団塊団子

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第2次小樽・石狩戦争

2018年01月05日 11時24分22秒 | 小樽

石狩湾の国境、いや市境はどこ?

洋上風力発電の税収をめぐり小樽と石狩が綱引き、
陸界延長か海岸垂直かで第2次小樽・石狩戦争勃発か?

洋上風力発電の計画が進む石狩湾新港沖の海上で、
小樽市と石狩市の境界を画定する必要が生じている。
境界線の引き方次第で、
発電施設にかかる固定資産税収入が大きく変わるためだ。

(2014.3.24 北海道新聞)



第1次小樽・石狩戦争

小樽の領土は奇妙に北東方向に延びたゲリマンダーである。
そこは、小樽と石狩の新港利権を巡る経済戦争の結果、
小樽領となったのである。

石狩湾新港

1973年、港湾工事が開始されるも、小樽港の衰退を懸念する小樽市がごねたため、
1975年、石狩町大字樽川村の一部を割譲し、小樽市銭函4~5丁目とした。
石狩湾新港を真っ二つに分割することによって和睦した両者は、
1978年、それまで北海道単独だった港湾管理者に加わり、
三者により石狩湾新港管理組合を設立した。
JR銭函駅で降りて銭函5丁目の新港までタクシーで行った早とちり氏は
国道337をぶっとばし、メーターが3千円4千円と上がるのに驚いたという。


バッタバッタ

小樽の東端、手稲山口にバッタ塚というのがある。
明治時代の北海道はバッタの大量発生で被害甚大だった名残である。
北海道でイナゴの大群?、まるでパールバックの大地じゃないか?
映画『北の零年』の一シーンに疑問を持ったのだが、
これが動かぬ証拠であった。
映画『北の零年』は稲田騒動から始まるが、この映画、
史実は参考程度と割り切り過ぎた娯楽活劇ではあった。


(注1)小樽の領土はバッタ塚よりさらに北東に延びる。

(注2)稲子
パールバックの大地で描かれたイナゴの大群、
昔は大群で押し寄せ、農地に壊滅的打撃を与えたのはイナゴと思われていたが、
イナゴは大群で飛び回ることはないそうだ。
バッタは普段はおとなしく緑色で孤独な生活をしているが、
旱魃で食べ物が減ると、えさをもとめ幼虫が密集し、刺激物質を発散し、互いに刺激し合い、
体は黒くなり、顔も四角になり、凶暴な群生バッタに変身するということだ。
明治13年~17年頃、北海道で農作物を全滅させた記録がある。

(注3)稲田騒動
江戸時代、徳島藩家老の稲田氏が淡路島を支配し、
稲田家臣は、徳島本藩からは陪臣として扱われていた。
明治2年、政府は武士の身分を改め、
稲田家当主は士族としたが、家臣は陪臣のため卒族とした。
稲田家臣は士族への編入と分藩独立を求めるに至り、
この動きは徳島家臣の激しい怒りを買い、明治3年、
稲田家臣が襲撃される事件が起きた。
政府は徳島藩側に斬首など厳しい処罰を下し、
稲田家側には北海道開拓を命じ、静内に移住させた。

(注4)バッタ塚
手稲山口のバッタ塚は札幌市指定史跡になっている。
飛蝗(ひこう)はバッタ科の昆虫(殿様飛蝗)が群飛して移動するもので、
アイヌ人の口承では何十年かおきに有ったという。
明治13年に十勝で発生し各地に広がり18年まで被害を与えたという記録が残っている。
政府は飛蝗が津軽海峡を越えることを心配し駆除に努め、
捕えた成虫は穴に埋め土で覆ってバッタ塚を造った。
手稲山口のバッタ塚は明治16年に掘り集めた大量の卵のうを砂地に並べて埋めたものである。

(注5)映画『北の零年』
北の零年、北のカナリアたち、北の桜守。
北の三部作最終章『北の桜守』は2018年3月10日公開。


コメント
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