てけてけのアサイチ日記

こども達や、孫たちの世代のために!・日本を守りたいと希いつつ、
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<特集> ~皇居勤労奉仕団 発端の物語~ 後編

2017年10月11日 | 御皇室

<特集> ~皇居勤労奉仕団 発端の物語~ 後編

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(画像:昭和館から寄贈)

 前編、中編とお届けしてきた【皇居勤労奉仕団 発端の物語】ですが、いよいよ今回が最終回です。【特集 ~皇居勤労奉仕団 発端の物語~ 中編】に続き、後編をお届けします。

【特集 ~皇居勤労奉仕団 発端の物語~ 中編】はこちら

【特集 ~皇居勤労奉仕団 発端の物語~ 前編】はこちら

 

~木下氏回顧録『皇室と国民』(新小説社)から~

 

名もなき青年団の心意気

 

12月8日の朝、陛下から私に、今日から仕事が始まるのなら、その前に一同に会いたい、とのご希望があった。かくして、前例のないご対談が実現した。

陛下が作業現場におでましになるとき、お供をしたのはわずか数人であったが、私は御座所から現場まで数百歩の道すがら、焼土の上に歩を進められる陛下のお心のうちを、あれこれと、考えた。

ザックザックと砂を踏んで一歩また一歩、現場に近づかれるお靴の音は、まさに日本歴史大転換の歯車のきしる音としか思えない。国民とともに語り、共に苦しみ、共に楽しまんとの御決意は、すでにご即位のときから明瞭に、我々お側にお仕えしている者には、拝察できたことだった。しかし、いろいろな事情のために、実現はできなかったが、奇しくも国破れた今日、陛下は、その機会をつかまれたのだ。

宮殿の焼失などは、いま露ほども惜しいとは思っておいでにならないに相違ない。ただ、夜となく昼となく、常にお胸のうちを去らないものは、亜細亜大陸の各地、また、太平洋の島々に、とり残された未復員の将兵その他の同胞の安否や、国民各家庭のさまざまな悲惨辛苦のことだ。

今数分後には、はるばる仙台の奧から手伝いに来てくれた青年たちにお会いになれる。こんなことが皇居内で行われることは、未だ前例のないことだが、少しはお気が晴れるだろう。

 陛下は、遠いところから来てくれて、まことにありがとう。と一同に伝え、郷里の農作物の具合はどんなか、地下足袋は満足に手に入るか、肥料の配給はどうか、何が一番不自由か、など、ご質問は次から次へとなかなか尽きない。かれこれ十分間ほどお話があり、国家再建のためにたゆまず精を出して欲しいとのお言葉を最後に、一同とお別れになり、また、元の路をお帰りになるべく、二、三十歩おあるきになったそのとき、突如、列中から湧きおこったのが、君が代の合唱であった。

 

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出典:https://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/33224583.html)   

 

 当時、占領軍の取締りがやかましく、殆ど禁句のように思われて誰も口にすることを遠慮していた、その君が代が誰に相談するでもなく、おのずからに皆の胸の中から、ほとばしり出たのであった。ところが以外にも、この君が代の歌ごえに、陛下はおん歩みを止めさせられ、じっとこれを聞入っておいでになる。一同は、君が代の合唱で、お見送り申し上げようと思ったのであろうが、このお姿を拝して、ご歩行をお止めしては相済まぬ、早く唱い終ってお帰りを願わねば、とあせればあせるほど、その歌声は、とだえがちとなり、はては嗚咽の声に代わってしまった。見ると、真黒な手拭を顔に押しあてた面伏しの姿もある。万感胸に迫り、悲しくて悲しくて唱えないのだ。私も悲しかった、誰も彼も悲しかった。しかし、それは、ただの空しい悲しさではない。何かしら伝い知れぬ大きな力のこもった悲しさであった。今から思えば、この大きな力のこもった悲しさこそ、日本復興の大原動力となったのではなかろうか。

 辛うじて唱い終わったとき、陛下は再び歩を進められてお帰りになったが、私は暫く後に残ったところ、青年たちは私に、皇居の草を一肥ずついただいて郷里への土産にしたい、という。何のためかと思って尋ねてみたら、私たちは農民です。草を刈って、肥料のために堆肥をつくります。この一肥の皇居の草をいただいて、持って帰って、堆肥の素とし、私たちの畑を皇居と直結したいのですと、目に涙をため、草を、堅く、かたく握りしめて言った。

 この青年たちとのご対談に、陛下は何かよほどお感じになったことが、おありになったご様子で、お部屋にお帰りになるや、皇后さまに、午後、作業現場にゆかるるように、おすすめになり、その時も、私がお供をして現場に参った。・・・・・(中略)

 前例の全くない、皇居内での陛下と地方青年たちとのご対談を、宮内省詰めの新聞記者諸君が見逃す筈はない。ニュースはすぐに全国に伝えられた。

 感激の奉仕を終え、おのおの一肥の皇居の草を抱きしめて郷里に帰る青年たちの汽車の旅は、上京のときとは全く反対で、まことに朗らかな希望に満ちたものであったに違いない。無断上京のお詫びを兼ね、知事さんに挨拶のため、仙台に途中下車、一同県庁を訪ねたところ、折から開会中の県会は青年隊無事帰着の報に接し、にわかに議事を中止し、知事以下議員総出で一同を喜び迎え、大いにその意気と労をねぎらったとのことである。

 以上、語り記す事柄は、国民対皇室、皇室対国民の間に見られる、あらゆる事象のうちの、単なる一こまとして、風の如く来り、また風の如く空しくすぐ去ったであろうか。

 疑いもなく、これは名もなき農村青年男女六十人の一団の、名誉を思わず、利益を求めず、占領軍の弾圧あらば身を以って受けようとの、やまとごころの一筋に立ち上がった、この一群れの間にひらめく正気の光は、決して空しくは消えなかった。・・・

 

 

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(画像:昭和館から寄贈)

 

 やまとごころの一筋に立ち上がった、名もなき青年団の心意気は、現在でも脈々と受け継がれています。また、この時の前例のないご対談は、現在でもご会釈として続いており、可能な限り天皇皇后両陛下が勤労奉仕の労を労っておいでです。

 

皇居外苑は、昭和24年4月以来、国民公園として広く一般の利用に供されましたが、国政による維持管理は不十分でした。そのような事態を心痛し、国の施策への協力として、皇居外苑整備奉仕会、皇居前保存協会、皇居外苑整備保存協会等有志が相謀り大乗的、また、発展的解消をおこない、当協会の前身である皇居外苑保存協会は設立されました。

 勤労奉仕団が誕生してから実に69年の月日が時代とともに流れ、平成24年8月には法人移行を遂げ一般財団法人国民公園協会となりました。しかし、前身である皇居外苑保存協会の設立意義と崇高な意思を受け継ぎ、皇居外苑に相応しい組織理念を以って、現代社会に即した公園管理及び利用普及に向けた様々な取組の推進を図っています。

 また、協会は、昭和43年辺りから、数多の思いを持って、上京してこられた述何十万ともいわれる有志方の労を少しでも和らげる一助にしたいと皇居勤労奉仕団の皆様に対し、お食事の提供を開始し、現在も続けております。

 

※木下道雄氏    

 明治20年6月13日生まれ、東京帝国大学法科卒業後、内務省入省。内閣書記官、東宮侍従、宮内大臣官房秘書課長、同総務課長、帝室会計審査局長官を歴任し、昭和20年侍従次長就任、退省後、皇居外苑保存協会初代理事に就く。昭和49年死去。著書に、「宮内見聞録」(昭43、新小説社)「皇室と国民」(昭44、皇居外苑保存協会)「側近日誌」(平2、文藝春秋)等がある。

 

 

2017年6月26日 10:10


<特集> ~皇居勤労奉仕団 発端の物語~ 中編

2017年10月11日 | 御皇室

<特集> ~皇居勤労奉仕団 発端の物語~ 中編

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(画像:昭和館から寄贈)

 今回の特集では、【特集 ~皇居勤労奉仕団 発端の物語~ 前編】に続き、中編をお送りします。

 【特集 ~皇居勤労奉仕団 発端の物語~ 前編】はこちら

 

~木下氏回顧録『皇室と国民』(新小説社)から~

 

 皇居のご奉仕のため上京する青年団の動機や覚悟について聞いているうちに、私たちは粛然襟を正さざるを得なかった。厚く一同の厚意を謝するとともに、遠路はるばる上京されるのだから、二重橋前もさることながら、皇居の内は人手不足のため、宮殿の焼跡には、いまだに瓦やコンクリートの破片が到る所に山積している。どうか、皇居の内にきて、それを片付けては下さらぬか、と提案したところ、この予期しない言葉に、一同の喜びはたいへんなものであった。

 宮殿の焼跡は上下二段の段地で、なかなか広く、上段が奧宮殿、下段が表宮殿の跡で、六十余名の青年たちは、ここを作業場として三日間猛烈に働いてくれた。皇居の付近には泊まるところはなく、宿舎は小金井付近であったと思うが、皇居から20キロも離れているのに、当時、交通機関も充分に復旧しない混雑の中を、毎日そこから通ってきて、朝から夕刻まで働いてくれたのである。三日の後には、何万個という瓦や石の破片は宮殿跡の上段地と下段地との境目にある石垣のところに、実に見事に積み上げられてしまった。

 東北の田舎から遥々上京してきた沢山の青年男女が、皇居内の清掃を手伝ってくれるということは、既に両陛下のお耳にも達していたが、連日の作業が、いよいよ今日から始まるという12月8日の朝、陛下から私に、「今日から仕事が始まるなら、その前に一同に会いたい」、とのご希望があった。

 私も、心ひそかに、それを期待していたので、大喜びで、早々使いを出して、現場にいる青年たちに、お昼前に、天皇陛下が、作業現場においでになるから、そのつもりでいてもらいたい、との通知をしておいた。

 

~鈴木氏回顧録『みくに奉仕団由来記ー皇居草刈奉仕の思い出ー』から~

 

 郷里をでるとき、町に残っている青年たちが、もち米を盃でひとつづつ持ちよって紅白の一重の持ちをつき、せめて、奉仕行に加われない真心をこの餅に託して、贈って寄越したのです。それを、陛下に献上申し上げたい、もしできなければ宮内省の方々に食べて頂きたいと筧さんにお願いしました。すると筧さんは、ぜひ献上できるようにしますから持ってきて下さいということです。

 ところが、蓋をあけてみると、紅白の餅はついてすぐ持ってきたうえに、汽車が混んだので箱はつぶれているし紅と白とがくっついていて、形もゆがんでいる。しかし、たとえ召し上がらなくとも、せっかくお受けくださるとおっしゃるんだから差し上げた方がいい。などと献上するかしないか思い悩んだ末、メリケン粉で形を直し、新しい箱にかえて、白い大きい紙で包装し“上”と書いて、翌日それを取ついでもらった。これは、その翌々日木下侍従次長さんから「お餅は皇太后陛下始め、皇太子様、義宮様、各姫宮様方にそれぞれお分けして、大変おいしくいただいたからお礼を申し上げて下さい」という陛下からのありがたい伝言をいただき、一層感激に涙したことでした。

 

 12月8日作業当日、午前2時起床。戸外に設けられた竈(かまど)の火が女子青年たちによって燃え始めた。部屋の掃除をするもの、水を遠くから運ぶもの全員皆労の中に準備を終え、朝食をすまして出発したのが5時。真冬のことですから真暗です。黙々として国領の駅に向かい、東京駅についたのは午前7時頃、坂下門に近づくに従って、アメリカ兵が二重三重に警護しています。早朝なので、ほとんど人通りのないなかを、まちまちの服装をして、血気な青年たちが、三々五々、朝もやの中を皇居に向かって進むのです。シャベルや鎌や鍬などをかついでいる。どこから見ても、奇怪な一団です。アメリカ兵の前にさしかかるたびに、今とがめられはしましかと、びくびくしながら、やっと坂下門にたどり着きました。

筧さんが私どもを作業場へ誘導し、東御車寄せの跡に立って、奉仕する場所の説明をして下さいました。それは、宮中の奧御殿の跡から、ご学問所の跡、豊明殿の跡等いわゆる宮殿の中心部です。が、今は跡かたもなく焼けて累々たる瓦の中から蓬や雑草がいっぱい生繁っていました。

筧さんからさらに注意を与えられました。陛下は毎日御政所にお通いになられますから、あるいは作業中に遠くからお姿を拝することがあるかもしれない。その時は失礼にわたらないように、適当に敬意を表すように一同に指揮してほしいとのことでした。私どもは宮城の外の草を刈らしてもらえばいいと思って来たのに、宮殿の跡にまで参入を許され、夢にも想像しなかった陛下のお姿さえ拝せるかも知れないと聞いて感激して無我夢中で働きました。

 

 

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(出典:http://www.city.ushiku.lg.jp/kouhoushi/20030901/13mukashi.htm)

 

前例のないご対談

 

奉仕はだんだん進んで、正午近くになった頃です。静かだった奥御殿の石垣の上に、かすかに人の気配がするので、上を見ると、陛下がお立ちになって、こちらをご覧になっておられます。そばに木下侍従次長さんがお付きになっている。私は全員に合図をして陛下に最敬礼をしました。そしてすぐ叉仕事にとりかかっておりますと、お付きの方が見えて、陛下がお呼びだという。私は作業衣のまま石段を上がって御前にまいりますと、木下次長さんがお取次ぎで、いろいろと御下問を賜りました。最初に陛下の仰せられたお言葉は「どうもご苦労」ということでした。私は恐懼(きょうく)しつつお礼を申し上げました。

 「このたびは外苑の草刈りに奉仕いたすつもりで参上いたしましたところ、特別のお計らいで皇居深く参入を許され御殿跡の清掃にご奉仕できましたことは無上の光栄でございます。青年たちもかくのごとく感激に打ち震えながら働いております」と申し上げると「御苦労」というお言葉を更に賜り、つづいて、「汽車が大変混雑するというが、どうやって来たか」「栗原というところはどんなところか」「米作の状況はどうか」「どんな動機できたのか」など、いろいろご下問がありました。

 ほんの四、五尺隔てて拝する陛下のお顔は、大変おやつれになっておられました。お言葉の合間、時々軽く頭をおふりになるのも戦時中の極度のご心労とご激務のご疲労から来る軽い発作のためかと、お察し申し上げるにおそれ多いことでありました。今年は米作は半作ですが、栗原の農民は少しもへこたれてはおりません。草根を粉にして食ってでも強く生き抜こう、いま粉食の実践に一所懸命なことも申し上げた。

 栗原という郡は宮城県では一番大きい郡で、宮城県の北海道とも言われています。農業が大半で、山地では馬も産します。朝早く起きて草を刈り、馬を肥やし、堆肥をつくって米を増産する。だから草を刈ることは昔から堪能で、ここ数年荒川土壌の草刈り競争では、この軍の青年は、いつも第1位を確保してきましたと申し上げますと「あの草刈り競争のことは新聞で見て知っている」と仰せられてお笑いになりました。戦後後期の最も繁忙を極めたご政務の中で、草刈り競争のことまで、ご記憶に止めておられたことを拝承して、驚いた次第です。

 約三十分、私はご下問ごとに、ありのままを率直にお答え申し上げましたが、そのつど「ご苦労」とか「ありがとう」とか仰せられ、その後、ご政務所へお帰りになりましたが、その御後姿を拝し一同期せずして君が代を合唱しました。誰の目にも涙がいっぱい光っていました。

 一歩外へ出ると、国体批判の荒々しい波が渦巻いている。空にはアメリカの飛行機が、乱舞して、示威運動でもしているようである。君が代のすんだ後は、青年たちの真剣なシャベルの音のみに返った。御座所跡の桜の老木には、真冬だというのに、薄紅色の桜花がらんまんと咲き乱れていました。

 

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出典:https://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/33224583.html)

 

 感激にあふれ作業にかかっていますと、今度は同じ場所に皇后陛下が女官をつれてお出ましになりました。この時も同様に御前にまいりますと、木下次長さんから、郡の事情を説明しなさいとか、今年の米の状況や郡や人々の心構えをお話ししなさいとか言われましたので、いろいろお答え申し上げています間に、陛下ご自身で直接お話し下さるようになりました。女子青年団員にも直接ご下問を賜りたいとお願い申し上げましたところ、ご快諾になりました。女子青年団や婦人会は、この困難なときに、どんなことをやっているのかというお尋ねがございました。男に代わって田畑で働いたことや、戦後の食糧難においての粉食運動、子馬の手入れは女手がいいことなど申し上げました。皇后陛下は、やはり婦人らしい問題にご関心を寄せられ、食糧の問題で家庭の主婦が苦しんでいることについては特に深くご質問遊ばされました。皇后陛下のご下問も約三十分近くにわたった為に、両陛下のご日程がすっかりくるってしまったことを後でお聞きし大へん恐縮しました。

 

 

後編に続く

                                                

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2017年5月23日 17:00


<特集> ~皇居勤労奉仕団 発端の物語~ 前編

2017年10月11日 | 【虎ノ門ニュース】

<特集> ~皇居勤労奉仕団 発端の物語~ 前編

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(画像:昭和館から寄贈)

 皇居ならびに赤坂御用地において、除草や清掃、庭園作業などの奉仕活動を行うため全国各地から上京される人々がいます。奉仕作業は原則無報酬で4日間行われますが、その間の宿泊や食事などはすべて自己負担です。1団体15人から60人で構成されるこれらの団体は『皇居勤労奉仕団』と呼ばれ、年間約1万人近くの人が参加されています。

 『皇居を綺麗にしたい』という思いから始まった皇居勤労奉仕ですが、その歴史については、意外に知られていません。

 今回の特集では、『皇居勤労奉仕』がどのようにしてはじまり、現在に至ったかについて、深く関わりのあった木下道雄氏(元宮内庁侍従次長)、筧素彦(元宮内大臣官房総務課長)、鈴木徳一氏(元宮城県栗原郡青年団代表)らの著書や回顧録など当協会所蔵の資料を基に、各氏の視点別に3回に分けご紹介します。

 

【皇居勤労奉仕 発端の物語】

 

 昭和20年ー終戦の年、秩序は乱れ、茫然自失の国民が疲労困窮に喘いでいた東京、皇居周辺では、至るところに占領軍の歩哨(ほしょう)が威圧感を持って立ち、管理の統制を欠いた二重橋前広場の六十余箇所の照明塔は一つも残らず破壊され、道路といわず芝生といわず、いたるところ踏み荒らされて、お濠と森林とに囲まれた皇居は、外観こそ一見、昔とかわらぬようであるけれども、一歩皇居に踏み入れば、木造の建物は殆ど焼失し、さしも端正雄大であった宮殿の跡も、瓦礫が散々した痛ましい状況であった。(昭和24年まで二重橋前の広場は宮内省の所管)

 

~筧氏回顧録 『皇居を愛する人々 清掃奉仕の記録』(日本教文社編)から~

 

 11月下旬、二人の男性が宮内庁を訪れた。「ただいま、坂下門に、宮城県栗原郡青年団代表、鈴木徳一、長谷川俊と名乗るものが、総務課長に会いたいと希望しているがいかがいたしましょうか」との連絡を受けました。要件を聞くと、荒廃している皇居内外の清掃奉仕を許してもらえないかというものでした。私はこれを聞き、占領下にある現況を鑑み、大いに驚き、申し出の二人の決死の熱意の程を理解し、感動しました。二人からの申し出を直接聞き終え、実施することの重要性を強く感じました。・・・・。

 

 当時はすでに占領下にあって、ことごとに占領軍の制肘(せいちゅう)、抑圧を受けている極めて厳しい事情の下にあるので、こういう申し出をされるかたも命がけなら、それを受ける方もまた異常の覚悟を要する状態でした。私は考えました。いかに非常時とは申せ、これは一課長たる私一個の判断で決すべき事柄ではないかもしれない。しかし、これを組織による意思決定の形をとったら、自分一己の責任は若干軽減されることはあるかもしれないが、万一の場合、上の方にご迷惑が及ぶことがあっては一大事であると考え、(中略)一切の責任を負って自分だけの独断でやることを決意しました。・・・・・しかし、いかに己を空しくて熟慮断行するといっても、全く一人だけの知恵で思いついたままを行うことは軽率の謗りを免れません。私としては、陛下が、地方へお出ましになれない現在、地方の人々が逆におそばへ近付き、接触を保ち、その誠意を披瀝(ひれき)する途を開くことは非常に良いことであると確信したので、私が日頃尊敬信頼していた大金次官(後に侍従長)にこのことを内々ご相談しました。当初は反対していた大金次官も、再三再四執拗に食い下がったところ、「君がそんなに熱心にいうなら、一切を君に任せる」と承諾して頂きました。

 

 その後、鈴木、長谷川の両氏は、交通不便の折柄を奔走された結果、宿舎や乗車券の手配などが完了し、12月7日六十余名の同志を引率して状況してこられました。実施の目途のついた頃を見計らって、私は、この計画を木下侍従次長に話をし、協力を願い出ました。次長は、大賛成で、奥の作業計画についても全面的な協力を約束していただきました。

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(日比谷交差点で交通整理を行うMP 出典:共同通信)

 

~鈴木氏回顧録 『みくに奉仕団由来記ー皇居草刈奉仕の思い出ー』から~

 

 皇居周辺の荒れ方には宮内省の方々はみな心をいためておられながらも、激減した皇室予算ではどうにもならずにおられたのでしょう。ところが、これは後でわかったことですけれども、筧さんの奥さんが戦争中偶然にも栗原郡に疎開して、土地の事情についてはよく理解されておられたので、すぐ安心して、私どもの願いをききいれてくれたのだそうです。それに、時の侍従次長木下道雄さんが、実に青年には理解のある方で、すぐにご賛成になった。ほんとうに筧さんといい、木下次長さんといい、青年に理解のある方々がおられたことを心から幸せだと思いました。

 筧さんとの打ち合わせの結果、奉仕は12月8日からと決まりました。

 さて奉仕に上京する青年たちをどうして決めるかが大きい問題でしたが、折よく若柳町で青年学校長会議が開かれたので、先生方に推薦方をお願いしました。ところが先生たちは口を閉ざして誰も返事をなさらない。御真影奉安庫(殿)(※注意)は壊され、教科書も忠君に関する記事は抹消されるというときに事もあろうに、皇居の奉仕ということを言ったのですから返事ができないわけです。ところが二、三日して、その席ではご返事のなかった先生方の中から、是非この青年たち参加させてくれと、名簿にそえて申し込んでくるものが出てきました。その中の一人は、教師を追われてもいいから参加させてくれ・・・と血書まで添えて申し込んできました。たちまち予定の六十名を突破したので、六十名だけ選考しあとは断らざるを得ないことになり、特に学校の先生や地方事務所の教育主事には、おとがめを受ける事を危惧し、この計画は知らせなかったということにしました

 

(※注意)奉安殿(ほうあんでん)とは、戦前の日本において、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物である。...戦前に建築された古い校舎・講堂を持つ学校では、校舎内に設けられた「奉安庫」が残る所もある。奉安殿は、校舎内に造られる...1945年(昭和20年)12月15日、GHQの神道指令のため、奉安殿は廃止された。

 

 いよいよ上京するものの勢揃いができたので、私は仙台に行って先輩の一力次郎さんに報告したところ、大変な反対にあいました。一力さん河北新報の会長でG・H・Qの意向をよく知っておられました。しかも12月8日の朝刊に掲載するG・H・Qからの達しによると、当日は興亜奉公日(※注意)で、一切の団体行動はまかりならんということである。それもこともあろうにその当日に団体で皇居に奉仕するなど、とんでもないというのです。一力さんのご指摘はありがたく拝聴し、帰郷して私はすぐ上京する青年たちを集め、荒々しい社会の空気を素直に伝えて、もう一度青年たちの決意を聴いた。ところが皆、どんな困難がってもやり通すといって微動だにしない決意を示してくれました。

 12月6日いよいよ出発当日、周囲からの注意によって、団体行動に見えないよう、まちまちの恰好で出てきた。また、こういう世相の最中だから、家族も大変心配し、ほとんどの青年が、家族と水杯を交わして出てきた。

 

 当時の東京は、食料や燃料などが乏しく、一家の食事さえ儘ならない状況で、しかも占領軍の取り締まりが厳しい状況でした。特に奉仕作業を予定していた12月8日は、興亜奉公日(※参照)であったため、一切の団体行動を謹慎するお達しがGHQから出されていました。そのような中で、上京するなど言語道断だと、相当な反対があったそうです。

 

※興亜奉公日とは・・・1939年8月に閣議決定され、9月から実施された生活規制で、毎月1日があてられ、国旗掲揚、宮城遥拝、神社参拝、勤労奉仕などが行われ、食事は一汁三菜、サービス業は休業、飲酒の禁止など

 

 想像もできぬ混雑した汽車の中で一睡もできず、つり棚につかまったまま翌朝上野駅についた。宿舎は多摩郡の国領にある東京重機という会社の寮です。日本青年館も小金井の浴恩館も断られ、やっとの思いで借りることができました。

 午後4時ごろ、幹部の2、3人と宮内庁に着京の挨拶に行きました。

 すると筧さんが間もなく帰ってこられて「よかった、よかった、あんたたちが来られなかったら、私は腹切りものでしたよ・・・」という。これは、木下侍従次長さんを通じて陛下に言上申し上げたところ、陛下も大変お待ちかねという話なのです。・・・・

 奉仕場所の打ち合わせの時は、最初はこちらで申し出た通り、外苑の草刈りということだったが、後に総務課で相談された結果、焼け落ちた宮殿跡の取り方づけをやってもらおうということになったと、この時筧さんからうかがったのです。宮殿跡といえば、あの夢に見た宮城の緑青色の甍(いらか)の真下のことです。私どもはそれを聞いて、皇居の真中で奉仕できる幸せをただただ有り難くお受けするのみでした。

 

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(出典:『開封された秘蔵写真 GHQの見たニッポン 太平洋戦争研究会2007』)

 12月8日、草刈鎌など道具も携えた女性を数名含む2,30歳代の青年の一郡が皇居坂下門外に現われました。有志は、「みくに奉仕団」と命名され、勤労奉仕の申し出に宮内庁を訪ねた団長の鈴木徳氏46歳(慶応義塾出身)と東久邇宮内閣の緒方国務大臣の秘書官を務めていた長谷川峻氏35歳(のちに衆議院議員)の2名を筆頭に、19歳~35歳の男性53名、女性7名計62名で構成されていました

                                                                中編へ続く

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2017年4月25日 17:27