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a green hand

岡潔 小林秀雄 対談 「人間の建設」

「人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質をもっています。」
これは対談のはじめの方で岡潔が、学問を好むという意味が今の小中高等学校の先生方にはわからないのですと言った言葉だ。

岡潔が数学者であることを知ったのは、この本を読むようにすすめられた17歳である。
小林秀雄という評論家についても多分初めて知る人であったに違いない。
が、活字としてだけの名前は岡潔より身近であった気がする。

誕生日なので、難解な大先生方に接したくなり、21回目の「人間の建設」を開いた。

17歳でこの本に出会ったとき、理解したことは何一つ無かった。
そんな惨めな思いは、「この二人が言いたいことが分かるまでいつまでも読んでやる」という意地のようなものに変わった。

数年も前に、古本で調べてもなかなか見つからなかったこの本を再度検索してみようという気が起きた。
するとどうだろうか・・「人間の建設」の文字がたくさん出てくるではないか。

2010年に文庫本になっていたのだ。

2006年から読んでいなかった「人間の建設」
もういいかな?ということだったに違いない。
10代で4回、20代で4回、30代で10回、32歳の時には5回も読んでいるのだ。
40代、50代、60代で其々1回である。

検索によって知った文庫本化はある意味大きな感動を覚えた。

こんなに時間をかけて読んでいた1冊の本がこの世の価値に値しないで消えてしまったのかと思っていたのに復活したのだから...。

とにかく難解な本なのだ。

作者が対談したときの年齢は何歳だったのか。
偉い方の書いたものをこれ以上理解するのには限界があるような気がしていたのだ。

8年振りにまた読んでみると、自分がようやく理解したことにも、年を経て再び触れてみると以前よりおもしろさを感じるのである。

「人は極端に何かをやれば、必ずすきになるという性質をもっています。」という岡潔の言葉が実感できたのかもしれない。

この本は私にとって、生涯こういうことを理解するように生きて行きなさいよと10代の中頃に示され導かれた本だったのかもしれない。
簡単な本ならこれほどに読むことは無かったのだ。

歯が立たない本であるのに、食いついたということは、自分の無知さとお二人の何か・・えも言われぬ魅力だったのかもしれない。

紹介してくれたのは新卒で高校に赴任してきた数学の女の先生だった。

小林秀雄は「むずかしければむずかしいほど面白いということは、だれにでもわかることですよ。
そういう教育をしなければいけないとぼくは思う。
それからもう一つは、学問の権威というものがあるでしょう。
学問の、社会における価値ですね。それが下落している。」と・・。

そこに出てくる「真善美聖」これがやがて、大学で理解し、次へとつながっていく。
17歳の私に、真善美聖?なんのこっちゃいという有様であった。

次の「無明ということ」については、太い赤線で「自己中心に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明という。」の部分に引かれ、解った日付が記されている。23歳のころである。
仏教でそういうことを小我といい西洋では自我という。それは醜悪さでしかなく、それを抑えるとやっていることが面白くなると書いてある。

このような調子でドンドン深く広くなっていく対談である。
続きはまたいつか・・。

今日は息子たちがお祝いに来てくれた。
Mちゃんにきちんとしたお祝い用のドレスを着させてくるのもRさんの素晴らしさだ。
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