「不可視の両刃」放射線に挑む~英国大学院博士課程留学~

英国に留学して放射線研究に取り組む日本人医師ブログ

The Japan Embassy(在英国日本国大使館)に行ってみた ~London一人旅~

2016-10-04 | ベルファスト到着直後
日本国内での幾つかの事務処理を代行してもらうために各種証明が必要になり、LondonにあるThe Japan Embassy(在英国日本国大使館)に行きました。BelfastからLCC(格安航空便)と鉄道を乗り継いでLondon往復するという日帰りの弾丸行程でした。Londonを訪ねるのは私にとって昨夏以来でした。


London St. Pancras Station(ロンドン・セント・パンクラス駅)です。夜明け前にBelfastを出たのに、この大都市Londonの中心地に着いた時には10時を過ぎていました。相変わらず綺麗な駅舎でした。大陸と海底トンネルで英国を結ぶEurostar(ユーロスター)の発着駅でも知られています。私はまだ乗ったことがありませんが、いつかユーロスターで欧州大陸諸国へ渡ってみたいと思います。

 
時間がないのにBuckingham Palace(バッキンガム宮殿)の外観を見学に来ました。昨夏も来ましたが、やはり壮麗な宮殿でした。観光客もとても多かったですね。
どうしてここに立ち寄ったのかというと、お目当ては近衛兵の交代儀式です

 
観光客が多すぎて、近くでよく観ることは叶わなかったですが、近衛兵の交代には間に合いました。
なかなか格好良かったです。ビシッとしていて。儀礼はやはり興味深かった。


それから、一路、大使館へ。
Londonの街中にはHyde Park(ハイド・パーク)をはじめ幾つか大きな公園がありますが、その中の一つにGreen Park(グリーン・パーク)があります。大使館はこの公園に面しているので、バッキンガム宮殿から公園を突っ切る形で歩きます。大都市の中にいるとは思えない緑が其処にはありました。
警邏隊も優雅に乗馬していました。


公園を抜けると、其処には我が国の大使館がありました。なかなか立派な建物です。日章旗がイイですね。

用事を済ませて、Londonをすこしブラブラしてから、Belfastに帰りました♪
ちなみに、英国に来てから、始めてまともに日本語を話した相手は大使館の方でした。
だから、私にとって第一日本人発見地は大使館になります。

辿り着けばそこはすでに終わりの始まり

2016-09-21 | ベルファスト到着直後
「どうして日本からわざわざBelfastまで?」と、幾度聞かれたことだろうか。
その度にこう答えてきた、「ここにProfessor Priseがいるからだ」と。

Prise教授が世界の放射線研究者コミュニティにおいてOutstanding(目立つ)存在であることに疑いの余地はなく、彼に師事するということは、私にとってだけでなく日本の放射線生命医科学界においても、やはり重要であると思われました。
渡英10日目、ようやく長期出張から戻って来た彼に、私は初めてお会いすることが出来ました。
そして、挨拶もそこそこに早速、研究のディスカッションをしました。現在、Oxfordで開催されているRadiation Protection WeekというEU諸国主体の放射線生物学関連の国際学会における最新の研究動向を含めて、世界の放射線研究の最先端がどこにあるか、福島FUKUSHIMAをどうするのかという観点から、色々とお話しすることが出来ました。

……まあ、私のような青二才というか洟垂れ小僧では、まだまだ敵う相手ではありませんでした。短い時間ではありましたが、なるほど、「世界のトップはこうなのか」と思い知らされました。

しかし、勝てないとまでは思いませんでした。
少なくとも、学生時代に田中教授に感じていたような凄みまでは覚えませんでした。とりあえず、この3年間で、どこまで追いつけるか。私には時間がありませんから、焦っても仕方ありませんが、いずれは勝つつもりでやらないとどうにもならないと改めて思いました。
Belfastに来て、Prise先生に会った時点で、もう、終わりが見えていなければならなかった。
つまり、この留学が終わった後のことまで見据えながら、この3年間を戦わなければならない。
ずっとそう思ってきました――なぜなら、出来るだけ早く世界を変えるために。出来るだけ早く放射線の教科書を書き換えるために。
出来るだけ早く「いつか故郷に帰る人たちの力になる」ために、私はここに来たのだから。

「何であれ、初めて挑む人って、やっぱり凄いよ」と、かつて言われました。「そういう人が世界を変える。だから、研修医第一号先生も、いつかきっと、世界を変える人になれると思います―――ただし、女、酒、ギャンブルに狂ったりしなければ」
2年以上も前のことですが、私に向かってそういうことを言った方がいました。
その後、私はちょっと頭がおかしかった時期もあった(?)ようですが、その方の献身的なサポートのおかげ(?)もあって、私のキャリアパスにおいて「ある種の致命的となる事態」は回避されてきました。たしかに女性、お酒、ギャンブルなどの影響で、生き方を変えた人たちを私も数多く知っていました。もちろん、それは必ずしも悪いことではないとも知っています。
結局、初志貫徹して、今、こうして英国に来たことを思えば、私はその人にやはり感謝するべきなのでしょう。

来てまだわずか10日間ではありますが、すでに幾度もカルチャーショックに曝されて、今までの自分の不見識を思い知っています――なにより、私には「覚悟」が足りなかったということが判りました。
当たり前ですが、何かを手に入れようと思ったら、何かを支払わなければなりません。
何かを得ようと思えば、何かを失わなければなりません。
その覚悟が本当は足りなかったのだと思います。
つまり、私は甘かった。日本にいたままではおそらく気付けなかったでしょう。

やはり、ここに来て、良かった。

色々な想いを背負って、私はここにいます。
もはや私だけの冒険ではないということは、薄々と判ってはいるのです。せめて3年後には世界と戦える人間になっていなければ、自分をこれまでサポートしてくれた人たち、温かく応援してくれた人たち、なにより「自分がなんとかしてあげたかった人たち」に、申し訳が立たないというものでしょう。

遠い先にゴールは見えています。だから、あとは、がむしゃらに走るだけ。
カッコ良くなくてもいいから、とにかく、最後の最後まで。

Belfastの光と影 ~The Troubles~

2016-09-17 | ベルファスト到着直後
Belfastはとても素晴らしい街ですが、そこには光だけでなく影もあります。
北アイルランド首府であるBelfastは、言わずと知れた、「The Troubles(北アイルランド紛争)」の中心地です。1998年の「Good Fryday Agreement(ベルファスト合意)」によって、紛争は一応の停止をみていますが、それでも街の西部には今もなお多くの壁画(Mural)や壁(Peace Wall)が残っています。終わりのない、まさに現在進行形の問題なのです。

私は、やはりBelfastに来た以上、その「影」にも目を向けるべきだろうと思いました。街の西部は治安も悪くて危険な場所と聞いてはいましたが、幸い、タクシーツアーが利用できるので安全に観光できます。ベテランのタクシードライバーが観るべきポイントを解説しながら案内して下さるので、政治的な背景なども含めて、とても勉強になると伺っていました。
渡英6日目、私は電話でタクシーツアーを申し込んで(なぜかインターネットからは申し込みできなかったので公衆電話から申し込むしかなかった)、問題の地域に向かったのでした。

迎えに来てくれたタクシードライバーはまさに「地元のおじいちゃん」だったのですが、発音が半端ない訛り方で、正直、ほとんど何を言っているか判らないレベルでした。IELTSの練習問題などでも聞いたことないレベルの訛りであり、「北アイルランド、ホント、恐るべし」といったところでした。おじいちゃんが早口で言っている文から幾つか聞き取れた単語を拾い合わせて、なんとなく漠然と言っていることを推測するという、私にとってまさに修行の旅になりました。


ウィリアム3世(King William Ⅲ)の壁画です。
「オレンジ公」で知られるウィリアム3世がイギリス軍を率いて1690年にアイルランド軍を打ち破りました。この故事にならうように、以降、戦勝派にして征服者であるプロテスタント系住民(ロイヤニスト)がカトリック系住民(ナショナリスト)を挑発して、対立を繰り返すという構図が出来たようです。
実は、以前は違う画が描かれていたそうですが、近年あちこちで過激な絵を描き直す動きがあるようでした。政治的な対立を煽るだけではなく、すこし観光を意識し始めているのかもしれません。


ナショナリストが多く住む地域にある「ボビー・サンズ(Bobby Sands)」の壁画です。
独立闘士というイメージがありますが、今でも根強い人気があるそうです。ハンガーストライキで獄中死したことで、一部には英雄視される向きさえもあるようです。タクシードライバーのおじいちゃんは「たしかに有名人だが……ゴニョゴニョ」と言ってました(←何を言っているのか、全くわからなかった)。
私は「Hunger」という映画を観たことはありませんが、北アイルランドで起きている紛争の一場面として、若くして死んだボビー・サンズの名前を知ってはいました。

写真は撮影しませんでしたが、ナショナリスト系の住宅地の中にひっそりと存在している「Clonard Martyrs Memorial Garden」という慰霊碑も見ました。実に様々な人たちがリパブリカンという過激派と一緒に命を落としたことが判りました。巻き込まれただけの人たちも大勢いました。その中には、子供さえも、いました……。


ロイヤニストが多く住むShankil Road(シャンキル通り)の光景です。タクシー車内から撮影しました。
一見すると平和ですが、ほとんど有色人種の住民がいないということに気付きます。Belfastは全体的に有色人種系の移民がとても少ないのですが、それは何故なのか、「推して知るべし」といったところでしょうか。タクシードライバーのおじいちゃんも私をプロテスタント地区ではタクシーから降ろしてはくれませんでした。
通りには英国旗Union Jack(ユニオンジャック)があちこちに誇らしげに掲げられていました。

 
街の中に溶け込むように色々な壁画があります。おそらくはそこに住む人々の心の中に染み込んでいる壁画でもあるのでしょう。
一見すると美しく感じるかもしれませんが、その意味するところを考えると、深い対立のメッセージに打ちのめされるような心地がしました。


ナショナリストとロイヤニストを分断する壁を「ピースライン(Peace Line)」と呼びます。写真は、いわゆるピースラインの中でもとくに国際色豊かな部分であるInternational Peace Lineです。かつて壁画に描かれている南アフリカのマンデラ氏も訪れたとか。南アフリカのものだけでなく、フィリピンなどアジアのものも含めて、各国の壁画が並んでいました。

このピースラインには夜間の通行を制限する関所もあり、ナショナリスト系とロイヤニスト系の住民の交流が隔絶されていました。
2016年現在、世界を動かす大国(Key player)の一つである英国の「現実」がそこにはありました。

The Troublesの対立の根は、とても深くて、底が見通せません。
民族対立であり、独立問題であり、宗教闘争であり、経済戦争でもあります。様々な要素が複雑に絡み合い、憎しみの連鎖が尽きません。停戦合意しているとはいえ、今回のBrexit(英国EU離脱)も複雑に絡まり(アイルランドはEUに留まるので)、国境の問題も含めて、再び北アイルランドで論争が過熱する可能性があります。今後も紛争は予断を許さないとタクシードライバーのおじいちゃんが熱弁をふるってくれました。

Belfastにはたしかに影もあります。しかし、だからこそ、光はより強く輝いているようにも見えます。
私は綺麗ごとだけしか言わない人間を信用しません。なぜならば、人間とは「光も影も内包する存在」だと思っているからです。臨床の現場でも、幾度となく、そのことを思い知らされました。善意も、悪意も、その全てをひっくるめてこそ「人間らしさ」があると考えています。
生きていれば、色々あるものです。人間は光だけでは生きていけません。時には、影と共にあって安らぎ、闇の中でこそ憩うこともあります。そういう悪というか、弱さというか、後ろめたさというか、目を背けたくなるような部分も怯まずに認めなければならないのではないかと、いつからか、私は思うようになりました。
街だって、そうです。整然と綺麗な街並みだけがあるとしたら、それはむしろどこかがおかしいのではないでしょうか。人間性が排除されているというか、あまりにも寂しいような気がします。

……だから、Belfastという街の光と影にはどうしようもなく「人間らしさ」があり、それでも前を向いて生きていく人々の姿を私は好ましく感じるのかもしれませんね。

Belfastの光と影 ~Culture Night~

2016-09-16 | ベルファスト到着直後
先日、ある先生から真顔で聞かれました。
「まったく、福島といい、北アイルランドといい、どうして君はわざわざそういう場所ばかりに行くんだ?」と。

おそらくは危ないと思われる場所ばかりを私が好んで選んでいるように見えたのでしょう。しかし、私は別に危ないことが好きなわけではなく、そこに行く必要があったから選択しただけのことです。また、実際に訪ねもせずに、その場所や、そこに住む人たちを厭うような偏見を持ちたくはありませんでした。私は科学者の端くれですから、自分の目で見たものをこそ信じます。
なにより、調べれば調べるほど、Belfastは面白い街だと思いました――そこには「光と影」があるからです。

9月16日金曜日の夜は「Culuture Night(カルチャー・ナイト)」という野外カルチャーイベントが行われ、Belfast Cathedral(ベルファスト大聖堂)の周辺はまさにお祭り騒ぎでした。平和と音楽を享受する楽しい一時でした。幸いにも好天に恵まれ、夕暮れ時の柔らかい陽光の中で、人々の笑顔が輝いていました。
私も、光に満ちた陽気な雰囲気に誘われて、街中まで足を運びました。


City Hall(シティー・ホール)にもCulture Nightの旗がのぼり、先日に比べて観光客も多いような印象でした。ワクワクするような浮ついた空気が街の中に漂っていました。

 
突然、街の中にピエロの楽団が出現! おちゃらけた、ふざけた動きで、道行く人たちの笑いを誘っていました。


警察が公道を封鎖して自動車を通行止めにしたので、一時的な歩行者天国が出来て、そこを幾つかの楽団が練り歩いていました。
楽しい音楽が流れて、人々が耳を傾ける、素敵な光景でした。

  
イギリスでは有名なスーパーである「TESCO(テスコ)」もRiver Lagan(ラガン川)沿いのAlbert Clock(アルバート公記念時計塔)の下に特設テントを広げて、無料の試食会を開催していました。美味しかったです。


街のカフェ前の道路でチェスをする人たちを発見。
とても強い人たちなのかと思いきや、そうでもなく、私でも勝てそうでしたw


Belfast Cathedralに向かう道はもはや人混みが凄いことになっていました。音楽を奏でる人たちも、沢山いました。みんな、ホント、音楽が大好きです。ぶらついているだけの私も、元気をわけてもらえるような、そんな演奏ばかりでした。

 
Cathedralの前では炊き出しが行われ、無料で食事が振る舞われていました。「タダ飯、ゲットだぜ」と、私も思わずほっこり。美味しいかどうかはともかく、清貧を尊ぶ留学生としては、夕食代が浮いたのはありがたかったです。

 
屋外ばかりではなく、当然ではありますが、パブでも音楽は流れていました。
大盛況のパブの中では、みんな楽しく、歌姫の声に耳を傾けていました。拍手も凄いし、歓声もすぐに飛んでいました。北アイルランドとはいえ、本場のアイリッシュパブの雰囲気をちょっぴり感じることが出来ました。


最後のオチは、私の今夜の一杯です。ギネスです。隣席の妖精みたいな白人のお姉さんが奢ってくれました。
かつて「女性を見る目がない」と揶揄されたこともある私ですが、それでも人間は中身こそが重要だと思っています。外見には騙されません。
ビ、ビール奢ってくれた位で惚れたりなんてしないんだから、か、勘違いしないでよねっ!

……今夜は、陽気なCulture Nightを通じて、Belfastの放つ光を垣間見たような気がしました。

Belfastで銀行口座開設と研究所セミナー初参加

2016-09-15 | ベルファスト到着直後
Belfastに到着してから3日が経ち、大学関連の手続きは概ね終了しつつありますが、研究所への出入りに必要なカード認証やインターネット環境の利用への反映はもうすこしかかりそうです。だから、今のところ、学内にいてもほとんど何も出来ない状態です。
この種の事務手続きがそれなりに時間がかかるのは世界共通なのでしょうか、もはや仕方ないと思って諦めています。

大学のIDカードをひとまず取得して在籍証明書の発行も可能になったので、早速ですが「よし、銀行口座を開設しよう」と思いました。
研究所でお世話になっているKarlからも「銀行口座の開設と携帯電話の購入は早めにね」と言われていました(しかし、とくに困っていないし、携帯電話をまだ買う気にはなれませんが)。
やはり、長期滞在する上で、銀行口座開設は避けて通れません。
以前、英国ダンディー大学遺伝子発現制御研究センターにサマースチューデントとして滞在した時も、銀行口座は作りました。ただ、前回は研究所の事務スタッフが一緒に銀行までついてきてくれて、ちゃちゃっと開設してくれたのでした(私はぼ~っとそれを見ていただけw)。ということで、独力で海外で口座を開設するのは初めてで、すこし緊張しました。在籍証明書やパスポートなど、必要になりそうな書類をもって、Student Guidance Centreと同じ建物にあるUlster Bank(アルスター銀行)に突撃しました。

しかし、早口で「無理、ムリ、むり」と捲し立てられ、敢え無く転進(撤退ではない)。
ほとんど何を言っているのか判りませんでしたが、要は「PhDコースだから、駄目」ということのようでした。PhDコースの人は、Masterコースと違って、長期滞在だし、収入あったりするし、Ulster Bankとしては口座開設には色々な書類が必要なのだとか。ちょっとごねてみましたが、やはり駄目。

大学の留学生相談窓口まで転進(撤退ではない)して、「口座が開設出来ないと困るのですが、どうしたらいいのでしょうか」と相談したところ、「Ulsterなんてやめて、Santanderにしたらいいんですよ、Students' Unionにあるから」とのこと。地元Belfast発祥のUlsterをあっさりと切り捨てた窓口のおばちゃんに勧められるがままに、Santander Bank(サンタンデール銀行)に行くと、あっさり銀行口座開設の手続きが出来ました。


Santandar Bankは、留学生への銀行口座開設の説明なども親切で、まさに大学関係者にとって頼もしい味方といっても過言ではないかもしれません。Santanderは実は前回も英国で口座を作った時に利用した銀行であり、私はいつもこのスペインの赤い銀行に助けられていることになります。かつてFIレースでアロンソ選手への巨額の支援などを見て、「Santanderって、なんか金にモノを言わせている輩だよね~」とか言って、ホント、申し訳なかったです。


Students' Unionは、他にも本屋、ショップ、カフェなどがあり、便利な環境が整備されています。仙台の自宅周辺の利便性とは比べものになりませんが、なんとか生きていけそうな気がしました。

午後に研究所でのセミナーに初めて参加しました。「Circulating Tumor Cells(いわゆるCTCs、日本語に訳すと血中循環腫瘍細胞)」に関する最新の研究動向の発表で、なかなか興味深かったです。
進行したがんでは、がん細胞が血液やリンパ液の流れに乗って、遠隔臓器にまで転移します。このように血液中に循環している(と思われる)がん細胞がCTCsであり、現在、乳がんや前立腺がんなどの症例において治療効果の判定や予後予測因子に使われることがあります。

私も母校の臨床腫瘍学部門に出入りして勉強していた頃はCTCs研究にもとても興味をもっていたのですが、相馬、仙台では残念ながら最新のがん治療に携わる機会に乏しく(相馬ではそもそもCTCsの臨床検査なんて出来ませんでした)、最近のCTCs研究の動向は不勉強でした。
CTCsはセロゲートマーカー(臨床指標となるバイオマーカー)としては幾つか気になる問題点もあるのですが、演者(オーストラリアの研究者、失礼ながら名前を失念してしまいました)は概ね公平に評価していたように感じました。
「腫瘍に対して低線量(不十分な線量)の放射線を浴びせると、CTCsが血中内で増加することから、むしろ転移の可能性を高めてしまうのではないか?」と演者が述べていましたが、私もその推測には概ね同意でした。放射線治療の局所制御は線量の加減が難しいのです。正常組織へのダメージを極力減らしたいが、低線量では腫瘍に対する効果がイマイチというジレンマがあります。私のように放射線感受性の研究をしている者からすると、放射線治療の線量分布は実は色々と思うところがあるのです。
がんの制御はやはり難しい―――臨床を知れば知るほど、研究を知れば知るほど、そう思います。

日本語で可能であればぜひ色々と質問してみたかったのですが、残念ながら、研究所の大先生たちのあとに続けて質問するには私の語学力はしょぼすぎたので、今回は質問を断念しました。しかし、いずれは質疑応答がちゃんと出来るようになりたいものです。

昨日の自分よりも今日の自分が1歩でも前へ進むように。
何のために英国まで来たのか、心に刻みながら。


研究所からの帰り道、近くのスーパーで買ってきた醤油です。
すこしでも醤油の味がすればいいのですが……。
まだ渡英して数日しか経っていませんが、日本が恋しくないと言えば、嘘になるでしょう。

Biometric Residence Permit(生体認証付在留許可証)の受け取り

2016-09-14 | ベルファスト到着直後
以前に英国に研究滞在した時には存在しなかったのですが、2015年以降から在英国邦人は「Biometric Residence Permit(生体認証付在留許可証)」を受け取る必要があるとのことで、渡英2日後に街の中心部にある郵便局まで取りに行くことにしました。また、在留届についても在英国日本国大使館に電子提出しました。大学関連の手続きとは別に、この種の行政関連の手続きも留学には必要なのですね。


大学寮を出るとすぐに「Students' Union(日本で言えば生協でしょうか?)」があります。なかなか綺麗な建物で、いつも内部には沢山の留学生たちや学生たちがいます。


街の中心部まで数キロなので、歩いていくことにしました。大学のある文教エリアは景観も全体的に落ち着いていて、少し長閑な感じがあります。ゆったりとした時間が流れていました。


街の中心部に近づくと、とても有名なホテルが見えました。その名も「Europa(ヨーロッパホテル)」です。『地球の歩き方』によると「世界で最も爆破されたホテル」とのこと。IRAなどによるテロが盛んだった時代のことですね。
現在の街の様子からすると信じられませんが、今でも街の西部には当時の苛酷な抗争の後遺症が残っているそうです。研究所でお世話になっている研究者のKarlは、地元のBelfast出身ですが、「西部には人生で2回しか行ったことがない」と仰っていました。そして、「西には行かないようにね」と、私は注意されました。


ヨーロッパホテルのすぐ隣にあるのが「Grand Opera House(オペラハウス)」です。大英帝国最盛期を今に伝える壮麗な建物ですね。美しかったです。。


街の中心部に近づくと、歴史を感じさせる建物がずらっと並びます。「クイーン」や「ヴィクトリア」という名を冠した建物やお店が多いです。今もなおヴィクトリア女王はこの地では深く敬愛されています。ヴィクトリア朝の栄光を色濃く反映している地域なのだなと改めて感じました。




そして、街のシンボルである「City Hall(シティー・ホール)」です。とても綺麗な造りで、在りし日の大英帝国の威容を感じました。女王陛下の像がなにしろ格好良かった。次は内部も見学したいと思いました。


お洒落なショッピングセンターもありました。「Victoria Square(ヴィクトリア・スクエア)」です。街の中心部はとても賑わっていて、まさに都会という印象ですね。さすがは北アイルランドの首府です。何でも買えます。


そして、目的の郵便局に到着。無事にBiometric Residence Permitを取得しました。英国に入国後10日以内に郵便局に取りに行かないといけないので、うっかりしていると大変でした。
Visaが貼ってあるパスポートとVisa申請後に自宅に届いた書類を持って、あとは「BRP, please」(←幼稚園英語レベル)と言うだけの簡単なお仕事でした。

Belfastに来て、まだ数日ですが、地元の人たち(?)の発音がやはりよく判りません。
とくに早口で言われると全く聞き取れないことも多々あります。また、研究所内の留学生というか、EU諸国から来ている研究者たちもそれぞれのお国の言語風に訛っているように感じるので、改めて英語の多様性を感じています。そして、同時に自分の語学力の低さも……。

私は当然ですが、英国の医師免許を持っていませんから、この地ではただの留学生です。ただの「英語が出来ないアジア人の男」です。日本にいた頃は、医者ですし、研究も出来ましたから、それなりに自信をもって生きていました。いずれは世界とも戦えると思っていました。しかし、この国に来て、改めて「自分が独りでは何もできない」ということを突き付けられてみると、自分の中にあったくだらないプライドや虚栄心がどんどん溶けていくのを感じます。そして、「剥き出しの自分の弱さと未熟さ」を痛感します。
とはいえ、私には、もとから失うものなんて、何もありません。からっぽの自分ですが、心の中には一つの信念が残っています。私は何のために誰のためにここに来たのか、今、それだけはちゃんと判っていますから。何もできないけれど。無力だけれど。それでも、私の心はひどく穏やかなままです。恐れるものは何もありません。
為すべきことを為す―――ただ、その為だけに、全身全霊を賭けています。
他には、少なくとも今は、何も要りません。

Belfastに到着

2016-09-13 | ベルファスト到着直後
2016年9月12日、渡英しました。

羽田空港で家族に見送られ、LondonのHeathrow空港を経てから、BekfastのGeorge Best Belfast City空港を目指しました。George Bestはイングランドプレミアリーグの強豪マンチェスターユナイテッドで活躍した伝説のフットボール選手であり、空港にはBelfast出身の彼の名が冠されています。

羽田空港は、早朝の時間帯だったこともあり、とても空いていました。
London行はほとんど日本人の乗客でした。楽しそうな家族連れが多かったです。ご旅行でしょうか。また、分野はよく判りませんでしたが、国際学会に行く様子の人たちも多かったですね。




飛行機の中で凍える思いをしながら、なんとかHeathrow空港に到着しました。
長距離の飛行機に乗る度に思うのですが、どうしてあんなに機内は寒いのか。しかも、薄い毛布しかないし……。
それなりに対策をしていったつもりですが、結局、いつものように風邪をひく羽目に

世界最大級の規模を誇るHeathrow空港は、仙台空港くらいの大きさのターミナルが5つあり、乗り継ぎでターミナル間をバスなどで移動するのも一苦労です。実際、迷っている日本人観光客もけっこういました。初めて来たら、どこに進めばいいのか分からなくなる場合もあると思います。私は、この空港を利用するのもさすがに4度目なので、もう迷わずに済みました。

入国審査もなぜかあっさりと突破してしまった。もっと色々聞かれるかと思ったのに、ほとんどスルーに近い形で、拍子抜けしました。史上かつてない早さで、ターミナル5からターミナル2の出発ロビーへと移動できました。

Bekfast行に乗る乗客でアジア系はわずか数名でした。
日本人は私だけでした


Belfastは雨でした。飛行機から降りて、City空港の建物までみんなでダッシュしました。
「おいおい、雨の街と言われるだけのことはあるじゃないですか~」と、思わず、苦笑い。


羽田からの荷物がちゃんと届くのか、すこし心配でした。しかし、さすがは大英帝国の末裔の皆さんの仕事ですね、ちゃんと無事に届きました。City空港は小さくて、迎えに来てくれた研究室の方との合流も、スムーズでした。


学生寮の受付で色々と手続きをして、バスで私の寮へ移動しました。Belfast市内に大学寮が点在しており、到着当日まで私はどこに滞在することになるのか判りませんでした。
上の写真が私の寮ですが、大学中枢部からは歩いて数分で、私がお世話になる研究所へもわずか数百メートルの近さでした。「研究に集中したいので、研究所に一番近い場所を頼みます」と交渉した甲斐がありました。さすが欧米、とりあえず希望を主張しておくのが正しいのですね。日本とはその点、明らかにCultureが異なります。
「マジすか、めっちゃ近いんですけど~」と、日本語で歓喜したら、バスの同乗者から変な目で見られました。

これはもはや研究するしかありません。


部屋の窓からシティ病院も見えました。病院のすぐ横に私の研究所があるので、ホント、とても近いのです。仙台では東北大学病院からすこし離れていた場所に住んでいたので、病院と職場へのこの距離感は久しぶりです。相馬時代を思い出しました。




移動で疲れてはいましたが、周囲の情報を探るために、夕からお散歩に出掛けてみました。
上が、私がお世話になる、Centre for Cancer Research and Cell Biologyです。日本語に無理矢理訳せば「がん細胞生物学研究センター」といったところでしょうか。建設されてからたしか10年弱のはずで、モダンで綺麗な建物でした。ここで私は放射線生物学の研究を行うことになります。
下が、大学メインキャンパスの正面。私の寮から歩いて150メートルくらいでしょうか。
荘厳な雰囲気が、もう、たまらない!
大英帝国最盛期にこの大学を設立したヴィクトリア女王陛下に思わず忠誠を誓いたくなるような趣のある建築物で、アカデミックの歴史と伝統をヒシヒシと感じさせられます。Belfastの観光名所にもなるわけですね。実際、ちらほらと観光客らしき人たちの姿も見ました。


で、最後のオチは、私の夕食です。サラダとスープを近くのスーパーで買ってきただけw
どや、私の女子力は! まいったか!
私の貧弱な語学力と家事能力でこれから生き残れるのでしょうか、この国で……