37度、宮城ではあまり体感しない気温で、
車から出ると、熱風が息をふさいでしまいそうな日でした。
そんな暑さの中、夫と石巻の被災した友人の所に会いに行ってきました。
彼女らが一番苦しい時に、私は千葉にいて何もしてあげられなかったおい目で
いまさら会いに行くことにためらいもありました。
それでも、いつまでも思い悩んでばかりいても、埒があかないし、
自分たちが住んでいたところが、どんなふうになったかやはり確認するべきではないかと思いました。
猛暑の中友人は激やせした体で、汗して働いてました。
お互い生きてたことを喜びあって、私はまた涙してしまいました。
彼女はガソリンスタンドを経営してて、震災の日は一度車で逃げたが渋滞だったので車を捨てて
二階に逃げて助かったとのこと。津波で一階は浸水したそうです。
渋滞で流された車の中で助けを求めている人たちを、助けられなかったことで苦しんでいるようでした。
暗闇の中で過ごしたこと、水道もなく寒さで震えたこと、食べ物がなく少ない食料をみんなで分け合ったこと
排出処理の苦労、ノロウイルスになったこと、震災後のがれきの処理などなど・・・・・
あれから4か月、幸い地下のガソリンタンクに被害がなく、
震災後大変な中営業をしていたらしい。
震災後我が家に避難してくることを勧めましたが、誰もいないと盗難にあうといって
彼女は悲惨な状況の中を、その場を離れることなく生き抜いてました。
彼女の夫は、「自分がなぜ生かされたか理由が分かったよ、
きっと、今震災の後処理のために力を出せということなんだな~と思ってる。」と明るく話してました。
元気に働く彼女たちの姿に、逆に私が力をもらってきました。
そしてやっと私の気持にもけじめがつきました。
私にはこれからも直接出来ることはないでしょうが、
自分が元気に生き抜くことが、大切なんだと思わされました。
私達が住んでいた借家の跡地です。
ここを訪ねたとき、延々と更地になっていて目印もなく探すのに時間がかかりました。
奥の住宅は最近建設されたばかりの住宅で、
ここは私達が住んでいた時は、自動車学校のコースがあった場所です。
被害がないように見えますが、この住宅も浸水したようでゴーストタウンになってました。
私達が住んでいた借家は片付けたのでしょが、跡形もなかったです。
ここで私は子育てをしていましが、あの時のにぎやかな声が脳裏によみがえってきました。
このような状況が延々と続き、あちこちにがれきの山ができていて
浸水した車が海岸沿いに積み上げてあって、被害の凄さを語っていました。
この日震度4の地震が来て、津波警報がなり50センチの津波が来てびびりました。
またこの日は仙台の湾外沿いにもいってきました。
仙台の湾岸沿いの被災地では農作ができなくなった田畑が、
雑草で覆われところどころに流されてきたものが悲しそうに横たわってました。
まだまだ復興には時間がかかるのであろう情景に、悲しみより怒りがわきだしてきます。
国会中継がテレビで放映されていますが、このやり取りを見てますとやるせないです。