4月25日まで「道の駅ましこ」で開催されている「師匠のことば~成井恒雄(ツーやん)と仲間たち」の
一部展示替えがあり、ツーやんの話や弟子たちのインタビュー全文が閲覧出来るようになりました。
私のインタビューも閲覧出来ますが、長文なのでブログに記録として掲載します。
他の弟子たちのインタビュー文もおもしろいので、機会があればご覧になって下さい。
太田幸博さん 2020/07/28
陶芸にであったきっかけ
岩手県盛岡出身、高校時代は美術部であったが、岩手県では陶芸は一般的でなく粘土には1度触れた程度で、「うまく作れないな」そんな印象だった。美術部でもあったので、大学も美大に行きたいと考えていたが、美大への進学は親の許しが得られず・・・。
そして東京に出て学生時代を過ごす中、ミュージシャンになりたいという夢も持っていた。ミュージシャンを志す一方、自分への才能と向き合う中で「何をしようかな」と思うこともあった。でも、音楽が好きな気持ちは変わらず、東京では「ビスケットタイム」という店に顔をよく出していた。そこは、社会人として働きながらミュージシャンとして演奏を楽しむ人も集う店で、そこに通ううちに「仕事をしながら音楽を続ける道も良いかもしれない」と思うようになっていた。
成井さんと出会う(太田さん 25歳のこと)
長く夫婦として連れ添っている奥様とは、東京で知り合った。
奥様の同僚で、京都で友禅の仕事をしていた方が益子に縁あって嫁に行くことになった。その方の旦那さんが上村良夫さんだった。当時、上村さんはすでに成井さんのところで学ばれていることもあり、上村さんの誘いで成井さんのところに伺うことになった。
細工場の中に案内されると、囲炉裏から煙が立ち独特の雰囲気の場所だった。ろくろを挽いていた成井さんが蹴ろくろの台から降りてきてくれた。ベルトは太い荒縄だったか、とにかく独特ないで立ちの人だった。囲炉裏の椅子に腰かけて、成井さんはお茶を振舞ってくれた。とにかく楽しい話をしてくれたことが記憶に残っていて、その印象が後に陶芸を志すきっかけになったと太田さんは振り返る。
細工場の近くを見回すと、素焼きの窯があったと記憶していて(今はない)、ローリーさんと亀田さんが窯焚きの仕事をしながら、そのそばで寝ころんでいた。
成井さんのところに行った後は、坂東純子さんのお誘いで上村ご夫妻を交え夕食をとることになった。坂東さんは成井さんのところで修業をされており、北郷谷に家を構え1階は細工場、2階は自宅と素敵なお住まいに感動した。夕食はステーキにワイン、素敵だなと素直に思った。食事の感動もさることながら、きづきもあり、陶芸は美大を出た人だけのものではないこと。お二人も、もともとは陶芸とは異なる仕事に身を置いていた。
夕食の歓談の中で、太田さんは上村さんにどんな人が陶芸家になるかと質問すると「誰でもできるよ」と。その返しに驚きつつも「自分もできるかもしれない」と、陶芸にさまざまな面白みを感じたはじめての益子訪問だった。
益子へくるまで
初めて益子にいってから陶芸への興味が高まり、東京では陶芸教室に通い技術を学ぼうと努力していた。そんな日々を1年半続けて、久しぶりに上村さんと電話で連絡を取り、近況を報告した。陶芸教室で頑張っていることを伝えると上村さんは「陶芸教室で学ぶのは無駄だから」と衝撃の言葉とともに、「益子に来て学んだらどうか」と誘ってくれた。
成井さんのところで手習いの始まり
太田さんが益子に来たのは26歳の11月か12月、冬だった。上村さんの紹介で成井さんに弟子入りすることになった。「夜に来るといいよ」成井さんは太田さんにそう言った。また成井さんのすすめで、昼は成井藤夫さんのところ(七井の里山陶苑)で太田さんは仕事をすることになった。昼は藤夫さんのところで、夜は成井さんの細工場で学ぶ日々が2年ほど過ぎたころ、当時弟子たちのなかでリーダー的に色々と面倒を見てくれていた矢口参平さんが「独立したいなら夜ではなくて、昼に細工場に来て学ばなきゃいけないよ」と声を掛けてくれた。それからは成井さんの細工場に昼に通って土に向かった。
独立
当時の益子は、手習いや弟子入りをしてから3年で独立することが何となくの流れになっていた。太田さんも昼の細工場での修行と並行して、独立に向け土地探しや窯を築くためのレンガの調達と準備に邁進した。益子に来てから4年、30歳の時に今窯のある場所に自宅と工房を構えることができた。
保証人欄の続柄は「友達」
家や窯を作るにはお金が必要!銀行からお金を借りることになった。その時、なんと成井さんが保証人にまでなってくれた。銀行に書類を出すときのこと、太田さんと成井さんの間柄を書く欄について「師匠と書いていいですか」と太田さんが成井さんに尋ねると、成井さんは「友人かな」と言って、書類もそのとおりに書いて、銀行から無事にお金を借りることができた。今でもとても感謝している。
修行中、ろくろの挽き方
「ろくろは形を作るのではなくて、土を動かすんだ」それが成井さんの口癖だった。
それは技術的に言えば、一般的にろくろを挽くときにコテを使う。コテは器の表面をきれいになめすためにも使うけれど、それは形を作ることになる。寸法として、1つひとつ計るようなことは無い。均一にしていくと、その器には力強さが少なくなる。
「中心から土を動かす、土が動いて形になるんだ」
ろくろ名人は同じものが作れる、そうした陶工としての技術があると思う。でも成井さんのところでは「1つひとつ違っていい」と教えてもらったように思う。
コテの話
コテは 茶碗は1回、皿は2回
コテを当てるたびに力強さが弱くなる
「土がどこまでも伸びるようなイメージ」「土を活かす」
コテは土の表面をなめす道具、成井さんは土を動かすためのコテなので厚みがある
コテは手習いの段階ごとに作ったもの、今でも使っている
太田さんが、成井さんに聞きたかったこと、ふと思うこと
成井さんは若い頃、窯元で職人と仕事を共にしていたけれど、どうしてこの境地に至ったか
寸法通りの仕事ではなく、土を活かす向き合い方をどうしてしようと思ったのか
成井さんのこと
成井さんは自信をくれる人(褒めてくれたり、肯定してくれたり)
成井さんのもとに習いにやってくるひとは、悩みがあったり、何をやっても自信がない、そんな人が集まっていたように思う
弟子にお金は払えないし、だから自分(窯)の仕事はさせない。お弟子さんが作っているものを傍らで見て自分の仕事の意欲にしていたように思う
成井さんはシャイに見えて、いろんな話ができるし、話好き、実はスピーチも上手だったりする。話していると面白いから、いろんな人がアドバイスをもらいに囲炉裏に来ていたのだと思う
糠がとてもきれい、濁りの無い色が特徴
糠白は薬を作るのに手間がかかる(柄杓で何杯とかそんな感じだけど)
若いころの成井さん(40代)
ろくろに気迫がありピシッとしていた。
独立したあとの弟子のことも心配な気持ちがあったので、弟子の作るものを試作して教えることもあった。売れないと生活に困るから。
個展はしない
個展はずっとしようとはしなかった。何故かといえば「自分は売るために金持ちや偉い人に
頭を下げたくないんだ。欲しい人に買ってもらえればいい。」と語っていて、ポリシーであったように思う。
成井さんの晩年、面取りのこと
太田さんは、成井さんが40代の時の作品を見せてくれた。フリーハンドの面取りはとても難しいが、曲線の面取りがとても美しい。
歳をとっても物を作る意欲を感じて、古川のおじいさんが成井さんのところに来ている時「おじいさんが、なんとかろくろを挽いて形になる器、それがいい」と成井さんは話していた。
登り窯の大口の灰は掃除しないほうがいいとか、若い頃に細工場で教わった仕事とは違うやり方を「太田くん今度教えるよ」と、思いつくと声を掛けてくれた気がする。成井さんが亡くなる少し前くらいに「新しい茶碗の挽き方今度教えるよ」と言ってくれたが教えてもらうタイミングが無く、残念に思う。
2010年に教えてもらったこと
成井さんの住む家の上にある道は森の中の一本道、一の沢に抜ける道に繋がっており、その道を成井さんは晩年散歩することが日課だった。その道沿いに太田さんの家と工房があり、ある時「太田君、新しい湯飲みの作り方を思いついたから教えてあげるよ」と、成井さんが声をかけてくれた。「土取りの段階で先に面取りをしてからコテで膨らませていくんだよ。
一個づつ違って安定しないけど面白い曲線が出るだろう」その作り方を教えてもらってから自分なりに工夫して作陶に生かしている。
太田さんの今に通ずること
作るものは自由でいい、挽き方が重要だし今も大切にしている。
一日の中で、自分の思い通りにロクロを挽ける時間がある、ゾーンのようなものがある。
自分は成井さんに教わって、そのことを今も大切に、日々の仕事をしている。教わったひとのなかで、もしかしたら一番忠実に実践しているんじゃないかとさえ思っているよ。
つーやんの精神性で焼物を作っていくことを誰かが継承していって欲しい。形は変わっても、個性的な益子のものができるのでは。時代に合わせて焼物は変わるけれど、自分自身をなしている今まで生きてきたことや考え方が器に表れると思っている。そういうもの、自分にしかできないことを追求していきたい。
成井窯の一日
9:30 おそうじ、囲炉裏のお湯を沸かす
10:00 お茶
11:30 土を揉む
12:00 お昼
13:30 ろくろに座る
17:00 御夕飯
成井さんは家ではなく、お弟子さんと一緒に食事をすることが多かった
手習いとコテ
つち取り
ようじ立て(あら伸ばし)
豆皿(桜の木を削り、コテを作る。コテの使い方を習う)
湯飲み(L字で柄の長いコテ、手首の返しと手は上に向ける)
茶碗(中くらいのコテ、腰のところに粘土の無駄が無いように挽く、コテは1回あてる)
皿(大きいコテ、コテは2回あてる)
花瓶(土を引き上げる)
づきもの(より土を3段重ねて、傘立てのようなもの)
※急須、型物は習いには入っておらず見て覚える。
※手習いの段階で釉薬の勉強はなかった
釉薬は独立してから習った
糠白だったら、柄杓で土灰10、長石10、糠灰10、目分量で益子のもので作っていた。
釉薬のバリエーションは、並白、糠白、黒、益子青磁、伊羅保、黄土の益子の伝統釉で特別多いわけではなかったと思う。
陶芸村のこと
成井さんのお弟子さんは陶器市になると藤夫さんの陶芸村に出店することが多かった。なので、成井さんへのリスペクトもあり同じ作風というテントが並ぶ・・・太田さんは陶芸村からスタートして今は共販センターにテントを出している。
みんなとの思いで
ある大きな催しが東京であって仲間と一緒に成井さんの焼き物をもって、山﨑農園の芋も一緒に売りに行った。みんなでトラックに乗って行って楽しかったな。
成井さんは、みんなで集まるのが好きだった。週末は誰かの家に料理を持ち寄って
夜遅くまでいろんな話をした。
弟子たちと何台かの車に分乗して、県内の古い窯跡を訪ねたり花見やコンサートにも行った。
特に足尾にいる弟子を訪ねて一泊旅行した時の事は良い思い出。
3人展のついでにプロ野球
東京のデパートで成井さんを含む3人展を開催することになった。その時にプロ野球の試合を見ようということになり、太田さんがチケットを取って準備をした。しかし、野球を見る前に入った喫茶店でクーラーに当たり成井さんの体調は急変。プロ野球の試合会場に入る前に「帰る」と言い、宿泊先の千葉に戻ってしまった。成井さんは生涯一度も生のプロ野球の試合を見ていないと思う。