魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

戦時下の川端康成 その9

2014-11-30 23:30:52 | 論文 川端康成
戦時下の川端康成 その9

自説は最後に

 さらに湖月抄の画期的なところは、本文の解釈にいくつかの異説のある場合、いくつかの主要な説を掲げるが、それは、初めに、季吟自身の説から遠い説を載せ、しだいに近い説を載せ、最後に師説、自説を載せることによって、読者の解釈理解を巧みに導いている点にあると、島内景二は指摘する。
 このように、『湖月抄』は単に源氏物語の本文を変体仮名で広く世に提供したばかりでなく、読者が作品を読みすすむための便宜を最大限に盛り込んだ、画期的な独創の書なのであった。

 だからこそ『湖月抄』は江戸時代を通じて最も広く流布し、多くの人々が源氏物語全巻を通読する機会を世に提供したのであった。
 契沖の『源註拾遺』、賀茂真淵の『源氏物語新釈』、本居宣長の『源氏物語玉の小櫛』なども、『湖月抄』を基礎として、それに反駁を加える形で成ったものであった。
 明治以後になっても、『湖月抄』は数次にわたって翻刻され、また有川武彦校訂『増註源氏物語湖月抄』(弘文社、上中下巻とも、1927・9・5)に代表されるように、季吟以降の説や新注(契沖の源註拾遺や本居宣長の玉の小櫛など)を加えたものが刊行されている。


延(えんぽう)宝元年版湖月抄

 では、康成が実際に手にとって読んだのは、どの湖月抄だったのだろうか。
 康成は「和本」といい、「古い木版本」と書いている。また「途中万一空襲で怪我をしたら丈夫な日本紙は傷おさへに役立つか」などと書いている。これらの表現から、江戸時代に刊行されたものであることは、明らかだろう。
 インターネットの古書目録で見ると、現在でも、最初に刊行された延宝元年(1673年)の60冊セットのものが市場に出ている。国立国会図書館をはじめ、全国の公立図書館でも、これを架蔵しているところは少なくない。(ただ借覧させてくれないだけである。)
 康成は、これを一冊ずつ持って横須賀線の電車に乗ったのだから、60冊分冊の延宝元年版を古書店で入手して、愛読したのではあるまいか。
 ほかにも、延宝3年版があるようだから、このいずれかが、康成の実際に読んだものであろう。


孤児たちの物語

 しかし、このように、なかば僥倖によって湖月抄に出会い、源氏物語に陶酔できたとしても、康成が源氏物語に心を揺すぶられたのは、もっと別の要因もあったにちがいない。

   ……また戦争のせゐもあつただらう。
   しかし私はもつと直接に「源氏」と私との同じ心の流れにただよひ、そこに一切を忘れたのであつた。私は日本を思ひ、自らを覚つた。

 ――この一節を読むと、わたくしはいつも瞬時に、戦後の「住吉物語」(1949・昭和24・4、のち「住吉」と改題)の一節を思い出してしまう。
 「住吉物語」のなかで、主人公行平は、驚くべし、次のように語っているのである。

   あの源氏物語のあんなに多くの主要人物がほとんどすべて孤児、少くとも片親のない人達、この驚くべきことから考へてみましても……。

なるほど、光源氏は、父帝と母更衣との世に容れられぬ恋によって数え3歳で母を失い、父・桐壺院も、比較的早く世を去った。
 若紫は早くに母に死なれた上、父の兵部卿宮から捨てられた存在だった。源氏の思慕する藤壺も、先帝の四の宮であったが、早くに父を失っている。玉鬘も、実の父・頭中将からは忘れられた娘であった。

 宇治十帖でも、物語の中心である薫中将は、物心つく以前に実父の柏木を失っているし、宇治の姫君たちも母親に早く先立たれ、父八の宮に育てられたのであった。浮舟は、その父である八の宮から認知されなかった……。

 行平が、すなわち康成が、いみじくも喝破(かっぱ)したように、源氏物語は、孤児、少なくとも片親のない人々の物語なのである。
 康成は、源氏物語を読みすすみながら、このことを痛感したのではなかったろうか。思慕するひとを胸に秘めながら次々と女性遍歴を重ねる光源氏の彷徨の物語のうちに、康成は孤児の物語、すなわり自分自身の物語を読んでいたのではなかったか。

 だからこそ康成は、あれほどにも源氏物語に没入できたのであったろう。
康成が「『源氏』と私との同じ心の流れにただよひ、そこに一切を忘れた」のは、そのような自己同化があったからであり、そこから康成は、自分が千年の伝統を深く受け継いでいると実感できたのである。「私は日本を思ひ、自らを覚つた」とは、そのような確信の表明である。


日本のかなしみ

 敗色濃い戦争のゆくえ、そのなかで源氏物語に自分自身を発見した康成は、日本の「あはれ」を、ひとしお身につまされて感じたのであった。
 さきほどの文章につづけて、康成は戦場にある兵士たちからとどいた多くの手紙をあげて、「私の作品は日本を思はせるらしいのである」と書いている。康成は源氏物語を読みながら、自分がいかに日本人であるか、いかに日本の伝統が自分の血のなかに流れているかを痛感したのである。(注7)
 康成が同様の心境について書いた文章は、戦後の小説「少年」(『人間』昭和23・5 ~昭和24・3)にもあるが、ここでは「天授の子」(『文学界』昭和25年・2月・1日)のなかの、印象的な一節を引いてみよう。

   私は戦ひがいよいよみじめになつたころ、月夜の松影によく古い日本を感じたものであつた。私は戦争をいきどほるよりもかなしかつた。日本があはれでたまらなかつた。私は隣組の防空群長をしてゐた。昼間家にゐる男は私一人だつたからである。しかし、私の夜通し机に向つてゐることは変りなかつたので、夜番にはあつらへ向きだつた。警報が出ると燈火を見廻つた。(中略)

   私は日本の自然の夜を感じた。ありふれた谷間に過ぎないが、晩秋初冬は夜の靄(もや)や霧が、また時にはしぐれが、この小さい夜景をつつんで大きい夜景に深め、私に日本の古い夜を感じさせた。

   月夜は格別だつた。(中略)空襲のための見廻りの私は夜寒(よさむ)の道に立ちどまつて、自分のかなしみと日本のかなしみとのとけあふのを感じた。古い日本が私を流れて通(とほ)つた。私は生きなければならないと涙が出た。自分が死ねばほろびる美があるやうに思つた。私の生命は自分一人のものではない。日本の美の伝統のために生きようと考へた。

 前引の「昭和19年・昭和20年 自由日記」には、昭和19年8月12日に、防空群長を引き受けたことが記されている。

   防空群長委嘱さる。四隣組の群長なり。断るつもりなりしも断れず。

 これによると、康成が夜間、燈火管制の見張りなどで鎌倉の近隣を歩きはじめたのは、昭和19年8月以降のことである。そして、前記の文章に「晩秋初冬は夜の靄や霧が、また時にはしぐれが……」とあるので、康成が深い感慨にとらわれたのが、昭和19年の晩秋初冬のころであったことがわかる。

 康成は戦局のゆくえを憂慮しながら、やがて敗戦の憂き目に遭遇するであろう日本の国民の運命を歎いた。「日本の母」や「土の子等」で訪問した人々の姿も胸中をかすめたであろう。「英霊の遺文」の死者や、残された家族たちのことも、当然、、胸を去来したことであろう。
 それらの人々が、まもなく、未曾有(みぞう)の災厄(さいやく)に直面しなければならなくなる。次第に激化する空襲によって、日本の国土は日ごとに焦土(しょうど)と化してゆく。その先に敗戦という事態がおとずれたら、国と国民がどうなるのかは、当時、誰にも見当がつかなかったであろう。
 康成はそれらの人々の運命が悲しかった。「あはれ」であった。それを感じるみずからも「あはれ」であった。


伝統への回帰

 康成は「自分のかなしみと日本のかなしみとのとけあふのを感じた」のである。そして古い日本の伝統が自分の中を流れて通るのを感じる。一心に読みつづけてきた源氏物語の、さまざまな情景や人物がよみがえる。全編を流れている深い「あはれ」が胸にひしひしと迫る。自分のなかにも、源氏物語の「あはれ」は深く流れていると思う。千年前の物語が自分自身の物語でもあったとは、さきほど述べた通りだ。

 古い日本の伝統、という言葉が脳裡に立ちのぼる。自分は、源氏物語の伝統を受け継いでいる、と痛感する。
 自分に手紙を寄せた戦地の兵士たちもまた、自分の文学のなかを流れる日本の伝統に感動してくれたのだ。
 自分は、日本の伝統を絶やしてはいけない。生きて、日本の伝統を受け継いでいく以外に、自分のこれから生きてゆく道はない。……

 およそこのような自覚と決意が、燈火管制の夜のしじまのなかで康成の裡に芽生え、確乎とした信念にまで昇華されたのだ。

 ――戦後になって、康成はいくつかの文章のなかで、有名な古典回帰宣言をなす。
 しかし、それは決して、敗戦ののち、突然に康成の内部に生じたものではない。すでに敗色の濃い戦争のさなかで、康成の内部には、そのような古典回帰、伝統への回帰の決意が用意されていたのである。





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