【たけしの時間】
経済学(ミルトンフリードマン=主流派)批判
(確固たる独立した)学問として成立しうる体系の見直し
・仮説の無謬性の主張
・仮説と結論との一致が正義であり検証の余地がないことの主張
・原子論的個人の考察を拒否「合理的経済人」と人間を位置付ける
・よって貨幣不介入の思考原理「比較優位原理」→「一般均衡理論」
・より少ない説明変数で実証することの正義
・よって、このわがまま前提を以って「数学」による実証をする
・さらに「観察の理論依存性」という過程(仮説と因果)の批判を以って理論を補強する
→数理的モデルが便利=修正がきく、発表しやすい
このあとたけしは、「科学」の立場を採って、この全てを批判していく
実証主義=理論の正しさを観察によって理論を実証する
ミルトンフリードマンは実証主義ではないことを論証していく
たけしは更に実証主義の欠陥にも触れていく(因果は分っても理論を構築しえない)
その後続き
このように結論を見ることにより
これは私が思うところ結論というそのものが存続学問を否定している帰結なんだと思う。私の結論は以上1行
手続も過程の真偽も介在させないこと、乃至は限定させること
これが閉鎖的な蓋然性に蓋をして発表してきたのが、現在の主流は経済学であり、不確実性=開放系、原子論的人間学=哲学を思いっきり採用していたのがジョンメイナードケインズその人であると
これってそもそも比較にならないんじゃないかな
私は日本の”経済学”を金井延起源として見ているが、現在の経済学論争、経済学者はどれにもひっかかからない、ちょっとアレで方向見誤った商学研究会(サークル)の域を出ないように思える
因みに私の立場は、
貨幣経済下における
経済事象以外の有事外状況下
に立つ商業実践家の立場で
貨幣経済と哲学、法学を学問として
論じている立場かな
「自由」についても
経済学の批判のために論じている
画一化された合理視点(前述「合理的経済人」)からみれば成立するがこれも双方若干違うかなと
あれ?たけしも批判しちゃってるね
一部ね
わたしの自身の社会実験の被験体として、貨幣を語るとするなら、
貨幣、①公債②現金紙幣③預金通帳
物(ぶつ)としての考え
債権的側面
①はどうすることもできないし明確なんだからさっさとやれ
③発行者、数量、債権者が明記されている双務契約書証書である
+物権的側面
②これは、発行者と数量のみが記載されている片務契約証書で、「紙」=「動産」であるからその所有に関しては、占有(要物性)を以って対抗要件が具備される
※動産と不動産の関係
不動産が先行的して定義されており「土地、及びその定着物(建物)」でありそれ以外の物を動産という
さらに会計処理されてそこで初めてGDPに寄与される
例えば、所得隠しの上占有した現金紙幣は、その時点では、GDPに加算されておらず消費(例えばちゃんと申告しているホストさん)されて初めてGDPとなる
その動機の考え
起点となるのは、景気動向によるので、今は①しかないんだよね
一方、
原子論的な人で考えると資本主義化の民間人は、創発に近い現象なんだと思う
恐らくケインズの時代には創発という考え方がなかったと思うから、説明が不確実性で止まっているのだろう
そして現在は退化した「合理的経済人」に集約しようとしている
たけし批判で勝手に先に進めると、科学ではなく、哲学的手法を用いて創発を利用すれば、現代の個人が見えてくると同時に、それこそ引用しまくってるがアタラクシア的営みと重なる個人が見えてくると思う
だから、いきなり地元に説教を向けるけど
歌舞伎町のホストさんは、そこに辿り着くまでの貨幣がGDPになっていないから、責任もって納税してほしい。
いやだけど世論や、個人名は控えるけど内閣総理大臣が何もしないから財務省のPV黒字の溜飲に少しは寄与するのよ。
たけしの真逆の環境にいる私の、大方整合していて、一部批判する私見だよ
東大、エディンバラ、京大vs中野区立江古田小学校
かんけーねーよ小卒はつえーから
生意気なのよ
【Tの時間】
こいつ、すげー生意気なの
私たちの世代は兎に角生意気だったのね
多分スローガンでいえば
「かんけーねーよ」(権力や年上に対し)
だったと思う
昨日生意気Tと話してきたけど面白いね
相変わらず不貞腐れた顔しちゃって
数年越しの暇つぶし
金輪際合わなかったとしても、友達だね
私の代の生き残っている生意気は私含めあと3人
それぞれの場所や環境で反抗して生きていきましょう
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます