魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

戦時下の川端康成 その7

2014-11-24 23:22:34 | 論文 川端康成
戦時下の川端康成 その7

第4節 源氏物語湖月抄(こげつしょう)との邂逅(かいこう)

湖月抄を読む


 このような時期に、康成は北村季吟(きぎん)の湖月抄を読みはじめた。

 ここで、ちょっと説明しておこう。北村季吟の湖月抄とは、江戸時代に刊行された、源氏物語の本文と注釈を両方載せた和本のことである。
 1巻が1冊ずつになっており、源氏物語の本文が大きく印刷され、その上に頭注、また本文のところどころに傍注がほどこされていて、素人(しろうと)でも、注釈を頼りに、源氏物語を読み進めるように工夫された本のことである。
 江戸時代を通じてロングセラーとなり、川端康成も、これを買い求めて、読み進めたのである。

 戦後になって書かれた「哀愁」(『社会』、1947・10・1)の一節はあまりに有名だが、この一節を抜きにしては、戦時下の康成を語ることはできない。少し長く引用する。

   戦争中に私は東京へ往復の電車と燈火管制の寝床とで昔の「湖月抄本源氏物語」を読んだ。暗い燈や揺れる車で小さい活字を読むのは目に悪いから思ひついた。またいささか時勢に反抗する皮肉もまじつてゐた。横須賀線も次第に戦時色が強まつて来るなかで、王朝の恋物語を古い木版本で読んでゐるのはをかしいが、私の時代錯誤に気づく乗客はないやうだつた。途中万一空襲で怪我をしたら丈夫な日本紙は傷おさへに役立つかと戯れ考へてみたりもした。

   かうして私が長物語のほぼ22、23帖(じょう)まで読みすすんだころで、日本は降伏した。「源氏」の妙な読み方をしたことは、しかし私に深い印象を残した。電車のなかでときどき「源氏」に恍惚と陶酔してゐる自分に気がついて私は驚いたものである。もう戦災者や疎開者が荷物を持ち込むやうになつてをり、空襲に怯(おび)えながら焦(こ)げ臭い焼跡を不規則に動いてゐる、そんな電車と自分との不調和だけでも驚くに価ひしたが、千年前の文学と自分との調和により多く驚いたのだつた。


仮名書きの木版本(もくはんぼん)

   私は割と早く中学生のころから「源氏」を読みかじり、それが影響を残したと考へてゐるし、後にも読み散らす折はあつたが、今度のやうに没入し、また親近したことはなかつた。昔の仮名書きの木版本のせゐであらうかと思つてみた。ためしに小さい活字本と読みくらべてみると、確かにずゐぶんと味がちがつてゐた。また戦争のせゐもあつただらう。
   しかし私はもつと直接に「源氏」と私との同じ心の流れにただよひ、そこに一切を忘れたのであつた。私は日本を思ひ、自らを覚つた。あのやうな電車のなかで和本をひろげてゐるといふ、いくらかきざでいやみでもある私の振舞ひは、思ひがけない結果を招いた。

   そのころ私は異境にある軍人(注 戦場に出ている兵士たち)から逆に慰問の手紙を受け取ることが少くなかつた。未知の人もあつたが、文面は大方同じで、その人達は偶然私の作品を読み、郷愁にとらへられ、私に感謝と好意とを伝へて来たものであつた。私の作品は日本を思はせるらしいのである。そのやうな郷愁も私は「源氏物語」に感じたのだつたらう。

 37巻本『川端康成全集』の補巻1(1984・4・20)には、「昭和19年・昭和20年 自由日記」が掲載されている。
 1944年6月15日から始まっているが、それによると、6月20日に源氏物語をすでに読みすすんでいることが記されている。

   6月20日 小説部幹事会。午後2時より。幹事長横光出席なし。忘れたのだらう。(中略)往復の車中湖月鈔(ママ)「須磨」読む。

 小説部幹事会というのは、文学報国会の会合であろうか。幹事長の横光が忘れるくらいだから、気乗りのしない会合だったのであろう。が、そのあと、湖月抄で「須磨」を読んだと明記しているのである。

 「須磨」の巻は、全54巻のうち第12巻にあたるところで、このとき康成が、全体の4分の1近くまで読み進んでいることがわかる。
 須磨の巻は、朧月夜(おぼろづきよ)との密会が露見して窮地に立たされた光源氏が、これ以上危難に追い込まれるのを避けるため、京を去って、摂津(せっつ)の西端、須磨に退去する決意をし、流離の日々がはじまる巻である。

 1944(昭和19)年の6月20日にこの巻を読んでいるということは、その1年ほど前から源氏物語を読みはじめていることを示している。
 初めの方はある程度なじんでいたとしても、俗に「須磨源氏」という言葉があるように、12巻目まで読みすすむのは、並大抵のことではない。源氏物語の文章は、難解で、読みすすむのに、相当な時間を要するのである。
 それを考えると、この前年1943(昭和18)年の、遅くとも秋ごろには、康成は源氏物語を読みはじめていただろう。「東海道」の連載が中断した9月末ごろに、読みはじめたのではあるまいか。
 また、1945(昭和20)年の正月11日には、

   上京車中、湖月抄、まつかぜより、うすぐも読む。このあたり左程(さほど)面白くなし。

と記されている。

 松風は、第18巻、薄雲(うすぐも)は第19巻である。
 さて、須磨で大暴風雨に襲われ、夢のなかで父・故桐壺院に須磨退去をすすめられた源氏は、難波の住吉明神を深く信仰する明石入道から舟を差し向けられて、隣りの浦、播磨(はりま)の明石に移る。そこで明石入道の娘・明石の君と結ばれた源氏は、京で天変地異がつづいたこともあって、兄朱雀帝(すざくてい)の意志によって京に召還(しょうかん)される。
 およそ2年半にわたる、須磨・明石の流謫(るたく)生活であった。
 源氏は、まず内大臣となって政界の中心に復帰し、やがて明石の君との間に生まれた姫君を、将来の后(きさき)がね(お后候補)として京に迎えようとする。

 松風の巻は、明石の君と姫君、尼君が入道と別れて明石を去り、京の郊外の、大堰川(おおいがわ)のほとりに居を定めるあたりである。
 薄雲は、源氏の思慕してやまなかった藤壺の薨去(こうきょ)を描いた巻である。が、康成が書いているとおり、叙述がやや平板になっているきらいがある。
 6ヶ月前の6月20日に須磨の巻を読んでいた康成は、その後、6ヶ月で6、7巻、読み進んでいることになる。およそ1ヶ月に1巻の割合である。


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