川端康成の初恋 運命のひと伊藤初代 10年後の再会(3)
上野桜木町の家
この再会は、上野桜木町36番地の家を、ある日突然、初代が訪問してきたことによって果たされた。
その時期については、川嶋は「別れてから、ちょうど十年め」という言葉を根拠に、「父母への手紙」第1信発表までの「昭和6年末から7年1月までの間」とし、羽鳥は、「父母への手紙」第2信(原題「後姿」、『文学時代』1932・4・1)中の記述「一昨日」から、その原稿締切寸前の「昭和7年春」と推測している。
川端秀子『川端康成とともに』も「昭和7年3月上旬」としている。
しかし、いずれも曖昧な推測で、その訪問が一度だけのものであったのか、幾度かあったのかも、明確ではなかった。
ところがつい最近、精細な論証によって、訪問の時期と回数が明確にされた。
森晴雄の掌篇小説論「川端康成『父の十年』――『旅心の美しさ』と『明るい喜び』」がそれである。
「父の十年」は四百字詰原稿用紙約十枚の『掌の小説』であり、『現代』1932(昭和7)年6月号に掲載された作品であるが、生前、単行本未収録であった。37巻本では第21巻に収録されている。
伊藤初代との結婚を許してもらうために父親を訪ねた旅と、それから10年後に初代と再会した事実を素材として描かれた作品である。
森によれば「過去の”古傷”を明るく清算する内容」であり、「父母への手紙」第2信との違いは大きい。
森はそこから論を進め、初代との再会が康成自身の発言からも、2度あったことを明らかにし、同じ1932(昭和7)年3月号に発表された「雨傘」(『婦人画報』)と「見知らぬ姉」(『現代』)の発行日などを勘案しながら、初代の訪問は1度目が二月前半、2度目は3月上旬、と推測する。論証の詳細な内容は本論を読んでいただくしかないが、その思いがけぬ再会が康成の内部に大きな波紋を起こしたので、この訪問の回数や時期も問題となってくるのである。
「後姿」
では、再会した初代は、作品中でどのように描かれているのだろうか。
「父母への手紙」第2信は、『文学時代』1932年4月号に、「後姿」と題して発表されている。
その中に、初代とおぼしき女性が康成の家を訪ねてきたことを、次のように書いているのである。
長いので、ところどころを引用すると、
「……実は一昨日、ちやうど10年目で、その少女が私の家へ訪れて来たのですよ。そしてたいへん寂しい後姿を残して帰つて行つたのですよ。」
私は後姿といふ言葉を、幾つもこの手紙に書きましたけれども、人間が人間の後姿を、深く心に刻みつけるほど感情こめて見る折は、さうたくさんないのではないかと思はれます。一昨夜の少女の後姿などは、確かにその見る折の少い後姿の1つでありましたでせうか。彼女は夕方の6時頃に来て、11時頃に帰つて行つたのでありましたが、玄関へ送り出してみると、もう夜もおそいので、うちの女共が銭湯の帰りに閉めたものか、雨戸が引いてありましたから、それをあけるついでに、黒い羽織の上へ黒いコオトを着る彼女の先きに表へ出て、門まで行つたのでありました。(中略)
昔の少女が10年振りで私を訪ねて来たのは私が小説家だからでありませう。彼女のふしあはせな半生は、10年前に小説家の卵と結婚の約束をしたばかりに、恐らくはそのふしあはせの思ひが一層強められたことでありませう。しかも、彼女自身はそのことに気がついてゐないやうであります。そればかりでなく、彼女のことを書いた私の小説を読み、そして私を思ふことは彼女のふしあはせの1つの慰め、または彼女のふしあはせからの1つの逃げ場になつてゐたやうであります。
一昨日訪ねて来たことを、彼女の昔なじみであり、私の一番親しい友だちにも、黙つてゐてくれと、彼女は頼んで行つたのでありました。この 訪れを、2,3年も、もしかすると7,8年も、彼女は考へてゐたほどに、私の家は来づらいものだつたにちがひありません。ま さか私が来るとはお思ひにならなかつたでせうとか、さぞづうづうしい女だとお思ひになるでせうとか、彼女は何度も繰り返しました。(中略)
彼女の先きに玄関を出て門まで行つただけで、門の戸は彼女があけて、彼女がしめたのでありました。その彼女に思はせぶりな身のこなしがあらうはずはなく、従つて私は彼女の後姿など見る暇もなかつたのですけれども、門の戸がしまると同時に、たいへん寂しい後姿を見たやうな、少女を遠くの国へ見送つたやうな、時の流れの果てへ見失つたやうな思ひが、ふいと私の胸へ突き上つて来たのでありました。少女が私に会ひに来るまでに10年の歳月があつたのですから、この次会ふまでにまた10年かかるかしらといふ気がしたのでありました。
一昨日来た少女は、もう3年で30ですわといふやうなことを、度々繰り返してをりました。私は17から後の彼女を見ないのです。私の思ふ彼女はいつも17歳の少女でありました。けれども、10年後に訪れた彼女が27となつてゐることに、なんの不思議はないのであります。彼女の長女はもう10になるさうであります。
初代の10年間
私が北国の町で1度会つたことのある彼女の父は、去年も東京の彼女の家へ来たさうですが、もうすつかり耄碌(もうろく)してしまひましたわ、どうせ長くはないのですわとの彼女の話です。私が結婚したら彼女の妹を呼び寄せてやらうと思ひ、また彼女が結婚の約束を破つてからは、せめて彼女の幼い妹といつか恋をしようかなぞと、私は夢みたこともあつたのですが、その妹も彼女が引き取つて育て上げ、去年19で結婚させてやり、今年はもう赤ん坊が生れるさうであります。10年、この次の10年の間には、君はもう娘さんを結婚させなければならないねと私が言ふと、いいえ、10年経たないうちに、もう7,8年ですつかり一人前の娘になりますわと、彼女は寂しげに笑つてをりました。
18で長女を産むと、彼女は夫の病を4年間看護し、そして死なれたのださうであります。今の夫との間の長男は去年亡くなり、満1歳にならぬ女の児をミルクで育ててゐるさうであります。夫は去年から失業してをります。
ここで語られている伊藤初代の、康成の前から姿を消して以後の境涯は、川嶋至や羽鳥徹哉が、のちに調査した事実と、ほとんど違いはない。しいていえば、「彼女は夫の病を4年間看病した」というところは、実際は、結婚生活は4年、そのうち残りの1年半、結核を発病した夫を看護した、と直すべきであろうという。
しかし羽鳥もいうように、たくさん聞いた話の中で、この程度の聞き誤りは、許容範囲であろう。康成は、初代から聞いた話をほとんどそのまま、この作品に書きつけた、といっていいのである。
結核にかかった夫を看護し、その死を看取り、それから再婚して、その夫は去年から失業中であるという。
さすがの初代も、今後の生活の見通しが立たず、つい、10年前、あれほどの好意を自分に見せてくれた、そして今は作家として成功している康成を訪ねたくなったのであろう。
初代の訪問の目的が何であったか。単なる懐旧の情からであるか、あるいは具体的な目的があったのか。また、その訪問は1回きりであったのか、あるいは数度に及んだのか。
初代の訪問を素材にのちに書いたと思われる「姉の和解」(『婦人倶楽部』1934・12・1)の記述は、基本的に事実にもとづいて書かれていると考えられるが、訪問の目的は、やはり金を貸してほしい、ということだった。
初代の妹の嫁いだ夫が遣いこみをしたという。もうどこにも、借りにゆく相手がいないのだった。
上野桜木町の家
この再会は、上野桜木町36番地の家を、ある日突然、初代が訪問してきたことによって果たされた。
その時期については、川嶋は「別れてから、ちょうど十年め」という言葉を根拠に、「父母への手紙」第1信発表までの「昭和6年末から7年1月までの間」とし、羽鳥は、「父母への手紙」第2信(原題「後姿」、『文学時代』1932・4・1)中の記述「一昨日」から、その原稿締切寸前の「昭和7年春」と推測している。
川端秀子『川端康成とともに』も「昭和7年3月上旬」としている。
しかし、いずれも曖昧な推測で、その訪問が一度だけのものであったのか、幾度かあったのかも、明確ではなかった。
ところがつい最近、精細な論証によって、訪問の時期と回数が明確にされた。
森晴雄の掌篇小説論「川端康成『父の十年』――『旅心の美しさ』と『明るい喜び』」がそれである。
「父の十年」は四百字詰原稿用紙約十枚の『掌の小説』であり、『現代』1932(昭和7)年6月号に掲載された作品であるが、生前、単行本未収録であった。37巻本では第21巻に収録されている。
伊藤初代との結婚を許してもらうために父親を訪ねた旅と、それから10年後に初代と再会した事実を素材として描かれた作品である。
森によれば「過去の”古傷”を明るく清算する内容」であり、「父母への手紙」第2信との違いは大きい。
森はそこから論を進め、初代との再会が康成自身の発言からも、2度あったことを明らかにし、同じ1932(昭和7)年3月号に発表された「雨傘」(『婦人画報』)と「見知らぬ姉」(『現代』)の発行日などを勘案しながら、初代の訪問は1度目が二月前半、2度目は3月上旬、と推測する。論証の詳細な内容は本論を読んでいただくしかないが、その思いがけぬ再会が康成の内部に大きな波紋を起こしたので、この訪問の回数や時期も問題となってくるのである。
「後姿」
では、再会した初代は、作品中でどのように描かれているのだろうか。
「父母への手紙」第2信は、『文学時代』1932年4月号に、「後姿」と題して発表されている。
その中に、初代とおぼしき女性が康成の家を訪ねてきたことを、次のように書いているのである。
長いので、ところどころを引用すると、
「……実は一昨日、ちやうど10年目で、その少女が私の家へ訪れて来たのですよ。そしてたいへん寂しい後姿を残して帰つて行つたのですよ。」
私は後姿といふ言葉を、幾つもこの手紙に書きましたけれども、人間が人間の後姿を、深く心に刻みつけるほど感情こめて見る折は、さうたくさんないのではないかと思はれます。一昨夜の少女の後姿などは、確かにその見る折の少い後姿の1つでありましたでせうか。彼女は夕方の6時頃に来て、11時頃に帰つて行つたのでありましたが、玄関へ送り出してみると、もう夜もおそいので、うちの女共が銭湯の帰りに閉めたものか、雨戸が引いてありましたから、それをあけるついでに、黒い羽織の上へ黒いコオトを着る彼女の先きに表へ出て、門まで行つたのでありました。(中略)
昔の少女が10年振りで私を訪ねて来たのは私が小説家だからでありませう。彼女のふしあはせな半生は、10年前に小説家の卵と結婚の約束をしたばかりに、恐らくはそのふしあはせの思ひが一層強められたことでありませう。しかも、彼女自身はそのことに気がついてゐないやうであります。そればかりでなく、彼女のことを書いた私の小説を読み、そして私を思ふことは彼女のふしあはせの1つの慰め、または彼女のふしあはせからの1つの逃げ場になつてゐたやうであります。
一昨日訪ねて来たことを、彼女の昔なじみであり、私の一番親しい友だちにも、黙つてゐてくれと、彼女は頼んで行つたのでありました。この 訪れを、2,3年も、もしかすると7,8年も、彼女は考へてゐたほどに、私の家は来づらいものだつたにちがひありません。ま さか私が来るとはお思ひにならなかつたでせうとか、さぞづうづうしい女だとお思ひになるでせうとか、彼女は何度も繰り返しました。(中略)
彼女の先きに玄関を出て門まで行つただけで、門の戸は彼女があけて、彼女がしめたのでありました。その彼女に思はせぶりな身のこなしがあらうはずはなく、従つて私は彼女の後姿など見る暇もなかつたのですけれども、門の戸がしまると同時に、たいへん寂しい後姿を見たやうな、少女を遠くの国へ見送つたやうな、時の流れの果てへ見失つたやうな思ひが、ふいと私の胸へ突き上つて来たのでありました。少女が私に会ひに来るまでに10年の歳月があつたのですから、この次会ふまでにまた10年かかるかしらといふ気がしたのでありました。
一昨日来た少女は、もう3年で30ですわといふやうなことを、度々繰り返してをりました。私は17から後の彼女を見ないのです。私の思ふ彼女はいつも17歳の少女でありました。けれども、10年後に訪れた彼女が27となつてゐることに、なんの不思議はないのであります。彼女の長女はもう10になるさうであります。
初代の10年間
私が北国の町で1度会つたことのある彼女の父は、去年も東京の彼女の家へ来たさうですが、もうすつかり耄碌(もうろく)してしまひましたわ、どうせ長くはないのですわとの彼女の話です。私が結婚したら彼女の妹を呼び寄せてやらうと思ひ、また彼女が結婚の約束を破つてからは、せめて彼女の幼い妹といつか恋をしようかなぞと、私は夢みたこともあつたのですが、その妹も彼女が引き取つて育て上げ、去年19で結婚させてやり、今年はもう赤ん坊が生れるさうであります。10年、この次の10年の間には、君はもう娘さんを結婚させなければならないねと私が言ふと、いいえ、10年経たないうちに、もう7,8年ですつかり一人前の娘になりますわと、彼女は寂しげに笑つてをりました。
18で長女を産むと、彼女は夫の病を4年間看護し、そして死なれたのださうであります。今の夫との間の長男は去年亡くなり、満1歳にならぬ女の児をミルクで育ててゐるさうであります。夫は去年から失業してをります。
ここで語られている伊藤初代の、康成の前から姿を消して以後の境涯は、川嶋至や羽鳥徹哉が、のちに調査した事実と、ほとんど違いはない。しいていえば、「彼女は夫の病を4年間看病した」というところは、実際は、結婚生活は4年、そのうち残りの1年半、結核を発病した夫を看護した、と直すべきであろうという。
しかし羽鳥もいうように、たくさん聞いた話の中で、この程度の聞き誤りは、許容範囲であろう。康成は、初代から聞いた話をほとんどそのまま、この作品に書きつけた、といっていいのである。
結核にかかった夫を看護し、その死を看取り、それから再婚して、その夫は去年から失業中であるという。
さすがの初代も、今後の生活の見通しが立たず、つい、10年前、あれほどの好意を自分に見せてくれた、そして今は作家として成功している康成を訪ねたくなったのであろう。
初代の訪問の目的が何であったか。単なる懐旧の情からであるか、あるいは具体的な目的があったのか。また、その訪問は1回きりであったのか、あるいは数度に及んだのか。
初代の訪問を素材にのちに書いたと思われる「姉の和解」(『婦人倶楽部』1934・12・1)の記述は、基本的に事実にもとづいて書かれていると考えられるが、訪問の目的は、やはり金を貸してほしい、ということだった。
初代の妹の嫁いだ夫が遣いこみをしたという。もうどこにも、借りにゆく相手がいないのだった。
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