ぼくぽてちん忘備録

a chainless soul
ずーっと夏休み

シスコン

2024-03-11 05:00:00 | 日記
【地震】
2月29日11時13分震度3
2月29日16時27分震度3
2月29日18時35分震度4
3月1日05時43分震度4
3月2日01時49分震度4
3月2日20時23分震度3
せめて3月7日までにおっきい地震こなきゃいいなぁ
きてもそれはそれで良いかぁ
なんて考えて1週間過ごしたかな。
引っ越した家の場所は高台に位置しているため、地震に対する怖さはそこまでない。
ただ突然頻発し始めた地震に対し、まさかこのタイミングで?という懸念があったが、それも無駄に終わった。

3月7日、どの立場でここにいるのか結局分からなかった。
昨年あつしが死んだときも、独自の立場を採った。
独善的に我が道を選んだ。
そうだ平原が死にかかった時も、久里浜を脱走したんだよね
これは、病院ラジオでもチョイスでも言っていないこと。
深夜、1時間に一回看護師さんが巡回する間、窓から真っ暗闇をただただ疾走してタクシーを呼び、泣き叫びながら有明癌研に向かった気がする。
あの時も西村先生だけが久里浜の中で味方をしてくれて、お蔭で無事帰棟させていただいた。
だから、誰とも馴合わず、必死にアルコール依存症と向き合った。
孤独にも親しんだんだよね。
結局彼を送る自分の考えも、たった一人だけだった。
今回も独善的に相変わらず一人は一人なんだけど、独りよがりでは済まされない。
さて、どうしましょう?
私はだーれ?
そもそもなんでこうなったの?


先々週の診察時、西村先生に姉が死んだこと、あまりにも辛いこと、家族という病の題材としては、これ以上ないことを話していた。
あ「いやぁもう吞んじまおうかと思いましたよ」
に「うぇぇ、わかりますぅ」
いやいやそこは止めろ、ここは何科医じゃ
本当に面白い先生だなぁと
このヒトとももう5年を超えたんだなぁと

【麗香】
わたしにとっては双子のような感覚の47年だった。
彼女とは幼少期、母が不在がちだったためいつも二人でいたように思う。
但し彼女は幼稚舎から私立だったため、帰りも遅かったが、
母が水商売だったことなどなどなどなどなど、
家に二人でいることが多かった。
それも長く続かず、私が小学校高学年になるころには、彼女は既に多感な思春期を迎えており、彼女も不在がちになる。
その頃、彼女の父親との交流もあったようで、かなり衝突を繰り返していたようだった。

その後、かなり端折るが、
・彼女は結婚・出産
・私は社会人
という機も曖昧なまま疎遠が続いた。

それまで、のことを夫々「知ってる」ことを誇示したいのか、
夫々の年配者が私に話してくるが、総じて気持ち悪いことこの上ない。
話している自身の醜さを自覚した方が良いよ
到底到達しえないから。
そうそう「まだ」という接頭語にはじまり私が到達しえないことを、最近宣ってたやつもいたけど、ひどく醜かった。

昨年12月、酷な事実を医者から聞き、正直実感が沸かなかったが、
私はそれ以降、彼女と、35年振りに交流を濃くすることになった。
毎週通院を共にした
仕事上の書類なども会社では間に合わず、
病院の待合室で書いてもらうこともあった
送迎を同行させたうちの社員とのグループラインを作る
毎週、タバコを吸って写真を撮ることが何となく楽しみになっていた
2月1日までは
・12月13日にはロウリーズで肉を食った
・12月18日事務所でてんやを食った
・1月11日光林坊で和食を食った(彼女の母も含め3人で)
2月1日、呼吸困難により救急車で運び込まれる
この日から、退院する2月14日まで毎日たくさんの話をした
伏線は12月13日、「二人きりで外食」は恐らく47年で初めてかもしれない
その時私は、彼女に対し、
「あなただけが、あなたの父とあなたの母の娘だよ」
という話をした。
入院中の2週間、この答え合わせが始まった。
いやいや麗香、いまさらそんなことを知らせるか?
そのようなことも多々あったし、私もこの空疎な櫻井史を忌憚なく話せた。
そうして、
前述の私の中の「双子のような感覚」が瓦解した。
私たちは誰が何と言おうと「私たち」
これは、麗香と私の物語なんだな
・2月14日蕎麦を食った(3分の1程度)
・2月16日うどんを食った(2,3本)
・2月19日てりやきマックバーガーを食った(ひとかじり)
2月23日が最後の写真となる

2月27日通院日、到底通院は無理だろうなと思っていたが、まさかの出発(田無⇒虎ノ門)
2月19日の通院診察の段階で虎の門病院の医師から私一人呼ばれ、
「なぜ通院できているのか分からない。次回診察はないものと思ってください」
2月14日以降も1L/D溜まる腹水を訪問医師が、都度抜いていた。
2月27日は血液検査から始まったが、なんと総ビリルビンの数値が
 4.7 ⇒ 2.4
と半減していることを医師から告げられると、
車いすで無言だった麗香が半身乗り出した。
本当に怖かったんだろう。
麗香の様相を、振る舞いを、正確に記述する能力は私には備わっていない。
ここまで事実を羅列してきたが、その時々の麗香の心境も測れない。
その日の2月27日22時55分麗香は死んだ。
私が思うに、抗がん剤によるダメージ、癌そのものの進行、あとは全く食べれていなかった栄養不足、総合的な衰弱
要するに普通に死んだんだと思う。
誰にも何も迷惑かけなかった。
死ぬこと前提の話も何もしなかった。
あれだけ大量の痛み止め(麻薬)を服用し続けながら。


そう、
麗香お前、マジで気合入ってんな


【麗香の母】
麗香はその半生、母親から途轍もない暴力を振るわれてきた、
ネットという共感や救いもない。
汎用される言葉すら当時は、ない。
何でなのか、本人も理解しようがない。
その中で徐々に麗香は気が付いていったんだと思う。

私は中3の頃40日間ホームステイをしている。
私を送り出したあと、成田空港でも彼女の母と大喧嘩
私を社会(彼女の父の元へ)に送り出したその時も大喧嘩
全て母の否定を以って私を保護しようと試みたもの。
麗赤は双子でもなんでもない、姉というにも安い。
字義通り捨て身で守ってくれた人なんだろう。
そうして、その後の私の歩みを見て「失敗してしまった」そんなことを思っていたのかもしれない。
そんな思いで家族づくりに臨んでいたのかもしれない。

【麗香の義父母】
麗香の元旦那は、山形県酒田市の本楯という駅から行ける場所に一族の居を構える農家の地主の末裔
現在でも恐らく十数世帯が固まり、視界を許す限りの水田に囲まれる農村部落であり、その生き残り=ある程度裕福な豪農一族であったことが伺える。
”伺える”といえるのは、
山形の農村部にはこんな昔話、文献がある

・田んぼには人影がなく、その先の松林に百姓が群がっていた。聞くと松の木の表皮と幹の間にある粘り気のある薄い皮が食用になるという。なるほど松の木はすべて皮がはがされて丸裸になっている。
・休む生徒も多くなる退学する子も多い。高等科などはがらんどうだ。役場では欠食児童に対する給食が間に合わなくなり、授業を午前中だけにした。(つまり給食不足を理由に学生を見捨て、先生の俸給も削減させた)
・元小学校校長で村長の山形県に対する嘆願書には「飯米代50,190円がないと村が餓死する。税金37,000円がなければ役場は閉鎖せざるを得ない」と書いてあった
・娘一人の代金は、年期が四年で500円から800円というが、周旋屋の手数料や着物代や何やかやと差し引かれ、親の手元に残るのはせいぜい150円程度。

これらは昭和6~9年の話なんだよね
「昭和東北大凶作(山下文男)」のほんの一部である
※P210は令和の歌舞伎町民の私から見てこの国民、歴史的にやべーあほという結論になるがこれは私のライフワークとして退けておく

同じ村落で”小作人”と”地主”とで生死(餓死)を分かつ程の差があった。
しかもついぞ近代までの話だというから”伺える”んだよね
山形のご両親はとても人情味のある良い老夫婦
麗香の病状を、麗香自身は誰にも知らせてはいけないルールを強いていたが、山形のご両親に、私が伝える役目を担わせてくれた。
野面の私は早速、酒田市に降り立ったのが2月23日
寒い!ここまで来て考える
”おれでいいのか?”
”何でおれがいるんだ?”
それでも決めた独善はやるっつったらやるのが麗香と私。
翌24日にご両親に会って伝えたところ、御二方は号泣していた。
とても優しいご両親だなと思っていた会話の中で、不謹慎な違和感を覚える。
それは、
「あの子たち(麗香の子)も実家が山形にあるから」
というセリフ
反射的に”それはちげーだろ”と素直に思った。
田無⇒羽田⇒酒田⇒羽田⇒田無
丁度24時間後には麗香の元に戻ってきていて報告したところ、
「ありがとね。子供たちには言わせられなかったから」
と言っていた。
麗香が、長年勘違いして思いあがっていた私を許可してくれたんだと思ったわ。
あら?そうか許可されていなかったんだなぁとも思った。

【麗香の父】
そう許可されてなかった。
少し遡ると、
令和3年12月21日14時、麗香と私は東京地方裁判所4階423号法廷にいた
私の大麻所持被疑事件の情状証人としての尋問である
私は、この時まで5年以上、私の父の使用の為の大麻を運ばされていた。
もっとかな?アル中だったから記憶も曖昧である。
私は、歌舞伎町で、薬物使用者を忌み嫌っているため、全く説得力がない話であるが、櫻井という一族はそんなもんである。
アルコール依存症の回復者として、コロナ禍の歌舞伎町の引率者として偉そうにNHKで語っていたことも全てを覆すような出来事だった。
情状証人には”親”が適任であるが、両親の片方が”当事者そのもの”だし、もう片方が他人より頼りないために、麗香に頭を下げ”嘘”を強要してしまった。秘密を約束したつもりが、これまた麗香は母に話してしまったらしい。多分ぶん殴りあったのだろう。

とはあれ麗香は父を慕っていた
その父が、癌の闘病中に古希の祝いを開催した
ところが彼女の父は、エキストラの花に囲まれ、一族を並べてご満悦
この茶番劇に病状を慮る一方、さぞがっかりしたことだろう。
振舞う私の姿にもがっかりしたと思う。

後日、亡父の茶番劇、正面に座る見知らぬ男性の正体に、曰く
”サブいぼが出た”
と言っていた。
サブいぼの正面に座らされた麗香は屈辱だったことと思う。

被疑事件に話を戻す。
なんの詮索もなく引き受け、弁護士と打合せして、法廷に立っていた。
閉廷後も何の感想も言わなかったが、麗香からみたら
「あーあ。あんたまだ”櫻井”やってんのね。」
こんな心境だっただろう
残念な哲人だなと
若しくは「哲人を失敗しちゃったなぁ」なんて思っていたのかもしれない
麗香は10代、父からもボッコボコにぶん殴られていた。
その男から私は
「お前だけは殴ったことねーなー」
なんて自慢げに言われた記憶がある。
見渡す限りダサい。
そのまま返すよ
「てめー。ぶん殴ってやる前に逃げたな」

麗香は私の4こ上。
私の出生前、麗香は両親の暴力を伴う夫婦喧嘩をかなりみてきた。その中で私が生まれちゃって、必死で庇ってくれた。

そんな両親が離別した後も、
その両親から違う場所で、
違う形で苛烈な暴力を喰らってきた。
極めて下等な理由で。


【まとめる】
山形のご両親は悪意なく、ごく自然にご自身の故郷をあてがい、委譲しようとする。
麗香の両親は点からバラバラ、墓の作法も祖先を敬うことも微塵もなく、兎に角自己の正当化を、コロコロ変わるその場凌ぎの手法を、不法行為を用いて強要してきた。

麗香は、山形のご両親からも、櫻井からも、その子たちを守ったのだなと
出生の絶望から哲人の失敗からも抵抗し、故郷を作り上げた。
誰の目から見ても初代家長なんだろう。
死ぬ直前まで、何の弱音も吐かなかった。
相変わらず誰にも甘えなかった。
 虎ノ門⇒田無
死亡5時間前の帰宅時、
初めて、もはや階段を自力では登れずに、私が前抱っこで上った
 れ「哲人、力あるねぇ」
 あ「おめーが軽いんだよ」
そのまま一日の検査疲れか寝付いてしまった
これが最後

これだけの環境で抑圧の世代間委譲を見事に食い止めた当代、大姉

いやぁまじで気合入ってんな
見たことねーよこんなやつ


【3月7日】
独善的に葬儀を段取りした。
一番デカいホールを取って、
香典カツアゲを繰り返し、
3月7日を迎えた。
無防備に臨んだそこには
でっかい柱に、でっかい文字で、麗香の名前がそびえ立っている。
『麗香が死んだ』これでもかってくらいでっかく。
本当につらかったわ。
開始までまだ3時間あるけど、この涙は止まんのか?
おれは喪主でもなんでもない
麗香の失敗代表作品のようなもの

いざ始まってみれば、大きすぎるホールの心配が馬鹿々々しい程に、
地元のコミュニティの方々の参列者であっというまに溢れかえった。
焼香を終えた控室も、時間を惜しんで少しでもと談笑したりする人たちが滞在してくれていて、溢れかえり部屋を増設する程だった。

麗香!すげーじゃん
ほんと気合入ってんなー

つられていつの間にか笑っていた。
ようやく落ち着いたころ
「あきひと!」呼ばれる。
「あきひと、(私)分かる?」
分かるもくそも、麗香の同級生の方々。
私が小5の時、ブルーハーツがデビュー最短武道館を成し遂げた時に麗香に連れて行ってもらったりなど、だいぶ可愛がってもらった記憶があるし、
これ、説明が難しいんだけど、
彼女らの発話する「あきひと」は麗香のそれとイントネーションが同じなのよ。
彼女らは、麗香のそれらを知っている。
涙と笑いが止まない。


翌日、麗香の骨はちっちゃかったな。

そして、幼い喪主一同
本当によくやったよ
もうおれは離れるよ
麗香のこともあなたたちのことも忘れるようにする
困ったときは麗香の片割れを思い出して連絡してください
以上


【あれあれ?】
ふと数日たった今、思い返す
おれは一体何なんだった?
このことを誰かに知らせるか?
誰が生きてて、誰が死んだんだ?
骨食ってくれる人見つけたけど居なくなっちゃったし、どうすればいいんだろか。

麗香が遺した言葉たちを拾い上げてみた。
面白い!
やっぱね、気合入ってんなーれいかちん!

今週から始まることについて、またイチから取り組む。

ウケる
これにより謝罪する機会を逸しちゃって
未だ呆けている者たち。
ひよっこWOKEらがおれに勝てるわけがないだろう。
「知っている」笑わせんな。
麗香のことはおれが教えてやる。
己れの出生の絶望、己れの出生の後悔を末代まで教え込んでやるよ。
戦争仕掛けてんだろう?
後悔しながら先に死んでいきな。
後は根絶やしにさせてやるから。

それで良いか?れいかちん

”血”なんていう安価な台詞は争うときに限って多用され主張される
おれと麗香のそれは、生得的な環境によるもので、当事者のみが用いることができる。
そしてその環境なんてものはどこぞの誰かの都合で、押し付けられただけのもの、親子なんてものはその代表であり、運用を吐き違えがちである。
よっておれらのそれは、おれらだけがその表現を許され、それ以外の者は全て他者であり、全人類に対して対抗する。
 麗香の独善性により私は幼少期を乗り越え、
 朽ち果てる麗香を私は独善的に守った。
独善互助が終わっただけ。
互いに残された貸借関係はなく清々しさすらある。


【シスコン】
俗名とは、決して笑えない宿命で、
良かった
俗名を手放せたねれいかちん
『春響院麗照律心大姉』

おめでとうおつかれさまほんとありがとう
ばいばい









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