『兄の左手』は、著者の徳廣睦子が長兄である上林暁と暮らした日々を綴ったエッセイだ。
上林暁については、過日
で、暁が、亡くなるまでの十七年間余、右半身不随で、歩行不能だったことを書いた。
睦子は、暁の一番下の妹で、暁とは17才歳が離れている。
睦子が初めて上京したのは昭和14年8月のこと。地元高知の女学校を卒業した直後であった。
戦中に2回にわたり2年余り帰郷したが、戦後は昭和20年11月に3度目の上京。暁が昭和55年に亡くなるまで荻窪の地で暁と共に暮らした。
この間、暁の身辺の世話をするとともに、(精神の病で入退院を繰り返した暁の妻に替わり)二女一男の母親役をも担った。(暁の妻は、昭和21年5月に病死。)
暁は昭和37年に二度目の脳出血を発症する。中風が遺り、右半身は不随となり以後寝たきりとなった。
しかし、頭脳は変わらず明晰で左手はなんとか動かせる状態まで回復した。睦子はそんな暁の介護をしながら、創作活動をも助けることとなった。
睦子は、ふるえる左手で原稿用紙に書かれた頗る大きいくせに、判読しがたい文字を読み取る。内容を確認するために呂律が回らず不明瞭な言葉を何度も聞き返す。そして、ようやく原稿を起こすに至る。
とてつもなくかかる労力と時間。できあがった作物は、兄を助けるというより二人で創り上げたものといってもよかろう。
これらを知りつつ、『白い屋形船』以降の緒作を改めて読むとき、例え20枚の短篇であっても、その何十倍の草稿があったことを想像する。
文学に一生を掛け続けた兄と共鳴する妹の静かではあるが覚悟と気迫を感じずにはおられない。
読者の過剰な思い入れは、彼等の望むところではないのだろう。しかし、読み進める一頁一頁がなにやら重味を伴うのだった。
(これは、色紙用?かもしれない。まだまだ、文字が明瞭な時期と推測する。)
暁は、後添いを貰うことなく、睦子は生涯独身であった。
しかし、睦子とて、迷いや苦悩がなかったはずなどない。それらも、正直に綴られている。
睦子の労苦に報いるため、暁は死後の印税の全部を睦子に贈与することとした。
それを知ったとき、睦子は、『私が死んだあとは、兄さんの子供たちにいくようにする』と言ったという。
「左手で書かるる文字は細けれど志なほ太き暁よ(新作)」