飼っていた犬が死んじゃって
最期を看取った人、私の前の飼主さん、私、の何れもが何か逃れられない自責に苛まされるような
でもそれは間違っていて、
本人(犬)が可哀そう、
というより、考えていたら正解すら分かんなくなってきちゃって、
それは間違い探しすら出来ないことに気が付くとにより正解がないという気づきに辿り着く
犬を飼うということも、埋葬するということも、可哀そうだったと嘆くことすら、今目の前で、昨日お花で飾った犬を見ていても分からない
そもそも、人間が動物を飼う行為が傲慢なんだろうなと、
ただこれまた傲慢で間違ってなく、玩具、だと思うことが正しいような
犬を着飾る風習(犬にとっては大なるストレス)そのもの
日本人には馴染まないが、食の為の家畜、玩具に与するペット、
こういうものなんだろう
慈しむことそれそのもが、思い上がった人間の業病なのかもしれない
間違い探しは、正当化するため
正解探しは、思考停止へ向かう
所詮は玩具
そんなことを、今ひめちゃん目の前に考えていたが、
なんとまぁ涙止まんないや
ごめんよやっぱもっとたくさんお散歩連れて行ってあげるべきだった
「ひめ!木場、箪笥町、蕨、富久町沢山お引越し大変だったね。一緒に泊まれるホテルも行ったね。途中丸坊主だったけど、夏だったから涼しかったでしょう?途中モップ犬だったけど冬だから暖かかったでしょう?ちんやうざかったでしょう?仏道では畜生道なのかな、次は人間界で合流しましょう。おれも人間は嫌になってきちゃったけど、もちっと頑張ります。見ててくださいね。次あったらお散歩は引っ張ってね。
天国までの道程がどうか花咲く良い旅路でありますように。怖くないよ。じゃあね」
そしてみなみちゃとてもありがとう感謝しかありません
どうか自身を責めないであげてください
誰も何も悪くもない
若しくはそもそも悪い
ひめちゃんはそんなこと思っていないよ
何故なら人間みたいに感情が劣化していないから
ひめちゃんいままでありがとう
それではさようなら
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