歴史好きの旦那さんが行きたいと言うので~
田原坂は、植木台地が玉名方面の平地に突出した舌状台地の先端にあり、平地との比高差は60~70mで、小谷が入り込み複雑な地形をなし、その尾根に開かれた玉名方面より植木・熊本地方に通じる重要な道路であった。
明治10年(1877年)政府尋問の為、北上した薩軍の一部は熊本城を囲み、主力は北上して熊本鎮台救援に南下する政府軍と高瀬(玉名市)で交戦し、利あらず退いて吉次・田原坂・山鹿の線で南下を阻止した。
当時田原坂は高瀬より熊本に通じ、砲隊が通過できる唯一の道であり、薩軍はここに陣地を設け、3月4日より3月20日まで南下を阻止する戦いが行われた。政府軍は、田原坂付近の戦いで、一日平均32万2千発余りの小銃弾を使い、死傷者も2百人近くもあったといわれている。
現在、坂の頂上付近は公園となっており、明治13年に建立された崇列碑や、西南戦争で戦没した官・薩両軍の氏名を記した慰霊塔・資料館などがある。
(文章・・・お借りしました)
慰霊塔
美少年像
ここが越えられなかったと言う坂だったのか?
今のこの幸せな時代に生きていられる事を感謝せねばと思います~
田原坂は、植木台地が玉名方面の平地に突出した舌状台地の先端にあり、平地との比高差は60~70mで、小谷が入り込み複雑な地形をなし、その尾根に開かれた玉名方面より植木・熊本地方に通じる重要な道路であった。
明治10年(1877年)政府尋問の為、北上した薩軍の一部は熊本城を囲み、主力は北上して熊本鎮台救援に南下する政府軍と高瀬(玉名市)で交戦し、利あらず退いて吉次・田原坂・山鹿の線で南下を阻止した。
当時田原坂は高瀬より熊本に通じ、砲隊が通過できる唯一の道であり、薩軍はここに陣地を設け、3月4日より3月20日まで南下を阻止する戦いが行われた。政府軍は、田原坂付近の戦いで、一日平均32万2千発余りの小銃弾を使い、死傷者も2百人近くもあったといわれている。
現在、坂の頂上付近は公園となっており、明治13年に建立された崇列碑や、西南戦争で戦没した官・薩両軍の氏名を記した慰霊塔・資料館などがある。
(文章・・・お借りしました)
慰霊塔
美少年像
ここが越えられなかったと言う坂だったのか?
今のこの幸せな時代に生きていられる事を感謝せねばと思います~