チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「音楽創作というスピリチュアルな世界/こんにちは赤ちゃん(歌=梓みちよ、作曲=中村八大)発表から50年」

2013年07月06日 22時36分54秒 | 倒錯の世界(嗜好の微調節と微ヒョウセツ
今から50年前の昭和38年(1963年)7月6日(土曜日)に、
NHKの「夢であいましょう」の「今月の歌」コーナーで、歌謡曲
「こんにちは赤ちゃん」(作詞=永六輔、作曲=中村八大)が
梓みちよ女史の歌唱によって発表された。ちなみに、
同女史はバイ・セクシュアルだと公言してる。

♪【ド(こん)ーーー・ド(に)ーード(ち)・・ド(は)ーーー・<ミ(あ)ーーー>ド(か)│
>ラ(ちゃん)ーーー・●●●●・・●●●●】・>ソ(あ)ーー<ラ(な)♪

久留米で旧制中学時代を過ごした中村八大(1931-1992)は、
日中戦争下で日本軍に占領されてた中国青島(チンタオ)で、
青島第一日本尋常高等小学校の校長をしてた
中村和之の三男として生まれた。
青島の八大関景区、あるいは、
仏教の八大聖地からその名をとったという。
青島は、日清戦争で勝利した日本に対して仏独露が難癖を付けた
いわゆる「三国干渉」で、大清国から恩着せがましくも
膠州湾一帯を99年間租借したドイツが築いた町である。
1914年、第一次世界大戦でドイツ(およびオーストリア)は、
日英同盟国との青島戦線で敗北した。日本が占領して
1922年に中国に返還された。その後、
日中戦争で再び日本が統治し、その当時の青島には
5万人ほどの日本人が住んでたのである。
音楽の才能があるらしいので、父親は10歳の八大を単身、
日本(東京)に帰して音楽教育を受けさせた。が、
また青島に戻し、そこでドイツ人に音楽を習わせた。が、
クラスィカルには向かず、早大高等学院ではポップスとくに
ジャズに惹かれてったようである。ジャズのもとともいわれてる
黒人霊歌にも興味を持ったことだろう。

♪【ド(Ma-)ード(ry)ー・ド(had)ード(a)ー・<ミ(ba-)ーーー>ド(by,)ーーー│
●●・>ラ(My)ーーー・・>ラ(Lord!)ーーー・ーーーー】♪

これは、黒人霊歌の中でもクリスマスに歌われる
"Mary had a baby, My Lord!
(メアリ・ハダ・ベイビ、マイ・ロード!
=マリアさまは赤子を産みなさった、主キリストを)"
というものである。ただし、これが
"Mikity got a baby, My Lord!"
だと、どこかのフィギュア・スケイティングのコウチが慌てて、
♪もーろーぞふーー、こまーりーてーーー
(ドーーー・>シーー>ラ│>ソーーー・ーー>ファー│
>ミーーー・>レーーー│>ドーーー・ーー)♪
と唸ってしまうことになる。ザビエルがどんなに、
「たとえあなたは現世では奴隷であっても、
ご主人様のためにせっせと働けば、
死んだら天国への門が開かれるかもしれない。だから、
精神的な主(イエス)へも忠誠を誓い信仰すれば、
あなたは必ずや天国に行けるのですよ」
と説いても、総じて知能が高く、
人生はつらくて当たり前という
物の道理をわきまえてた日本人は騙されなかった。
黄金の国での布教成績の悪さでザビエルは
イエズス会内で立場を失い、中国に転進せざるを得なかった。
現在でも日本でのキリスト教信者は
すべての宗派をひっくるめても
全人口の1パーセントにも満たない。が、
簡単にひっかかってしまう人種・民族もいたのである。

中村八大はキリスト者ではなかったが、
シャブ中だった。いわゆるヒロポン漬けだったのである。
話によると、これを打ってするエッチは
至福の快楽だということである。
ちょっとアブノーマルなものだったら、なおさらである。
"作曲家""ミュージシャン""アーティスt"などと言われる者は
凡人だったら何の有難みもない。他に
遺伝子を残せる手段がない者のうち
何らかの創作活動に天分を備えてる者が
なせるわざでしかない。だから、
平凡に結婚して子をもうけてるのに
"作曲家""ジャズピアニスト"というエセアーティストであるためには
薬の助けが要ったのである。が、
そういう凡人の脳内では、既成の傑作を自作として
アウトプットしてしまう事例が多い。
ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第5番」いわゆる「皇帝」が
「上を向いて(向精神?)歩こう」ということになり、ついには
「スキヤキ」の旨味成分イノシン酸となってしまった。そして、
聖母マリアがイエスを産んだことを信者らが大いに喜び言祝ぐ気持ちが、
自らの長男の誕生の喜びにシンクロして、つい、
自作として「こんにちは赤ちゃん」となってしまったのである。
主よ(罪深き私を)憐れみ給え、なのである。

足を洗う弟子もいないし、洗ってくれるマグダラのマリアもいない私は、
足を洗ったはずの煎餅焼きを、浮世の義理で引き受けてしまった。
さっき素材を受け取って明日いっぱいで仕上げなければならない。
しかも、その素材といったらメチャクチャな最低レヴェルの代物である。
仕上げ指定のデザインだけは一流なので何とかなるかもしれないが、
今から明日にかけては溜まってた留守録もみなければならないので、
気が重い。私のような才も能もない凡人ながら、
通常の人生も送れないブサイクで異性からはじかれた男は
ただただつらい縁の下でいつづけなければならない。が、
人生はつらいのが当たり前の人間に生まれた私の
虫けらと同等の微々たる存在価値なのである。
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「あぁ~んがあぁんが、驚~いた!/ヒョウセツ家たちに愛された江間章子女史生誕100年」

2013年03月13日 00時14分37秒 | 倒錯の世界(嗜好の微調節と微ヒョウセツ
一昨日の3月11日は、各方面で
偽善的な言葉を見聞きすることができた。
一日も早い被災地の復興を願う、などというのなら、
現在の自分の仕事や家庭や財産を捨てて被災地に赴け。それから、
「民のために祈る」というのは天皇陛下がなさることである。
そこらへんの輩が犠牲者・被災者のかたがたを思って
気安く祈るものではない。不遜である。一般人がすべきは、
実際に手を貸すか、金を出すか、である。
日本政府主催の「東日本大震災2周年追悼式」を
台湾の名を加えたといってボイコットする非礼を示した
"国家"があったらしい。
手違いで欠席などという見え透いた嘘で
得意技の無礼をおはたらきになった"国家"もあった。
性根の腐りきっってるのに未成熟な近隣"国家"どもなことである。
本日、2013年3月13日は、
作詞家江間章子(1913-2005)女史の
生誕100年にあたる日である。えま・しょうこ、略して
えましょう、である。誰も略さないけど。ちなみに、
命日が誕生日の前日である。
ヒョウセツの大家によって曲づけをされた
"愛唱歌"の作詞者として同女史は知られてる。なぜか、
そんな"作曲家"が"曲"を附けたくなる詞のようである。が、
いば昇と蓬莱軒の味の違いも判らない
拙脳なる私にはその理由を説ける由もない。ともあれ、
「同女史のもっともポピュラーなうた」の

♪●ミ・ミ<ファ・・<ソー・>ファ>ミ│>レレ・レ<ミ・・<ファー・ーー♪

は、モーツァルトの「トルコ行進曲附き」とも呼ばれる
pfソナタ(イ長調、k.331)のいわゆる第1楽章の主題、
とくに第4変奏、

♪●ミ<ファ・<ソ>ファ>ミ│●>レ<ミ・<ファ>ミ>レ♪
(チェンバロふうにしたものを、TwitSoundにアップしておきました。
http://twitsound.jp/musics/tsl0wu0BC )

に、「同女史の2番めに有名なうた」の

♪●●ソー<・ドー<レー│<ミーー・ミーミー│
<ソーーー・>ミー>ドー│>ラーーー・ーーーー♪

は、唱歌「茶摘み」

♪●●ソー<・ドー<レー│<ミーーミ・ミーミー│
<ソーーソ・ソー>ミー│>レー>ドー・<レーーー♪

に由ってるのである。後者はまた、
前者大先生の「著名なうた」である、

♪ソーー<ド・ドーード│<レー●●・●●●●│
<ミーーミ・ミーミー│<ソーーソ・>ミーー>ミ│
>レーーレ・レー>ドー│<レー●●・●●●●♪

が事実はヒョウセツよりも奇なりになってしまってる。

この2つに次ぐ江間章子女史の
3つめに一般的な"うた"もご他聞にもれず、

♪●●ミー・ミー>レー│>ドーード・ドードー│
●●>シー・シー<ドー│<レーーレ・レー●●♪

というように、
♪あ~~あぁ~ぁ、やんなっちゃった♪
と牧伸二がウクレレを手にしてボヤくほど、

"Tahuwahuwai(Hawaiian War Chant)"
♪●ミ・ー>レ・・>ドド・ド>ソ│
<ドド・ド<レ・・<ミミ・ミー♪

というハワイ原産の歌にインスパイアされてしまってる。
これの元歌は、
"Kaua i ka huahuai(カーウア・イ・カ・フアフアイ)"
「(拙大意)お前と俺は水しぶきの中、
涼しい水しぶきの中で二人はきつく抱き合う。
パライ・シダの葉を濡らすほど深い息遣いで」
というような内容の"ラヴ・ソング"である。
米国に滅ぼされたハワイ王国最後の王
Lili'uokalani(リリウオカラニ)女王の弟
Leleio(長音)hoku(レレイオーホク)2世の作、
である。ちなみに、もっと有名な
「アロハ・オエ」は女王の作である。

タイトルのハワイ語「カーウア・イ・カ・フアフアイ」は、
♪カーウア・イ・カ・フアフアイ、さ~かな~やさん♪
という日本の童謡ではない。
・ka(長音)ua(カーウア=私たち(二人))
・i(イ=~に)
・ka(カ=定冠詞)
・Huahuai(フアフアイ=水しぶき、スプラッシュ
……オトナの意味もあり……シ×吹き)
であるが、ka(短音)uaは
「戦争」という意味なので、
米国人の誰かがこの歌を
ハワイアン戦争の歌にとっかえたらしい。ちなみに、
私の個人的オヤジギャグ的見解であるが、原歌は、
頭の2語Kaua i(カーウア・イ)とka wai(カ=定冠詞・ワイ=水)とが
語呂合わせになってるのである。

ともあれ、
オツムのかよわい者が"作曲"などという
高等頭脳を要する営みを身の程知らずにしようとすると、
記憶に残ってる既存の名作がいつしか
"自作"としてアウトプットされてしまいがちである。
ヒトが感動する調性音楽はすでに出尽くしてしまってるので、
なにか新しい"楽曲"を作る、などというのは、
ありえないことなのである。もっぱら、
既成の音楽を焼きなおして、
音楽のオの字も解らない大衆を煙に巻いて
銭を儲けるのみである。ポップスであるからして、
パクリタバイが原則である。
あ゛ぁ~~あぁ~、やんなっちゃった。
あ゛ぁ~んがあ゛ぁんが、おどろ~いた。


追記=この記事の投稿から1か月半後の4月29日に、
牧伸二は丸子橋から多摩川に飛び込み自殺した。
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「遠くへ行きたい...空を飛びたい/ウィルバー・ライト没後100年...アンタール」

2012年05月30日 16時26分24秒 | 倒錯の世界(嗜好の微調節と微ヒョウセツ
私の世代で子供のときに野球をやってた者にとって、
ライトという守備位置は、
もっとも下手な者が回されたポズィション、
という認識だったと思う。が、私はその
ライトフィールダーというポズィションが好きで好きでたまらなかった。
幸か不幸か私は肩が強かったので、
草野球ふぜいではピッチャーをやらされることもあった。
ピッチャーはたしかにそれはそれで面白い。が、
外野守備、とくに右翼守備ほど私にとって魅力的なものはなかった。
フライボールを追いかける。そして、捕球する。それが快感なのだ。
メイジャー・リーガーが練習のときにやってるのを見て真似した
背面キャッチ(イチローが日本の野球ファンに普及させた)もじつに楽しかった。
捕球したボールを内野に返球するのがまたゾクゾクする。
常に走者の前に送球することを心がける。
捕殺(アスィスト)したときの気持ちよさは、何にもましてスカッとする。
先日、ブルーアーズの青木がウィリー・メイズばりのバスケット・キャッチをしてたが、
全盛期のイチローが見せたウォール(いわゆるフェンス)によじ登って
ホウムランをもぎ取るプレイは、私がガキの頃は、なんと
後楽園球場の塀の縁上に立って捕球する読売巨人軍の
国松彰右翼手(球界引退後は婿先の自由が丘亀屋万年堂経営)
のプレイが圧巻だった。その国松も、
投手から外野手に転向した口である。
同選手の背番号は36だった。

明治36年(1903年)12月17日にオーヴィル・ライトが操縦するライト・フラアー号は、
36m(120フィート)の飛行に成功した。そして、4回めのトライでは、
兄ウィルバー・ライトが260m(852フィート)まで飛行距離を伸ばした。これが、
いわゆる世界初の有人動力飛行である。今日、
5月30日は、ライト兄弟の兄である
Wilbur Wright(ウィルバー・ライト、1867-1912)が没して100年めにあたる。
有人動力飛行は人類の念願だった、と言われる。
兄弟が実験に選んだのは現在のノース・カロライナ州キティホーク近郊の
"Kill Devil Hills(キル・デヴル・ヒルズ)"の砂丘である。現在は
当時と風景が変わってしまってるが、そこが、
"いい風"が恒常的に吹く地だったからである。
「菩提樹」の主人公には寒風が顔に吹きつけ、
帽子をうしろに飛ばされてしまったが、
ライト兄弟にはこの向かい風が絶好の条件だったのである。
ここを選んだことも飛行実験の成否を分けた。いわば、
天王山である。京都山崎の合戦場跡からも、
サントリー山崎工場からもほど近い現在の八幡市には、
飛行原理を独自に研究して、
動力付き無人飛行機の飛行実験を成功させた二宮忠八が、
飛行機を開発するために事故で死んでった人たちを弔うために
自宅に建てた「飛行神社」がある。この二宮忠八は、若い頃、
学資稼ぎにオリジナルの凧を作って売ったという。
ライト兄弟の飛行機への道も凧の実験が入口だった。
1896年8月10日、それまで飛行機開発の第一人者だった
Otto Lilienthal(オットー・リリエンタール、1848-1896)が、
飛行実験中に墜落死したことが、ライト兄弟を
飛行機開発に駆り立てた。兄弟はまず、
凧の実験からはじめ、それからグライダー、そして、
動力飛行機、と段階を経てったのである。
兄弟は子だくさんのプロテスタントの牧師の倅である。
ともにいわゆる高卒である。独身である。が、
兄弟の中でもとくに仲がよかった二人は、
印刷屋を始める。やがて自転車屋に商売替え。それが、
のちの大成功につながるのである。当時の自転車は
ブルジョワの人気贅沢品で、ふたりは相当儲けたらしい。
実験資金に事欠かなかったのである。また、
ただ自転車を売ってただけではなく、独自の改良を加えたのである。
これが飛行機操縦の操舵のヒントになる。私の特技のひとつは、
自転車を両手放しで乗ることだが、カーヴを曲がるときの
あのバランスの取りかたは、自ら体現してみないと解らない。
メルセデス・ベンツがフル・ステアリングにしたときタイアを大きく傾かせて外に向く、
あの独特の小回りも実際に運転席で体感してみないと解らない。
ふたりは科学的な実験を繰り返して、最終目的に達したのである。

歴史的成功は地元の5人が目撃者となった。が、
マスコミを呼んだ公開実験でなかったことがのちに
いちゃもんをつけられることになる。
フライアー号が宙に浮いてるところは写真にも収められた。
松本智津夫の空中浮遊写真のように。ちなみに、
サヨク人権派弁護士どもの妨害によって松本の死刑は遅らされてる。が、
そんなことは無駄である。なぜなら、たとえ執行されても、
我が国の死刑は絞首刑である。そうすると、
松本は首を吊られても空中浮遊の術で刑を免れてしまうからである。
ともあれ、
ライト兄弟は学者でもなければ有力者の後ろ盾もなかった。だから、
その成功は妬まれ、疎まれた。
"Flight by machines heavier than air is unpractical
and insignificant, if not utterly impossible."
と言われてたように、兄弟はペテン師のごとき扱いを受けた。
当時は一般人はおろか"専門家"でさえ
実際に人が空を飛ぶということが信じれない者もいたのである。
現実には「ただ空を飛ぶというだけ」なら、すでに
当たり前のことだったのにもかかわらず……。
手柄を横取りしようとする輩、
パテント料をぶんどろうとする厚顔野郎、
いちゃもんをつける学者ども。あのスミソニアンも
兄弟に対して酷い仕打ちをしたのである。
自国の軍も評価しなかった。そこで、兄弟は
日独伊など、国外の軍への売り込みの手紙も出してる。
兄弟が開発・発明したパテントは無断使用・盗用された。
兄ウィルバーは訴訟に次ぐ訴訟に追われる毎日となった。そして、
100年前の今日、弱った体に腸チフスを患って、45年の生涯を閉じた。
弟オーヴィルは兄の死の3年後には会社を売却する。
第一次世界大戦で戦闘機が登場した頃である。そして、
第二次世界大戦終結から3年後、76歳のオーヴィルは
巨万の富を残してその波乱に満ちた生涯を閉じた。
死の少し前にジャーナリストのインタヴィューを受け、
その辛辣な質問にオーヴィルはこう答えたという。
(あなたがた兄弟が開発した飛行機でドレスデンは空爆され、
広島・長崎に原爆が落とされましたが……)
「たしかに、軍事目的に使用されることは想定しました。
でも逆に、都市空爆によってドイツや日本をおじけづけさせて
戦争をやめさせることに繋がるように願ったんです」
米国は真珠湾攻撃を"奇襲"で"卑怯"と言う。が、
日本軍は軍事施設だけを攻撃した。彼らのように、
非戦闘員に対する民間人無差別攻撃はしなかった。

E=mgh
故青木日出雄が日航ジャンボ墜落事故のとき、
「(飛行機は)鉄の塊なんですから、落ちるっていうのは
ある意味当然なんです。落ちるのが当たり前なんです」
と言ったとおりで、飛行物体は簡単に落ちる。実際、
ライト兄弟の成功の要因のひとつは、彼らが
"腕のいい"操縦士でもあったことらしい。9年前、
兄弟の初飛行100周年に際して、
ライト・フライアー号を復元する試みが複数行われた。が、
それらは離陸すらできなかった。また、昨年も、
1910年の復元機を飛ばすイヴェントが行われたが、
それも離陸はしたものの飛行中に墜落して、
操縦士2人が死亡するという事故があった。そのように、
ライト兄弟が開発した飛行機は彼らの飛行技術と
"根性"による力も大きかったのである。
私は今でも飛行機が苦手である。高所には恐怖を覚える。
若気の至り、怖いもの知らずで昔は海外旅行もけっこうしたが、
今はもう飛行機でなければ行けないような、
知らない街を歩いてみたい、どこか遠くへ行きたい、
とも思わない。だから、
リームスキー=コールサコフの「交響曲第2番(アンタール)」
(1868、1875、1897)の第3楽章、
♪ラ<シ<ドー・ーー<ミーッ・・>レー<ミ>レ・>シ<ド>シー│
>ラ<シ<ドー・ーー<ミーッ・・>レー<ミ>レ・>シ<ド>シー│
>ラ<シ<ドー・ーー<ミーッ・・<ソー<ラ>ソ・>ミ<ファ>ミー│
<ファー<ソ>ファ・>ド<レ>ドー・・<レーーー・●●●●♪
という行進曲を聴いても、パルミラの廃墟を訪れて
"人生の3つの喜び"を贈られたいとも思わない。

今から50年前の昭和37年(1962年)5月は、
NHKの「夢であいましょう」という番組の「今月の歌」として、
「遠くへ行きたい」(永六輔作詞、中村八大"作曲"、ジェリー藤尾歌)
という歌謡曲が新作として発表された。これはのちに、
民放日テレの旅番組のタイトルとしても使われ、その中でも
歌いつがれた。
♪ラー・ー<シ・・<ドー・<ミー│>レー・<ミ>レ・・>ドー・>シー│
●●・>ラ<シ・・<ドー・<ミー│<ソー<ラ>ソ・・>ファー・ーー♪
永六輔&中村八大というコンビは人心を捉え、
大衆の操縦技術に優れた商売上手だったようだ。
この歌謡曲は、日本以外でも、ソ連をはじめとする東欧や北欧、
そして"中東の各諸国"でも大ヒットを記録、したのだという。
「咳、声、喉仏に、知らぬが仏。知らぬなら放っとけ」
とはよく言ったものである。
パリで飛行のデモンストレイションを行ったとき、
フランス語も話す教養もないことを皮肉って寡黙だと訊かれたとき、
オーヴィルはこう答えたという。
"I know of only one bird - the parrot -
that talks; and it can't fly very high."
(拙大意)
「遠くへは行きたいけど、talkは苦手な私が言うのも何ですが、
しゃべる鳥を1種類は知ってます。オウムです。
オウムはよくしゃべりますね。でも、飛ぶのは苦手なようです」
いやいや、松本智津夫なら空中浮遊はお手の物である。ともあれ、
flight(飛行)とwright(職人)は韻を踏んでる。
パパ・ハイドンの「皇帝讃歌」がショパンの「別れの曲」に入れ替わる、
チャップリン"作曲"の"rhymewright"の"Terry's Theme"が
聴きたくなった。
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「フェリーニ『道』のチャイコフスキー『スペードの女王』性/ニーノ・ロータ生誕100年」

2011年12月03日 21時45分00秒 | 倒錯の世界(嗜好の微調節と微ヒョウセツ
週半ばに煎餅の新規注文が入った。
不況なこのご時世で、俸給と頭髪が薄く、
いただける仕事はなんでも引き受ける
煎餅焼き界のジョスカン・デフレと言われる私に
仕事が回ってきたのである。私個人としては
ありがたいことではあるが、
高給でクォリティが高い煎餅屋さんに
どんどん仕事が持ち込まれる世の中であるほうが、
社会全体としては面白い。

ところで、
中央競馬は関東は先週までの東京から中山に移った。
ステイヤーズ・ステークスは三浦騎手のマイネルキッツ号が1着だった。今週も、
8歳馬ながら天皇賞馬が勝ったのである。競走馬といえば、
映画「ザ・ゴッドファーザー」では、
声が出なくなって落ち目になったフランク・スィナトラが
映画「ここより永遠に」の脇役マッジョの役柄に惚れ込んで
その役を狙ったもののなかなか思うようにならなかった、
という実話をもとにした、
ドン、コルレオーネをおちょくった映画プロデューサーが寝てる間に
ベッドにその愛馬の首を入れといて脅威を与えた、
というエピソウドがあったが、その映画での
馬の首は本物の生首だったという。今なら、
動物愛護保護団体から強烈な反対運動が起こることだろう。
恐竜が滅び哺乳類がこんにちこれだけ繁栄できた
最大の功労者である植物は平気で食うくせに、
動物を食うことには異様に目くじらを立てる輩どもである。

その「ザ・ゴッドファーザー」の音楽を担当した
Nino Rota(ニーノ・ロータ、1911-1979)は、
百年前の1911年12月3日に生まれた。Ninoといっても、
愛馬ではなく相葉雅紀がいる嵐のメンバーでも
和也という名でもないが、
秀でた映画音楽作曲者である。本職は
クラスィカルだと言ってたそうだが、
20世紀後半以降に調性音楽の
"新たな創造物"が生まれるはずもない。ともあれ、
父を襲撃した敵を撃ち殺したほとぼりをさましに
シチリアに逃げてたミケーレ(マイクルのイタリア語)が用心棒ふたりと
父の故郷を散策してたときにアポッローニャを見初めるスィーンでも
さかんに流される「愛のテーマ」
♪ミ・<ラ<ド│>シ>ラ・<ド>ラ・・<シ>ラ・>ファ<ソ│
 >ミー・ーー・・ー♪
は、チャイコフスキーのバレエ「くるみ割り人形」第4曲の、
♪ミーッ●●│<ラーッ●●・<ド<レ>ド<レ>ド・・>シーッ●●・>ラーッ●●│
 <シーッ●●・>ソーッ●●・・>ミーーー・ーー♪
にかなり似てる。この音楽は、
クラーラとフリッツの叔父ドロッセルマイアーが登場する場面である。
マイケルとアポッローニャの結婚式でアッポローニャがコンフェットを客に配るスィーンでは
ヴェルディの「ラ・トラヴィアータ」の乾杯のヴァルスが奏でられてるが、
ドロッセルマイアーはクラーラとフリッツの「名附け親」、つまり、
「ゴッドファーザー」なのである。

いわゆるアラン・ドロンが主演した
"Plein Soleil(プロン・ソレイユ=邦題「太陽がいっぱい」"(1960)では、
監督ルネ・クレモンの横暴な態度に怒り心頭、
フランス人作曲家サン・ソンスのパロディ音楽「動物の謝肉祭」第7曲、
♪ミー・>♯レー・・<ミー・>♯レー│<ミー・>ラー・・ーー・ーー♪
"Aquarium(水族館)"を
♪ミ│<ミー>♯レ・<ミー>ド│>ラー>♯ソ・<ラー<シ│
 <ドー<レ・<ミー(<ソ>)ファ│>ミーー・ーー♪
という節回しに仕立てた。それは、
モリス・ロネの遺体がアクア・マリンの海から引き上げられるのと対照的に
青いロウブのアラン・ドロンが水色のパラソルのもと青い海の眼前で
ブランデーを飲んでるエンティングでも効果的に流される。音楽が
「リプレー(≠replay、=Ripleyリプリー)」されつつ画面は、
スタビライザーあるいはfin(水かき)のないヨットが映し出され、
警察がドロンを逮捕しにくるところで"Fin"となる。

ロータの映画音楽で「ゴッドファーザー」の次に著名なのは、
♪ラ<『ド>シ│>ミーー』、ミ<ソ>ミ│<ラーー♪
スィナトラ一家のディーン・マーティンの倅と最初の結婚をする
オリヴィア・ハッスィーが主演した「ローミオウとジュリエット」である。
「玉木ヒロメオシと上野ジュリエット」ではない。ともあれ、
この『ド>シ>ミ』という動機は、その14年前の
フェッリーニ映画"La Strada(タ・ストラーダ=道)"ですでに使われてた。
♪ドーー>シ<『ド>シ│>ミーーーー』│<ラーー>ソ<ラ>ソ│>ドーーーー♪
これは、スィベーリウスの「交響曲第2番」第1楽章、
♪ドーーーーー・ーーーーーー│ーーーーーー・>シ<ド>シ<ド>シ<ド│
 >ラー>レーーー・ーーーー●●♪
同第2楽章、
♪ラーーー・ー、ラ>♯ソ>ミ│<ラ>レーー♪
と同じニオイがする。ところで、
この「道」という映画は、
三島由紀夫とアンソニー・クインの顔が瞬時には判別できない
拙脳なる私には難解である。
大道芸人のザンパノによっていいように使われるジェルソミーナ。
そのジェルソミーナをザンパノは遺棄する。年月を経て、
ザンパノは海辺の町でかつてジェルソミーナが
しょっちゅう歌ってた歌の節を聞く。
数年前にそこで死んだ娘が歌ってたのだと知る。
ザンパノはそのときはじめてジェルソミーナのありがたさを思い知り、
孤独な自分を哀れみ、自堕落に泣き崩れるのだった。
エンディング・スィーンは、ザンパノが夜の熱海の海岸で
慚愧に堪えずうっぷして泣き崩れ、画面に
"Fine"が出てくる、というものである。

これは、
賭けに負けたことを知ったゲルマンが後悔で感極まり、
ひどい仕打ちをしたリーザの優しさを思いながら
自らを刺して死ぬという
チャイコフスキーの「スペイドの女王」のエンディングと重なる。
ロータはそれを敏に感じ取ったのだろう。
ゲルマンの死を悼む男声合唱の最後の音である
変ニ長調の主和音にオケが加わる箇所、すなわち、
ファゴット2管、バストロンボーン+チューバ、ティンパニ、コントラバスが
主音を通奏するうえを、
クラリネット2管、ホルン2管、トランペット2管、トロンボーン2管のそれぞれ
1番奏者が主音ドの2分音符を、次の2拍をシのフラットを吹き、
それぞれの2番奏者がミの全音符を吹くところに
弦楽4部がユニゾンで
♪●●♯ファー・<ソー<ラー・・【ラー】ー>ソ・ソーーー♪
という「愛の主題」の亜型を弾く。すると、【】の箇所が
【ラ(<)ド(<)ミ(<)ソ(<)♭シ】という9の和音になる。
これがまた哀切きわまりない響きを醸し出すのである。
「道」のテーマ"Gelsomina(ジェルソミーナ)"の3小節め、
♪ドーー>シ<ド>シ│>ミーーーーー│
 <【ラーー】>ソ<【ラ】>ソ│>ドーーーー♪
にロータは同じ和音を膳立てたのである。
ヴァンクーヴァー・オリンピックで男子フィギュア・スケイティングの
高橋大輔選手がフリー演技で、
万感胸に込み上げる感情を表現できる和音が配された
この曲を使用し、銅メダルを獲得した。

英語でstreet、イタリア語で「道」を表す
"strada(ストラーダ)"という語は、ラテン語の
"strata(ストラータ=舗装路)"、ひいてはラテン語の
動詞"sternere(ステルネレ=敷く、散らす、拡げる)"
に由来する。その"sternere"の
一人称単数現在形は"sterno(ステルノ)"である。
[ザンパノはこう言った。「ジェルソミーナを道にうち"すてるの"だ」]
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「赤とんぼ考(その2)/山田耕筰(前篇)マネボウ、フォー・ビューティフル・シューマン・ライフ」

2011年09月14日 00時11分14秒 | 倒錯の世界(嗜好の微調節と微ヒョウセツ
ルーティーンワーク、引き出し作業のように、
才能がいらない仕事が相応しい私なので、
5300枚の煎餅も思いのほか速く焼くことができた。

[Lebhaft(リープハフト=Allegro)(四分音符=94)、4/4拍子、1♭(ヘ長調)]
♪ラー・・>ドー・ー<レ│<ミ<ソ・<ド>ラ・・>ソー、・<ラー│
 >ドー・ー<レ・・<ミ<ソ・<ラ>ファ│>レー、<ラー・・>レー・ーー│ーー♪
これは、ローベルト・シューマン(1810-1856)が1853年の夏に作曲した
"Konzert, Allegro mit Introduktion fuer Klavier und Orchester op.134"
(ピアノと管弦楽のための協奏曲、序奏附きアレグロ、ニ短調、作品番号134)
の中の主題のひとつである。
シューマンは1854年初頭には精神に異常をきたして、
以降は死ぬまで作曲活動は絶え果てたので、これは
晩年の作品といえる。この「4拍子」主題を、
そのフレイズィングどおり工作してみると、3拍子になる。
♪ラー・>ドー・ー<レ│<ミ<ソ・<ド>ラ・・>ソー、│<ラー
 >ドー・ー<レ│<ミ♪
このように、もとの"ぎこちない"拍感が絶え果てて、
すんなり収まる。もともと、
この節を4拍子にはめ込むこと自体に無理があるのである。
梅毒脳のためにシューマンの拍感は幻となってたのかもしれない。

それはともかく、
この節の冒頭の[ラー]を9度下げて[ソ(<ド)]と置き換え、
音価をいくつか工作すると、
♪ソ<ド・ドー・ー<レ│<ミ<ソ・<ド>ラ・・>ソー、│
 <ラ>ド・ドー<レー│<ミー・ーー・ーー♪
「アレ黒」というよりは「アレ、赤トンボ?」という感じである。そういえば、
小学校の音楽の教科書に載ってた「赤とんぼ」は、
ヘ長調だった記憶がある。というわけで、
三木露風の童謡詩「赤蜻蛉」を考える前に、
山田耕筰(1886-1965)がこの童謡詩に附けた節について触れる。

この類似性はボッケリーニの時代までは遡らないものの、
かなり以前から指摘されてたようである。が、
一般に知られるようになったのは、わりと近年である。といっても、
いわゆるクラシック音楽に関心を持つ人など、
かつての武士の総人口に対する人口比と似たり寄ったりで、
総人口の数パーセント程度しかいないので、
知られるようになった、というのは、
クラシック音楽に興味がない人は含まない。ともあれ、
女優吉行和子女史の兄にして、「ねむの木学園」を設立した女優
宮城まり子女史といい仲だったイケメン作家の
故吉行淳之介(1924-1994)は、かねてから
その類似点を人に語り、あるいは、
夕刊「フジ」に書いたりしてた。そして、昭和56年、
「文藝春秋」に「赤とんぼ騒動」としてその一連をまとめて
やっとクラシック音楽ファンにも多少知られるようになった。というのも、
モトネタであるシューマンの「序奏附きアレグロ、ニ短調、作品番号134」自体が
ほとんど知られてない曲だからなのである。

ともあれ、
この山田耕筰の「赤とんぼ」が
シューマンの「序奏附きアレグロ、ニ短調、作品番号134」
のパクリであることは歴然としてる。
オツムが弱いから天才の作品がことごとく自作として出力されてしまうような
中田喜直のみたいな輩とはわけが違う。その確信犯ぶりは、
悪質度が高いパクリ作家故立松和平や田口ランディのパクリよりも明白である。
盗作リストをあげればきりがないくらいであるが、その一例を示す。
【リスト/交響詩「前奏曲」の[Allegretto pastorale]部】
[Allegretto pastorale、6/8拍子、3♯(実質ホ長調)]
♪●●●・●ソッ<ドッ│<レ<ミ<ラッ・>ソッ>ミッ>レッ│>ドー<レ・<ミー●♪
【リヒャルト・シュトラウス交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」】
♪>ソ<ド<レ|<♯レー<ミ・ー<ファ<♯ファ|<ラ>ソ>ミ・>ド>ソ>ミ♪
この、ともにホルンのソロで吹かれる牧歌的な田園的な調べが

【山田耕筰/この道】
♪●ソ<・ド<レ│ミー・ミー│●<ラ・>ソ>ミ│>レ<ミ・>レー│>ドー・ーー♪
この道はいつか来た道、という郷愁的な詞にあてられたのである。
ニセアカシアの白い花が咲いてるということらしい。
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