しかし、霊性運動は、「真の霊性」に人々を導くものだと言えるであろうか。トランスパーソナル学者のパティスタは一九七〇年代以降の新霊性運動(ニューエイジ運動)の出現によって、自分の心の問題をすり替え、置き換えようとして、その考えや実践を誤用する人々が増えてきたと述べている。彼はこれを「偽りの霊性」と呼んでいる。パティスタの言う偽りの霊性には、霊的防衛と攻撃的霊性があげられる。
●霊的防衛
霊的防衛とは、われわれの「あるがまま」の白己表現を妨げる霊的な信念を指す。たとえば、ヒンドゥー教、仏教、キリスト教の信者は、人問関係において怒りを表現したり、自己主張したりしないことがある。それは、白分がそのようなことをするのが宗教の教えに反すると信じているためである。ところが、これは反面、その人が腹の底にもつ不快感を否定し、自虐的な姿勢を維持させることにもつながる可能性がある。霊的防衛が、白分の本音を否認し、抑圧する根拠になっているのである。これはその人の苦悩を肯定的な方向に変容させるのではなく、むしろ長引かせることにはならないだろうか。
わが国でも、長引く不況からか、ビジネスマンの間にも「プラス思考」、「ポジティブシンキング」という言葉が流行っている。これも元を正せば、一種のニューエイジ思想からきている。しかし、このプラス思考というイメージの操作法も、下手をすれば霊的防衛と同じく、何の解決にもならない場合がある。
白分が苦境や悩みの真っただなかにあって、にっちもさっちもいかない。上司からガミガミ叱られたり、つぎつぎと山のような仕事を押しつけられて、いたたまれない気持ちになって、落ち込んだりする。そういうときでも、「いや、これは白分に課せられた試練なのだ。私は絶対に成功する。この壁を乗り越えた先には、輝かしい未来が開けてくるにちがいない」とお題目のように心の中で言い聞かせたりする。しかし、一向に光は見えず、失敗を繰り返す人もいる。
闇雲にプラス思考をしたところで、失敗の原因を合理的に分析し、適切な対策を講じなければ何も事態は変化しない。現実否認のためのプラス思考は百害あって一利なしである。自分の腹の底に澱む悪感情に気づき、これを受け入れ、発散させてやらなければ、最後には心身を病んでしまうこともある。自分の心の中にある「悪」、「闇」を封殺するのではなく、これに気づいて現実的な方法で解消してやることも必要なときがある。
霊的防衛のパターンには、他にも次のようなものがある。
(1) 権威に絶対的に服従することが、人を愛し、霊的に謙虚になることだと合理化してしまうこと。
これは集団の中の権威者の顔色ばかり気にして、リーダーに気に入られようと取り入ったり、組織の大義名分を盲目的に受け入れ、操り人形のように振る舞うカルトのメンバーを想像してみればよくわかる。それがときとして、殺人すら肯定し、集団暴走につながることもある。
(2)「神は、私が必要とするすべてを与えてくれる真の源泉である」という言葉で合理化されてはいるが、実際は人に自分の世話を頼んだり、世話をしてもらうことができない状態。
困ったときに人からの助けを要請できないのは、対人関係能力の欠如と見なすことができる。霊的な成長はともかく、人と上手に関わること、そして対人的に成長することも心の発達の一つの要件である。
(3)禁欲的実践として合理化されているが、実際は対人的、性的な欲求を扱えない状態。
これは欲求不満を高め、逆に攻撃性を増大させる危険性がある。人間も動物の一種であり、白然の摂理に従って生きている。生存に関する生理的な欲求や人間関係に関わる社会的な欲求を白然な形で満たして楽しんだり、喜んだりすることも重要である。
(4)「霊性がすべてに作用する=人生は霊的レッスンである」と合理化して、生物学的・心理的、対人的な次元の問題に向き合わず、それに対処できないこと。
現実と向き合い、日常性の中で人として白然に生きていくことがまず優先されるべきである。人は霞を食べては生きられないし、愛情や友情など、他者と関わることで悦びや楽しみを見いだす。人は自分の存在価値を認められ、誇りとプライドをもつことで生き生きしてくる。霊的な生活を優先するあまり、魂の全体的な発達を見失うことは真の霊性開発には逆行するのではないだろうか。
■「呪いの研究 拡張する意識と霊性」 中村雅彦(著)トランスビューより抜粋
次回へ続く
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