魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

戦時下の川端康成 その15 島木健作追悼

2014-12-10 23:27:40 | 論文 川端康成
戦時下の川端康成 その15 島木健作追悼

島木健作追悼

 8月23日の鎌倉文庫の告別式で、康成は短い追悼文を読んだ。この文章は、同年11月、『新潮』に発表されたが、康成の戦後第一声ともいうべきものである。
 なお、島木は最期に近いころ、みずから近作の創作集を編んで新潮社に渡し、その題簽を康成に書いてほしいと依頼していた。『出発まで』という書名で、中には晩年の名作「赤蛙」などが含まれていた。

   戦争が終つて後、私は昔からの日本のあはれに沈みゆくばかりで、山里にでも入りたい厭離(おんり)の心が逆に身は日本橋の真中に出て日々をまぎらはしてゐるこの頃、島木君の最後の言葉を思ひ出す折々がある。生前新潮社に原稿が渡してあつた島木君の遺作集は「出発まで」といふ書名で、私は島木君から題簽(だいせん)を書くやうに頼まれてゐた。島木君は日本の敗戦をも自分の過去をも「出発まで」とすることが出来る、さういふ人だつたかもしれない。戦後の文学の一つの確かな「礎」を失つたことで実に惜しいと考へられる。しかし島木君は、心底自分のつたなさを不器用に責めさいなんで見るも気の毒なやうな人でもあつた。
   私の生涯は「出発まで」もなく、さうしてすでに終つたと、今は感ぜられてならない。古の山河にひとり還つてゆくだけである。私はもう死んだ者として、あはれな日本の美しさのほかのことは、これから1行も書かうとは思はない。「お元気さうですねえ。」と島木君の声を思ひ出して自分に言ふと、涙がこぼれさうになる。

 この弔辞のなかで、康成は、「戦争が終つて後、私は昔からの日本のあはれに沈みゆくばかり」で、「山里にでも入りたい厭離の心」であると、告白している。
 喜撰法師、西行、鴨長明などのように、世を捨てて山里にでも隠れ住みたいほどの、深い「厭離の心」にとらわれていると告白し、「昔からの日本のあはれに沈みゆくばかり」と述べている。源氏物語に描かれたように、日本人が伝統的に抱いてきた「あはれ」の心情にひたり、その悲しみのなかで、かろうじて生きていると、みずからの敗戦後の心境を、率直に語っているのである。

 「私の生涯は……すでに終つたと、今は感ぜられてならない。古(いにしえ)の山河にひとり還つてゆくだけである」、「私はもう死んだ者として、あはれな日本の美しさのほかのことは、これから1行も書かうとは思はない」とは、何と烈しく強い決意であることか。
 敗戦による深い失意と、親しい友人を喪(うしな)った悲しみが相伴って、このような心境を招いたのだ。
 あるいは、戦争の半ばから、心のうちに次第に育まれ、高まってきた、同胞を思い、荒廃してゆく国土を憂うる悲しみが、敗戦を機に一気に表面に噴出した、ともいえるかもしれない。
 敗戦の日の二日後の島木健作の死は、康成に、このような告白をさせたのであった。


意外ななりゆき

 しかし、そのような心情とはうらはらに、思いがけない事情が康成を多忙の日常に追いやった。
 鎌倉文庫は、書物に飢えた人々の需要によく応えて、異常なほどに繁盛した。文士の商売は成功した、といえる。
 敗戦後も、客足が途絶えることはなかった。
 これを見た一人の男が書状を寄越した。敗戦から10日あまりの8月29日のことである。
「鎌倉文庫の方々が中心になつて、一つ出版をおやりになりませんか。当方には手持の紙と、残存の印刷設備とがありますから、若(も)し其気(そのき)があるなら、いつでも御相談に応じます。」
 書状は、さらに続いていた。

   ……実は小生は、鎌倉に別宅を持つてゐる者で、その通りがかりに、諸兄が自ら身を挺して、店務に精励されてゐるのを見、感激して、此の人々となら、事を共にしてもいいと感じ、突然乍ら、此の提言をする次第です。どうか自分たちの文化日本再建の努力に、参加したい希望を信じて、即刻、御返事下さい。待つて居ります。」
(久米正雄「わが鎌倉文庫の記」、『人間』創刊号、1946・1・1)

 その書状を書いたのは、大同製紙の荒川喜久雄常務であった。
 この提言に乗るかどうか、早速、相談が行われた。結論は、提携する、であった。ただし、従来のように出版屋が文士を搾取するものであってはならない、国民の求めている本を次々と出版してゆこうという、すこぶる前向きのものであった。

 9月1日の夜、香風園というところで、双方の顔合わせ会が開かれた。
 大同製紙からは橋本社長、荒川常務、岡澤常務、帝都印刷の長谷川社長などが出席し、鎌倉からは里見(とん)、林芙美子、吉屋信子、、大佛次郎たち、文庫からは久米、川端、中山、高見が出た。小林秀雄は欠席した。
 話はたちまち進んで、会社成立、ということになった。資本金百万円、社名は株式会社鎌倉文庫、株および純益は折半(せっぱん)。
 大同製紙の橋本社長が会長に、里見が社長に、文庫側から重役として久米、大佛、康成、高見が就任することになった。(まもなく里見が社長を辞退して、久米が社長に就任した。)
 また、鎌倉文庫・東京支店として、日本橋の白木屋百貨店の二階を借りる話も決まった。これは、ここをすでに借りていた日産の斡旋、というより慫慂(しょうよう)による。

 翌日、前夜に引き続き、具体的なことを決めてしまおうと会議が持たれ、企画会議が開かれた。現代日本文学傑作全集といったものを出そうということになり、その顔ぶれ、作品などを検討した。康成は、鷗外、漱石まで遡っては、と意見を出したが、結局、藤村、秋聲でとどめよう、ということになった。

 さらに翌日、文庫で企画の相談をつづけた。久米が、何よりも文芸雑誌を出そうと主張した。全員、賛成した。
 誌名を『人間』ということに決定した。これは、大正期に里見、久米正雄らが出していた雑誌の名である。これを引き継ごうということになった。
 編集長には、『文藝』編集長であった木村徳三(とくぞう)がいいと康成が意見を出して、当時、京都にいた木村に康成が連絡を取ることになった。
 このほか、北条誠、緑川貢、巌谷大四にも入社要請をすることになった。


木村徳三の招聘(しょうへい)

 康成が新しい雑誌の編集長に木村徳三を推薦したのは、戦時下、『文藝』で「故園」「父の名」を担当してもらった経緯もあるが、それ以上に、康成が木村の編集長としての見識を高く評価していたからであった。
木村は東大仏文科を出て、1937(昭和12)年、改造社に入社した。はじめは『改造』の編集にあたったが、まもなく『文藝』編集部に移った。そこで編集主任の小川五郎と、桔梗(ききょう)五郎という二人の教養ゆたかな先輩から編集の実務を学ぶとともに、雑誌づくりに不可欠な見識というものを識らず知らず教えられた。

 しかし1944年、改造社は当局から解散を命ぜられ、『文藝』は河出書房に譲渡された。
 木村は改造社から放り出されたが、作家庄野誠一の斡旋で、関西に出来たばかりの養徳社の京都支社に企画編集長として勤務することになった。木村の郷里は滋賀県の守山町のほとりだったから、悪い話ではなかった。
 まもなく京都支社が閉ざされたので、木村は、守山から奈良県丹波市にある本社に通うことになった。食糧難の戦争末期であった。
 そのような木村徳三のもとに、一通の電報がとどいたのは、敗戦の一ヶ月後であった。

   シユツパンジギヨウ(ママ)ニサンカサレタシ」オイデコフ」カワ(ママ)バタヤスナリ
                                                   (木村の著書中の仮名づかいのママ)

9月16日のことであった。事情はさっぱりわからない。康成たちが鎌倉文庫をはじめたことは関西にいて仄聞し、時宜を得た好企画だとは思っていたが、それと今回の電報とは関係があるのかどうかもわからない。しかし、ほかならぬ康成からの電報である。木村はすぐ切符を取り、翌日の正午前に、鎌倉二階堂の川端家に着いた。
 康成は、出版社鎌倉文庫が出来たいきさつを説明した。そして、この会社から雑誌『人間』を出すことにした、といった。『人間』という誌名だけは、すでに決まっている、ともいった。

「雑誌って、でも、どんな雑誌をつくるんですか」
「それは、あなたが決めることです」
 また康成は、次のようにもいった。
「新しい『人間』は、あなたの好きなように編集してください」
 それから康成は、木村を連れて久米正雄の大塔宮(だいとうのみや)裏の家に行った。
久米は、木村が30代なかばの若さであることに若干の危惧を抱いたようだったが、康成の推薦ということで、反対はしなかった。
 急いで丹波市に帰った木村徳三は、養徳社の岡島社長、世話してくれた庄野誠一に事情を話して、東京行きの了解をもとめた。





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