チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「"Mashi"、村上雅則、日本人初メイジャー・リーガー誕生から50年」

2014年09月01日 16時19分15秒 | 野球新陰流(上泉偐勢守のホウボウ剣

村上雅則 日本人初メイジャー・リーガー


今日は、1814年9月1日にウィーン会議が始まってから
200年の日にあたる。
ナポレオンの皇帝退位(エルバ島の少領主身分に堕とされる)後
欧州の戦後処理で、これによっていわゆる
"ウィーン体制"が敷かれることとなった。
各国の利害が対立して会議は遅々として進まなかったのだが、
ナポレオンのエルバ島脱出の報にあわてて議定書が締結された。

この様子が
「会議はオドール、されど進まず」
と言われたからか、今から50年前の1964年8月31日、
サン・フランスィスコウ・ジャイアンツとのマイナー契約でそのスィーズンを送ってた
南海ホークスの左投手村上雅則(1944-)は、
MLB昇格を言いわたされた。翌9月1日、
NYメッツの今はなきシェイ・ステイディアムで行われた
1対4とリードされた8回裏、
メイジャーに昇格したばかりの村上は、登板を告げられた。
メッツの5番、レフト、チャーリー・スミス(右打ち)を
見逃し三振にきってとった。が、つづく
6番、キャッチャー、クリス・カニザーロ(右打ち)にはラインドライヴ打を
センターにもってかれた。それでも、村上は
7番、ファースト、エド・クレインプール(左打ち)を空振りの三振にしとめ、
8番、ショート、ロイ・マクミラン(右打ち)をショート・ゴロにおわらせた。

弱小メッツ相手とはいえ、弱冠二十歳の堂々たるMLBデビューである。
このスィーズン、あと残りの1か月強で計9試合、
15イニングズを投げて、防御率1.80という成績を収めた。
村上は翌年もアメリカでプレイし、
45試合、74回1/3を投げて防御率3.75を記録した。
その翌年は南海が帰国させようとして日米の間に摩擦が生じた。
結局、日本でプレイすることになり、
例によってマスコミからのバッシングによって、
米国に復帰することなく、その後、
南海、阪神、日本ハムと移って、1982年のスィーズンをもって引退した。
その間の1968年には18勝、防御率2.38をあげるほどの好成績を残した。

日本でMLBが一般的になるのは、
村上から30年後の、やはりマスコミからさんざんバッシングされた
野茂のLAドジャーズでの活躍からである。以降、
イチロー、松井を経て、日本でにわかMLBファンが急増した。
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「It is gone, goodbye!/ラルフ・カイナーの死にあたって」

2014年02月09日 21時05分45秒 | 野球新陰流(上泉偐勢守のホウボウ剣
先週の2月6日に、
太平洋戦争後のMLBで7年連続
ナショナル・リーグの本塁打王に輝いた
Ralph Kiner(ラルフ・カイナー、右打ち右投げ、1922-2014)が
91歳で死んだ。同人はおもに左翼手として
ピッツバーグ・パイレイツでプレイしたが、
兵役や背中を痛めたことがもとで、
メイジャー・リーグはたった10年在籍しただけだった。が、
その10年で通算369本を放った。また、
1スィーズン50本以上を2度達成した。とはいえ、
グリーンバーグ用に設えられた"グリーンバーグ・ガーデンズ"
という甲子園球場の"ラーーキー・ゾーン"のようなもののおかげ、
ということもあった。また、
7度の本塁打王のうち、
3度までもが他選手(ジョニー・マイズとが2度、ハンク・サウアーとが1度)との
「タイ」記録だった。

それでも、カイナーは、
"Home run hitters drive Cadillacs, and singles hitters drive Fords."
(「拙大意」ホームランバッターはキャディラックに乗るが、シングルヒッターはフォードに乗る」
と豪語した。まだ、
筋肉増強剤打者がいなかった時代の咄である。
生まれながらにして相当に
腕(かいな)っぷしが強かったのだろう。が、
当時弱小球団だったパイレイツのGMブランチ・リッキーは、
"We finished last with you, we can finish last without you."
「(拙大意)本塁打王の君がいてもパイレイツは最下位だったが、
君なしでも最下位になれるさ」
と言ってカブズにトレイドされたのである。

そうして早くに引退したカイナーだったが、
野球解説者として活躍したことでも知られる。
当初はシカゴ・ホワイトソックスに雇われたが、
NY・メッツに移り、以後、名物キャスターとして長年解説を続けた。
あのミラクル・メッツもカイナーが解説してたのである。そして、
ホウムランが出たときのカイナーの名物セリフが、
"It is gone, goodbye!"
(「拙大意」行ったーー、入っちゃったよ」
だった。その名台詞を聞いて育ったメッツ・ファンたちから感謝をこめて、今度は、
カイナーがその言葉を投げかけられることになったのである。
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「ピート・ローズがタイ・カッブの4191本を抜いた日/1985年9月11日」

2013年09月11日 17時51分42秒 | 野球新陰流(上泉偐勢守のホウボウ剣
6月には小林亜星の倅(といっても52歳だが)が
女子高生にみだらな行為をしたかどで逮捕されたが、
今日はあのセクハラ疑惑の
「みのもんた」の次男(日テレ職員)が窃盗未遂で
とっつかまったらしい。
倅はキャッシュカードを盗んで法に触れ、
オヤジはTBS吉田明世アナの尻に触って、
というオサワリまくり一家である。
今年の9月11日はそんなnewsから始まったが、

9月11日という日は、
2001年の911や、1985年の夏目雅子女史の死や、
その同日のロス疑惑三浦和義逮捕とか、新しいところでは、
昨年の尖閣諸島(魚釣島・南小島・北小島)国有化、
といった記憶に残るできごとが多くある日附である。また、
1860年には当時の英国公使オールコックが外国人としては
公式には初めて富士山に登った日でもある
(万延元年7月26日)。いっぽう、
歴史上の人物の中で私が尊敬する数少ない人のひとりである
田沼意次の誕生日でもある(1719年≒享保4年7月27日)。が、
職業野球の世界でも、9月11日は
けっこうな記録が生まれた日である。

昭和12年に、現在の東京ドウムの前身ともいうべき
後楽園球場が開場した日でもある。同じく東京の
神宮球場や兵庫の甲子園球場はアマチュア向け主体のボールパークだったが、
後楽園はプロ仕様の球場だった。"こけらおとし"には、
当時のプロのオールスターによる紅白ゲイムが行われた。
紅軍の水原茂が球場第1号本塁打を放った。私のガキの頃は
親が読売新聞社にけっこうなコネを持ってたにもかかわらず、
日曜にいい席のチケットを取るのは至難だった。だから、
その中でも人気のない国鉄(産経)戦以外に
球場で観戦したことはあまりない。次いで人気のなかった
広島、大洋戦が数えるほどだけだった。ともあれ、
私のガキの頃のプロ・スポーチ施設といえば、ここと
神宮球場と東京球場と蔵前国技館と田園コロシアムだった。
東京ドウムになってからは数えるほどしか行ってない。

1992年の9月11日(金曜)には、
日本のプロ野球史上(現在も破られてない)最長のゲイムが行われた。
甲子園球場でのヤクルト・スワローズ戦で、延長15回の
6時間26分である。終了時刻は零時26分だったので、正確には、
日附は翌日にもまたがる。ちなみに、
阪神八木選手のフェンス経由のスタンド入り本塁打が、
ノムさんによる抗議で覆り、それに対する中村監督の抗議や
阪神ファンの騒動での中断37分が含まれる。結局、
試合は3対3の引き分けに終わった。
じつに無駄な延長である。

1985年の9月11日(水曜)には、
いわゆるシンシナティ・レッズのプレイアー=マネージャーの
Pete Rose(ピート・ロウズ、1941-)が、地元スィンスィナーティの
今はなきリヴァー・フロント・ステイディアムの対SD戦で、
タイ・カッブの通算安打4191本を上回る
1回裏の第1打席(左打席)にレフト前単打で4192本め、
7回裏の第4打席(左打席)にレフト線三塁打で4193本め、
にあたる2本の安打を放って
歴代通算安打一位になった日だった。ときに、
ロウズ、45歳。
観客の歓声が長く続く7分近くの中、
一塁ベイス上のロウズはときおり目頭を押さえた。その間、
打たれたエリック・ショウ投手はマウンドで体育座りをしてた。

ちなみに、
監督でもあったロウズは自ら2番ファーストとして出場した。
レッズにはビッグ・レッド・マシーンと言われた頃の選手は出戻りロウズの他に
コンセプスィオン遊撃手くらいしか残ってなかった
(ベンチにトウニ・ペレースはいたが、ジョニー・ベンチは客席だった)。
相手サン・ディエイゴウにはロース・アンジリーズから移籍した
ガーヴィー一塁手がいた時代である。
まだペイトリオット・デイでなかった時分の平日のゲイムなのに、
4万7千もの観衆がロウズの記録目当てに入場してた。ともあれ、
ロウズは3回裏の第2打席は一死後四球で出塁し、
3番パーカーのレフトへの"ポテン・ヒットで三塁まで進塁、
4番イサスキーの投手の足元を這うセカンド・ゴロの
ダブル・プレイ崩れで得点した。また、
7回裏の第4打席の三塁打のあとも、
3番パーカー敬遠、4番イサスキーのセンター犠打で得点し、
このゲイムで全得点をあげ、レッズが2対0で勝った。

ロウズは翌スィーズンまで現役を続け、通算4256本まで記録を伸ばし、
現在もそれは破られてない。ただし、
1989年の監督時代に自軍の勝ちに賭けてた野球賭博のかどで
MLB界から永久追放処分となった。
ストライク・ゾウンが低かった時代の選手のご多分に漏れず、
打席では体を極端にかがめて構える選手だった。
ユニフォームがはちきれんばかりの疑惑の体型を
カマキリのような格好のクラウチングの構えにして
短めのバットを手首を反して振る、という
バッティング・スタイルだった。
MBLにまったく関心がなかった当時の日本では、ロウズはその
ヘッド・スライディングで少しだけ知られてた。
記録を破ったロウズも破られたカッブも、
お世辞にも人格者といえるようなタイプではなかった。が、
メイジャー・リーガーとしてロウズはファン・サーヴィスには徹してたので、
1回裏に新記録を達成したときには、
観客からも同僚からも盛大な祝福を受けた。
花火まで打ち上げられた。ただしそれは、
星花火ではなかった。
……間断の、音なき空に、星花火 (海童)……
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「野球はピッチング、守備、3ランホーマー/元オリオールズ監督アール・ウィーヴァーの死」

2013年01月22日 00時08分57秒 | 野球新陰流(上泉偐勢守のホウボウ剣
MLBの殿堂入りの二人、
Stan Musial(スタン・ミューズィアル、1920-2013)が92歳、
Earl Weaver(アール・ウィーヴァー、1930-2013)が82歳で、
ともに1月19日に死んだということである。
セントルイス・カーディナルズで1940年代から50年代にかけて活躍した
ミュージアルは、当然ながら目の当たりにしたこともないし、
映像もそれほどは観てない。ガキの頃に、
日本のベイスボールマガジン社から出てたムックや
"Baseball Digest"などでその偉業を
読み知っただけである。人格者だったらしい。いっぽう、
アール・ウィーヴァーは少なくとも審判への抗議時においては、
口汚く罵って退場させられた、"マナーの悪い"野球人だった。が、
ガキのときにヤンキーズのMickey Mantle(ミッキー・マントル)の大ファンになって、
そのマントルが引退してからは私はいわゆるオリオールズのファンになった。

その時代の監督がウィーヴァーだった。そして、
ウィーヴァーが率いてた約15年のオリオールズは強かったのである。
100勝超えもあたりまえ(1スィーズン162試合)の球団だった。
ウィーヴァーの野球に対する"哲学"も、
私の野球の好みにピッタリだった。
"pitching, defense, and the three-run homer."
実際、ジム・パーマー、デニス・マルティネス、スティーヴ・ストウン、
マイク・フラナガン、スコット・マグレガーという強力な投手陣がいた。
「送りバント」「ヒット・エンド・ラン」「盗塁」など、
昨今は美徳とされるタクティクスな戦法を嫌ったのである。
当時のMLBの打席数、打数、安打数、二塁打数、三塁打数、
本塁打数(何点本塁打かも詳細に)、四死球数などの数字の
統計を数年間分採ったことがある。
一見無思慮に思われるらしいこのウィーヴァーの戦法はじつは、
統計的にも理に適ってたのである。
4分の1の確率で失敗する盗塁は好かない。
みすみす1ダウンを喫する犠打はさらに嫌いである。また、
敬遠の四球でみすみす得点の種を与えてしまうのが
私はもっとも嫌いである。それから、
野球で失点に繋がりやすいのが与四球と失策である。だから、
大事なのが"pitching, defense"なのである。

ウィーヴァーはさらに、
"platooning"あるいは"platoon system"
(日本ではツー・プラトンと呼んでた)という打線を組んだ。
おおざっぱには左打ちは左投手を打てない。だから、
左投手には右打ちを充てる。当然、
そうする手間が省けるスウィッチ・ヒッターがクリーンナップを打ってた。
Ken Singleton(ケン・スィングルトン)、Eddie Murray(エディ・マリー)である。
1950年代ヤンキーズのミッキー・マントルの如しである。実は、
ウィーヴァーはその当時のヤンキーズを率いてたケイスィー・ステンゲルの戦法を
踏襲したのである。こうして
右打線がズラッ、あるいは左打線が続く、
といった相手投手にとって気が抜けない打線を組むことで、
配球がワンパターン化する。クリーンナップのところでつい
甘い球を投げてしまう。
ウィーヴァーが監督だった時代は、
メイジャー・リーグのストライク・ゾウンはおそろしく低かった。
打者の膝からベルドでの高さである。かといって、
胸のあたりに投げた"ボール"を打者が振らないわけではない。
外すはずだった投球が、つい、
おあつらえ向きな球になってしまうのである。
1番2番が塁にでて3番が、もしくは、
1番2番3番のうちの二人が塁に出て4番が3点本塁打を放つ、
といった事象はけっこう起きるのである。そして、
なにより、こうした野球のほうが断然、おもしろいのである。

それにしても、
あのアール・ウィーヴァーが死んでしまうとは。船上であっけなく。
オリオールズの監督としての約2500試合のうち、
100試合近くも退場処分になったウィーヴァーは、ついに、
この世から退場してしまったのだった。
メモーリアル・ステイディアムが懐かしい。
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「右バッターボックスの最後隅から/ロジャーズ・ホーンズビー没後50年」

2013年01月05日 23時27分03秒 | 野球新陰流(上泉偐勢守のホウボウ剣
[Standing deep in the batter's box and far from the home-plate]

この頃感じること。
JRA渋谷Winsの客数がおそろしく減ったこと。
ことに若者はほとんどいない。
不景気と若者の可処分所得減だけでなく、
ネット購入システムの充実ということがある。もうひとつ、
靖国神社に参拝する若者が驚くほどに多くなったこと。
九段や市谷方面に用事があると靖国に立ち寄るのだが、
他の神社と比べて参拝者の20代日本人とおぼしき若者の率が
半端なく高くなった。私のようなオッサンがむしろ
場違いなとこに来てしまったと感じるほどである。
数年前に周辺に喫茶店がなくなってしまってて
オッサン二人で渋谷のサイゼリアに間違って入ってしまったときの
バツのわるさに近いものがある。
AKB48の板野友美女史と島崎遥香嬢が元旦に
振付の女性と靖国神社で初詣したらしい。それに対して、
近隣反日連中がネットで批判してるということである。が、
板野女史はそのブログでコメントを受け付けてる。よく、
タレントのくせに、ブログを立ててるくせに、
コメントを受け付けてないのがいる。
そういった輩に比べてはるかに立派である。

近代ベイスボールのプレイアーとして、
おもにセント=ルイス・カーディナルズで、
本塁打王2回、打点王4回、首位打者7回、
という立派な結果……
とくに1920年代の前半にはMLB史上初の
三冠王2回(2度は他にテッド・ウィリアムズだけ)……を残した
Rogers Hornsby(ラジャーズ・ホーンズビー、1896-1963)の
今日は没後50年にあたる日である。
4月ながらテクサスのウィンターズ生まれで、
2歳のときに父親が死んで、
オースティン、それからフォートワースに移った生粋の
テキサス野郎である。野球が巧いガキだったが、
当時のメイジャー・リーグのフランチャイズは
米国の北東部に集中してて、
セント=ルイスが最西端かつ最南端の町だった。
そのカーディナルズに1915年、19歳のホーンズビーは入団して、
のちに輝かしい成績を残すことになった。
プレイアー=マニジャーとしてワールド・スィリーズ優勝にも導いた。

ホーンズビー(右打ち)のバッティングの特徴は、
バッターズ・ボックスの最後端にして
ホウムプレイトから最遠の位置に右足を据え、
そのやや左に置いた左足をバッターズ・ボックスの
中心あたりに大きく踏み込んで打つ、
というものだったようである。こういうバッティングは
なるほど少なくとも打率は取れるとは思う。
1スィーズン40本以上もこの時代に打てたことがあるのが
驚異である。が、ともあれ、
私にとってはあまり好みではない打ちかたである。

Cardinalだったが、皮肉にも
cardiacな問題を抱えてた。
監督引退から1デケイドの1963年、
心不全で入院して約1か月、
シカゴのウェルズリー記念病院で
66歳の生涯を終えたのである。
生前に買い取った
テクサス州オースティンの広大な
"Hornsby Bend(ホーンズビー・ベンド=ホーンズビー水路)"
の中の墓地に母親やレインジャーらホーンズビー一族とともに
埋葬されてる。ちなみに、
Hornsbyというサーネイムは、イングランドの
「エデンの園」を表す土地の名という説もある。
私は訪れたことはないが、
その墓地のことは、メイジャー・リーガー掃苔家の
向井万起男著「米国の歩く影と、どうでもイイ話」(朝日新聞社刊)
のp208乃至p211に「ホーンズビー・ベンド巡礼」として
描かれてる。この人のメイジャー・リーガーの趣味は私は
合わないが、現代人のエッセイストとしてはこのうえなく面白い。が、
朝日新聞というウソ・ツキジデス史観に満ちた
貶日反米マスコミで連載してたせいか、この人物のエッセイにしては
この文章に面白みはあまりない。ちなみに、
2007年製作の米映画、
"The Jane Austen Book Club(邦題=ジェーン・オースティンの読書会)"
の中で、高校のフランス語の講師プルーディーが
「(私の夫は)オースティンをテキサス州のオースティンかっていう人よ」
と、その教養のなさを憤ってたスィーンがあった。が、
私はむしろ、「Austin Powers」が俎上にあげられてないことのほうが
不自然だと思った。ともあれ、来る1月28日は、
モームや漱石も絶賛した"Pride and Prejudice
(プライド・アンド・プレジュディス=(一般には)高慢と偏見or自負と偏見、
(拙大意)取りすまし屋の彼とひがみ屋の私)"が
そのタイトルで出版されてから200年にあたる日になる。
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