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a green hand

フィギュア終わる・・・

スポーツ好きでない私が唯一好きなのはフィギュアスケートやアイスダンスだ。
中でも真央の演技は録画にとっておいてさえも結果が良いか悪いかを聞いてからでないと見られないほど臆病になる。

羽生も気になる存在だったがそれほどの思い入れはなく、一度寝てちょうどいい具合に目が覚めてショートもフリーもライブで観ることができた。
とても感動した金メダルだった。

というか、フリー最後のパトリック・チャン訂正とお詫びの演技中に、この演技で金メダルでも何だかな~と思っていたのだ。
結果は羽生が金メダル。

仙台出身の震災の苦労を知る、演技から美を感じる、言葉から感謝の心が溢れる若い珍しい17歳である。

真央の場合は、目が覚めてもスマホで確認もできないほど心配になる相手だ。
ショートを録画し、結果が悪いというから見ないで消去し、フリーを録画したつもりが未熟者のいつもある失敗。

フリーが良かったというから安心して録画を見ようとしたら、ショートの録画が現れるではないか・・。
ドキッとして急いで切ってしまった。

ショートを消去し、フリーの録画を予約した、すっかりそんな気持ちで安心していたのだ。

テレビで見て、快挙と言ってもいいほどの完璧な演技であり、終わってから、真央関連のサイトを片っ端から読んでいるのだ。

金メダル以上の印象をもって感動している自分がいた。
金メダルの価値がわからなくなるほどの素晴らしい何かを与えられていたのかもしれない。
親心なのだろうか・・英語仲間はそう言った。

ショートのあと、真央が可愛そうすぎてテレビを付けなかったというのだ。
優しい人間たちの集まりだ、というか日本中の真央ファンが一緒に心を痛めていたのだ。

浅田真央の何がこんなに人を惹きつけるのだろうかと思う。

子供のころから天才的な可愛いスケーターということももちろんだが
日本人としての「品性」に裏打ちされた魅力なのではないかとさえ私は思う。
あの穏やかな表情や話しぶりや立ち居振る舞いから想像することのできない、頑張りぬく精神性、真面目で一つのことに向かってすべてを投げ打って生きる姿には痛々しさを感じるほどである。

今回、羽生選手の姿に、私は「サムライ」より「KAMIKAZE」の精神をみた気がした。
いろいろ批判される「KAMIKAZE」引用ではあるが、日本人はカミカゼの如く生きられる素質を持っているのではないかという謎がとけてきたのだ。

愛するもののために死ねるのだ。
自分を愛してくれたもののために死ぬ、そういう覚悟のできる民族なのだ。
時代を超えて、羽生結弦の若い姿にチラリと昔の少年たちが重なった。

これは「人間の建設」にあった岡潔の言葉でギクリとする現代人には顰蹙を買いそうな部分があったが、これが岡潔の言いたかった「KAMIKAZE」の精神ではないかと思えるのである。

羽生結弦、彼の人への感謝、苦しさや貧しさ、逆境の中に生きて経験をした全てのことが彼の精神を育てている。
オリンピックという華やかな舞台までのことを思うと普通の人間が一生分にする苦労を全て経験してしまうのではないかと思えるほどである。

スケートに限らず、偉業をなすには、並々ならぬ生き方を経なければ結果はでないのだ。

しかもそのチャンスを捕まえるには、大いなるものの力が働いている気がしてならない・・。

浅田真央、23歳にして誰からも尊敬される、そして愛される心の景色をもつ素晴らしいスケーターであり、女性であり、人間である。

フリー演技中の真央の表情の激しさを捉えた一枚の写真があった。
ふと興福寺の「阿修羅」をイメージしてしまったのは何故なんだろうか・・
謎として残ってしまった。

本当に頑張ってくれてありがとうと心から言いたい思いでblog upである。
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