岩瀧山 往生院六萬寺 令和6年3月・春彼岸施餓鬼法要 配布資料
「往生・引導・灌頂について」
最近、個人的に、西本願寺・本願寺派の「新しい領解文(りょうげもん)」問題について考察することが多くあったことから、従来より進めていた浄土真宗の教義についての考究がよりいっそうに進むとともに、日本における初期の浄土教、平安時代の往生院における日想観(じっそうかん)を中心とした浄土思想、他、法然聖人が開宗なさられた浄土宗なども含めて、展開されていく浄土門の教えにも、それぞれで違った多様な思想や背景があることを知ることができました。
特に、親鸞聖人の思想となる浄土真宗は、他の浄土門の教えともやや異なり、特殊な教理体系にあることが理解できるようになりました。
ただ、今回は、浄土真宗の教義、思想についてではなく、基本的な浄土門における往生へのあり方と、他、聖道門や密教における、往生と同様の目的となる「引導」や「灌頂」のあり方についても検討することで、私たちが悟り・涅槃・成仏へと至るためのその過程について、その中でも、特に現代社会において、その過程の重要な役割を担うことになる「葬儀」の内容からも、少し考察して参りたいと思います。
基本的に、浄土門の教えとは、極楽往生を目指すものであり、往生により、阿弥陀仏との見仏、阿弥陀仏からの授記(じゅき)を頂くことで、浄土での修習によって、やがては悟りに至れる(成仏できる)ように調えるためのものと考えています。
浄土往生 → 見仏・授記 → 菩提道次第修習 → 福智二資糧完成 → 悟り
このようにして、涅槃・成仏へと至るための過程の一つを「往生」と考えるわけであります。
特に、現代においては、葬儀が、悟りへと向けて、浄土へと導き、往生させしめて、如来との見仏、如来からの授記を頂くことを目指し、その者の修道次第、進捗をより良くに調えるためとして行われるものとなります。
より詳しくまとめると、
葬儀・引導(往生) → 浄土往生 → 見仏・授記 → 修道・菩提道次第 → 智慧・福徳二資糧完成 → 悟り・涅槃・成仏 となり、
まず、聖道門にしても、浄土門にしても、浄土への引導、往生においては、当然にある一定、同じような条件が必要であると考えられ、無条件にて、何らの因縁もなしに成り立つものではあり得ないものとなります。
また、「引導 → 浄土 → 見仏・授記」を、現世、今生生身にて行うことができる場合もあります。それが密教における「灌頂(かんじょう)」となります。
「灌頂」は、灌頂の導師である大阿闍利(あじゃり)が、本尊となる如来と一体化する(如来の代理となる)ことで、灌頂曼荼羅(まんだら)道場を浄土と化して、見仏・授記を実現させることになるのであります。
このため、密教においては、今世今生で修道を進める進捗、スピードを、浄土にて赴いて行うのと同じように速めることができるとするわけです。
もちろん、その分、そのための条件は、より厳しいものとなりますが、基本的には、引導・往生と同様になるものがベースとしてあると考えることができます。
現代における各葬儀の次第内容を鑑みると、主には、「帰依(きえ)・懺悔(さんげ)(滅罪)・受戒・善根功徳(追善)」、これらが少なくとも、引導、往生、灌頂においての必要条件であると考えることができます。
ただ、ここで気になるのは、悟りへと向けて、最も大切な要素となる般若の智、つまり、空性を悟る智慧については、引導、往生、灌頂の条件とならないのか、ということであります。
拙見解となりますが、引導と往生においては、もちろん、無常や縁起、空については、多少なりとも理解を促すことがあるものの、その智慧の境地については、特に条件として求められているものではないと思われるのであります。
それは、諸仏の教えとしての七仏通誡偈においても、「諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう) 自浄其意(じじょうごい)」と、「悪い行いをなさずに、善い行いに努め励んで、自らでその心(業)を浄らかにすること」が基本として述べられてあるように、とにかく、善行、功徳に努めることの重要性が述べられてあることからも窺えるわけであります。
ですから、まずは帰依して、正式な仏の弟子となって、戒を守り、善行、功徳に励み、その上で、確かなる見仏と授記によって、智慧の修習へと取り組み、悟りへと向かうように調えるという流れが見えてくると考えるのであります。
六波羅蜜(ろくはらみつ)の実践も、布施・持戒・忍辱・精進と、まず、善行、功徳に励むことが先となり、その次に、禅定・智慧と繋げることが重要になると考えることができます。
もちろん、全てをバランス良くに、並行して進めることが大切にはなりますが、これはただ単に布施から六つを羅列して述べられてあるわけではなく、やはり、実践の順番として述べられてあると考えることになるのであります。
当然に、現世、今生においても、禅定、智慧の修習について取り組むことはできますが、釈尊ご入滅以降、この娑婆世界では、密教は別として、直接に私たち凡夫であっても相まみえること(見仏)ができて、ご指導(授記)を頂ける(応身の)如来が不在となってしまっているため、少なくとも、弥勒(みろく)仏の下生までは、他の浄土へと赴くことでの確かとなる修習を促される意味で、釈尊は色々な浄土、如来をご紹介なさられたわけであります。(また、善行、功徳の実践を優先させるのは、特に、娑婆世界は、私たちが功徳を積むのに最適な条件の整っている恵まれた世界であるということにも関係していると思われます。)
少し話を戻して、智慧の修習に関して、往生や引導と異なり、密教ではやや違った扱いとなります。
釈尊は、如来の中でも、特に希有特別な如来であり、密教をお説きになられる功徳を有されておいででありました。そのため、今世今生でも見仏と授記を可能とされる密教の教え、灌頂についてもご教示なさられることがおできになられたわけであります。
その灌頂では、引導・往生とは異なって、ある一定の智慧の境地、空性の理解を必要とする条件をお示しになられています。
ですから、灌頂においては、空性の解説がその前行法話の大半を占めることになり、その理解を受者は条件として必要とするのであります。
また、灌頂の導師となり、空性の解説を行う大阿闍利の条件も、相当な智慧の境地を有してある者でなければならないとするわけであります。(例えば、チベット密教においては、本尊瑜伽(ほんぞんゆが)は当然として、無上瑜伽タントラにおける生起次第(しょうきしだい)の修行は完全にマスターして終えてあるほどの境地が必要とされています。)
ここで話を「浄土門」に戻して、阿弥陀如来の浄土である極楽へと往生を目指すのであれば、上記の基本的な条件「帰依(きえ)・懺悔(さんげ)(滅罪)・受戒・善根功徳(追善)」と共に、「称名(しょうみょう)念仏」を必要とすることとなります。
阿弥陀仏の本願 → 名号・称名・念仏 ← 衆生・凡夫
阿弥陀仏の皆を平等に救うとお垂れになられた慈悲の現れとして、その救いの利益・功徳を有する「名号」は、衆生、凡夫を浄土へと掬い取らせる(摂取)、往生させる「はたらき」であり、その「はたらき」を衆生、凡夫が、称名・念仏により頂き賜うことを、その往生としての条件にお加えになられているのであります。
では、聖道門のことを自力行、浄土門を他力行と分類する場合、その両者の違いはどのようなものになるのかと言えば、聖道門の自力行に比べると、往生、引導の作用が、浄土門においては、阿弥陀仏の名号における利益・功徳の力が大きく作用することになるため、称名念仏以外の条件が、聖道門と比べると、それなりに少なくて済むものになると考えることができるわけであります。
そのため、聖道門の勧める自力的な難行苦行を行うことはなく、簡単に、誰もが行い、実践しやすいものとして、阿弥陀仏の本願のお力へとおまかせしていくあり方としての「称名念仏」が勧められるわけですが、「帰依(きえ)・懺悔(さんげ)(滅罪)・受戒・善根功徳(追善)」が必要ではないのかとなれば、そうではなく、あくまでも聖道門よりかは、それらの条件の力がそれなりに少なくて済むということで、この点には注意が必要であると考えています。
ただ、現代では、聖道門の自力行も、従来のように直接に悟り・涅槃・成仏へと向けたものとしてではなく、引導、往生のために調えるということが、特に凡夫、在家者においての主な実践になっていると言えるでしょう。いや、僧侶においても、残念ながらそれが言いえるところになってしまっているのが現実であります。
まあ、要は、自力行にせよ、他力行にせよ、それが、自分自身の悟り・涅槃・成仏へ向けてのものとしてであれば、難行道、易行道としての区別のあるものとなるでしょうが、往生、引導としては、その区別はなく、往生、引導へと向けた条件としては、当然にそれぞれにおいて必要となるものがあると考えるのが妥当となるわけであります。
とにかく、浄土門においては、極楽浄土に赴いて、阿弥陀如来の報身、応身、変化身、また、そのそれぞれの対応する浄土地のいずれへと往生するにしても、悟りへと向けては、見仏と授記により、修道を確かに進めるためとして、その大切な一つの過程として「往生」を捉えることが肝要になると思うのであります。
つまり、娑婆や輪廻世界では、「難行道」として修行が難しいとするものも、浄土では、仏の直接のご指導の下において、よりそれぞれに応じた修行によって進みやすくできるということで、「易行道」になるとの意味合いで、難行、易行を区別、分類するわけであります。
いずれにしても、それぞれにおける仏縁、功徳など、師僧、導師も含めて色々な縁や力の助けも得ていくことで、往生、引導、灌頂が成り立ち、悟りへの道を歩むことができるようになるのであります。
確かなる悟り・涅槃・成仏へと向けて、それぞれが自分自身における一大事の事業として(自灯明)、仏法の教えを拠りどころとして(法灯明)、往生、引導、灌頂についても留意しておくことが大切であると考えます。
合掌
「往生・引導・灌頂について」
最近、個人的に、西本願寺・本願寺派の「新しい領解文(りょうげもん)」問題について考察することが多くあったことから、従来より進めていた浄土真宗の教義についての考究がよりいっそうに進むとともに、日本における初期の浄土教、平安時代の往生院における日想観(じっそうかん)を中心とした浄土思想、他、法然聖人が開宗なさられた浄土宗なども含めて、展開されていく浄土門の教えにも、それぞれで違った多様な思想や背景があることを知ることができました。
特に、親鸞聖人の思想となる浄土真宗は、他の浄土門の教えともやや異なり、特殊な教理体系にあることが理解できるようになりました。
ただ、今回は、浄土真宗の教義、思想についてではなく、基本的な浄土門における往生へのあり方と、他、聖道門や密教における、往生と同様の目的となる「引導」や「灌頂」のあり方についても検討することで、私たちが悟り・涅槃・成仏へと至るためのその過程について、その中でも、特に現代社会において、その過程の重要な役割を担うことになる「葬儀」の内容からも、少し考察して参りたいと思います。
基本的に、浄土門の教えとは、極楽往生を目指すものであり、往生により、阿弥陀仏との見仏、阿弥陀仏からの授記(じゅき)を頂くことで、浄土での修習によって、やがては悟りに至れる(成仏できる)ように調えるためのものと考えています。
浄土往生 → 見仏・授記 → 菩提道次第修習 → 福智二資糧完成 → 悟り
このようにして、涅槃・成仏へと至るための過程の一つを「往生」と考えるわけであります。
特に、現代においては、葬儀が、悟りへと向けて、浄土へと導き、往生させしめて、如来との見仏、如来からの授記を頂くことを目指し、その者の修道次第、進捗をより良くに調えるためとして行われるものとなります。
より詳しくまとめると、
葬儀・引導(往生) → 浄土往生 → 見仏・授記 → 修道・菩提道次第 → 智慧・福徳二資糧完成 → 悟り・涅槃・成仏 となり、
まず、聖道門にしても、浄土門にしても、浄土への引導、往生においては、当然にある一定、同じような条件が必要であると考えられ、無条件にて、何らの因縁もなしに成り立つものではあり得ないものとなります。
また、「引導 → 浄土 → 見仏・授記」を、現世、今生生身にて行うことができる場合もあります。それが密教における「灌頂(かんじょう)」となります。
「灌頂」は、灌頂の導師である大阿闍利(あじゃり)が、本尊となる如来と一体化する(如来の代理となる)ことで、灌頂曼荼羅(まんだら)道場を浄土と化して、見仏・授記を実現させることになるのであります。
このため、密教においては、今世今生で修道を進める進捗、スピードを、浄土にて赴いて行うのと同じように速めることができるとするわけです。
もちろん、その分、そのための条件は、より厳しいものとなりますが、基本的には、引導・往生と同様になるものがベースとしてあると考えることができます。
現代における各葬儀の次第内容を鑑みると、主には、「帰依(きえ)・懺悔(さんげ)(滅罪)・受戒・善根功徳(追善)」、これらが少なくとも、引導、往生、灌頂においての必要条件であると考えることができます。
ただ、ここで気になるのは、悟りへと向けて、最も大切な要素となる般若の智、つまり、空性を悟る智慧については、引導、往生、灌頂の条件とならないのか、ということであります。
拙見解となりますが、引導と往生においては、もちろん、無常や縁起、空については、多少なりとも理解を促すことがあるものの、その智慧の境地については、特に条件として求められているものではないと思われるのであります。
それは、諸仏の教えとしての七仏通誡偈においても、「諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう) 自浄其意(じじょうごい)」と、「悪い行いをなさずに、善い行いに努め励んで、自らでその心(業)を浄らかにすること」が基本として述べられてあるように、とにかく、善行、功徳に努めることの重要性が述べられてあることからも窺えるわけであります。
ですから、まずは帰依して、正式な仏の弟子となって、戒を守り、善行、功徳に励み、その上で、確かなる見仏と授記によって、智慧の修習へと取り組み、悟りへと向かうように調えるという流れが見えてくると考えるのであります。
六波羅蜜(ろくはらみつ)の実践も、布施・持戒・忍辱・精進と、まず、善行、功徳に励むことが先となり、その次に、禅定・智慧と繋げることが重要になると考えることができます。
もちろん、全てをバランス良くに、並行して進めることが大切にはなりますが、これはただ単に布施から六つを羅列して述べられてあるわけではなく、やはり、実践の順番として述べられてあると考えることになるのであります。
当然に、現世、今生においても、禅定、智慧の修習について取り組むことはできますが、釈尊ご入滅以降、この娑婆世界では、密教は別として、直接に私たち凡夫であっても相まみえること(見仏)ができて、ご指導(授記)を頂ける(応身の)如来が不在となってしまっているため、少なくとも、弥勒(みろく)仏の下生までは、他の浄土へと赴くことでの確かとなる修習を促される意味で、釈尊は色々な浄土、如来をご紹介なさられたわけであります。(また、善行、功徳の実践を優先させるのは、特に、娑婆世界は、私たちが功徳を積むのに最適な条件の整っている恵まれた世界であるということにも関係していると思われます。)
少し話を戻して、智慧の修習に関して、往生や引導と異なり、密教ではやや違った扱いとなります。
釈尊は、如来の中でも、特に希有特別な如来であり、密教をお説きになられる功徳を有されておいででありました。そのため、今世今生でも見仏と授記を可能とされる密教の教え、灌頂についてもご教示なさられることがおできになられたわけであります。
その灌頂では、引導・往生とは異なって、ある一定の智慧の境地、空性の理解を必要とする条件をお示しになられています。
ですから、灌頂においては、空性の解説がその前行法話の大半を占めることになり、その理解を受者は条件として必要とするのであります。
また、灌頂の導師となり、空性の解説を行う大阿闍利の条件も、相当な智慧の境地を有してある者でなければならないとするわけであります。(例えば、チベット密教においては、本尊瑜伽(ほんぞんゆが)は当然として、無上瑜伽タントラにおける生起次第(しょうきしだい)の修行は完全にマスターして終えてあるほどの境地が必要とされています。)
ここで話を「浄土門」に戻して、阿弥陀如来の浄土である極楽へと往生を目指すのであれば、上記の基本的な条件「帰依(きえ)・懺悔(さんげ)(滅罪)・受戒・善根功徳(追善)」と共に、「称名(しょうみょう)念仏」を必要とすることとなります。
阿弥陀仏の本願 → 名号・称名・念仏 ← 衆生・凡夫
阿弥陀仏の皆を平等に救うとお垂れになられた慈悲の現れとして、その救いの利益・功徳を有する「名号」は、衆生、凡夫を浄土へと掬い取らせる(摂取)、往生させる「はたらき」であり、その「はたらき」を衆生、凡夫が、称名・念仏により頂き賜うことを、その往生としての条件にお加えになられているのであります。
では、聖道門のことを自力行、浄土門を他力行と分類する場合、その両者の違いはどのようなものになるのかと言えば、聖道門の自力行に比べると、往生、引導の作用が、浄土門においては、阿弥陀仏の名号における利益・功徳の力が大きく作用することになるため、称名念仏以外の条件が、聖道門と比べると、それなりに少なくて済むものになると考えることができるわけであります。
そのため、聖道門の勧める自力的な難行苦行を行うことはなく、簡単に、誰もが行い、実践しやすいものとして、阿弥陀仏の本願のお力へとおまかせしていくあり方としての「称名念仏」が勧められるわけですが、「帰依(きえ)・懺悔(さんげ)(滅罪)・受戒・善根功徳(追善)」が必要ではないのかとなれば、そうではなく、あくまでも聖道門よりかは、それらの条件の力がそれなりに少なくて済むということで、この点には注意が必要であると考えています。
ただ、現代では、聖道門の自力行も、従来のように直接に悟り・涅槃・成仏へと向けたものとしてではなく、引導、往生のために調えるということが、特に凡夫、在家者においての主な実践になっていると言えるでしょう。いや、僧侶においても、残念ながらそれが言いえるところになってしまっているのが現実であります。
まあ、要は、自力行にせよ、他力行にせよ、それが、自分自身の悟り・涅槃・成仏へ向けてのものとしてであれば、難行道、易行道としての区別のあるものとなるでしょうが、往生、引導としては、その区別はなく、往生、引導へと向けた条件としては、当然にそれぞれにおいて必要となるものがあると考えるのが妥当となるわけであります。
とにかく、浄土門においては、極楽浄土に赴いて、阿弥陀如来の報身、応身、変化身、また、そのそれぞれの対応する浄土地のいずれへと往生するにしても、悟りへと向けては、見仏と授記により、修道を確かに進めるためとして、その大切な一つの過程として「往生」を捉えることが肝要になると思うのであります。
つまり、娑婆や輪廻世界では、「難行道」として修行が難しいとするものも、浄土では、仏の直接のご指導の下において、よりそれぞれに応じた修行によって進みやすくできるということで、「易行道」になるとの意味合いで、難行、易行を区別、分類するわけであります。
いずれにしても、それぞれにおける仏縁、功徳など、師僧、導師も含めて色々な縁や力の助けも得ていくことで、往生、引導、灌頂が成り立ち、悟りへの道を歩むことができるようになるのであります。
確かなる悟り・涅槃・成仏へと向けて、それぞれが自分自身における一大事の事業として(自灯明)、仏法の教えを拠りどころとして(法灯明)、往生、引導、灌頂についても留意しておくことが大切であると考えます。
合掌