a green hand

シンギュラリティは到来しない 新井紀子氏




漸く自分の動きができるようになった私。
自室にこもり録画を観たり、音楽を聴いたり、読みかけの本を開いたり、たまに庭に出てパンジーの花殻を摘んだり、模様替えをしたり、ひと月分の不安で溜まったストレスを解消するかのような行動をとっている。

今さら目覚めたAIについても、振り返ればき付かずにAIと共にいた事だった。
未熟者を大前提に書いているブログなので間違いだらけを公表しているようなもの。

読んでくれる人も信憑性のない未熟者をおおらかに受け入れてくださっていると心から感謝し甘えている。

新井氏の東ロボ君関連の著書で、AIたるものを私はSFまがいに感じていた事がわかった。
AIは万能であるかのように思うところや2045年にはシンギュラリティが到来するという意見に簡単にのせられてしまう危うさ。
それもこれもAIというのはなんたるかも知らずに枝葉で判断してしまうところに落とし穴があると気づいた。
AIを物語として捉える危うさである。

未来において万能であると考えるAIは物語でありロマンである。
コンピュータは意味を理解してるわけではなく入力に応じて「計算」し答えを出力してるだけの計算機という衝撃的な事実に唖然としている私。w

数字で置き換えられないことはAIにもできないという事になる。
数字で置き換えられることは長い数学の歴史4000年の中で「統計的」「確率的」「論理的」の3つだけと新井氏は説く。

高度な読解力と常識、人間らしい柔軟な判断が要求される分野、発想力やコミュニケーションの必要な分野などは計算機であるAIは苦手だと。

東ロボくんが東大に入れなかったのは、そのような理由によると新井氏は研究結果(2011〜ロボットは東大に入れるかのプロジェクトディレクターを務める)を述べ、従ってAIが人間の知能を超える転換点を超えるシンギュラリティは絶対に来ないと未熟者を嘲笑しながら断言した。w

この新井氏の本を読んだことでAIの変化の中に何年も過ごしていた事の気づき、10年単位で考えてみても凄い勢いで進化し続けている事に気づかされた。
ボーッと生きてる証拠だ。

ここまでの進化に人々の苦労は計り知れない。
AIに学習させるために、億という言葉をつぎ込む努力をして1つを確かにしていくだなんて。
気の遠くなる事を積み重ねないといけない、ご苦労様な事だ。

AIの弱点、万個教えられてようやく一を学ぶ。

一を聞いて十を知る能力や応用力、フレームに囚われない発想力などを備えていればAI恐るに足らずと新井氏は述べている。(AIにできない仕事、AIが代替できない仕事)

続きは私の受け取り方の違いなどに気づき気が向いたら。w











  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事