川端康成「英霊の遺文」1(『魔界の住人』より)
川端康成下「英霊の遺文」 その1
『魔界の住人川端康成―その生涯と文学』(上)勉誠出版、2014年8月30日刊行より
遺文集感想の依頼
昭和17年(1942年)の11月末、川端康成は『東京新聞』文化部の記者、尾崎宏次の訪問を受けた。戦没兵士の遺文集を読んで、感想を書いてほしいという依頼だった。
太平洋戦争が始まって、1年がたとうとしていた。
康成は困ったようであったが、とにかく引き受けた。
尾崎が持ってきたのは、7冊の遺文集だった。このうち5冊が私家版で、上野の図書館から借りてきたものである。その後、康成の文章が新聞紙上に出ると、遺族から直接送られてきたものもあった。
しかし、この種の文章を書いて発表することは、下手をすると、死者へのつつしみを失う恐れがある。康成がいちばん恐れたのも、そのようなことであろう。
「英霊の遺文」(えいれいのいぶん)という題名は、康成の命名と思われる。その冒頭は、次のように始まっている。
戦死者の遺文集を読みながら、私は12月8日を迎へる。新聞社から頼まれてのことだが、自分としても、この記念日にふさはしいことだと思ふ。しかし、これらの遺文について、あわただしい感想を書かねばならぬのは、英霊に対する黙禱のつつしみも失ふやうで心静かではない。ただ、強顔がゆるされるならば、かういふ遺文集があることを、人々に伝へるだけでも、ともかく私の文章の意味はあらうか。
つづいて、遺族の思いに心をうたれたのであろう、次のような例が挙げられている。
戦死者の遺文は、帰還将士の戦記にくらべて、読む者の心にも、おのづから別なものがある。例へば、花岡良輔大尉の遺文集「染雲」は、表紙の装幀に、木綿の白絣(しろがすり)を使つてあるが、それは大尉が生前身につけてゐた着物であつた。少年らしく、あらい白絣である。遺文集にはみな、この白絣を見るやうに、胸にしみるものがある。遺文集の多くは、家族や友人の追慕礼拝によつて、編纂され、刊行されてゐる。
戦死した大尉が少年時代に身につけていた白絣を表紙とした遺文集――遺族の、大尉に寄せる至純の愛情がにじんでいるではないか。
悲しみの彼岸
戦死や戦傷病を、私達作家はみだりに書くべきではない。悲みの深淵を貫ぬいて、悲みの彼岸に達するのでなければ、妄誕(もうたん)であらう。先夜、私は大瀧清雄中尉の「黄塵抄」を読んだが、「嘗て我と共に戦ひ、生命を逝かしめ、或ひは傷つきし戦友並びにその遺族に捧ぐ」といふ、この戦陣詩集は、まことに献辞を辱めぬ、高篇であつた。
「渡邊直巳歌集」にも、
軍刀を伺つきしまま絶命せりと聞くより遺族は涙たりたり
隊長の死屍を焼かむと八里の野を兵は薪を取りて帰りぬ
殪(たふ)れたる戦友の爪を切りとりて秋草と共に送りけるかも
(以下略)
などの遺歌がある。棚橋大尉の「散華」にも、
戦死者の妻の手紙はつきにけりこまごまとして書かれあるものを
隊長は撃たれしと告ぐる聲きこゆ息のみて陣に人聲とだゆ
たたかひに死にたる人のものがたり焚火かこみて尽くることなし
などの遺歌がある。戦友の戦死者についての文章ほど、その英霊を慰め、遺族を励ます文字はあるまい、遺骸を抱き、遺骨を首にかけて進軍する、戦友の悲壮な愛情は、この戦争の文学を貫くべきである。
「英霊の遺文」は、作者の深い感銘を反映して、高い精神性を帯びている。この年の文章を、康成は戦死者の妻の手紙を引用して結ぶ。
戦死者の妻
……萩子はかへりみますれば、御一緒に生活いたしました五年間、正味四年半ですね、本当に本当に幸福でした。本当に私も之以上の幸福はもつたいない様です。……若(も)し萩子は坊やと二人のこりましたら、今までの楽しかつた生活を思ひ出しては満足して坊やの世話を致します。本当に短い間と申すか、長い間と申すか、萩子は幸福で仕合せでした。若し幸ひ御無事お帰りが出来ましたら萩子は命がけで、今までの御恩報じにお尽ししようと、楽しみにいたしてゐます。
天皇陛下萬歳 棚橋少尉
日本帝国萬々歳」
このやうな手紙を、棚橋大尉は肌身につけて、
わが進むうしろにありて妻子らのをがみてあるをつゆも忘れ
と歌つた。
何と美しい妻の心であろう。そしてこの手紙を肌身につけて棚橋大尉は戦死しているのである。
これらの原稿を受け取った「東京新聞」の記者・頼尊(よりたか)清隆は、『戦中戦後の作家たち―ある文芸記者の回想』(冬樹社、1981・6・5)に、「これらの遺文を読んでいるときの、川端さんの目には涙がにじんでいたのではないだろうか」と書いている。また、次のようにも述べる。
ときには、間もなく出来るから、というので座敷に上がって待っていると、やがて原稿を持って出て来た川端さんの目は、真っ赤に充血していることがあった。
これら戦死者の手記は川端さんの心を打つものがあり、夜どおし遺文集を読みながら、これらたちの、自ら選んだのではない生と死の運命の姿に、川端さんは思いをひそめていられたのだろう。
昭和18年12月の「英霊の遺文」
翌年の昭和18年(1943年)12月にも、康成は依頼されて「英霊の遺文」を書いた。遺文集は15冊に増えていた。
少年飛行兵、星野浩一兵曹は出征に際して、叔父にこう言った。叔父は、追悼録に、少年の言葉をほとんどそのま、詩のような形に写し取った。
叔父さん、
戦闘闘機に乗る僕が死ぬのは、
唯三つの場合だけだよ。
戦闘中僕の頭か心臓か致命的な個所を、
敵弾にやられた場合。
次は、戦闘中敵の飛行機に僕の飛行機を、
ぶつつけて行つた場合。
もう一つは、敵の軍艦なり地上の目的物なりに、
突込んで自爆した場合。
これだけだよ。(中略)
叔父さん、
僕が戦死したと聞いたら、
必ずこの3つの場合のどれかだつたと、
信じて下さいよ。
この星野兵曹は第3次ソロモン海戦で戦死したが、母や姉の追悼記によると、幼い時は臆病な子だった。尋常5年の頃まで、夜は二階に一人で寝られなかったし、階段の上に人形を置くと二階へよう上らなかつた。ただ、読書に寝食を忘れるような子であった。
少年飛行兵採用の学科試験の2日目は、前夜から鼻血を出し、それでも合格し。試験の最中にも血を吐いた、前夜から鼻血を出し、試験の最中にも血を吐いた。それでも合格し、烈しい訓練を、「どんなに苦しくても、先輩が今までそれをやり遂げてゐる以上、私達にも出来ないことはないと思ひます」と言い、「ただ三つの場合」の決意どおりに戦死した。
『『魔界の住人 川端康成─その生涯と文学』(上巻)勉誠出版(2014.08.30)より
『魔界の住人川端康成――その生涯と文学』勉誠出版、2014年8月30日刊行より
川端康成下「英霊の遺文」 その1
『魔界の住人川端康成―その生涯と文学』(上)勉誠出版、2014年8月30日刊行より
遺文集感想の依頼
昭和17年(1942年)の11月末、川端康成は『東京新聞』文化部の記者、尾崎宏次の訪問を受けた。戦没兵士の遺文集を読んで、感想を書いてほしいという依頼だった。
太平洋戦争が始まって、1年がたとうとしていた。
康成は困ったようであったが、とにかく引き受けた。
尾崎が持ってきたのは、7冊の遺文集だった。このうち5冊が私家版で、上野の図書館から借りてきたものである。その後、康成の文章が新聞紙上に出ると、遺族から直接送られてきたものもあった。
しかし、この種の文章を書いて発表することは、下手をすると、死者へのつつしみを失う恐れがある。康成がいちばん恐れたのも、そのようなことであろう。
「英霊の遺文」(えいれいのいぶん)という題名は、康成の命名と思われる。その冒頭は、次のように始まっている。
戦死者の遺文集を読みながら、私は12月8日を迎へる。新聞社から頼まれてのことだが、自分としても、この記念日にふさはしいことだと思ふ。しかし、これらの遺文について、あわただしい感想を書かねばならぬのは、英霊に対する黙禱のつつしみも失ふやうで心静かではない。ただ、強顔がゆるされるならば、かういふ遺文集があることを、人々に伝へるだけでも、ともかく私の文章の意味はあらうか。
つづいて、遺族の思いに心をうたれたのであろう、次のような例が挙げられている。
戦死者の遺文は、帰還将士の戦記にくらべて、読む者の心にも、おのづから別なものがある。例へば、花岡良輔大尉の遺文集「染雲」は、表紙の装幀に、木綿の白絣(しろがすり)を使つてあるが、それは大尉が生前身につけてゐた着物であつた。少年らしく、あらい白絣である。遺文集にはみな、この白絣を見るやうに、胸にしみるものがある。遺文集の多くは、家族や友人の追慕礼拝によつて、編纂され、刊行されてゐる。
戦死した大尉が少年時代に身につけていた白絣を表紙とした遺文集――遺族の、大尉に寄せる至純の愛情がにじんでいるではないか。
悲しみの彼岸
戦死や戦傷病を、私達作家はみだりに書くべきではない。悲みの深淵を貫ぬいて、悲みの彼岸に達するのでなければ、妄誕(もうたん)であらう。先夜、私は大瀧清雄中尉の「黄塵抄」を読んだが、「嘗て我と共に戦ひ、生命を逝かしめ、或ひは傷つきし戦友並びにその遺族に捧ぐ」といふ、この戦陣詩集は、まことに献辞を辱めぬ、高篇であつた。
「渡邊直巳歌集」にも、
軍刀を伺つきしまま絶命せりと聞くより遺族は涙たりたり
隊長の死屍を焼かむと八里の野を兵は薪を取りて帰りぬ
殪(たふ)れたる戦友の爪を切りとりて秋草と共に送りけるかも
(以下略)
などの遺歌がある。棚橋大尉の「散華」にも、
戦死者の妻の手紙はつきにけりこまごまとして書かれあるものを
隊長は撃たれしと告ぐる聲きこゆ息のみて陣に人聲とだゆ
たたかひに死にたる人のものがたり焚火かこみて尽くることなし
などの遺歌がある。戦友の戦死者についての文章ほど、その英霊を慰め、遺族を励ます文字はあるまい、遺骸を抱き、遺骨を首にかけて進軍する、戦友の悲壮な愛情は、この戦争の文学を貫くべきである。
「英霊の遺文」は、作者の深い感銘を反映して、高い精神性を帯びている。この年の文章を、康成は戦死者の妻の手紙を引用して結ぶ。
戦死者の妻
……萩子はかへりみますれば、御一緒に生活いたしました五年間、正味四年半ですね、本当に本当に幸福でした。本当に私も之以上の幸福はもつたいない様です。……若(も)し萩子は坊やと二人のこりましたら、今までの楽しかつた生活を思ひ出しては満足して坊やの世話を致します。本当に短い間と申すか、長い間と申すか、萩子は幸福で仕合せでした。若し幸ひ御無事お帰りが出来ましたら萩子は命がけで、今までの御恩報じにお尽ししようと、楽しみにいたしてゐます。
天皇陛下萬歳 棚橋少尉
日本帝国萬々歳」
このやうな手紙を、棚橋大尉は肌身につけて、
わが進むうしろにありて妻子らのをがみてあるをつゆも忘れ
と歌つた。
何と美しい妻の心であろう。そしてこの手紙を肌身につけて棚橋大尉は戦死しているのである。
これらの原稿を受け取った「東京新聞」の記者・頼尊(よりたか)清隆は、『戦中戦後の作家たち―ある文芸記者の回想』(冬樹社、1981・6・5)に、「これらの遺文を読んでいるときの、川端さんの目には涙がにじんでいたのではないだろうか」と書いている。また、次のようにも述べる。
ときには、間もなく出来るから、というので座敷に上がって待っていると、やがて原稿を持って出て来た川端さんの目は、真っ赤に充血していることがあった。
これら戦死者の手記は川端さんの心を打つものがあり、夜どおし遺文集を読みながら、これらたちの、自ら選んだのではない生と死の運命の姿に、川端さんは思いをひそめていられたのだろう。
昭和18年12月の「英霊の遺文」
翌年の昭和18年(1943年)12月にも、康成は依頼されて「英霊の遺文」を書いた。遺文集は15冊に増えていた。
少年飛行兵、星野浩一兵曹は出征に際して、叔父にこう言った。叔父は、追悼録に、少年の言葉をほとんどそのま、詩のような形に写し取った。
叔父さん、
戦闘闘機に乗る僕が死ぬのは、
唯三つの場合だけだよ。
戦闘中僕の頭か心臓か致命的な個所を、
敵弾にやられた場合。
次は、戦闘中敵の飛行機に僕の飛行機を、
ぶつつけて行つた場合。
もう一つは、敵の軍艦なり地上の目的物なりに、
突込んで自爆した場合。
これだけだよ。(中略)
叔父さん、
僕が戦死したと聞いたら、
必ずこの3つの場合のどれかだつたと、
信じて下さいよ。
この星野兵曹は第3次ソロモン海戦で戦死したが、母や姉の追悼記によると、幼い時は臆病な子だった。尋常5年の頃まで、夜は二階に一人で寝られなかったし、階段の上に人形を置くと二階へよう上らなかつた。ただ、読書に寝食を忘れるような子であった。
少年飛行兵採用の学科試験の2日目は、前夜から鼻血を出し、それでも合格し。試験の最中にも血を吐いた、前夜から鼻血を出し、試験の最中にも血を吐いた。それでも合格し、烈しい訓練を、「どんなに苦しくても、先輩が今までそれをやり遂げてゐる以上、私達にも出来ないことはないと思ひます」と言い、「ただ三つの場合」の決意どおりに戦死した。
『『魔界の住人 川端康成─その生涯と文学』(上巻)勉誠出版(2014.08.30)より
『魔界の住人川端康成――その生涯と文学』勉誠出版、2014年8月30日刊行より
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