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a green hand

ぼくはイエローで

読み終えた。
なんとも言えない思いが残ったが、知らなかった事を知るという点でうれしい本であった。

あまり出場しない著者の配偶者だが私はこの配偶者の言葉や感じ方に楽しくなるのだ。
これは私の癖である。
映画でもドラマでも主人公より脇役やバッドボーイ的な人物に魅力を感じてしまうのだ。

皆さんが感想で面白かったと言ってるがおもしろいとは感じない。
おもしろいとかのレベルの本?
と思ってしまう。

配偶者が最初の方で、息子に「おめえ、ちょっとアンプの音量を落としてくれねいか」

中間の方で、みかこさんが「なんかあの子、血とか言い出してるんだよね。民族主義に傾いてんのかな」と配偶者への問いに「おめえはちょっと左翼っぽいからすぐそういうことを気にするけど、自分がどこから来たのかってことを人間が考えるのはごく自然だろう。そういうことをまったく気にしないで大人になるやつのほうが俺はむしろ心配」

この会話にニヤリとしてしまう。

ブレデイみかこさんがイギリス人の配偶者の言葉をこんな風に表現したのはみかこさんの故郷である福岡の言葉に近い訳なのかと思ってクスッとした。

この本から社会的なたくさんの疑問が生まれた。
読み進めるうち、ここがイギリス?アメリカじゃないよねの驚き。

イギリス、日本、中国、アメリカを一つの括りで国や人種をイメージするとき、くくったところから外れた、想像もつかなかった社会を知った時におのれの無知さに気づく。w

今回あまり関心のなかった階級社会、格差、偏見、人種差別、性的マイノリティ等をイギリス南部のとある町、著者のいう元底辺中学校のできごとを通し考えさせてもらった。

盛んに底辺託児所や元底辺中学校の言葉が使われる。
底辺託児所は筆者が務めた経験のあるところ、元底辺中学校は息子が選んで入った中学校である。

筆者のこの括りに違和感ありで、「おめえはちょっと左翼っぽいから」といった筆者の配偶者に内心、共感のにやりだったのかも知れない。

大なり小なりの自分の歴史の中にも差別用語があった。
だが怒りを感じるまでもなく通り過ぎて来た。

人生初の差別用語は、朝鮮人を侮った言葉。
大好きな父親から発せられたその呼び方に長いこと違和感を感じていた。
人の悪口を許さない母の教えからそれは悪口に属すると思ったからに違いない。

東北電力に務めていた父がダムができるまでを話してくれたことがあった。
何人もの犠牲者が出たという。
そこに携わっていたのが朝鮮人だと聞き、その朝鮮人を称した呼び名を「おかしい」と子供心に記憶として残っていた。
しかし今ではその蔑称さえ忘れてしまった。

そんな父だが一方、聾唖者と知り合い、家にまで連れて来ては身振り手振りで楽しそうに笑いあってる姿にも出会っている。
その人の呼び名も親しげではあるが「おおち」だった。

手話など今のように普及していなかったであろうその時代、身振り手振りで通じるコミュニケーションがうれしかったのかも知れない。
その「おおち」がくると何となく楽しい気分になったようにも思う。
父も「おおち」も楽しそうだったからかも知れない。

子供の頃「おおち」とは名前なのか分からないが話せない人=「おおち」と私は勝手に思いこんでいた。
これも謎である。

父の母、私の祖母もかなり異なるものを受け入れられる人だった。
明治生まれであり、文盲である。

祖父は会津の農家に生まれた。
末っ子でヤンチャだったのか口減らしかわからないが勘当されて伊達に辿り着いたという。

私の曽祖父にあたる人は、生粋の会津魂の頑固者であったらしく、父からしても、上座に毅然として座する怖い人と聞く。
父とその妹が初めて訪ねた会津の祖父の実家。

駅から祖父の家に打ったムカエタノムの電報が気に入らないと着いた早々に怒られたエピソードを聞いたことがある。

「目上に向かって迎えに来いとは何事ぞ」

勘当ではなく自ら出てやったと祖父は我が子たちには話していたらしいが、それはわからない。
そんな怖い曽祖父なら多分勘当ではなかったかと思ってみたりする。
私の曽祖父、江戸時代の人と思っただけでその時代が妙に近くなったような変な気持ちである。

謎だらけの祖父に会いたかったなと私が生まれる前に亡くなっていたのが残念でならない。

戦後誰もが貧乏だった時代に、子どもの間では「誰々ちゃんの家はお金持ちだから先生に贔屓されてる」などという陰口が何度かかすった。
私に「贔屓」の意味はぼーっとしていたためわからなく、それ以上に陰でコソコソに関心がなかった。

ここでも母の教え「人の悪口を言ってはならない」が効いていたか、もしくは「あんたは自分のこと以外関心のない人」なのかちょっとわからない

祖母は、物乞いの人とも仲良くなれる人で、困った人へ情けをかけていた。
家もなく汚れた身なりで町から30分以上離れた我々の住む社宅に時々来ていたのだ。

流石に応じるのは年かさの祖母だけ。
我々子ども心に見知らぬ人のボロボロな様相にある恐怖に似たものがあったのだと思う。
その恐怖も誰かに植え付けられたものだと今では思える。

なかなか寝ない我々子どもへのおどし文句となって度々使われた。
1人の人への作り上げた「恐怖」によって布団を頭から被り、息を潜めて眠りへと落ちていく。
「早く寝ないと〇〇が来るぞ」

物乞いのその人は、住む家もなく食べるものもなく人々に卑しめられ、子どもらに悪態を突かれ、いじめられるだけでその貧しい時代を生きた。

文盲であったが人を差別しない明治生まれの優しい祖母は尊敬できる人間であった。

この祖母とは病気でなくなるまでの3年間、生活を共にした。
ダムのある社宅は、人との交流もなく、祖母とはしゃぐことが子供心を満たした。
祖母70代の終わりの3年間だった。

しかし、祖母が可愛がったのは1番父に似ていた末の妹である。

だからといって不満があったわけではなく、姉妹間の差別とも思わなかった。
ただ幼心に、自分の息子に似ている孫は可愛いという偏見?の芽生えは現れた気がする。

ヨロヨロしている祖母に追いかけさせたり、悪口を言っては怒らせたりして遊んでいた。
笑って悪態を吐く、これは気にすれば弱いものいじめである。

記憶のかけらを拾ってみると、子ども心に祖母の皺だらけの手の甲と頬のちりめん皺と長いオッパイが強烈であった。
そして今、自分の手の甲を見てると祖母を思い出す。
祖母の皺を笑ったグリーンな私が、申し訳なかった自分が今、うなだれている。

一つの家族にも気にすれば社会悪はたくさんある。
家庭は社会の縮図であり昔から今も続く不条理が垣間見られるものだ。

こんな記憶を呼び覚ませてくれた「僕はイエローでホワイトでちょっとブルー」の著者に深い感謝を捧げたい。

















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