blogを書いたのに操作を誤り失ってしまった。
同じようには書けるが同じ気持ちで同じく書くことはできない。
今年になって、二冊目あたりだろうか岡潔の「紫の火花」のある部分を読んだ。
「すみれの言葉」と「こころ」である。
前者のタイトルは美しく柔らかそうだが内容は容易ではない。
春の野のすみれは、ただすみれのように咲けばよい、-といつか私は言ったことがあるが、その言葉を一度、詳細に説明しておこう。このことは、非常に意味のあることのように私には思われるのである。
これが冒頭に述べられ記憶のこと、幾何学のこと、脳の大脳前頭葉のこと、解析学のこと、数学の発見にはインスピレーション型の発見と情操型の発見があることなどが述べられる。
そして岡潔はインスピレーション型の発見から戦後は情操型の発見に移行したと。
内容は私の頭では無理。
ただ大脳前頭葉を通さない大脳側頭葉だけを使う水道方式という算数はダメだ、やめさせたいとの岡潔の考えのようだ。
秋に思うの中にある「こころ」である。
そこではこころの一片を情緒とし、目に見えないものであるが実在するという岡潔が経験した実例があった。
そこで私は長年不思議に思っていたことが解決したのだ。
あることに情緒が実在するうちは考えたり書いたりスムーズにできる。
しかしそれが過去の事になると、考えや感じは、実在したというだけの記憶に変わり、新鮮だった情緒で心を突き動かした感じや考えはすっかり古びてしまって二度と心おどる感じ方ができなくなってしまう。
岡潔はその実例として講義の前日にノートを丁寧に書いて臨んだ。
そうすることで上手く講義ができると思ったのであるが全く反対で、講義などできず書いていったノートをまるで代読でもするように読んできたという。
情緒が実在すると、いくらでも話せるのにそれがかつて「実在」という記憶に変わると、もう何も話せなくなったというのだ。
私はこの部分で長年の疑問が解決した。
何度か同じような経験をしたことがある。
講義をしようと思った途端に私が行方不明状態になる。
持参した講義内容の文字が見えなくなってしまい、見えると文字を追うようになり、どうも私が話しているようにはならない。
予習した内容は忘れてしまっていい。
数行のレジメからあらたな情緒の再生をした方がスムーズに自分が話しているという気分になれる。
こういうことが「情緒」の仕業だったということを知ったのだ。
情緒=私の心の一片だった。
それで今日、blogを書き、タイトルは記憶も定かでない・・・
内容は久しぶりに模様替えをしたという喜びだった。
それが手違えですっかり消えてしまったのだ。
もう一度記憶を呼び戻すのは得意でなく、その時の情緒はすっかり死んでしまっているのだから。
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