もんく [とある南端港街の住人になった人]

実名と匿名

「日本にもじわり浸透=「実名制」に企業も関心―フェイスブック(時事通信)」と言う記事が出ていた。TwitterやFacebookのことが最近よく話題になる。

その中でよく言われるのが実名と匿名の問題。

昔"携帯電話"と言うものが日本に出てきたときにみんな口をそろえて「あれは日本人のメンタリティに合わないから普及しない」と言っていた、あの頃を思い出させる。FacebookやTwitterに関しても少ししたら全然見方が変わっているだろうな、と思うのだ。



(1)匿名性は失われるだろう。
友達知り合いがネット上でも隣にいる以上匿名でも匿名性はどんどん薄れていくだろう。仮に名前は伏せてニックネームで出ていたとしても、友人の誰か1人が実名だったり会社名や卒業した学校を登録していれば匿名と言っても匿名とは言えない状態になるだろう。少しづつでも知り合いがそこに入ってくれば匿名は意味を成さなくなる。


(2)今でも部分的には実名と同じ。
だってネット以前の友人がこれを読めるようにしているから。断片的な情報を集めれば実名とあまり変わらないかと思っている。


(3)表の顔と裏の顔があるの?
日本は本音と建前が普通にある社会。会社で仕事をしている時とプライベートでは全然違うと言うことがある。人に言えない嗜好もあるだろうけれど、ここでは"立場意識"と言うことが問題だ。日本人は立場によって言うことも行動も特に何の躊躇もなく変えることができる。お客さんとしてお店を訪れるときと自分が売り手である場合との違い、面接に来た学生と面接官の違いである。元は同じ立場であったはずが自分が強い立場になるとその事を簡単に忘れて行動できる。

立場によって行動が違うと言うのは実社会でも"立場と言う匿名"で生きているってことだ。就職活動で学生がリクルートスーツを着たり、面接官に受けの良いように振舞ったりするのは、顔も名前も実名には違いないがその場に合うニックネームやアイコンになろうとしているのと同じだ。それは実名なんだろうか。

そうしてネットでは全く違う事を書くとしたら実名とニックネームの反転が起きていることになる。

まだインターネットが出来てからそれほど時間は経っていないが将来もこうした分離逆転を我々はずっと続けていくのかどうか、こんな苦しいやり方がこのまま続くものなのかどうか....?


(4)「実名で嗜好などを隠したい」と思うのは周りがそう思わせているからだ。
ではどうしてニックネームと実名で言動を変えなければならないかだが、これは実際にその主張なり嗜好なりが他人に見せてはいけないものである可能性はかなり低いのじゃないかと思う。どちらかと言えば、周囲がそうさせているように感じられる。例えば同僚として付き合ってる人が政治や宗教的に強い志向を持つのは、多くの場合嫌がられる。仕事とそれは別だよとは見られないのだから一人の人が実名とニックネームに分離してしまうのは仕方の無いことだろう。


(5)無名の人々のコンセンサスはどこに集まる?
今、エジプトなどで起きていることをうらやましいと思う日本人は案外多いのじゃないかと思う。あちらでは集会そのものが危険で、集会が取締りの対象なのはいつの世も専制国家には付き物だ。よく知らないがそれでも政治や社会に関する議論を(隠れてか?)することが普通にできる下地があったのではと想像させる。道具としてFacebookなどがあったにしても単に便利だっただけではないのかと。

日本の場合は政治的な集会を開いたり議論したりする事、それより議論そのものをあまりしない。匿名で強いコメントを寄せると言うのは見るけれども、それでエジプトのようにどこかにコンセンサスが集まる可能性があるのだろうか? mixi?、まさか。

無数の匿名から発せられた断片的な垂れ流しの言葉は何も集めないだろうか。
それとも実名に移行するだろうか。可能性としては実名移行の方が強いと思っているが。
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