広津柳浪「今戸心中」論
広津柳浪の作家としての頂点が明治二十年代末から三十年(初頭の数年間にあったことは、誰しも異論のないところであろう。吉田精一氏の「その文学的経歴は長いが、最も意義のある活動はやはり明治二十八年から三十一、二年の間に見られる。ことに三十年は彼が人気の絶頂にあつた年で、原稿料の収入も文壇随一(二千五百円)だつたといはれてゐる」(『自然主義の研究』上〈昭三〇・一一 東京堂〉第一章「広津柳浪の深刻小説」)という総括は、今日なお動かし難い。
同時代評をひもといてみても、森鴎外、島村抱月、高山樗牛、田岡嶺雲、八面楼主人(宮崎湖処子)といった当代の代表的な評家が、それぞれの有力な雑誌で柳浪作品に言及し、相競って論評を加えている。その一作々々が世人の注目を集め、文壇を聳動したのであり、この期はまさに柳浪の時代であったといっても過言ではない。
明治二十九年七月『文芸倶楽部』に発表された「今戸心中」は、このような柳浪評価を決定的にした作であり、たとえば同年十二月の『早稲田文学』は、『今戸心中』に声価俄にあがり、続いて『信濃屋』『河内屋』などの佳作を出だし、批評家の視線を一身に集めたるが如きものは、昨今の柳浪子なり、として、諸新聞雑誌にあらわれた柳浪評を褒貶あわせて十一編再録しているほどである。
これらの評のなかでも特に注目すべきなのは、鴎外が柳浪作品に対して異常なほどの関心を寄せている点である。『めさまし草』(明二九・七)における幸田露伴、斎藤緑雨との「三人冗語」には次のような讃辞さえ見られる。
ひいき。兎にも角にも筋よく通りて、渋滞せざる書振なるはありがたし。近ごろの似よりたる作より言へば、泥水清水と此 篇との差は、殆ど品川と芳原との差ありともいふべきか。
第二のひいき。さまざまの評も出でたれど、兎に角此篇を此一部の文芸倶楽部の圧巻として貰ひたし。善吉と吉里とを面白 き機会にて鉢合せしめて、それより珍しき情死に至らしめしは、通がり殿の説の如く、まことに妙と申すべし。
硯友社の産んだ代表作のひとつ、江見水蔭「泥水清水」も、「今戸心中」の前には品川と芳原の差があると極言されているのである。もちろん「三人冗語」の常として、苦言を呈している部分もあるのだが、「今戸心中」に費している紙幅は樋口一葉の「たけくらべ」をもわずかながら上廻り、断然他の作品を引き離している。
近代文学の流れを注視し方向づける役割を自覚していた鴎外によるこのような関心の深さは、この作品の完成度にのみ与えられたとは思えない。この作のもつ近代性、より大きな文学へと成長する可能性を、鴎外らが嗅ぎとっていたと考えられるのである。
しかしながら、現在、「今戸心中」を正面から本格的に考察した論考は皆無に近い状態である。柳浪自体、永井荷風を初め後代の多くの作家に強い影響を及ぼしていながら、特異な一作家として筆をとどめられるばかりで、研究史の上で取り残された現状である。はたして柳浪は文学史の波間に一瞬浮び上っただけの、忘れらるべき作家であるのだろうか。
「今戸心中」は自然主義以前の、真の近代性を欠いたあだ花に過ぎないのであろうか。
本稿は、「今戸心中」の実質に可能な限り接近し、併せて柳浪というひとりの作家の抱懐した文学世界のなかから、現代の文学につながる問題性、可能性を発掘しようとの意図をもつものである。そのための具体的な手だてとして、同時代評と、その後の若干の論考を踏まえつつ、作品に拠って私見を加えてゆく以外に方法はない。
さて、これまでの数少ない論考から、柳浪研究に二つの方向性が示唆されているように思われる。
そのひとつは、吉田精一氏の前掲の論文に代表される、近代文学確立までの一階梯としての柳浪の位置づけである。氏は、「彼の小説のレアリスム発展史上に於ける意義は、過渡期の近代社会に於ける半封建的な習俗、ことに家長権や家族制度の人間にあたへる拘束や、人情に背反する矛盾をとりあげ、それを、『悲惨』『深刻』なる小説として組みあげたことにある」とし、現実の悲惨な一面をむき出したことにおいて「写実の一進歩」と評価しつつも、「彼の描いた人間は、個性、性格をしばしば欠いてゐる」「彼は現実観察に鋭い眼をもちながら、それを批判的につかむ深さを欠き、結局平面的写実に終始した」として、作中人物の個性の欠如、作者の自覚の欠如を指摘し、要するに柳浪を、近代性をもつことのできなかった作家として位置づけている。
さらにこれに類するアプローチとして、『新著月刊』に連載した「作家苦心談」(のち、伊原青々園・後藤宙外編『唾玉集』〈明三九・九 春陽堂〉所収)などを手がかりとした、柳浪の写実論、言文一致体の考究も、有効な方法であろう。
柳浪のそれは小杉天外ら、西欧作家の影響による文学論ではなく、創作家としての自身の体験から産みだされたものであることによって、近代文学史上より大きな意義を有するはずである。伊狩章氏の、硯友社文学発掘の一連の研究における柳浪評価も、もちろん忘れてはならない。
これらの、いわば文学史的な観点から柳浪の位置を測定する方法に対して、今ひとつ、作品それ自体を究明することによって柳浪その人の内面を掘り起し、そこに新しい意味を発見しようとする方法もある。藤森順三氏の「広津柳浪研究」(『明治作家研究』上 昭七・一一 木星社)がその先鞭をつけたもので、柳浪の悲惨小説を「柳浪の本質の所産」として、柳浪の孤独や潔癖といった性癖に因をもとめようとする行き方である。笠原伸夫氏の、「情念」(『美と悪の伝統』昭四四・九 桜楓社)として柳浪作品を捉えようとする方法や、久保田芳太郎氏の「作家の肖像 広津柳浪」(『解釈と鑑賞』昭四七・八)に見られる、柳浪作品の共通項として「愛欲と血と死」を挙げ、そこに「かれ自身の、暗さあるいは暗い愛欲への嗜好と指向」を見る論点である。
もちろん、研究にはここに述べた両方の視点が必要なのであるが、わたしは主として後者の方法に拠りながら、「今戸心中」、さらには柳浪の実質に迫りたいと思う。
二
「今戸心中」の梗概を、今ここで詳しく紹介する必要はないだろう。吉原の娼妓吉里が馴染客平田の突然の帰郷で別れを余儀なくされ、悲嘆にくれる。そのとき初めて、自分に通いつめたために破産し、妻子とも別れた善吉という四十男の存在に気づき、情をかけ、ついには善吉と今戸橋から隅田河に身を投げるという物語である。
この作の評価が発表当時から現在まで一貫して高いことはすでに述べたが、それは特にどの点においてなのだろうか。
前記「三人冗語」では、「扨此小説の葛藤の中心ともいふべきは、平田に別れたる吉里の苦痛と、吉里に別れむとする善吉の苦痛と、端なくも相触れて、吉里の同感を惹き起す処に存ず。これはまことに面白き落想なり」(通がり)と記し、あるいは「六章より九章までは此篇の中にて最も主たるべきところならんが、特に八章は其中にも大切のところなるべし。されば作者も力瘤を入れられたるにや、冗漫の嫌は無きにあらずとおもはるゝながら、流石に読み行く中に少しく作者のため魅せらるゝ傾きさへ生ず」(老人)と述べている。すなわち、平田を想いつづげる吉里の心が善吉に傾く部分、換言すると吉里の心理描写に特色を認めているのである。
この見方は今日も変らず、たとえば花田チハヤ氏は「広津柳浪」(『学苑』一七七号 昭二九・一二、のち『近代文学研究叢書』第二九巻〈昭四三・一〇 昭和女子大学近代文化研究所〉所収)において、この作の特色・長所として「吉里の心理描写に生彩のある点」を第一に挙げ、これに加えて「会話の描写のたくみさ」と「吉原の空気を如実に描き上げている点」を評価しているし、伊狩章氏もその『硯友社と自然主義研究』(昭五〇・一 桜楓社)所収の「広津柳浪の深刻小説と『今戸心中』」において、「題材・趣向ともにさしたるところのないこの小説が、今なお鑑賞に堪え、読者の心を動かすものがあるのは、女主人公吉里の心理描写の点にある」として吉里の心が平田と善吉との間を行き来するくだりを称揚し、「よくこなされた言文一致と、会話の的確な運び」の効果、さらには「年末の吉原の情景、枝楼のふんい気」の巧みさ、わき役の人物にも破綻のない点を指摘し、「当時の短篇小説としては、ほぼ完璧に近いものがある」と結んでいる。
これらの評価、とりわけ吉里の心理の微妙な変化に「今戸心中」の真骨頂があるとする見方は、作者の意図が予期どおりの効果を作中で発揮していることを物語っている。柳浪は前掲の「作家苦心談」において次のように語っているのである。
『今戸心中』は殆ど事実を其の儘採ツたと云ツても宜しいので、女主人公吉里は名もその通りの色魁が吉原の中米楼に今よ り十二三年前にゐたのです。男の方は現に私の友人二ノ宮氏と昵懇の間柄で、某法律学校の生徒で随分の好男子であツた、是 れに吉里は大変に愡れてゐたのです。然るに此の男の国元で、何か事情あツて、是非帰らねばならぬことになツた。二人の情 交を知ツてゐる友人共は、今男が去れば、必ず女の方が無分別などするに違ひないと恐れたので、納得させて穏便に別かれさ するやうにと、現に私の友人二ノ宮氏が其の間に斡旋の労を執ツて、帰国間際までも遭はせにやツたりして、其所を程よく別 かれさせたのです。然るに吉里は以前ひどくふツてゐた古着屋某なるものと、彼の好男子と離別の後、二ケ月位の中に情死を 遂げたのです。此の心の変動が誰れにも分からなかツたさうです。私は此の疑問に対して聊か解釈を試みたいと思ツたので、 『今戸心中』をかいて見たのです。それで私の解釈では、自分が恋の絶望を経験して、古着屋が今まで恋の絶望の境界にゐた 其苦しみを覚り、始めて激烈に同情を表した結果だらうと思ひました。約めて云へば、絶望と絶望との間に成立てる同情の果 てが、心中となツたのか知らんと解釈をして見たのです。
柳浪は実際にあった事件に材を取り、当事者である女の「心の変動」の謎を解こうとして、ひとつの解釈を提出した。すなわち「絶望と絶望との間に成立てる同情の果て」が心中という結果を生んだとし、この解釈のもとに、女主人公吉里の心理変化を描出しようと苦心したのである。作者の想定した心理劇がそのとおりに読みとられたことにおいて、柳浪の会心の作といってもよいだろう。
しかしながら、「今戸心中」の成功は、はたしてその心理劇の成功にあるのだろうか。その心理劇の必ずしも完璧でないことは、すでに「三人冗語」において「風呂場にて衆口やかましく我が上を噂するをきゝたる吉里の心中は成程察するに余りはあれど、平田に別れ善吉にあひしより死に至るまでの間に、吉里の身を死の手に運ぶ車が、これ一つなるは物足らず」(わる口)と指摘されているように、吉里の死に至る心理の説明には、いささか納得しがたい部分も残されているのである。
にもかかわらず、この作の読後の印象は強烈であり、感銘も深く重い。それは何故なのだろうか。この作の実質は、作者の意図した吉里の「心の変動」にあるのではなく、もっと別のところに存するのではないだろうか。
三
この作品の主人公は吉里である。全十一章すべてに登場するし、第六章の前半を除けば作者はすべて吉里の挙措心理を中心に据えて描写を行っている。物語も、第一章から第五章までが吉里と平田の別離の次第を述べ、第六章で初めて、名代部屋で寒さにふるえていた善吉の内面が語られるが、それはこの章の終りでようやく吉里の座敷へ新造のお熊によって招じ入れられるまでの経緯としてであり、第七章は、同じ部屋にいながら善吉は全く無視されて吉里は依然平田のことばかり考えている。第八章で初めて善吉は吉里と対等に登場するが、以後ふたたび吉里を中心に物語は進み、善吉は単に、吉里のあやつり人形のようにその後をついてゆくに過ぎない。
善吉に関する記述も最少限にとどめられ、善吉は吉里の内面に何ら関与することなく、その死出の旅のお供をするに過ぎない。吉里が最後に小万に残した遺書でも、善吉は全くふれられることなく、今更ながら吉里の心を占めつづける平田の大きさばかりが読者に印象づけられるのである。吉里の「心の変動」が作品の中心テーマであることに疑いはない。
しかしながら、この作品が読者に感動を与えるのは、恋人に去られてどうでもよい男と死ななければならぬ吉里の哀れさなのだろうか。それならば「今戸心中」は、変った趣向をもつだけの、当時としてさほど珍しくなかった遊女の心中譚として、もはや文学史の波間に沈んだとしても不思議はなかった。発表当時よく比較された、「泥水清水」と同じ運命をたどったに相違ない。
実は「今戸心中」の価値を保証するのは、吉里にあるのではなく、徹頭徹尾作中で無視され、脇役でありつづける善吉の存在ではないだろうか。なるほど吉里の心理はよく描かれている。その哀れさも無惨な運命もよく読者に伝わる。後半の、吉里の思いがけない心理変化も、前半の丹念な描写によって、それなりの説得性をもっている。しかし「三人冗語」で「始より終まで泣くとかふさぐとか頻りに作者が涙寧ろ涙といふ字を振こぼすにも拘らず、何等の感じをもとどめざるは、もとより(注・近松門左衛門と)比ぶるが無理ながら、作者たるものゝ、一案じあるべき所なりと信ず」(小説通)と批判されても仕方がないような、常套の哀れさにとどまっているのである。
吉里の哀れさが初めて意味をもつのは、善吉の哀れさと重ね合されることによってなのであり、しかも吉里の哀れさは善吉のそれに遠く及ばないのである。「今戸心中」の名作たることを決定づけているのは、吉里の影に隠れて、脇役に終始する善吉の、あまりにも報われることのない残酷な運命なのである。
作者柳浪の自覚した意図はともあれ、作中で善吉は実に巧みに描かれている。
第一章では、平田との別れが迫って荒れている吉里に対して、新造のお熊が『善さんだツてお客様ですよ』と、顔だけでも見せてくれと再三頼む。癇癪を起す吉里を朋輩の小万が慰める場面――。
『今晩もかい。能く来るぢやアないか。』と、小万は小声で云ッて眉を皺(よ)せた。『察してお呉れよ。』と、吉里は 戦慄(みぶるひ)しながら火鉢の前に蹲踞んだ。
娼妓(おいらん)に嫌われながらも、せっせと、しつこく通いつめる厭なお客としでの善吉がまず軽く登場する。
第二章では、この淡い印象が具体的なものとなってくる。
小万と吉里の、それぞれの言葉――。
『余(あん)まり放擲(うつちや)ッといちやア不可いよ。善さんも気の毒な人さ。此様(こんな)に冷遇(され)ても厭 な顔も為ないで、毎晩の様に来てお出でなんだから、怒らせない位にや 為てお遺よ。』
『本統に善さんにや気の毒だとは思ふけれど、顔を見るのも可厭(いや)なんだもの。信切な人ではあるし……。信切に される程厭になるんだもの。』
ここで善吉は、厭な客といっても、その強引さによって嫌われるタイプの男ではなく、娼妓たちにさえ見くびられている、みじめな男として印象づけられる。
第三章と第四章は、平田の友人西宮に吉里が平田への思いと未練を訴える場面であるが、その座敷を覗き見ては名代部屋に逃げ帰る、どぶ鼠のような善吉が描かれる。みじめなうえに、弱者特有の不快さ、気味悪さに似た厭な側面が強調される。第五章も、ほぼ同様である。
第六章に至って、舞台は一転して名代部屋に移され、これまで影のように寸描されてきた善吉が、初めて正面から描かれる。「万客の垢を宿(とど)めて、夏でさへ冷(ひや)つく名代(みやうだい)部屋」の冬の夜の寒さに加えて破れ障子から吹き込む夜風にふるえる、富沢町の古着屋美濃屋善吉の輪郭――。
年は四十ばかりで、軽からぬ痘痕(いも)があツて、囗つき鼻つきは尋常であるが、左の眼蓋(まぶた)に眼張(めつ ぱ)の様な疵があり、見た所の下品(やすい)小柄の男である。
醜い容貌に加え「見た所の下品小柄の男」であることによって、善吉は吉原ばかりでなく多分どの世界においても人々から軽んぜられ見下される種類の男であることがわかる。その善吉の、この場面に至る経緯を、作者は次のように説明する。
善吉が吉里の許に通初めたのは一年ばかり前、丁度平田が来初めた頃の事である。吉里は兎角善吉を冷遇し、終宵(いち や)全たく顔を見せない時が多かツた位だツた。其にも構はず善吉は毎晩の様に通透して、此十月頃から別して足が繁くなり、 今月になツてからは毎晩来て居たのである。
この常軌を逸した執着ぶり。ほとんど狂気に近い善吉の熱意は、実は吉里の冷淡さによっていっそう助長されてきたものであろう。なぜなら、情熱とは困難が加わるにつれてますます燃え上り、人を駆り立てる不思議な力であるからだ。善吉の情熱は吉里の冷遇によって度を加え、遂には理性を失わせて毎晩ここへ通わせることとなった。その結果、『今夜限りだ。もう来られないのだ。明日は如何なるんだか、まア分ツてる様でも……。自分ながら分らないんだ。あゝ……。』という極限状況を招来しているのである。
このような状況にある善吉の心根で興味深いのは、自分をここまで追いこんだ吉里に対する恨みがましい気持が微塵もない点てある。平田に対する嫉妬も敵意も感じてさえいない。
ひとりの男として、対等に眼前の現実に向いあおうとする覇気、自分を貫こうとする意志を、初めから持ち合せてはいないのである。『(平田が帰って)座敷が明いたら入れて呉れるか知らん。(中略)鳥渡でも一処に寝て、今夜限り来ない事を一言(ひとこと)断りや好いんだ。』と、徹頭徹尾、弱者の心理に支配されているのである。このみじめな、みずから状況を打開する力も意志もない弱い男の裡で、このとき絶望的な悔恨が頭をもたげる。
『あゝツ、お干代に済まないなア。何と思ツてるだらう。横浜に行ツてる事と思ツてるだらうなア。すき好んで名代部屋に 戦へてるたア知らなからう。嘸(さ)ぞ恨んでるだらうなア。店も失した、お干代も生家(さと)へ返して了ツた
――可哀想にお千代は生家へ返して了ッたんだ。乃公(おれ)は酷い奴だ――酷い奴なんだ。アゝ乃公は意気地がない。』
みずからの愚かな執着のために、「些たア人にも知られた店」を失い、何の罪もない女房まで離別してしまった。しかもその執着は何ら報われるところがないのである。
作者柳浪の筆は、善吉の人物像を描くにあたって生き生きと生彩を放っている。どこまでも意気地のない善吉の絶望的な姿が、完璧といってよいほど見事に描き出されているのである。
この善吉の絶望が十分に描かれたうえで、初めて吉里の絶望が意味をもってくる。第七章で、上野発の一番汽車の汽笛を茫然と聞いて平田の去ったことを実感した吉里は、うわのそらで座敷に帰る。そして第八、九章で、劇的な「心の変動」を遂げるのである。
確かに、ふたりそれぞれの絶望があってこの作の核心が形成されているのであり、その限りで「絶望と絶望との間」にこの作が成立していることに違いはない。しかしそれは、吉里の絶望があって善吉のそれが重ねられているのではなく、善吉の絶望に吉里のそれが重ねられているのである。柳浪の意図はどうであれ、作品を亭受する読者の側からいえば、善吉という弱者のどうしようもない絶望が強く刻まれたところに吉里の絶望が重ねられて初めて、遊女のありふれた失恋が個性的な相貌を呈してくるのである。
ところで、この作の読後が強い印象で残るのは、終章の残酷な切れ味によるところも大きい。
けれども、死骸は容易く見当らなかツた。翌年の一月末、永代橋の上流に女の死骸が流着いたとある新聞紙の記事に、お熊 が念の為めに見定めに行くと、顔は腐爛(くさ)つて其ぞとは決められないが、着物は正しく吉里が着て出た物に相違なかツ た。お熊は泣々箕輪の無縁寺に葬むり、小万はお梅を遺っては、七曰七日の香華を手向けさせた。
消息を断って二ヶ月後、腐爛死体となって上った吉里の最期は、楼で二枚目を張っていた女であるだけに、いっそう残酷である。惚れぬいた男とではなく、誰からも侮蔑されるような男と死ななければならなかったうえに、無惨な死骸をさらさなければならぬ心中の結末。しかしここでもさらに哀れなのは善吉である。一行もふれられてはいないが、読者は誰しも、善吉の運命を想像せずにはいられない。吉里以上にむごたらしく毀われた善吉の死骸が水中で魚の餌食となっているさまを、読者は容易に脳裡に描き出し、そこから残酷な衝撃を受けるのである。
吉里の死には目的があった。小万にあてや遺書に、その心はしっかりと書き残されている。平田への心中立て以外の何物でもない。吉里にとって、善吉は単なる道づれでしかなかった。善吉は吉里の内面に何ら関わることなく死ななければならなかったのである。
ともに死んだ女にさえ一顧の存在も認められていない善吉。
吉里には、その死を悲しみ、香華を手向けてくれる人々がいる。善吉はそのような人々ももたぬ。善吉の離縁した妻は、彼の死すら知らないであろう。
このように周囲のすべてから完全に無視され黙殺された善吉の、徹頭徹尾敗北しつづけるありようこそ、「今戸心中」を読者に強烈に印象づけ、異様なほどの重圧感を与える真の原因である。この作品の価値を保証するのは、主人公の吉里ではなく、脇役に終始する善吉の存在なのである。
柳浪のそれまでの作品が、人々に強い印象を与えながらも、その評価に今ひとつためらいがあったのは、その主人公のあまりに暗くて残酷な運命が正面から描かれることによって、読者を尻ごみさせる部分があったためである。「今戸心中」の成功は、真の主人公たる善吉を脇役に後退させ、哀れな娼妓吉里を前面に立てることによって読者の共感を呼びつつ、真の主人公を裏面から描ききったことにあった。主題の残酷さが吉里への同情によってほどよく中和され、残酷性と抒情性との渾然たる融和が、より広い読者に受け入れられることを可能にしたのである。
四
「今戸心中」における善吉の役割を右のように見てくると、作者柳浪にとって善吉なる人物は描くべき内的必然性があったのではないかと思われてくる。同時代評のなかでも特に詳細で適切な八面楼主人「柳浪子の『今戸心中』」(『国民の友』明二九・八)が善吉にふれて「髣髴として同作者の変目伝を想像す」と書いているように、善吉は「変目伝」「亀さん」などの主人公の血脈をひく、柳浪作品中の一典型なのである。とりわけ「変目伝」の主人公は善吉に近い。
洋酒の卸小売店、埼玉屋の主人伝吉は、老母に孝養をつくす商売熱心な男であるが、「身材(せい)いと低くして、且つ肢体(すべて)を小さく生れ付た」小男であり、しかも「左の後眥(めじり)より頬へ掛け、湯傷(やけど)の痕ひつゝりに」なっているため、変目伝と呼ばれ、人々から嘲笑されている。この伝吉が、薬種店仁寿堂の定二郎の甘言に欺かれて店主の妹娘、お浜に想いをかける。その結果、家産を破り殺人の罪を犯して絞罪になるという運命をたどるのだが、死にざまの違いはあれ、伝吉と善吉の設定は酷似している。
いったい何か彼らをしてそのような破局へと向わせるのであろうか。――それは彼ら自身の内部に湧き起った、衝動的な或る強い力である。笠原伸夫氏はこの力を前掲の『美と悪の伝統』のなかで「情念」としてとらえ、中世以降の芸能の流れを汲む「下層民の屈折した情念の行方」を柳浪作品に見出している。
久留米藩士を父にもち、みずからも大学予備門に学んだ柳浪が何故下層階級の人々を好んで作品にとりあげ、悲惨な物語を描いたかという問題はしばらく措くとして、この暗いエネルギーが、周辺の人々に虐げられ、弱者として生きつづけるうちに彼らの内部に欝積したものの噴出したものであることは明らかであろう。伝吉も善吉も一人前の男性として遇されることがなかった。けれども彼らもまたひとりの人間であり、他の人々と同じような夢や願望を抱く。そのねがいは、かなえられそうにないだけにいっそう切実であり、実現を妨げられることによってさらに異様にふくれあがる。彼がその重みに耐えきれなくなって行動を開始したとき、それは常軌を逸した性急なものとなり、破局はすぐさま訪れる。――
およそ情念とは、現実の悲惨さに傷つけられた者がおのれの内部で燃えたぎらせる暗い願望を意味する言葉だろう。その情念が外に向けて噴出したとき必ず招来する悲劇を、柳浪は社会の実相としてとらえ、それを表現したのである。
柳浪作品のもう一つの系譜――個人の生まれつきもっている悪の気質が周囲の者を破局に導くという主題をもつ「黒蜥蜒」「信濃屋」「雨」などの諸作も、同様の認識から来ていると思われる。ひとりの邪悪な人物によって支配され、不当な苦しみを味わなければならぬ人々の情念と破滅を、柳浪は冷徹に描ききっている。
このような柳浪作品の根底にあるのは、人間と社会についての、どうしようもなく暗い認識である。人間の生まれながらにもっている邪悪さ、弱さ、欲望といった諸要素を、柳浪は人間の本質ととらえる。そしてそれが或る一定の外的状況と重なると、屈折した情念となってその人を衝き動かし、それは必ずや破滅的な結末を招くという絶望的な認識を、柳浪はさまざまなヴァリエーションで作品に表現したのである。
人間は遺伝と環境によって支配されるとするゾラの自然主義理論がわが国で或る程度消化され、自覚された理論としてあらわれるのは、明治三十年代の中期である。しかし小杉天外も永井荷風も、それを理論として学んだのであって、みずからの人生体験で発見したのではなかった。柳浪は少なくとも七、八年は早く、ほぼ同様の結論をみずからの眼で確認し、しかも血肉化した思想として作品に描き出しているのである。
吉田精一氏は前記の書で「彼の描いた人間は、個性、性格をしばしば欠いてゐる」と述べている。四十年代以降の自然主義の諸作品と比較するとき、この評言はまことに正しい。
わが国における自然主義作品が、一平凡人の内面と社会との闘いを追求し、竹中時雄や瀬川丑松といった、それなりの典型を産みだしたことを思えば、柳浪の主人公たちがいささか類型的であることは否めない。特異な状況設定のもとで初めて彼らは生きはじめるからである。
けれども、この考えはあまりに近代的な見方に偏してはいないだろうか。個人や自我といった角度からのみ文学作品を眺めてはいけないだろう。個性や性格以前の、人間の本性といったものに目を向けるとき、柳浪作品はあらたな意味をもって浮び上ってくる。わが国の文学には、近代以前にも滔々たる流れがあり、そこでは人間のもつさまざまな要素がゆたかに追求され、新しい発見と美の造型が繰返されてきた。近世を例にとっても、浄璃瑠や歌舞伎など様式化された総合芸術のなかで、人間のもつ本能的な情念は十分に発掘され、高度な達成を示している。そしてこれらの遺産が近代文学に吸収され再生されたとき、近代文学の流れに豊饒な厚みを加えたことは、永井荷風、谷崎潤一郎らの例を見るまでもなく明らかである。
柳浪の作品もまた、近代的な個性のきわだった以前の、人間の本質と社会構造の悪とを本能的に嗅ぎ出しての世界であった。ここに描きだされた人間の動かしがたい本性は、今日ふたたび光を当てられるべき可能性を多分に有している。
「雲中語」が「河内屋」に寄せた評のように、「他人の書かむとも思はざるところ、他人の書かむと思ひても敢て書かざるところ」を凝視した柳浪の作品世界は、現代の文学が切り拓くべきあらたな領域をも示唆していると思われる。
森本 穫
一広津柳浪の作家としての頂点が明治二十年代末から三十年(初頭の数年間にあったことは、誰しも異論のないところであろう。吉田精一氏の「その文学的経歴は長いが、最も意義のある活動はやはり明治二十八年から三十一、二年の間に見られる。ことに三十年は彼が人気の絶頂にあつた年で、原稿料の収入も文壇随一(二千五百円)だつたといはれてゐる」(『自然主義の研究』上〈昭三〇・一一 東京堂〉第一章「広津柳浪の深刻小説」)という総括は、今日なお動かし難い。
同時代評をひもといてみても、森鴎外、島村抱月、高山樗牛、田岡嶺雲、八面楼主人(宮崎湖処子)といった当代の代表的な評家が、それぞれの有力な雑誌で柳浪作品に言及し、相競って論評を加えている。その一作々々が世人の注目を集め、文壇を聳動したのであり、この期はまさに柳浪の時代であったといっても過言ではない。
明治二十九年七月『文芸倶楽部』に発表された「今戸心中」は、このような柳浪評価を決定的にした作であり、たとえば同年十二月の『早稲田文学』は、『今戸心中』に声価俄にあがり、続いて『信濃屋』『河内屋』などの佳作を出だし、批評家の視線を一身に集めたるが如きものは、昨今の柳浪子なり、として、諸新聞雑誌にあらわれた柳浪評を褒貶あわせて十一編再録しているほどである。
これらの評のなかでも特に注目すべきなのは、鴎外が柳浪作品に対して異常なほどの関心を寄せている点である。『めさまし草』(明二九・七)における幸田露伴、斎藤緑雨との「三人冗語」には次のような讃辞さえ見られる。
ひいき。兎にも角にも筋よく通りて、渋滞せざる書振なるはありがたし。近ごろの似よりたる作より言へば、泥水清水と此 篇との差は、殆ど品川と芳原との差ありともいふべきか。
第二のひいき。さまざまの評も出でたれど、兎に角此篇を此一部の文芸倶楽部の圧巻として貰ひたし。善吉と吉里とを面白 き機会にて鉢合せしめて、それより珍しき情死に至らしめしは、通がり殿の説の如く、まことに妙と申すべし。
硯友社の産んだ代表作のひとつ、江見水蔭「泥水清水」も、「今戸心中」の前には品川と芳原の差があると極言されているのである。もちろん「三人冗語」の常として、苦言を呈している部分もあるのだが、「今戸心中」に費している紙幅は樋口一葉の「たけくらべ」をもわずかながら上廻り、断然他の作品を引き離している。
近代文学の流れを注視し方向づける役割を自覚していた鴎外によるこのような関心の深さは、この作品の完成度にのみ与えられたとは思えない。この作のもつ近代性、より大きな文学へと成長する可能性を、鴎外らが嗅ぎとっていたと考えられるのである。
しかしながら、現在、「今戸心中」を正面から本格的に考察した論考は皆無に近い状態である。柳浪自体、永井荷風を初め後代の多くの作家に強い影響を及ぼしていながら、特異な一作家として筆をとどめられるばかりで、研究史の上で取り残された現状である。はたして柳浪は文学史の波間に一瞬浮び上っただけの、忘れらるべき作家であるのだろうか。
「今戸心中」は自然主義以前の、真の近代性を欠いたあだ花に過ぎないのであろうか。
本稿は、「今戸心中」の実質に可能な限り接近し、併せて柳浪というひとりの作家の抱懐した文学世界のなかから、現代の文学につながる問題性、可能性を発掘しようとの意図をもつものである。そのための具体的な手だてとして、同時代評と、その後の若干の論考を踏まえつつ、作品に拠って私見を加えてゆく以外に方法はない。
さて、これまでの数少ない論考から、柳浪研究に二つの方向性が示唆されているように思われる。
そのひとつは、吉田精一氏の前掲の論文に代表される、近代文学確立までの一階梯としての柳浪の位置づけである。氏は、「彼の小説のレアリスム発展史上に於ける意義は、過渡期の近代社会に於ける半封建的な習俗、ことに家長権や家族制度の人間にあたへる拘束や、人情に背反する矛盾をとりあげ、それを、『悲惨』『深刻』なる小説として組みあげたことにある」とし、現実の悲惨な一面をむき出したことにおいて「写実の一進歩」と評価しつつも、「彼の描いた人間は、個性、性格をしばしば欠いてゐる」「彼は現実観察に鋭い眼をもちながら、それを批判的につかむ深さを欠き、結局平面的写実に終始した」として、作中人物の個性の欠如、作者の自覚の欠如を指摘し、要するに柳浪を、近代性をもつことのできなかった作家として位置づけている。
さらにこれに類するアプローチとして、『新著月刊』に連載した「作家苦心談」(のち、伊原青々園・後藤宙外編『唾玉集』〈明三九・九 春陽堂〉所収)などを手がかりとした、柳浪の写実論、言文一致体の考究も、有効な方法であろう。
柳浪のそれは小杉天外ら、西欧作家の影響による文学論ではなく、創作家としての自身の体験から産みだされたものであることによって、近代文学史上より大きな意義を有するはずである。伊狩章氏の、硯友社文学発掘の一連の研究における柳浪評価も、もちろん忘れてはならない。
これらの、いわば文学史的な観点から柳浪の位置を測定する方法に対して、今ひとつ、作品それ自体を究明することによって柳浪その人の内面を掘り起し、そこに新しい意味を発見しようとする方法もある。藤森順三氏の「広津柳浪研究」(『明治作家研究』上 昭七・一一 木星社)がその先鞭をつけたもので、柳浪の悲惨小説を「柳浪の本質の所産」として、柳浪の孤独や潔癖といった性癖に因をもとめようとする行き方である。笠原伸夫氏の、「情念」(『美と悪の伝統』昭四四・九 桜楓社)として柳浪作品を捉えようとする方法や、久保田芳太郎氏の「作家の肖像 広津柳浪」(『解釈と鑑賞』昭四七・八)に見られる、柳浪作品の共通項として「愛欲と血と死」を挙げ、そこに「かれ自身の、暗さあるいは暗い愛欲への嗜好と指向」を見る論点である。
もちろん、研究にはここに述べた両方の視点が必要なのであるが、わたしは主として後者の方法に拠りながら、「今戸心中」、さらには柳浪の実質に迫りたいと思う。
二
「今戸心中」の梗概を、今ここで詳しく紹介する必要はないだろう。吉原の娼妓吉里が馴染客平田の突然の帰郷で別れを余儀なくされ、悲嘆にくれる。そのとき初めて、自分に通いつめたために破産し、妻子とも別れた善吉という四十男の存在に気づき、情をかけ、ついには善吉と今戸橋から隅田河に身を投げるという物語である。
この作の評価が発表当時から現在まで一貫して高いことはすでに述べたが、それは特にどの点においてなのだろうか。
前記「三人冗語」では、「扨此小説の葛藤の中心ともいふべきは、平田に別れたる吉里の苦痛と、吉里に別れむとする善吉の苦痛と、端なくも相触れて、吉里の同感を惹き起す処に存ず。これはまことに面白き落想なり」(通がり)と記し、あるいは「六章より九章までは此篇の中にて最も主たるべきところならんが、特に八章は其中にも大切のところなるべし。されば作者も力瘤を入れられたるにや、冗漫の嫌は無きにあらずとおもはるゝながら、流石に読み行く中に少しく作者のため魅せらるゝ傾きさへ生ず」(老人)と述べている。すなわち、平田を想いつづげる吉里の心が善吉に傾く部分、換言すると吉里の心理描写に特色を認めているのである。
この見方は今日も変らず、たとえば花田チハヤ氏は「広津柳浪」(『学苑』一七七号 昭二九・一二、のち『近代文学研究叢書』第二九巻〈昭四三・一〇 昭和女子大学近代文化研究所〉所収)において、この作の特色・長所として「吉里の心理描写に生彩のある点」を第一に挙げ、これに加えて「会話の描写のたくみさ」と「吉原の空気を如実に描き上げている点」を評価しているし、伊狩章氏もその『硯友社と自然主義研究』(昭五〇・一 桜楓社)所収の「広津柳浪の深刻小説と『今戸心中』」において、「題材・趣向ともにさしたるところのないこの小説が、今なお鑑賞に堪え、読者の心を動かすものがあるのは、女主人公吉里の心理描写の点にある」として吉里の心が平田と善吉との間を行き来するくだりを称揚し、「よくこなされた言文一致と、会話の的確な運び」の効果、さらには「年末の吉原の情景、枝楼のふんい気」の巧みさ、わき役の人物にも破綻のない点を指摘し、「当時の短篇小説としては、ほぼ完璧に近いものがある」と結んでいる。
これらの評価、とりわけ吉里の心理の微妙な変化に「今戸心中」の真骨頂があるとする見方は、作者の意図が予期どおりの効果を作中で発揮していることを物語っている。柳浪は前掲の「作家苦心談」において次のように語っているのである。
『今戸心中』は殆ど事実を其の儘採ツたと云ツても宜しいので、女主人公吉里は名もその通りの色魁が吉原の中米楼に今よ り十二三年前にゐたのです。男の方は現に私の友人二ノ宮氏と昵懇の間柄で、某法律学校の生徒で随分の好男子であツた、是 れに吉里は大変に愡れてゐたのです。然るに此の男の国元で、何か事情あツて、是非帰らねばならぬことになツた。二人の情 交を知ツてゐる友人共は、今男が去れば、必ず女の方が無分別などするに違ひないと恐れたので、納得させて穏便に別かれさ するやうにと、現に私の友人二ノ宮氏が其の間に斡旋の労を執ツて、帰国間際までも遭はせにやツたりして、其所を程よく別 かれさせたのです。然るに吉里は以前ひどくふツてゐた古着屋某なるものと、彼の好男子と離別の後、二ケ月位の中に情死を 遂げたのです。此の心の変動が誰れにも分からなかツたさうです。私は此の疑問に対して聊か解釈を試みたいと思ツたので、 『今戸心中』をかいて見たのです。それで私の解釈では、自分が恋の絶望を経験して、古着屋が今まで恋の絶望の境界にゐた 其苦しみを覚り、始めて激烈に同情を表した結果だらうと思ひました。約めて云へば、絶望と絶望との間に成立てる同情の果 てが、心中となツたのか知らんと解釈をして見たのです。
柳浪は実際にあった事件に材を取り、当事者である女の「心の変動」の謎を解こうとして、ひとつの解釈を提出した。すなわち「絶望と絶望との間に成立てる同情の果て」が心中という結果を生んだとし、この解釈のもとに、女主人公吉里の心理変化を描出しようと苦心したのである。作者の想定した心理劇がそのとおりに読みとられたことにおいて、柳浪の会心の作といってもよいだろう。
しかしながら、「今戸心中」の成功は、はたしてその心理劇の成功にあるのだろうか。その心理劇の必ずしも完璧でないことは、すでに「三人冗語」において「風呂場にて衆口やかましく我が上を噂するをきゝたる吉里の心中は成程察するに余りはあれど、平田に別れ善吉にあひしより死に至るまでの間に、吉里の身を死の手に運ぶ車が、これ一つなるは物足らず」(わる口)と指摘されているように、吉里の死に至る心理の説明には、いささか納得しがたい部分も残されているのである。
にもかかわらず、この作の読後の印象は強烈であり、感銘も深く重い。それは何故なのだろうか。この作の実質は、作者の意図した吉里の「心の変動」にあるのではなく、もっと別のところに存するのではないだろうか。
三
この作品の主人公は吉里である。全十一章すべてに登場するし、第六章の前半を除けば作者はすべて吉里の挙措心理を中心に据えて描写を行っている。物語も、第一章から第五章までが吉里と平田の別離の次第を述べ、第六章で初めて、名代部屋で寒さにふるえていた善吉の内面が語られるが、それはこの章の終りでようやく吉里の座敷へ新造のお熊によって招じ入れられるまでの経緯としてであり、第七章は、同じ部屋にいながら善吉は全く無視されて吉里は依然平田のことばかり考えている。第八章で初めて善吉は吉里と対等に登場するが、以後ふたたび吉里を中心に物語は進み、善吉は単に、吉里のあやつり人形のようにその後をついてゆくに過ぎない。
善吉に関する記述も最少限にとどめられ、善吉は吉里の内面に何ら関与することなく、その死出の旅のお供をするに過ぎない。吉里が最後に小万に残した遺書でも、善吉は全くふれられることなく、今更ながら吉里の心を占めつづける平田の大きさばかりが読者に印象づけられるのである。吉里の「心の変動」が作品の中心テーマであることに疑いはない。
しかしながら、この作品が読者に感動を与えるのは、恋人に去られてどうでもよい男と死ななければならぬ吉里の哀れさなのだろうか。それならば「今戸心中」は、変った趣向をもつだけの、当時としてさほど珍しくなかった遊女の心中譚として、もはや文学史の波間に沈んだとしても不思議はなかった。発表当時よく比較された、「泥水清水」と同じ運命をたどったに相違ない。
実は「今戸心中」の価値を保証するのは、吉里にあるのではなく、徹頭徹尾作中で無視され、脇役でありつづける善吉の存在ではないだろうか。なるほど吉里の心理はよく描かれている。その哀れさも無惨な運命もよく読者に伝わる。後半の、吉里の思いがけない心理変化も、前半の丹念な描写によって、それなりの説得性をもっている。しかし「三人冗語」で「始より終まで泣くとかふさぐとか頻りに作者が涙寧ろ涙といふ字を振こぼすにも拘らず、何等の感じをもとどめざるは、もとより(注・近松門左衛門と)比ぶるが無理ながら、作者たるものゝ、一案じあるべき所なりと信ず」(小説通)と批判されても仕方がないような、常套の哀れさにとどまっているのである。
吉里の哀れさが初めて意味をもつのは、善吉の哀れさと重ね合されることによってなのであり、しかも吉里の哀れさは善吉のそれに遠く及ばないのである。「今戸心中」の名作たることを決定づけているのは、吉里の影に隠れて、脇役に終始する善吉の、あまりにも報われることのない残酷な運命なのである。
作者柳浪の自覚した意図はともあれ、作中で善吉は実に巧みに描かれている。
第一章では、平田との別れが迫って荒れている吉里に対して、新造のお熊が『善さんだツてお客様ですよ』と、顔だけでも見せてくれと再三頼む。癇癪を起す吉里を朋輩の小万が慰める場面――。
『今晩もかい。能く来るぢやアないか。』と、小万は小声で云ッて眉を皺(よ)せた。『察してお呉れよ。』と、吉里は 戦慄(みぶるひ)しながら火鉢の前に蹲踞んだ。
娼妓(おいらん)に嫌われながらも、せっせと、しつこく通いつめる厭なお客としでの善吉がまず軽く登場する。
第二章では、この淡い印象が具体的なものとなってくる。
小万と吉里の、それぞれの言葉――。
『余(あん)まり放擲(うつちや)ッといちやア不可いよ。善さんも気の毒な人さ。此様(こんな)に冷遇(され)ても厭 な顔も為ないで、毎晩の様に来てお出でなんだから、怒らせない位にや 為てお遺よ。』
『本統に善さんにや気の毒だとは思ふけれど、顔を見るのも可厭(いや)なんだもの。信切な人ではあるし……。信切に される程厭になるんだもの。』
ここで善吉は、厭な客といっても、その強引さによって嫌われるタイプの男ではなく、娼妓たちにさえ見くびられている、みじめな男として印象づけられる。
第三章と第四章は、平田の友人西宮に吉里が平田への思いと未練を訴える場面であるが、その座敷を覗き見ては名代部屋に逃げ帰る、どぶ鼠のような善吉が描かれる。みじめなうえに、弱者特有の不快さ、気味悪さに似た厭な側面が強調される。第五章も、ほぼ同様である。
第六章に至って、舞台は一転して名代部屋に移され、これまで影のように寸描されてきた善吉が、初めて正面から描かれる。「万客の垢を宿(とど)めて、夏でさへ冷(ひや)つく名代(みやうだい)部屋」の冬の夜の寒さに加えて破れ障子から吹き込む夜風にふるえる、富沢町の古着屋美濃屋善吉の輪郭――。
年は四十ばかりで、軽からぬ痘痕(いも)があツて、囗つき鼻つきは尋常であるが、左の眼蓋(まぶた)に眼張(めつ ぱ)の様な疵があり、見た所の下品(やすい)小柄の男である。
醜い容貌に加え「見た所の下品小柄の男」であることによって、善吉は吉原ばかりでなく多分どの世界においても人々から軽んぜられ見下される種類の男であることがわかる。その善吉の、この場面に至る経緯を、作者は次のように説明する。
善吉が吉里の許に通初めたのは一年ばかり前、丁度平田が来初めた頃の事である。吉里は兎角善吉を冷遇し、終宵(いち や)全たく顔を見せない時が多かツた位だツた。其にも構はず善吉は毎晩の様に通透して、此十月頃から別して足が繁くなり、 今月になツてからは毎晩来て居たのである。
この常軌を逸した執着ぶり。ほとんど狂気に近い善吉の熱意は、実は吉里の冷淡さによっていっそう助長されてきたものであろう。なぜなら、情熱とは困難が加わるにつれてますます燃え上り、人を駆り立てる不思議な力であるからだ。善吉の情熱は吉里の冷遇によって度を加え、遂には理性を失わせて毎晩ここへ通わせることとなった。その結果、『今夜限りだ。もう来られないのだ。明日は如何なるんだか、まア分ツてる様でも……。自分ながら分らないんだ。あゝ……。』という極限状況を招来しているのである。
このような状況にある善吉の心根で興味深いのは、自分をここまで追いこんだ吉里に対する恨みがましい気持が微塵もない点てある。平田に対する嫉妬も敵意も感じてさえいない。
ひとりの男として、対等に眼前の現実に向いあおうとする覇気、自分を貫こうとする意志を、初めから持ち合せてはいないのである。『(平田が帰って)座敷が明いたら入れて呉れるか知らん。(中略)鳥渡でも一処に寝て、今夜限り来ない事を一言(ひとこと)断りや好いんだ。』と、徹頭徹尾、弱者の心理に支配されているのである。このみじめな、みずから状況を打開する力も意志もない弱い男の裡で、このとき絶望的な悔恨が頭をもたげる。
『あゝツ、お干代に済まないなア。何と思ツてるだらう。横浜に行ツてる事と思ツてるだらうなア。すき好んで名代部屋に 戦へてるたア知らなからう。嘸(さ)ぞ恨んでるだらうなア。店も失した、お干代も生家(さと)へ返して了ツた
――可哀想にお千代は生家へ返して了ッたんだ。乃公(おれ)は酷い奴だ――酷い奴なんだ。アゝ乃公は意気地がない。』
みずからの愚かな執着のために、「些たア人にも知られた店」を失い、何の罪もない女房まで離別してしまった。しかもその執着は何ら報われるところがないのである。
作者柳浪の筆は、善吉の人物像を描くにあたって生き生きと生彩を放っている。どこまでも意気地のない善吉の絶望的な姿が、完璧といってよいほど見事に描き出されているのである。
この善吉の絶望が十分に描かれたうえで、初めて吉里の絶望が意味をもってくる。第七章で、上野発の一番汽車の汽笛を茫然と聞いて平田の去ったことを実感した吉里は、うわのそらで座敷に帰る。そして第八、九章で、劇的な「心の変動」を遂げるのである。
確かに、ふたりそれぞれの絶望があってこの作の核心が形成されているのであり、その限りで「絶望と絶望との間」にこの作が成立していることに違いはない。しかしそれは、吉里の絶望があって善吉のそれが重ねられているのではなく、善吉の絶望に吉里のそれが重ねられているのである。柳浪の意図はどうであれ、作品を亭受する読者の側からいえば、善吉という弱者のどうしようもない絶望が強く刻まれたところに吉里の絶望が重ねられて初めて、遊女のありふれた失恋が個性的な相貌を呈してくるのである。
ところで、この作の読後が強い印象で残るのは、終章の残酷な切れ味によるところも大きい。
けれども、死骸は容易く見当らなかツた。翌年の一月末、永代橋の上流に女の死骸が流着いたとある新聞紙の記事に、お熊 が念の為めに見定めに行くと、顔は腐爛(くさ)つて其ぞとは決められないが、着物は正しく吉里が着て出た物に相違なかツ た。お熊は泣々箕輪の無縁寺に葬むり、小万はお梅を遺っては、七曰七日の香華を手向けさせた。
消息を断って二ヶ月後、腐爛死体となって上った吉里の最期は、楼で二枚目を張っていた女であるだけに、いっそう残酷である。惚れぬいた男とではなく、誰からも侮蔑されるような男と死ななければならなかったうえに、無惨な死骸をさらさなければならぬ心中の結末。しかしここでもさらに哀れなのは善吉である。一行もふれられてはいないが、読者は誰しも、善吉の運命を想像せずにはいられない。吉里以上にむごたらしく毀われた善吉の死骸が水中で魚の餌食となっているさまを、読者は容易に脳裡に描き出し、そこから残酷な衝撃を受けるのである。
吉里の死には目的があった。小万にあてや遺書に、その心はしっかりと書き残されている。平田への心中立て以外の何物でもない。吉里にとって、善吉は単なる道づれでしかなかった。善吉は吉里の内面に何ら関わることなく死ななければならなかったのである。
ともに死んだ女にさえ一顧の存在も認められていない善吉。
吉里には、その死を悲しみ、香華を手向けてくれる人々がいる。善吉はそのような人々ももたぬ。善吉の離縁した妻は、彼の死すら知らないであろう。
このように周囲のすべてから完全に無視され黙殺された善吉の、徹頭徹尾敗北しつづけるありようこそ、「今戸心中」を読者に強烈に印象づけ、異様なほどの重圧感を与える真の原因である。この作品の価値を保証するのは、主人公の吉里ではなく、脇役に終始する善吉の存在なのである。
柳浪のそれまでの作品が、人々に強い印象を与えながらも、その評価に今ひとつためらいがあったのは、その主人公のあまりに暗くて残酷な運命が正面から描かれることによって、読者を尻ごみさせる部分があったためである。「今戸心中」の成功は、真の主人公たる善吉を脇役に後退させ、哀れな娼妓吉里を前面に立てることによって読者の共感を呼びつつ、真の主人公を裏面から描ききったことにあった。主題の残酷さが吉里への同情によってほどよく中和され、残酷性と抒情性との渾然たる融和が、より広い読者に受け入れられることを可能にしたのである。
四
「今戸心中」における善吉の役割を右のように見てくると、作者柳浪にとって善吉なる人物は描くべき内的必然性があったのではないかと思われてくる。同時代評のなかでも特に詳細で適切な八面楼主人「柳浪子の『今戸心中』」(『国民の友』明二九・八)が善吉にふれて「髣髴として同作者の変目伝を想像す」と書いているように、善吉は「変目伝」「亀さん」などの主人公の血脈をひく、柳浪作品中の一典型なのである。とりわけ「変目伝」の主人公は善吉に近い。
洋酒の卸小売店、埼玉屋の主人伝吉は、老母に孝養をつくす商売熱心な男であるが、「身材(せい)いと低くして、且つ肢体(すべて)を小さく生れ付た」小男であり、しかも「左の後眥(めじり)より頬へ掛け、湯傷(やけど)の痕ひつゝりに」なっているため、変目伝と呼ばれ、人々から嘲笑されている。この伝吉が、薬種店仁寿堂の定二郎の甘言に欺かれて店主の妹娘、お浜に想いをかける。その結果、家産を破り殺人の罪を犯して絞罪になるという運命をたどるのだが、死にざまの違いはあれ、伝吉と善吉の設定は酷似している。
いったい何か彼らをしてそのような破局へと向わせるのであろうか。――それは彼ら自身の内部に湧き起った、衝動的な或る強い力である。笠原伸夫氏はこの力を前掲の『美と悪の伝統』のなかで「情念」としてとらえ、中世以降の芸能の流れを汲む「下層民の屈折した情念の行方」を柳浪作品に見出している。
久留米藩士を父にもち、みずからも大学予備門に学んだ柳浪が何故下層階級の人々を好んで作品にとりあげ、悲惨な物語を描いたかという問題はしばらく措くとして、この暗いエネルギーが、周辺の人々に虐げられ、弱者として生きつづけるうちに彼らの内部に欝積したものの噴出したものであることは明らかであろう。伝吉も善吉も一人前の男性として遇されることがなかった。けれども彼らもまたひとりの人間であり、他の人々と同じような夢や願望を抱く。そのねがいは、かなえられそうにないだけにいっそう切実であり、実現を妨げられることによってさらに異様にふくれあがる。彼がその重みに耐えきれなくなって行動を開始したとき、それは常軌を逸した性急なものとなり、破局はすぐさま訪れる。――
およそ情念とは、現実の悲惨さに傷つけられた者がおのれの内部で燃えたぎらせる暗い願望を意味する言葉だろう。その情念が外に向けて噴出したとき必ず招来する悲劇を、柳浪は社会の実相としてとらえ、それを表現したのである。
柳浪作品のもう一つの系譜――個人の生まれつきもっている悪の気質が周囲の者を破局に導くという主題をもつ「黒蜥蜒」「信濃屋」「雨」などの諸作も、同様の認識から来ていると思われる。ひとりの邪悪な人物によって支配され、不当な苦しみを味わなければならぬ人々の情念と破滅を、柳浪は冷徹に描ききっている。
このような柳浪作品の根底にあるのは、人間と社会についての、どうしようもなく暗い認識である。人間の生まれながらにもっている邪悪さ、弱さ、欲望といった諸要素を、柳浪は人間の本質ととらえる。そしてそれが或る一定の外的状況と重なると、屈折した情念となってその人を衝き動かし、それは必ずや破滅的な結末を招くという絶望的な認識を、柳浪はさまざまなヴァリエーションで作品に表現したのである。
人間は遺伝と環境によって支配されるとするゾラの自然主義理論がわが国で或る程度消化され、自覚された理論としてあらわれるのは、明治三十年代の中期である。しかし小杉天外も永井荷風も、それを理論として学んだのであって、みずからの人生体験で発見したのではなかった。柳浪は少なくとも七、八年は早く、ほぼ同様の結論をみずからの眼で確認し、しかも血肉化した思想として作品に描き出しているのである。
吉田精一氏は前記の書で「彼の描いた人間は、個性、性格をしばしば欠いてゐる」と述べている。四十年代以降の自然主義の諸作品と比較するとき、この評言はまことに正しい。
わが国における自然主義作品が、一平凡人の内面と社会との闘いを追求し、竹中時雄や瀬川丑松といった、それなりの典型を産みだしたことを思えば、柳浪の主人公たちがいささか類型的であることは否めない。特異な状況設定のもとで初めて彼らは生きはじめるからである。
けれども、この考えはあまりに近代的な見方に偏してはいないだろうか。個人や自我といった角度からのみ文学作品を眺めてはいけないだろう。個性や性格以前の、人間の本性といったものに目を向けるとき、柳浪作品はあらたな意味をもって浮び上ってくる。わが国の文学には、近代以前にも滔々たる流れがあり、そこでは人間のもつさまざまな要素がゆたかに追求され、新しい発見と美の造型が繰返されてきた。近世を例にとっても、浄璃瑠や歌舞伎など様式化された総合芸術のなかで、人間のもつ本能的な情念は十分に発掘され、高度な達成を示している。そしてこれらの遺産が近代文学に吸収され再生されたとき、近代文学の流れに豊饒な厚みを加えたことは、永井荷風、谷崎潤一郎らの例を見るまでもなく明らかである。
柳浪の作品もまた、近代的な個性のきわだった以前の、人間の本質と社会構造の悪とを本能的に嗅ぎ出しての世界であった。ここに描きだされた人間の動かしがたい本性は、今日ふたたび光を当てられるべき可能性を多分に有している。
「雲中語」が「河内屋」に寄せた評のように、「他人の書かむとも思はざるところ、他人の書かむと思ひても敢て書かざるところ」を凝視した柳浪の作品世界は、現代の文学が切り拓くべきあらたな領域をも示唆していると思われる。
『定本広津柳浪作品集 別巻』(昭和五十七年十二月二十五日発行 冬夏書房)
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