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と、言っていた友人のTが亡くなっていた。
立春も過ぎた寒い日に、Tと1番親しかったWが知らせにやってきた。
私がTにメールをした1月20日はすでになくなり、ちょうどひと月目だったことになる。
音信不通に、私よりTと親しかったHに連絡したところ、Hの妄想力は凄まじく私たちに黙ってWさんと東京に行ってしまったんじゃないという返答だった。
その日
1人で玄関に佇むWさんに嫌な予感がした。
いつもTと一緒に訪ねてくれていたからだ。
知らせを聞き、それは信じられない衝撃だった。
その知らせを聞いた後には鬱が舞い降りてきて私の心を引きずりはじめた。
そんな日を過ごすうち、知らせに来てくれたWの辛さがジワジワと伝わってきた。
できることなら来たくなかったはず。
49日が過ぎたところで意を決して来てくれたと思うと辛くなった。
夜遅くまでメールでのやり取りをしてもTには飽きない魅力があった。
音楽、生き方、書評、尽きない情報量を持つ冷静で知的な若い頃から男性的な女性であった。
東京での会社で人間関係を広げ、実家のある福島に戻ったのは震災少し前だったように思う。
震災をきっかけにTとHと私との交際が始まり、そのうちTが一番気心の合うWと出会い、親しくなっていた。
編集という仕事柄そうそうたる人物との出会いもあり田舎から一歩も出ない私には彼女の経験談を聞くのは実に新鮮で楽しかった。
ただ、今となって感じる不思議な謎に包まれた様なTでもあった。
いくら親しい人でも家に寄せ付けない。
自分の事は語らないある一線を保っていた。
食事は作らない。
健康についての話はスルーする。
月一度、東京に必ず行っていた。
Wの話ではいつも通りに東京に行き、帰ってきてとても疲れたと言っていたこと。
ひと月あまり咳が酷く、病院を進めても行かなかったという。
Tが食べられなくなり、遂に医者に行くと初めて呼ばれて家に入りWが目にしたその部屋には家具も何もなかったという。
立ち上がれなくなったTの着替えを手伝った時、大腿部の細さは驚愕に値するものだったという。
医院からの紹介で即日大きな病院に入院したが、日に日に弱り東京の親友が来て帰った日の夜に、この世にいないようになるというたった1週間の出来事であったという。
入院の数日前に姪が呼ばれており、法科卒業に相応しい対応がとられていたという。
最後に私がTにしたメールは「蜜蜂と遠雷」を読んだお陰で、関連したテレビのドキュメントを観て楽しかったというお礼のメールだった。
そのメールがTがこの世にいないようになりちょうど1ヶ月目。
「Tさん、お元気なんでしょう?」と続けて打ち発信しても赤い文字で「未配信」の文字が現れ、何だろうと想い続けていた。
「蜜蜂と遠雷」は、Hの次に私に回ってきた音楽好きなTオススメの本であり、その本がTからの形見になってしまった。
書棚にある「ピアニストという蛮族がいる」これもTからH、そして私に届いた本である。
彼女の「中村紘子って文章うまいよな〜」という言葉とともにしみじみとして読み返す。
それにしてもWの寂しさ辛さに切なくなる。
「もっと優しくするんだった」と涙ぐむ。
Tが一番甘えた相手がWだったと思うと、もっと優しくするんだったの言葉には複雑な感情が入り混じっているはずである。
それが余計切ないものとして伝わってきた。
最近、中村紘子の2冊の本を注文した。
それを読む事でTへの供養、そして鬱脱出が出来たらという日々を過ごしている。
書けるようになったので、あと少しの時間であると思う。
それまで、Tを想い喪につくそう………。