[Who started this stupendous idea to play those notes with a bass clarinet instead of a bassoon?]
昨年の12月、例の"tchaikovsky-research.net"の
"Forum"に、米・テクサス州のシャーマン交響楽団の第2クラリネット奏者、
という人物から、"Symphony No. 6 Bass Clarinet"
というトピックが投稿された。第1楽章第160小節後半の、
「ファゴット」による"pppppp"での
♪・・h(la)_a(so)・_fis(mi)_d(do)♪(それぞれにフェルマータ)
を、バス・クラリネットに替えて演奏することについて、である。
バス・クラリネットを使うなどという愚の骨頂は、
議論の余地なく、許されないことに決まってる。
チャイコフスキーはこの箇所をファゴットの独奏で書いてるのであるから、
後世の浅知恵者が弄した姑息に関して、本来、
チャイコフスキーには関係ない事案である。が、
ほとんどの愚かな指揮者がバス・クラリネットで代用させることが、
真のチャイコフスキー理解を妨げてる、という
由々しき問題であるので、捨て置けない。
英語ができない私であるからして、
その英文の投稿の大意をひょっとしら
曲解してるかもしれないが、掻い摘んでみれば、
以下のとおりである。
「提示部終いのクラリネットの独奏は、
最後の4もしくは5つの音符が、
A管クラリネットの音域より低いためか、
ファゴットに受け継がれて終わる。
バス・クラリネットのほうがファゴットよりも
はるかに低い音量を出せる、という発想から
そうされたものだろう。それに、おそらく、
クラリネットとファゴットの音色の違いよりも、
クラリネットとバス・クラリネットとの音色の違いのほうが少ない、
という理由もあったのではないかと思う。
この慣習がどこで始まったのか、
これがチャイコフスキー自身の措置だったのか、また、
チュイコフスキーは他の作品(例えば、くるみ割り人形)では
バス・クラリネットのパートを書きいれてるのに、
なぜ、第6交響曲では 使用しなかったのか、知りたい。
いちおう、私は自分なりの推論を立ててる。
チャイコフスキーの頃はバス・クラリネットが(オペラやバレエの)
オーケストラ・ピットでは一般的だったが、
交響曲ではそうではなかった。したがって、多分、
交響楽団にはバス・クラリネットは備えられてないので、
チャイコフスキーは交響曲にバス・クラリネットを加えるべきではない、
と考えたのではなかろうか、と。いっぽうで、
チャイコフスキーのマンフレッド交響曲には、
はっきりとバス・クラリネットのパートが書かれてる、
ということを、最近、人と話してるときに気づいた。
マンフレッドは大変に長大な作品だが、ともあれ、
チャイコフスキーの他の番号附き交響曲とは違って、
通常の編成よりはるかに管の編成は多い。
バス・クラリネットもそれに含まれる。が、
たいして活躍の場があるわけではない。とまあ、
このバス・クラリネットかファゴットかという問題について、
私には本当のところはわからない。単に、
仮説を立てたにすぎない。そこで、私は知りたい。
チャイコフスキー研究の専門家の方々が、
このことについてどうお考えなのか。
どなたか、真相をご存じか」
実に悲痛な叫びである。それはともかく、まず、
チャイコフスキーがおそらく好きで、こんな疑問を呈するのに、
"the last 4 or 5 notes"と書いてる。
♪la_so_mido♪という4つの音を不確かにしか覚えてない、
という不思議さ、である。また、プロの演奏家であるのに、
「マンフレッド交響曲」を「交響曲」と捉えてる点である。が、
それが国内外に一般的なプロの演奏家の
平均的な認識、認知度、であるから、しかたない。問題は、
彼の最後のセンテンスに対する「専門家」の冷たさ、である。
この「フォウラム」には、世界のチャイコフスキー研究の権威が
何人も見て、参加もしてる、というのに、その中の
誰ひとりとして彼の悲痛な質問に答えてあげないのである。
そして、わずかに反応したかたも、質問者の疑問には
本質的なことでないことに話題をすげかえてしまった。
そこで、おバカなチャイコフスキー・マニアである私が、
Kamomeno Iwaoというエイリアスで、
「悲愴交響曲」の"Programme"を示してあげようと、
このように投稿してみた。
I do not know who had first performed or had directed to play those notes with a bass clarinet instead of a bassoon. It is certain that a bass clarinet can better handle the "each-fermated" pppppp four notes than a bassoon especially in the compass. However, I do not think it is good idea. It sounds something comfortable or warm, while it attaches to ff-stroke of tristan chord(c-g-a-es). It is strange. The compass of those four notes is almost the same as that in the beginning a bassoon plays with pp. Then, please imagine a bass clarinet play at the introduction. Does not it sound strange? It is important that it is hard to play, I think. Motif in the introduction substantially in E minor, that is, motif of main theme in B minor, quotes the tune on which Beethoven by himself titled in French "La grande sonate pathetique". Moreover, those origin is opening motif of Bach's Mathew Passion in E minor, "e-----^fis^g_fis-----^gis^a_gis"_fis_e ("la-----^ti^do_ti" "ti-----^ ♯do^re_♯do").
The 6th Symphony and the 3rd Piano Concerto are the last orchestral works of Tchaikovsky's. And both, after the accompaniment of the strings, a bassoon begins to play each motif. This is the same way at the beginning of Mozart's "Requiem". Therefore, I suppose it as follows. Tchaikovsky composed this symphony as "Pathetique=the Passion", that is, "Requiem".
(英訳ソフトを使って英文に直す前のもとの日本語)
誰が最初にこれらの4つの音符をファゴットでなくバス・クラリネットで演奏する、あるいは演奏させるという愚行を犯したのか私は知りません。確かに、バス・クラリネットのほうがファゴットより(とくにこの音域では)「4つの音符すべてにフェルマータがかけられた」箇所を「pppppp」で演奏しやすいでしょう。しかし、その安易な代用を私は愚かな猿知恵だと思います。
バス・クラリネットがその箇所を吹けば「いくらか心地よく、暖かく」聴こえるかもしれません。しかし、4つの音符の最後の音が「ff」で始まる展開部の「トリスタン和音(ハ-ト-イ-変ホ)」に間髪入れずに繋げられてるのです。バス・クラリネットなどにしたら変でしょう?
これらの4つの音符の音域は、序奏部でファゴットが「pp」で奏しはじめる音域とほぼ同じですね。想像してみてください。序奏部のファゴットの箇所もバス・クラリネットが吹くのを。奇妙奇天烈ではありませんか? それとまったく同じことなのですよ、これらの4つの音符をバク・クラリネットに吹かせることなど。この箇所のファゴットの「pppppp」は吹くのが困難であればあるほど、つらければつらいほど、意義があるのですから。
チャイコフスキーの「悲愴交響曲」の序奏の実質ホ短調の動機、すなわち、主部の主主題のロ短調の動機は、ベートーヴェンが自分で「大悲愴ソナタ」とフランス語で名づけたピアノ・ソナタの動機を引用したもので、タイトルの「悲愴」もこれに倣ったものです。しかし、このベートーヴェンの動機も、大バッハの「マタイ・パッション(受難曲)」の冒頭のホ短調の動機が元ネタです。
交響曲第6番(悲愴)とピアノ協奏曲第3番は、チャイコフスキーの最後の管弦楽作品です。そして、そのいずれもが弦の伴奏に乗ってファゴットが旋律を吹き始めます。しかし、この始めかたはモーツァルトの「レクィエム」そのものなのです。ですから、私はこのように推定しています。チャイコフスキーはこの交響曲を「悲愴な=パテティク=パッション=ギリシア語のパトス」という意図で作曲したのだと。つまり、この交響曲はチャイコフスキー自身の「レクィエム」なのです。
これだけアマチュアの私が示唆を与えてあげてるというのに、
質問者からも他の誰からも、まったく反応がなかった。
チャイコフスキーの音楽が好き、というわりには、
情けないというか、揃いもそろって
張り合いのない方々である。もっとも、
競馬番組キャスターの柳沼淳子女史と
E.H.エリックの次女女史(現在の夫の姓は柳沼)の
顔の区別もできない愚脳な私の戯言ゆえ、
1ミリほどさえ顧みられなくても無理はない。
昨年の12月、例の"tchaikovsky-research.net"の
"Forum"に、米・テクサス州のシャーマン交響楽団の第2クラリネット奏者、
という人物から、"Symphony No. 6 Bass Clarinet"
というトピックが投稿された。第1楽章第160小節後半の、
「ファゴット」による"pppppp"での
♪・・h(la)_a(so)・_fis(mi)_d(do)♪(それぞれにフェルマータ)
を、バス・クラリネットに替えて演奏することについて、である。
バス・クラリネットを使うなどという愚の骨頂は、
議論の余地なく、許されないことに決まってる。
チャイコフスキーはこの箇所をファゴットの独奏で書いてるのであるから、
後世の浅知恵者が弄した姑息に関して、本来、
チャイコフスキーには関係ない事案である。が、
ほとんどの愚かな指揮者がバス・クラリネットで代用させることが、
真のチャイコフスキー理解を妨げてる、という
由々しき問題であるので、捨て置けない。
英語ができない私であるからして、
その英文の投稿の大意をひょっとしら
曲解してるかもしれないが、掻い摘んでみれば、
以下のとおりである。
「提示部終いのクラリネットの独奏は、
最後の4もしくは5つの音符が、
A管クラリネットの音域より低いためか、
ファゴットに受け継がれて終わる。
バス・クラリネットのほうがファゴットよりも
はるかに低い音量を出せる、という発想から
そうされたものだろう。それに、おそらく、
クラリネットとファゴットの音色の違いよりも、
クラリネットとバス・クラリネットとの音色の違いのほうが少ない、
という理由もあったのではないかと思う。
この慣習がどこで始まったのか、
これがチャイコフスキー自身の措置だったのか、また、
チュイコフスキーは他の作品(例えば、くるみ割り人形)では
バス・クラリネットのパートを書きいれてるのに、
なぜ、第6交響曲では 使用しなかったのか、知りたい。
いちおう、私は自分なりの推論を立ててる。
チャイコフスキーの頃はバス・クラリネットが(オペラやバレエの)
オーケストラ・ピットでは一般的だったが、
交響曲ではそうではなかった。したがって、多分、
交響楽団にはバス・クラリネットは備えられてないので、
チャイコフスキーは交響曲にバス・クラリネットを加えるべきではない、
と考えたのではなかろうか、と。いっぽうで、
チャイコフスキーのマンフレッド交響曲には、
はっきりとバス・クラリネットのパートが書かれてる、
ということを、最近、人と話してるときに気づいた。
マンフレッドは大変に長大な作品だが、ともあれ、
チャイコフスキーの他の番号附き交響曲とは違って、
通常の編成よりはるかに管の編成は多い。
バス・クラリネットもそれに含まれる。が、
たいして活躍の場があるわけではない。とまあ、
このバス・クラリネットかファゴットかという問題について、
私には本当のところはわからない。単に、
仮説を立てたにすぎない。そこで、私は知りたい。
チャイコフスキー研究の専門家の方々が、
このことについてどうお考えなのか。
どなたか、真相をご存じか」
実に悲痛な叫びである。それはともかく、まず、
チャイコフスキーがおそらく好きで、こんな疑問を呈するのに、
"the last 4 or 5 notes"と書いてる。
♪la_so_mido♪という4つの音を不確かにしか覚えてない、
という不思議さ、である。また、プロの演奏家であるのに、
「マンフレッド交響曲」を「交響曲」と捉えてる点である。が、
それが国内外に一般的なプロの演奏家の
平均的な認識、認知度、であるから、しかたない。問題は、
彼の最後のセンテンスに対する「専門家」の冷たさ、である。
この「フォウラム」には、世界のチャイコフスキー研究の権威が
何人も見て、参加もしてる、というのに、その中の
誰ひとりとして彼の悲痛な質問に答えてあげないのである。
そして、わずかに反応したかたも、質問者の疑問には
本質的なことでないことに話題をすげかえてしまった。
そこで、おバカなチャイコフスキー・マニアである私が、
Kamomeno Iwaoというエイリアスで、
「悲愴交響曲」の"Programme"を示してあげようと、
このように投稿してみた。
I do not know who had first performed or had directed to play those notes with a bass clarinet instead of a bassoon. It is certain that a bass clarinet can better handle the "each-fermated" pppppp four notes than a bassoon especially in the compass. However, I do not think it is good idea. It sounds something comfortable or warm, while it attaches to ff-stroke of tristan chord(c-g-a-es). It is strange. The compass of those four notes is almost the same as that in the beginning a bassoon plays with pp. Then, please imagine a bass clarinet play at the introduction. Does not it sound strange? It is important that it is hard to play, I think. Motif in the introduction substantially in E minor, that is, motif of main theme in B minor, quotes the tune on which Beethoven by himself titled in French "La grande sonate pathetique". Moreover, those origin is opening motif of Bach's Mathew Passion in E minor, "e-----^fis^g_fis-----^gis^a_gis"_fis_e ("la-----^ti^do_ti" "ti-----^ ♯do^re_♯do").
The 6th Symphony and the 3rd Piano Concerto are the last orchestral works of Tchaikovsky's. And both, after the accompaniment of the strings, a bassoon begins to play each motif. This is the same way at the beginning of Mozart's "Requiem". Therefore, I suppose it as follows. Tchaikovsky composed this symphony as "Pathetique=the Passion", that is, "Requiem".
(英訳ソフトを使って英文に直す前のもとの日本語)
誰が最初にこれらの4つの音符をファゴットでなくバス・クラリネットで演奏する、あるいは演奏させるという愚行を犯したのか私は知りません。確かに、バス・クラリネットのほうがファゴットより(とくにこの音域では)「4つの音符すべてにフェルマータがかけられた」箇所を「pppppp」で演奏しやすいでしょう。しかし、その安易な代用を私は愚かな猿知恵だと思います。
バス・クラリネットがその箇所を吹けば「いくらか心地よく、暖かく」聴こえるかもしれません。しかし、4つの音符の最後の音が「ff」で始まる展開部の「トリスタン和音(ハ-ト-イ-変ホ)」に間髪入れずに繋げられてるのです。バス・クラリネットなどにしたら変でしょう?
これらの4つの音符の音域は、序奏部でファゴットが「pp」で奏しはじめる音域とほぼ同じですね。想像してみてください。序奏部のファゴットの箇所もバス・クラリネットが吹くのを。奇妙奇天烈ではありませんか? それとまったく同じことなのですよ、これらの4つの音符をバク・クラリネットに吹かせることなど。この箇所のファゴットの「pppppp」は吹くのが困難であればあるほど、つらければつらいほど、意義があるのですから。
チャイコフスキーの「悲愴交響曲」の序奏の実質ホ短調の動機、すなわち、主部の主主題のロ短調の動機は、ベートーヴェンが自分で「大悲愴ソナタ」とフランス語で名づけたピアノ・ソナタの動機を引用したもので、タイトルの「悲愴」もこれに倣ったものです。しかし、このベートーヴェンの動機も、大バッハの「マタイ・パッション(受難曲)」の冒頭のホ短調の動機が元ネタです。
交響曲第6番(悲愴)とピアノ協奏曲第3番は、チャイコフスキーの最後の管弦楽作品です。そして、そのいずれもが弦の伴奏に乗ってファゴットが旋律を吹き始めます。しかし、この始めかたはモーツァルトの「レクィエム」そのものなのです。ですから、私はこのように推定しています。チャイコフスキーはこの交響曲を「悲愴な=パテティク=パッション=ギリシア語のパトス」という意図で作曲したのだと。つまり、この交響曲はチャイコフスキー自身の「レクィエム」なのです。
これだけアマチュアの私が示唆を与えてあげてるというのに、
質問者からも他の誰からも、まったく反応がなかった。
チャイコフスキーの音楽が好き、というわりには、
情けないというか、揃いもそろって
張り合いのない方々である。もっとも、
競馬番組キャスターの柳沼淳子女史と
E.H.エリックの次女女史(現在の夫の姓は柳沼)の
顔の区別もできない愚脳な私の戯言ゆえ、
1ミリほどさえ顧みられなくても無理はない。
最近悲愴を聴きに行ったのですが、パンフレットにこちらのバスクラの箇所が譜例つきで載っているのを開演前に読んでまして、
わざわざ注目するとはこれは本来の悲愴が期待できる、ファゴット奏者頑張れと思いつつ読み進めると、
「実際の演奏上はともかく、作曲者がどう考えていたかが重要」と。
その日はたいそうなバスクラリネットの響きを味わいました。
作曲者の意図を表現するのが演奏や演奏会の意義なんじゃないんでしょうかね。
奏者の技術や実際の音響上の問題で指定されてない楽器を用いるなんて、しかも
こんにち通例となっているからといって考えもなしに慣習にのっとるなんて信じられないです。
どうせならやってしまえと思うのは、五番の主章57小節目ファゴットとクラリネットの音階の掛け合いのファゴットも、
バスクラにしてしまえばよっぽど「自然に」聞こえていいんじゃないかということです。
さすがにそこまでしたら笑ってしまいますが。
ずいぶん長いこと書いてしまいましたが、そんなのも、
ブルドッグと某党主の顔の区別が付かず、やけに「きょうのワンコ」コーナーが盛んだなあと勘違いする拙脳な私の戯言だと思ってご容赦ください。
コメント、ありがとうございました。
たとえ全音やオイレンブルクのニニチュア・スコアにせよ、
私は小学生のときから「悲愴交響曲」のスコアを持ち、
目にしてきました。ですから、当該個所に
「バスクラ」なんてないのも知ってましたし、まして、
チャイコフスキーがそのように意図したなんて思ってもみませんでした。が、
世の中の「指揮者」の中には、ポケット・スコアなんて見たこともなく、
あるいは見てもポケットしてて忘れてしまったまま、
「指揮者」になってから「オケ所有」の
コンダクター・スコアで「初めて」目にした、ようなのもいる、
っていうことでしょう。また、オケのメンバーにでも、
「そこをファゴットがppppppで吹くなんて無理なんだよ。
現場を知らないって怖いよね」
などと生意気なことを言われてそのまますごすごと
バスクラでやらせる、なんていう矜持や教養も持ち合わせてない、
音楽家には本来不向きな輩がうようよしてる、
っていうことでしょう。TVや雑誌で、
チャイコフスキーやその音楽について聞きかじったことをさも知ったように
御託を並べてる、相当著名な「指揮者」「演奏者」がいますが、
チャイコフスキーやその音楽のことを何も知らない輩がほとんどです。
まあ、やつらは金や地位のために演奏してるのであって、
チャイコフスキーの音楽が好きなわけではないのですから、
当然です。
ps:
ワンコそばは同県の盛岡ですが、あれの故郷では
「くくり雛」というものがあるそうですね。今日は
旧暦3月3日。戸籍は父親が他人のを済州、否、
採集したという、都市伝説があるそうですね。そうならば、
北朝鮮のミサイル発射を国会で擁護した、やたらと
瞼を直すのが大好きな(顔面整形は世界一醜い容姿の
某民族には日常茶飯事だとか)学生運動あがりの党首や、
嘘築地デス歴史観新聞や、出版社に圧力をかけて
ノーベル賞をとらせた反日作家やあれらは、
日本の売国奴、ではなく、それぞれが
「ほんとうの祖国」への愛国者、ということなんですね。
小学生の頃からポケットスコアを持っていたなんて羨ましいです。
私は去年、悲愴2楽章のホルンに言及しているサイトを検索するうちにこちらのブログへ辿り着きまして、
そこから本格的にチャイコフスキーの音楽が好きになってきたので、スコアは数冊購入したもののまだまだ新参者です。
無意識に悲愴の各旋律を口ずさんだりしてますが。
金や地位のために演奏してるというのは本当ですね。
一度歪曲されていない、よい演奏を聴きたいのですが、交響曲でそれぞれおすすめの音源はありますでしょうか?
以前ドゥダメルのCDが割とよかったと書かれていたのを覚えていますが、passionbbbさんの今まで聴かれた中で一番よかったものをお教えいただけたらたいへん嬉しいです。
愛国者O江氏が圧力でノーベル賞を取ったとは知りませんでした。
賞も信用できないなとやっと感じ始めてきた私には、なんとなく納得できることですが。
「飼育」という小説なる代物を
自宅の書庫で捜して(seek)たのですが、
けっきょくありませんでした。ために、
返信が遅くなってすみません。
長くなってしまいましたので、
別の投稿として書きこみます。
よく研究されているようで、感心いたしましたが、「さすがにプロは金のためだけ」という一節は、さすがに聞き捨てなりませんでしたので、少々コメントさせて下さい。
世の中には、苦労もせず、自分の理解だけで演奏してお金を大層儲けてしまう、そんなタイプの演奏家がいることは確かですが、基本的には、お金なんて二の次で、音楽が好きでないとこんな職業につきませんし、やってられません。一握りを除いて、音楽家はそんなに儲からないですよ(苦笑)
聴きに来られる方が思っている以上に、奏者は大変な思いをして生活していますし、単純に仕事量が多いですから、一曲一曲にアマチュアの方ほど時間をかけません。結果的に、曲の研究にさく時間も減りますが、言ってみれば指揮者が求める音を出す職人が、オケの奏者です。むろん、自由なソロが与えられれば、職人ではなく芸術家として演奏しますが。
指揮者が作曲家の意図を絶対とする人ならそういう演奏をするのが仕事ですし、指揮者が自分の芸術を前面に出すタイプなら、そういう音を出さないと、職人ではいられません。100人近い人数で、それぞれの見識で、一歩も譲らない、では、意図も方向性もあったものではない。
指揮者にしたところで同じです。アクが強くて、自己満足な感じの方も、います。これは否定できません。
しかし、移動時間も寝る時間も惜しんでスコアを読み込み、勉強し、その結果素晴らしい棒を振る方もいます。そりゃあ、チャイコフスキー研究家と比べたら、チャイコフスキー研究家の方がチャイコフスキーにかける時間は長いでしょうけど。指揮者とて、ハナからそれだけで食べていくことは不可能ですから。そんな決まった得意のプログラムだけで許されるのは一握りの指揮者です。
我々は、少なくとも私や私の周りの演奏家は、作曲家へも、指揮者へも、聴衆に対しても、尊敬と感謝の気持ちをもって演奏しています。私が誰かはここには書けませんが、聞きに来られる方に、そのように思われているのは悲しいですし、このような言葉を私のように見ることになる音楽家もいるのです。
一人の職業演奏家としてコメントさせていただきました。乱文失礼いたしました。
話を戻しまして、悲愴のファゴットの旋律ですが、確かに作曲家が指定した楽器を使い、音を出すのは原則です。
ただし、古典から現代に到るまで、悲愴のように楽器を変更してしまう例は、他にもあります。出ない音が書いてあるとか、楽器の都合上など、いろいろな理由ですが。
モーツァルトは、行く先々のオーケストラによって編成が違うのを、そのまま曲の編成にしてしまいました。本来なら、もしかしたら他の楽器を意図していたかもしれないが、都合により楽譜の方が改められた例です。40番のシンフォニーはその後改訂されたのも、そういった理由と言われています。
ということで、この悲愴ですが、たとえばバスクラが用意できなかったとか、オケにいなかったとか、何か初演時のファゴット奏者が最高に弱音が得意で、使ってみたくなったとか…いろいろな可能性があります。もちろん筆者様の言うように、ファゴットの音色にこだわりがあったかもしれません。
しかし、ここから何を選ぶか、何を重要とするかは、演奏家と指揮者が芸術家たる理由でもあるのです。
では、仮にファゴットを用いるとして、それを可能な奏者が、果たして世界に何人いるでしょう?
もし、我々がこの譜面を譜面通りの楽器で演奏するなら、クラリネットの旋律は大きく演奏せざるを得ません。構造上、クラリネットのpppに、ファゴットが弱音で勝ることなど「あり得ない」からです。これは、実際吹いてみないと、楽器をやられたことのない方や、弦楽器奏者の方にはわからないかもしれませんが(ちなみに私はクラでもファゴットでもありませんよ!)
そう、これも作曲家の意図を無視している、といえば無視しているのです。
演奏には、こういうことが日常茶飯事にあります。たとえばもっと古典の作品を演奏するのにパート譜にあるfを信用してみんながフォルテで演奏したら、音のデカい楽器の音と、伸ばしの音ばかりが聞こえるはずです。それも、作曲家の意図ではありません。
我々が楽譜に書いていない意図を見抜かなくてはならない、とでもいいましょうか。作曲家は音をイメージしながら筆を取りますが、紙にかける情報には限りもありますから。
楽器を変える、というのは確かに特異で稀有な例ですが、それも推測できうる作曲家の意図のうち、何を選ぶかでもあるのです。
もうひとつ、ちょっと話が飛びますが、楽器で出るわけがない音をわざわざ書く作曲家がいます。マーラー、リヒャルト・シュトラウスなど。
木管楽器にとって「最低音」の下の音は、楽器を変更しないかぎり、出ません。それを出せといわれても「ムリ」の一言です。
ファゴットのppppppも、つきつめれば同じことです。「音の高さ」的には問題はなくとも、音の大きさも、それは構造と相まって「不可能」なことなのです。
まぁ、敢えて「ファゴットでやれ」という指揮者も、いるのかもしれませんが。
それでファゴットが失敗して音がかけたら、それこそ作曲家の書いた音がなくなったわけで、そちらのほうが大問題ですし(笑)
絵はコピーしたり写真にとっても「モネはモネ」ですし「ゴッホはゴッホ」です。本物ではありませんが。
しかし、哀しいかな、作曲家は「ホンモノ」を自分で残すことは出来ないのです。
ホンモノとは今行われている演奏であり、音楽であり、本来楽譜やCDとして残せないものなのです。
楽譜はレシピと一緒、という言葉を残した人もいますが、確かに、少々大胆とはいえ、同意できる言葉です。
絵でコピーのモネを加工するわけではなく、
音楽が絵だとすれば、書きかけの絵を、最後にフォーカスや明暗・色味を決めていくのが、演奏という仕上げの作業なのです。
つまり曲はホールで完成します。どの意図を汲み取るべきかは、最終決定者=指揮者と演奏者に委ねられます。
だから我々も芸術家なのです。重複しましたね、すみません。
問題の箇所をバスクラに変えることで、チャイコフスキーがチャイコフスキーでなくなるとは思われません。
現に、「悲愴にバスクラを入れる」と、筆者様は表現されていますしね(笑)
これは個人的な感想ですがバスクラのppppppも、名人が、ここぞと音量を絞ったときの緊張感はなんともいえませんよ。
通りすがりに長々と失礼しました。
コメントに対する回答は下記別エントリに書き込みました。
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/62e21aea647fb0bd24ae5f7ca8e923df
あそこのフレーズは、バス・クラで奏されるのは、おかしいと、スコアを手にして以来、思い続けて来ました。
私はアマチュアオケの指導(指揮)をしていますが、私はファゴットで演奏してもらってます。
確かにあの場所には、pが(いくつならんでましたっけ?)6個書いてあったかと思います。その音量をファゴットが出せないと言う理由だけで、誰かがバス・クラに吹かせてしまい、以来それが何も考えずに踏襲されたように思います。
ですが、暴動のファゴット、おっしゃる通りppなのに似た音域を与えられています。
ですくら、あの大量のp、単に物理的な音量を求めて書かれたとは、どうしても思えません。
それに、冒頭のファゴットの音。これにファゴットの音をチャイコフスキーは呼応させてるようにも、思えてなりません。
それに、バス・クラで吹くと、音がまろやか過ぎませんか?
やはり、冒頭のファゴットの音があの箇所には、欠かせない音なのだと確信してます。
半年間遅れのレスですが、同じ考えを持っている方がいるの知って、オケのメンバーからボロクソに言われたけれど、決して間違えていなかったんだと、百人力、千人力を得た思いです。
おっしゃるとおり、ppppppは物理的音量を表しているのではありません。
音が出なくても、あるいは、かぼそく吹こうとして素っ頓狂に大きくなってしまったとしても、
チャイコフスキーが求めているのはファゴットの呻きこそなのです。
仮にバス・クラで吹いたとしたら、それではまろやかにも暖かくもきこえてしまうのもおっしゃるとおりです。
ともあれ、"無事""無難"にバス・クラで鳴ればそれでいい、そのほうがいい、
と思っている専門の演奏者、クラシック音楽愛聴者がほとんどだ、という惨憺たる現状のほうが大問題なのですが、
馬を水辺に連れていくことはできても水を飲ませることはできない、
バカにつける薬はない、バカは死ななきゃなおらない、のでいかんともできません。
発音源形態が異なる楽器での代替が"ある程度の許容範囲"などという、"音がそれらしく聞こえる"だけに価値を見いだすような幼稚で浅薄な物笑いの種でしかない、代用模造品の安っぽいフェイク音楽を聴いて満足なのが世の中にはまだいるのか、と真っ当な人たちにそんなむきが言われても私には救いようがない。