先月の三月十一日で一段落した気分の人もいるかもしれないけど、震災前とはほど遠い暮らしを強いられてる被災者がまだまだいることを、忘れたくないです。
さいきん岩手の仮設暮らしのお客さんと連絡が取れ、古巣の会社が被災地支援活動から本格的に綺麗さっぱりと撤退してることを知り残念な気持ちになりんした。
儲からないからしょうがないんかもね・・・
さいきん岩手の仮設暮らしのお客さんと連絡が取れ、古巣の会社が被災地支援活動から本格的に綺麗さっぱりと撤退してることを知り残念な気持ちになりんした。
儲からないからしょうがないんかもね・・・
"震災復興支援ソング "RESTART" - 平成26年度自衛隊音楽まつり" を YouTube で見る
HCG161 花は咲く 臼澤みさき (2016)160308 vL HD
3月11日、仕事。同僚と二人
昼過ぎに地震。直後にAちゃんから電話。その後は夜中まで電話つながらず。メールは何時ころにつながったんだろ?もう思い出せないな。あの頃はガラケーで電池もスマホよりは保った気がする。
同僚を家に帰す。念のため通常の営業時間まで店にいるけど停電で仕事はできず。
斜め向かいの紳士服店のガラスが半壊。すぐ近くの消防署の職員さんが窓ガラスで通行人に二次被害がないように処置するあいだ、歩道の通行人の迂回指示の手伝いをする。
一段落して帰宅。国道4号線と107号線の大きな交差点以外は信号がつかなかった。何となく運転手たちが空気を読み合いながら譲ったり走ったりして自分の知る範囲では交通事故はなかった。
帰宅。反射式ストーブつける。ポリタンクの灯油にはまだ余裕があるので一安心。もちろん家の電気はつかない。水道は止まらなかった気がする。プロパンガスは翌日以降使えたように覚えてる。北上市内のなかでも比較的インフラ被害の小さい区域だった。
当時のさらに数年前に展示会で何の気なく買った「手回しのライト&ラジオ」をはじめて使う。ラジオでは山田町や大船渡市で火災がおきているらしいという情報と、とにかくみんなガンバレ、というような内容だった気がする。津波被害や原発事故のことは当日はよく分からなかった。
同じアパートの人が車でカーナビのワンセグTVでニュースを見ていて泣いていたのを思い出す。全国的な大きなニュースになっていることなんてそのときは良く分かってなかった。
夜に母親と電話がつながったり、友人たちとメールや電話でやりとりできて、あちこちで大きく揺れたことを知った。あの日は余震が続くし、変に興奮してなかなか寝られなかった。
内陸の自分でもこんな感じだったのだから、沿岸の被災地の人たちは当時どんな気持ちだっただろう?当時を振り返ってもところどころ思い出せなかったり、そのときの感情がよみがえらない人もいた。もしかしたら思い出さないことで心のバランスを保っているのかもしれない。
今、震災から5年経った。
「もう被災者じゃない」とか「いつまで助ければいいんだ」というようなことを言う人も出てきた。これは震災1年後くらいからすでにいたような気もする。
考えや立場は人それぞれ。自分と異なる考えの人たちをむやみに批判したり非難したりするつもりはないし、権利もない。
ただ、あの夜の、内容がきちんと蘇らない特別編集ラジオ番組のことを思い出すと、自分はやれる範囲のことだけでも続けてゆきたいと考える。
東日本大震災だけが天災じゃないし、戦争被害・コミュニティーの暴力・家庭内の暴力、いろんなところに被害に遭っている人が数多くいる。
そのことを心の中でちょっとだけでも思い続けて生きてゆくのが、あの地震を体験して生き延びた自分の「宿題」のような気がする。
3月11日、仕事。同僚と二人
昼過ぎに地震。直後にAちゃんから電話。その後は夜中まで電話つながらず。メールは何時ころにつながったんだろ?もう思い出せないな。あの頃はガラケーで電池もスマホよりは保った気がする。
同僚を家に帰す。念のため通常の営業時間まで店にいるけど停電で仕事はできず。
斜め向かいの紳士服店のガラスが半壊。すぐ近くの消防署の職員さんが窓ガラスで通行人に二次被害がないように処置するあいだ、歩道の通行人の迂回指示の手伝いをする。
一段落して帰宅。国道4号線と107号線の大きな交差点以外は信号がつかなかった。何となく運転手たちが空気を読み合いながら譲ったり走ったりして自分の知る範囲では交通事故はなかった。
帰宅。反射式ストーブつける。ポリタンクの灯油にはまだ余裕があるので一安心。もちろん家の電気はつかない。水道は止まらなかった気がする。プロパンガスは翌日以降使えたように覚えてる。北上市内のなかでも比較的インフラ被害の小さい区域だった。
当時のさらに数年前に展示会で何の気なく買った「手回しのライト&ラジオ」をはじめて使う。ラジオでは山田町や大船渡市で火災がおきているらしいという情報と、とにかくみんなガンバレ、というような内容だった気がする。津波被害や原発事故のことは当日はよく分からなかった。
同じアパートの人が車でカーナビのワンセグTVでニュースを見ていて泣いていたのを思い出す。全国的な大きなニュースになっていることなんてそのときは良く分かってなかった。
夜に母親と電話がつながったり、友人たちとメールや電話でやりとりできて、あちこちで大きく揺れたことを知った。あの日は余震が続くし、変に興奮してなかなか寝られなかった。
内陸の自分でもこんな感じだったのだから、沿岸の被災地の人たちは当時どんな気持ちだっただろう?当時を振り返ってもところどころ思い出せなかったり、そのときの感情がよみがえらない人もいた。もしかしたら思い出さないことで心のバランスを保っているのかもしれない。
今、震災から5年経った。
「もう被災者じゃない」とか「いつまで助ければいいんだ」というようなことを言う人も出てきた。これは震災1年後くらいからすでにいたような気もする。
考えや立場は人それぞれ。自分と異なる考えの人たちをむやみに批判したり非難したりするつもりはないし、権利もない。
ただ、あの夜の、内容がきちんと蘇らない特別編集ラジオ番組のことを思い出すと、自分はやれる範囲のことだけでも続けてゆきたいと考える。
東日本大震災だけが天災じゃないし、戦争被害・コミュニティーの暴力・家庭内の暴力、いろんなところに被害に遭っている人が数多くいる。
そのことを心の中でちょっとだけでも思い続けて生きてゆくのが、あの地震を体験して生き延びた自分の「宿題」のような気がする。
来月の11日で丸五年。
当初の計画どおりに復興が進んでいるところは、ほとんどないのでは?
(仙台の人口増くらいかな)
現実に合わせて、復興計画も見直し手直ししながら効率よくスピーディーに手掛けられていることと思います。そう信じます。
大槌町みたいに物凄い速さで人口が減っている自治体、福島はもちろん宮城にもあるんでないかな?
今は、とにかく忘れずに、小さなことでもやれることを続けてゆきたいと思うわ。
当初の計画どおりに復興が進んでいるところは、ほとんどないのでは?
(仙台の人口増くらいかな)
現実に合わせて、復興計画も見直し手直ししながら効率よくスピーディーに手掛けられていることと思います。そう信じます。
大槌町みたいに物凄い速さで人口が減っている自治体、福島はもちろん宮城にもあるんでないかな?
今は、とにかく忘れずに、小さなことでもやれることを続けてゆきたいと思うわ。
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この冬一番に冷え込んだ気がしやんす
岩手県北・青森県三八上北に大きな地震がありやんした
今日はいろいろ思い出したわ(´・ω・`)
岩手県北・青森県三八上北に大きな地震がありやんした
今日はいろいろ思い出したわ(´・ω・`)
"東日本大震災被災地から(大槌町)復興曲「天命」" を YouTube で見る