先日、癌と闘病された元フジテレビアナウンサーの笠井さんの記事を目にしました。
がんが完全寛解して、情報を発信していたとき届いた便箋に、「なぜ、あなたが生きているんですか?」の言葉がしたためられていたそうです。
しかし、彼は情報発信をやめません。大病を患った自分だからこそ「伝えなければいけない役目がある」と。
私には、なぜ(自分の大切な人は死んだのに)あなたは生きているんですか?」
とわざわざ送ってきた方の気持ちは、わかるような気もしますが、あえてそれを笠井さんに向けて投げつけることではないと思いました。
でもそれは、やり場のない思いを、笠井さんならどう受け止めるのかというような、救いを求めるような思いだったのかもしれません。
私には、病を持った人の気持ちがよくわかります。
頑張れという言葉も、知り合いも同じ病気だったけど、今はバリバリ仕事をしているから大丈夫という言葉は、プレッシャーでしかなかった。
もちろん相手に何の罪も悪気もないことも分かっているだけに、余計辛かった。
良かれと思う励ましも、時には逆効果になる。勝手な言い草ですが。
同じ病でも、あの人は治っても自分は思うように行かないときには、不条理を感じてすべての情報から耳をふさぎたくもなります。
今は情報があふれていて、何を信じて希望を持てばいいか選択肢が多すぎて逆に苦しむことにもなるでしょう。
同じ病名でも、100人いれば100通りの受け止め方や症状の感じ方もあるでしょう。
笠井さんをはじめ、闘病した方たちの生の情報はとても貴重で参考になるとは思いますが、人によってはそれが必ずしも希望につながるものではないのです。
9年ほど前に、心臓手術の事を割と詳しくブログに書きました。
病名は同じでも、本人の受け止め方、かかわった病院や医師、家庭環境などでいろんなことが違ってくると思ったので、
あくまでも、私が経験して感じたことを書きました。
それを読んだ同じ病名の方がどのように思われたか、役に立ったかわかりません。
ただ、こんな風に誰もが好きに発信できる現代、自らが何らかの救いや参考を求めて、どこかの記事にたどり着くんですよね。
笠井さんの発信にたどり着いた方も、やるせない思いを何とかしたいと思っておられたのでしょう。
ただ、死と向き合って戦った方に、その言葉はひどいなあって思いました。
人生に無駄なし、すべての事に意味がある、という言葉もありますが、正直病は辛いものです。
が、私はそのギフトを受け取ってから、生きるという事の意味が分かり始めたようにも思います。
昨日の言葉、正岡子規さんでしたが、短い人生の半分以上を病とともに生きられたけど、病も彼の一部だったのだなあと、彼に関するものを読むたびに、感銘を受けます。
「病を楽しむ」そんなことはなかなか難しく、辛く厳しいものですが、その状況でできることがきっとあると思うと、
元気に歩き回っている時にはできない事、新しいことにチャレンジしてみるチャンスでもあるのではないかなあって。
え?あ、私は死にませんし、寝たきりでもありませんよ。
ぼ~~っと生きていないで、今を大切に何歳になっても夢とか希望を持って暮らしたいと思います。
何のとりえも功績も地位も名誉もないワタシですが、誇りを失わずに。
今日の言葉
ビクトール・フランクル 医師
ご訪問いただきありがとうございます。
感謝をこめて
つる姫