますが、エリザベス・サンダース・ホームを開いてからは沢田美喜という表記が用いられている(プロローグ参照)そうなのでそのままにしてあります。
「エリザベス・サンダース・ホーム」設立の経緯は少し複雑ですので、社会福祉法人エリザベス・サンダース・ホームのHPから引用しました。
終焉の地は文献資料では「マジョリカ島」と「マヨルカ島」が混在していますが、前者は英語読み、後者は現地のカタルーニャ語読みですので、ここでは後者を使いました。
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