<特集> ~皇居勤労奉仕団 発端の物語~ 後編
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(画像:昭和館から寄贈)
前編、中編とお届けしてきた【皇居勤労奉仕団 発端の物語】ですが、いよいよ今回が最終回です。【特集 ~皇居勤労奉仕団 発端の物語~ 中編】に続き、後編をお届けします。
~木下氏回顧録『皇室と国民』(新小説社)から~
名もなき青年団の心意気
12月8日の朝、陛下から私に、今日から仕事が始まるのなら、その前に一同に会いたい、とのご希望があった。かくして、前例のないご対談が実現した。
陛下が作業現場におでましになるとき、お供をしたのはわずか数人であったが、私は御座所から現場まで数百歩の道すがら、焼土の上に歩を進められる陛下のお心のうちを、あれこれと、考えた。
ザックザックと砂を踏んで一歩また一歩、現場に近づかれるお靴の音は、まさに日本歴史大転換の歯車のきしる音としか思えない。国民とともに語り、共に苦しみ、共に楽しまんとの御決意は、すでにご即位のときから明瞭に、我々お側にお仕えしている者には、拝察できたことだった。しかし、いろいろな事情のために、実現はできなかったが、奇しくも国破れた今日、陛下は、その機会をつかまれたのだ。
宮殿の焼失などは、いま露ほども惜しいとは思っておいでにならないに相違ない。ただ、夜となく昼となく、常にお胸のうちを去らないものは、亜細亜大陸の各地、また、太平洋の島々に、とり残された未復員の将兵その他の同胞の安否や、国民各家庭のさまざまな悲惨辛苦のことだ。
今数分後には、はるばる仙台の奧から手伝いに来てくれた青年たちにお会いになれる。こんなことが皇居内で行われることは、未だ前例のないことだが、少しはお気が晴れるだろう。
陛下は、遠いところから来てくれて、まことにありがとう。と一同に伝え、郷里の農作物の具合はどんなか、地下足袋は満足に手に入るか、肥料の配給はどうか、何が一番不自由か、など、ご質問は次から次へとなかなか尽きない。かれこれ十分間ほどお話があり、国家再建のためにたゆまず精を出して欲しいとのお言葉を最後に、一同とお別れになり、また、元の路をお帰りになるべく、二、三十歩おあるきになったそのとき、突如、列中から湧きおこったのが、君が代の合唱であった。
(出典:https://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/33224583.html)
当時、占領軍の取締りがやかましく、殆ど禁句のように思われて誰も口にすることを遠慮していた、その君が代が誰に相談するでもなく、おのずからに皆の胸の中から、ほとばしり出たのであった。ところが以外にも、この君が代の歌ごえに、陛下はおん歩みを止めさせられ、じっとこれを聞入っておいでになる。一同は、君が代の合唱で、お見送り申し上げようと思ったのであろうが、このお姿を拝して、ご歩行をお止めしては相済まぬ、早く唱い終ってお帰りを願わねば、とあせればあせるほど、その歌声は、とだえがちとなり、はては嗚咽の声に代わってしまった。見ると、真黒な手拭を顔に押しあてた面伏しの姿もある。万感胸に迫り、悲しくて悲しくて唱えないのだ。私も悲しかった、誰も彼も悲しかった。しかし、それは、ただの空しい悲しさではない。何かしら伝い知れぬ大きな力のこもった悲しさであった。今から思えば、この大きな力のこもった悲しさこそ、日本復興の大原動力となったのではなかろうか。
辛うじて唱い終わったとき、陛下は再び歩を進められてお帰りになったが、私は暫く後に残ったところ、青年たちは私に、皇居の草を一肥ずついただいて郷里への土産にしたい、という。何のためかと思って尋ねてみたら、私たちは農民です。草を刈って、肥料のために堆肥をつくります。この一肥の皇居の草をいただいて、持って帰って、堆肥の素とし、私たちの畑を皇居と直結したいのですと、目に涙をため、草を、堅く、かたく握りしめて言った。
この青年たちとのご対談に、陛下は何かよほどお感じになったことが、おありになったご様子で、お部屋にお帰りになるや、皇后さまに、午後、作業現場にゆかるるように、おすすめになり、その時も、私がお供をして現場に参った。・・・・・(中略)
前例の全くない、皇居内での陛下と地方青年たちとのご対談を、宮内省詰めの新聞記者諸君が見逃す筈はない。ニュースはすぐに全国に伝えられた。
感激の奉仕を終え、おのおの一肥の皇居の草を抱きしめて郷里に帰る青年たちの汽車の旅は、上京のときとは全く反対で、まことに朗らかな希望に満ちたものであったに違いない。無断上京のお詫びを兼ね、知事さんに挨拶のため、仙台に途中下車、一同県庁を訪ねたところ、折から開会中の県会は青年隊無事帰着の報に接し、にわかに議事を中止し、知事以下議員総出で一同を喜び迎え、大いにその意気と労をねぎらったとのことである。
以上、語り記す事柄は、国民対皇室、皇室対国民の間に見られる、あらゆる事象のうちの、単なる一こまとして、風の如く来り、また風の如く空しくすぐ去ったであろうか。
疑いもなく、これは名もなき農村青年男女六十人の一団の、名誉を思わず、利益を求めず、占領軍の弾圧あらば身を以って受けようとの、やまとごころの一筋に立ち上がった、この一群れの間にひらめく正気の光は、決して空しくは消えなかった。・・・
(画像:昭和館から寄贈)
やまとごころの一筋に立ち上がった、名もなき青年団の心意気は、現在でも脈々と受け継がれています。また、この時の前例のないご対談は、現在でもご会釈として続いており、可能な限り天皇皇后両陛下が勤労奉仕の労を労っておいでです。
皇居外苑は、昭和24年4月以来、国民公園として広く一般の利用に供されましたが、国政による維持管理は不十分でした。そのような事態を心痛し、国の施策への協力として、皇居外苑整備奉仕会、皇居前保存協会、皇居外苑整備保存協会等有志が相謀り大乗的、また、発展的解消をおこない、当協会の前身である皇居外苑保存協会は設立されました。
勤労奉仕団が誕生してから実に69年の月日が時代とともに流れ、平成24年8月には法人移行を遂げ一般財団法人国民公園協会となりました。しかし、前身である皇居外苑保存協会の設立意義と崇高な意思を受け継ぎ、皇居外苑に相応しい組織理念を以って、現代社会に即した公園管理及び利用普及に向けた様々な取組の推進を図っています。
また、協会は、昭和43年辺りから、数多の思いを持って、上京してこられた述何十万ともいわれる有志方の労を少しでも和らげる一助にしたいと皇居勤労奉仕団の皆様に対し、お食事の提供を開始し、現在も続けております。
※木下道雄氏
明治20年6月13日生まれ、東京帝国大学法科卒業後、内務省入省。内閣書記官、東宮侍従、宮内大臣官房秘書課長、同総務課長、帝室会計審査局長官を歴任し、昭和20年侍従次長就任、退省後、皇居外苑保存協会初代理事に就く。昭和49年死去。著書に、「宮内見聞録」(昭43、新小説社)「皇室と国民」(昭44、皇居外苑保存協会)「側近日誌」(平2、文藝春秋)等がある。
2017年6月26日 10:10