日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

サキタリ洞遺跡(ガンガラーの谷)|沖縄県南城市 ~洞窟は居心地が良い~ 【琉球探訪 ②】

2021-12-29 00:54:39 | 歴史探訪
 ⇒この記事の前の「沖縄空撮および島添大里城跡」はこちら

 美味しい沖縄そばを食べて、腹ごしらえもバッチリということで、本日のメイン探訪地であるガンガラーの谷へやってきました。



 たまにガンガラーの谷のことを、「ガンガーラの谷」と呼ぶ人がいますが、それはすなわち、GODIEGOの「ガンダーラ」の影響であり、世代がバレてしまいます。

 私は確かあの頃は保育園児だった・・・

 ガンガラーの谷は観光スポットととして著名ですが、古代史マニアの間では「サキタリ洞遺跡」という遺跡名で有名です。

 ただし、勝手にひょろっと侵入して見学することはできず、入場料を支払って、きちんとガイドの方の説明を聴きながら歩くシステムになっているので気を付けましょう。



 大きな洞窟が口を開けていますよ。





 ガイドの開始時間まではカフェで寛いで待機します。



 本物の洞窟の中にいますが、なんて快適なんだろうか。



 もちろん整備してこういうふうになっているために居心地の良さが増しているのだと思いますが、洞窟遺跡のイメージが覆りました。

 違う組のガイドが始まったようです。



 少しして、私が属する組の番が回ってきました。



 最初は椅子に座らされて全体的な説明があり、ついで、用意されたさんぴん茶の入った水筒を持って探訪開始です。

 多くの参加者は「ガンガラーの谷」を楽しむために来ていると思いますが、私はサキタリ洞遺跡が気になります。

 こちらがその発掘地点の一つです。





 この地点から見つかった遺物。



 沖縄県最古の石器が1万4000年前というのにはビックリしました。

 というのも、1万4000年前って本土ではもう縄文時代ですから、沖縄って旧石器時代には石器が見つかっていないということになるじゃないですか。

 旧石器時代なのに石器が見つかっていない。

 沖縄には港川人をはじめとして、旧石器時代の人骨が多数見つかっているわけですが、彼らが使っていた石器は見つかっていないんですね。

 ※最古の釣針などの出土遺物はこの翌々日に訪れた沖縄県立博物館でレプリカが展示してありました。





 なお、洞窟入口側のビニールシートを被らされている場所も発掘地点です。



 では、出発!

 洞窟から外に出て谷へ降りていきます。



 うわ、太い竹!



 というか、あらゆる植物がでかい。

 今はオープンスペースになっているこの谷沿いの場所も、はるか昔は洞窟の中だったそうです。

 というのも崖に鍾乳石が見えますが、鍾乳石は洞窟の中でしか生成されないため、崖にそれが見えるということはこの場所が洞窟の中であったことの証拠になるわけです。



 でかい葉っぱ。



 イモの仲間だそうですが食べられないそうです。

 ガジュマルが現れました。



 ガイドさんが唐突に「ガジュマルは歩くんです」と言いました。

 禅問答でも始まるのかと思いましたが、ガジュマルは移動する植物だそうです。

 というのも、この植物は気根が地面に向かって垂れ下がっていきますが、それが地面に付くと幹化して養分を吸収してしまうため、もともと幹だったものが枯れてしまい、そのため樹木自体が前進するというわけです。

 私は植物に関してはほとんど知らないため、こういう説明を聴くのはとても楽しい!



 つづいて良縁や安産のご利益があるというイナグ洞へ。





 さらに谷の奥へ進んでいくと、またも洞窟が現れました。



 イグナ洞は女性の洞窟でしたが、この奥はイキガ洞という男性の洞窟だそうです。





 ガイドさんが用意してくれたランタンを持って奥へ行きます。





 洞窟から出て、岩のトンネルを潜ります。



 見事なガジュマルが現れました。



 大主(ウフシュ)ガジュマルと呼ばれています。









 気根が垂れ下がって地面に張り付いて幹化している状態。



 迫力満点。



 岩をガッチリと掴んでいるように見えます。



 植物の根を張る力ってすごくて、横穴式石室でも木の根の力によって何トンもの石が動かされてしまうんです。





 ツリーテラスへやってきました。



 ここからは港川遺跡が見えるそうです。



 海の方に橋が見えるのですがその右側の森がそうだということです。



 ここからも歩いて行ける距離であることから、もしかしたら港川遺跡で見つかった港川人はこの谷を住処にしていたのかもしれないというガイドさんの解説はとても刺激的です。

 最後は武芸洞にてまとめのお話です。



 ここも発掘地点。

 石で囲んだ土抗墓。





 開けていますね。



 沖縄では旧石器時代の人骨がいくつも見つかっており、例えば港川人は現代沖縄人の祖となったと考える研究者がいます。

 しかしその一方で、狭い島内で人口を維持することは難しく、港川人は絶滅してしまったと考える研究者もおり、旧石器時代末期の1万8000年前の下地原洞人以降、貝塚人が現れるまで沖縄では人類の痕跡が途絶えたように見えていました。

 ところが、近年調査が進んでいるこのサキタリ洞遺跡では、1万6000年前の子供の犬歯や9000年前の沖縄最古の土器が見つかっており、沖縄の旧石器時代人が死に絶えることなく貝塚時代まで命をつないだ可能性を完全に否定することもできません。

 沖縄人だけでなく、日本人全体のルーツを調べるうえで、サキタリ洞遺跡の今後の発掘成果に期待したいです。





 しかしこの武芸洞もとても居心地が良いです。

 現代と港川人が生きていた2万2000年前は気候が違くて、当時の方が寒いですから確実なことは言えませんが、この洞窟は生活しやすかったと思います。

 今日の時点で言えば、ここに住んでもいいと思えるくらい快適です。

 たまたま良い時期に訪れたからかもしれませんが、先ほど述べた通り、洞窟遺跡のイメージが覆りましたよ。

 やはり、遺跡は実際に訪れてみるべきですね。

 そして今回はいつもと違って自分がガイドされる側に回りましたが、とても楽しかった。

 初めて見聞きすることばかりだったので、非常に好奇心が刺激されたわけですが、おそらく古墳についてほとんど知らないお客様が、私の解説を聴いたときに受ける感想と同じじゃないかと思いました。

 そう考えると私ももっと勉強したり、解説する方法を工夫したりして、お客様が喜んでくださるように努力しないといけないと決意を新たにしました。

 ⇒この記事の続きはこちら

 ⇒この記事の前の「沖縄空撮および島添大里城跡」はこちら

沖縄空撮および島添大里城跡|沖縄県南城市 ~初の沖縄遺跡めぐりはグスク~ 【琉球探訪 ①】

2021-12-28 22:28:26 | 歴史探訪
 離陸して間もなく、富士山が見えてきました。



 今日もボーイング777-200のエンジンは快調です。



 いや、快調じゃなかったら困る。

 朝日に照らされた富士山も綺麗です。



 ツアーの講師で行くときは窓側に座れることはほとんどないので、ここぞとばかりに写真を撮りまくります。



 呪力ズーム!



 南アルプスの山々が頭を雲の上に出しています。



 私の場合、飛行機に乗って西へ向かう場合は、福岡空港へ向かうことが圧倒的に多いため、その航路から見える景色は知っていますが、沖縄に行くにはどういう航路を通って行くのかな?と思って下を注視していると、出発して30分ほどしたら半島状の地形が見えてきました。



 なるほど、紀伊半島の南端の紀伊大島沖から沖縄方面に針路を変えるんですね。

 これなら操縦士も分かりやすそう。



 操縦できないくせして偉そうだな。

 熊野灘からはずっと海の上を飛んで面白くない景色が続くためしばらく監視を怠ってしまい、気が付いたらもう沖縄の島が見えていました。

 大きい島は伊平屋島です。



 伊是名島も見えてきました。



 沖縄本島には真北からアプローチするんですね。

 橋で繋がっている島は古宇利島です。



 房総半島のコンパクト版じゃなくて屋我地島ですよ。



 手前は金武湾だな。



 本日の攻撃目標、嘉手納基地に近接!



 そういう冗談を言っていると特高にマークされるからやめたほうがいいです。

 今度は普天間基地!



 ところで、私はどこに降りるんですか?

 沖縄の海岸というと、きれいな砂浜を想像しますが、切り立った崖のような場所もあるんですね。



 飛行機はかなり高度を下げていますが、なかなか着陸する気配がありません。



 でもこれはこれで遊覧飛行のようで楽しい。



 本島の南端をグルッと回るようです。



 車窓(?)からの風景を見るのが好きな私のような奇特な人は楽しいですが、こういうのに興味がない人や、そもそも右舷側の窓際に座っていない大多数の人たちは、「早く着かないかな」と思っていることでしょう。



 ようやく着陸するようです。



 はい、着陸。

 那覇空港は自衛隊も使っており、イーグルが駐機しています。



 私が子供のころは最新鋭の戦闘機で世界最強と言われておりましたなあ・・・



 当時は1機120億円と言われていました。

 最近の戦闘機のデザインは人間味がなくて好きじゃないのですが、イーグルを見ると「ジェット戦闘機のなかのジェット戦闘機」という感じがして、なんか心が落ち着く。

 詳しいことは分かりませんが、イーグルも性能向上ヴァージョンがあるようで、いまだに我が軍の主力戦闘機の地位にいるようです。

 基本的な性能や構造がしっかりしていれば、コンピューターのハードやソフトを入れ替えることによって性能は格段にアップするわけですから、イーグルはそれだけ元々がしっかりとした作りの戦闘機だということが言えましょうぞ。

 対潜哨戒機は私は海自の下総航空基地に近い場所で育ったため、よく見ていました。



 ただし、子供の頃はまだP-2Jが飛んでいて、そのうちP-3Cに切り替わりましたよ。

 個人的には旅客機のようなデザインのP-3Cより、機種がガラス張りで第二次大戦の爆撃機のようなデザインのP-2Jが好きですが、誰も飛行機の趣味の話なんか聴いていないですね。

 羽田発6時半の便に乗って、那覇空港には9時20分に到着しました。

 意外と遠かった。

 しかしこちらは暖かい!

 全然冬じゃないですね。

 快適快適。

 さて、それではレンタカーを借りて探訪を開始します。

 今日の最初の探訪地はガンガラーの谷ですが、その前に大好物の沖縄そばを食べたいと思います。

 まずは適当に車を走らせて、お目当てのそば屋さんへ向かいますが、まだ昼の時間には少し早いです。

 おっと、何やらグスクの方向を指し示す看板を発見。

 行ってみましょう。

 さきほど以降、グスクの看板は現れませんが、KKD(経験・勘・度胸)で山の上に向かって走ります。

 お、看板がありました。

 島添大里城跡に到着です。

 何やら資料館のようなものもありますが・・・



 交流センターですね。

 でも今日はお休みのようです。

 グスクの看板があります。



 周辺のガイドマップ。





 では行ってみますよ。



 何も考えずに来ましたが、沖縄での初の遺跡めぐりはグスクとなりました!



 城館跡を積極的に探訪していた20代後半から30代前半の頃は、グスク探訪はある種の憧れで、あの頃だったら切歯扼腕してニッコニコの笑顔でグスクをめぐるでしょうが、今はすっかり古代史人間と化してしまったため、グスクへの興味はあまりありません。

 でも、そうは言っても好奇心は旺盛な方ですから、やっぱりワクワクしますよ。





 おー、石垣が石灰岩だ。



 今まで見たことのない光景です。



 郭の風景。



 こちらにも看板。







 あの上が正殿跡でしょうか。



 上に登ったら眺望が良さそう。

 当然ながら石段も石灰岩。



 おー、いいねえ。



 どこを見ているのか分からないけど!



 海が見えるっていいですねえ。









 郭を一望。



 説明板に書いてあった島添大里按司の墓でしょうか。



 初めて来たわけだし、沖縄の中世文化についてほとんど何も知りませんから、何か分かりませんよ。

 それでは、城内をもう少し歩いてみます。

 洞窟がある・・・



 何か石でできたものが見えます。



 御嶽でした!



 いやー、こういうお墓も新鮮だ。



 というか、生えている植物からして新鮮です。

 琉球探訪はまだ始まったばかりですが、好奇心が刺激されまくりで楽しくて仕方がありません。



 まだ御嶽というものが良くわかっていないため、こういうものを見つけたらとりあえず「祭祀遺構」としておきます。



 さて、城内から出ますか。



 最初に入った入口とは違う場所に出てきてしまいましたが、さきほど車で来た時に見た風景ですので道は分かります。

 歩いて車まで戻りましょう。

 おっと、これは先ほど見落としていた。



 チチンガーとは、井戸のことですか。

 しかも14世紀というとかなり古いですね。



 まいまいず井戸みたいなものかな?



 降りてみます。



 別に「まいまいず」はしていませんね。



 ちゃんと井戸がある!



 水を湛えています。



 面白いなあ・・・

 では、戻ります。



 まったく予備知識もなくやってきて、わずかばかりの沖縄探訪で感じたのは、もしかして沖縄って地下へ潜る文化なのかな?ということです。

 これから行くガンガラーの谷は洞窟遺跡ですが、洞窟も「地下感」があると思います。

 本土の場合は、洞窟遺跡は少ないですし、古墳の主体部は基本的に地下ではありませんし、伝統的にそれほど「地下感」は無いんですよね。

 縄文時代の土抗墓も地下と呼べるほどは深くないです。

 そろそろ、そば屋に行くにはちょうどいい時間ですので行ってみます。

 少し車を走らせて「王家」に到着。



 店内は結構広くて開放感があります。

 ソーキそばを頼みました。

 美味そう・・・



 お、いいですね。

 沖縄そばは東京でも結構食べているのですが、意外と店によってスープの味が違うので、好みの味でないことがあります。

 でもこの味はストライクです。

 肉もヴォリューム満点。

 そして麺が少し硬いのもまた良い。

 東京で食べるとたまに茹で過ぎている場合があって、ガッカリすることがあるのですが、ちょうどよい硬さです。

 おや、この葉っぱは何でしょうか?



 お店の方がヨモギだと教えてくださいました。

 スープに浸して食べると良いということでそうしてみたところ・・・

 本当だ、あの「ヨモギ餅」の味だ。

 詳細は不明ですが、身体に良さそうですね。

 では、ガンガラーの谷へ向かいましょう。

 ⇒この続きはこちら

JR五能線・木造駅|青森県つがる市 ~巨大なしゃこちゃんと会える駅~

2021-09-13 19:52:03 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2018年8月4日(土)


 北東北の縄文ツアーのコースにはJR五能線の木造駅が入っています。

 そのため、ツアーの直前の2018年8月4日に、下見に行って参りました。

 車を運転して木造駅に近づいていくと、駅へ向かうストレートラインの先に遮光器土偶「しゃこちゃん」の巨大なモニュメントが見えてきましたよ。



 おー、これですね。



 これを見るためにわざわざツアーは木造駅に寄るのですが、見ごたえありますね。



 駅の周辺を見てみましょう。

 周辺の観光案内図。



 しゃこちゃんの説明板。



 太宰治関連の説明板もありますよ。





 駅舎の中。



 お、ホームに車両が止まっていますよ。

 「リゾートしらかみ」だ!



 しまった!

 油断していたら行っちゃった!



 ちゃんとした写真が撮れずもったいなかったけど仕方がない。

2018年8月17日(金)


 つづいて、8月17日出発で本番でしたが、木造駅には初日に訪れています。



 ホームにある看板。







 運よく、すぐに普通列車が来るようです。

 お、来ましたよ。





 3両編成で最後尾の車両は塗装が違います。







 行っちゃいました。

 バックには岩木山。



2018年9月7日(金)


 2回目は9月7日出発で、この日も初日に訪れています。

 駅舎に張り付いているしゃこちゃんの目は赤く光るのですが、光っているのを見てご満悦のお客様たちを撮影。



 この日は雨でしたね。

2018年11月3日(土)


 3回目は、11月2日出発で、木造駅には2日目に訪れています。

 文化の日らしく晴天です。



 赤トンボ。



 高い高い。



2021年7月10日(土)


 翌2019年も、8月21日出発と9月6日出発で訪れていますが、木造駅の写真は撮っていないようです。

 そして2020年はコロナの煽りを受け、このコースも中止が相次ぎ、結局一度も行っていません。

 さらに今年(2021年)も相変わらずコロナでツアーが潰れてばかりですが、たまたまその狭間、7月9日出発でツアーが催行され、木造駅には2日目に訪れています。



 久しぶりに訪れたら、なんと巨大しゃこちゃんの目の点滅の色が赤色一色からレインボーカラーにヴァージョンアップしている!









 凄い!

 駅舎の中も明るい感じに改装されています。

 世界遺産になるということでお色直しですね。

 そしてこの時も運よく列車が来るということで撮影会。



 あ、列車も最新型のに替わってる!



 カッコいいじゃん。



 そして、先日も個人的な案内を請われて行ってきました。



 狙って行った訳ではなかったのですが、偶然列車が来る時刻でした。



 というわけで、木造駅には8回訪れているんですね。

 ちなみに本物のしゃこちゃんは、ずっと上野の東京国立博物館に囚われの身です。



 しゃこちゃんが取り出された亀ヶ岡石器時代遺跡では、現在「しゃこちゃんの左足を探せ大作戦」と題して(?)発掘作業が行われていますよ。

 もし見つかったら、木造駅も改修でしょうか?

 

西谷墳墓群|島根県出雲市 ~弥生時代後期の出雲に君臨した王たちが眠る列島最大級の王墓群~

2021-08-26 10:57:47 | 歴史探訪

 

3.探訪レポート                         


2018年10月3日(水)



この日の探訪箇所
稲用城跡 → 出雲大社 → 古代出雲歴史博物館 → 出雲弥生の森博物館 → 西谷墳墓群 → 荒神谷遺跡 → 加茂岩倉遺跡 → 神原神社古墳 → 松本古墳群

 
 それでは実際の「よすみ」を見に行きましょう。

 まずは出雲弥生の森博物館にあった展示パネルで全体の様子を確認してみます。



 よすみ以外にもたくさんの古墳や横穴墓などがありますね。

 横穴墓があるということは古墳時代後期までこの丘は墓域として使われていたのでしょう。

 7号墳は前方後方墳のようで特に気になります。

 よすみの中で最大のものは9号墓ですが、現状は神社になっているそうです。

 これらの中で、出雲弥生の森博物館を出てすぐに登れる「史跡公園 出雲弥生の森」としては、よすみが連続しているこの丘が整備されています。



 おおよそ南北方向の丘の上に墓群が連なっており、南側からのアプローチになるため、まずは6号墓に行ってみますよ。


① 6号墓



 丘を登っていきます。



 遊歩道を歩いて行くと到着しました。



 墳頂からはおおよそ南の方向に少しだけ眺望が開けており、川の流れが見えます。



 斐伊川の流れを神戸川に向けて分水している斐伊川放水路です。

 ※帰宅後に調べたら、斐伊川放水路は平成25年の完成ということで、「今昔マップ」で放水路築造前の地図を見ると普通に山がありますから、その山をぶった切って放水路を造ったということが分かりました。

 こちらは山の方。



 説明板もありますよ。



 方丘部の大きさは、東西約16m、南北8m以上、高さ2.5mで、それほど大きなよすみではありません。

 現状ではちょっと分かりづらいですね。



 墳丘の南半分が無くなって崖のようになっているのは、戦後になってこの南側の「兎谷」に用水地が造られてしまったあおりを受けたからですが、6号墓は半壊状態で辛くも残っています。



 ※クラツーで案内する際は、時間の都合で6号墓は見ません。

 ではつづいて、5号墳に行ってみましょう。


② 5号墳



 墳丘が現れましたぞ。



 最初に確認した全体図では5号「墳」となっていましたが、この説明板では5号「墓」となっています。



 「墳」は、古墳時代に築造された明らかな墳丘を伴う墓(いわゆる「古墳」)で、「墓」は、弥生時代のものか、古墳時代のもので墳丘がないか、あってもあまり高くない墓です。

 弥生時代に造られた墓は、明らかな墳丘を伴っていても古墳とは言いません。

 つまり、古墳時代も「墓」は存在しますが、弥生時代には「墳」は存在しないのです。

 ややこしいですがこの事実を受け止める覚悟をもって古墳めぐりに臨んでください。

 話を戻して、5号は「墓」なのか「墳」なのか・・・

 現在の形状を見ても分かりませんね。



 墳頂に登ると隣の4号墓が見えます。



 4号墓との間にあるこの墳丘チックな場所は、説明板によると土壙がありますね。



 よく見ると、4号墓の向こうには貼石で覆われた墓が見えています。



 はやく行ってみたい気持ちになりますが、ちょっと戻って番外3号墓を見てみます。



 「番外」というネーミングは面白いです。



 穴を掘って組合式の箱式石棺を埋めただけのシンプルな墓ですね。

 北部九州では弥生時代以降のこういった墓がよく見つかり、対馬に行ったときは地元の方が「こういうのは山の中にゴロゴロある」と言っていました。

 問題なのは小さいのが多いことで、とても肉が付いたままの人間を入れることはできません。

 私的には白骨化した後に再葬したのではないかと思うのですが、地元の研究者に否定されることが多いです。

 西谷墳墓群の築造が始まったのは弥生時代後期後葉(2世紀)ですが、この墳墓群は特定の権力者のために大きな墓を造るという、のちの古墳に通じる造り方をしています。

 ただ、このように墳丘を持たない墓が大きな墓の周囲に見られるということは、まだ弥生チックな集団墓の影響が残っているのでしょう。

 またさきほどの5号墓の手前まで戻ってきました。



 ここにも全体図がありました。



 つぎに4号墓へ行きます。


③ 4号墓



 お、立派な突出部が現れた!



 想像していたよりも長くて立派です。



 4号墓は貼石の復元はしていませんが、往時は全体が石で覆われていたのです。

 古墳の場合は「葺石」といって、よすみの場合は「貼石」といいますが、その違いは微妙なものの、私的には葺石は裏込があるもので(古墳の葺石の内部は通常数段になっている)、貼石は墳丘の表面に石をペタペタ貼り付けただけのものだと考えています。

 ただし、これは私の感覚での分類ですし、何でも例外があるため厳密に考える必要はないと思います。



 方丘部の大きさは、南北26m、東西32mで、突出部を含めると40mもあります。

 方丘部が正方形でないことに違和感を覚えたとしたらそれは現代人の感覚です。

 当時の人は長方形が好きで、古墳時代になって方墳が造られるようになっても、意外と微妙に長方形が多いですよ。

 昔の人は完全な形のものはむしろ忌み嫌っていた可能性がありますし、「死」にまつわるものはことさらその傾向が強いと感じます。

 貼石の写真が載っていますが、墳丘の法面に貼るのを「貼石」といって、裾の平らな部分には「敷石」を並べ、その一番外側には「立石」を立て並べるというゴージャスさが分かると思います。

 この「立石」部分が二重とか三重になっているとさらにグレードが上がるのですが、4号墓は一重です。

 墳頂に登りましょう。



 南側には先ほど見た5号墓が見えていますが、ここから見ると前方後円墳のように見えますね。



 実は土壙の部分が前方部となっている前方後方墳だったりして。

 いや、いい景色だ!



 先ほどからチラチラ見えている貼石で荘厳された2号墓も近くなってきました。



 突出部を墳頂から見下ろします。



 突出部の形状は、スッとしたきれいな長方形です。

 とくに4号墓は方丘部の大きさに比して「脚が長い」プロポーションをしており、こうやって綺麗に復元すると美しさが際立ちます。

 他の地域では、もっとボテッとしているものもあります。

 ※例えば、2021年に訪れた富山市の富崎墳墓群のよすみの突出部は、「ふんわり仕上げ」です(⇒詳しくはこちらをご覧ください)。

 いいねえ。

 突出部が見られるのは、よすみの醍醐味です。



 5号墓。



 現状では、ここから東側の眺望はあまりきいていません。



 では、4号墓から降ります。

 これは何でしょうか?



 ただの崖に見えます。



 説明板がありますよ。



 17号墓とあります。

 ※崖に気を取られていて、17号墓の墳丘を見過ごしました。


④ 3号墓



 お、3号墓は墳丘裾の貼石が復元されていますよ。



 3号墓は、立石部分が二重(二段)になっていますね。

 登ります。



 2基の主体部の表示があり、ちゃんと朱の表現がされている!



 主体部についての詳しい説明はさきほど弥生の森博物館で見ましたが、ここには木柱も再現されていますね。

 木柱に囲まれているのが第4主体部です。



 もっとも深い位置に造られた第4主体部に葬られた人がこの墳墓の初葬者となります。

 こちらは第1主体部。



 第1主体部からは、あのコバルトブルーに輝く鉛バリウムガラス製の勾玉が見つかっています。

 朱は中国産と考えられています。

 出雲の王はどのような手段を講じて中国大陸産の朱を入手したのでしょうか。

 現地まで行って調達するのは難しいと思うので、おそらく朝鮮半島のどこかの国を通じて入手したのだろうと思います。

 でも、朱は大変高価なものですから、何と交換したのか考えなければなりませんが、『シリーズ「遺跡を学ぶ」123 出雲王と四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群』(渡辺貞幸/著)によると、一説にはそれは「奴隷」と言われています。

 西谷墳墓群が築造された弥生時代後期後葉は、西日本各地で戦争が行われていた可能性が高く、その際に手に入れた敵の捕虜がその奴隷の候補で、文献的には「生口」と記されているものがそれにあたると考えられます。

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 主体部の模型は弥生の森博物館にありましたね。



 説明板の絵には、吉備や北陸方面から弔問に駆け付けた人々が描かれていますが、実際のそれらの地方の土器が3号墓から見つかっており、吉備の特殊器台も見つかっています。

 3号墓で見つかった特殊器台は、「楯築型」と呼ばれるもので、特殊器台の中ではもっとも初期のもので、その名の通り、岡山県倉敷市の楯築墳丘墓に並べられていたものと同じデザインなのです。


※特殊器台の編年(岡山県総社市の総社市埋蔵文化財学習の館にて2021年8月18日撮影)


※宮山墳墓群出土の特殊器台のレプリカ(岡山県総社市の総社市埋蔵文化財学習の館にて2021年8月18日撮影)

 ということは、3号墓と楯築墳丘墓はほぼ同じ時期に築造されたことになります。

 いろいろな史料を読んでいると、どうも吉備と出雲の研究者同士で編年に対する実年代の評価が微妙に違うような気がして、出雲の研究者は3号墓の築造は2世紀半ばとしますから、そうすると楯築墳丘墓も同じころになるはずです。

 でも、吉備の研究者はもっと慎重で、楯築の築造時期は2世紀後半から3世紀前半と、かなり幅を持たせているんですよね。

 この辺はヤマト王権設立と密接に関連する重要な問題なので、今後よく調べて行こうと考えています。

 本当か噓かも分からない幻の「邪馬台国」を追い求めるのも楽しいと思いますが、現実としてここにある西谷墳墓群と、そして吉備の楯築墳丘墓をはじめとする弥生終末期の墳丘墓を軸にして、日本の古代国家成立の謎を解いていく方がよりエキサイティングだと思います。

 ⇒楯築墳丘墓の探訪レポートはこちら

 ここまでくると、北側の眺望が開けてきました。



 この丘と眼前に屏風のようにそびえる山々との間が出雲平野です。

 目視はできませんが、この丘の右手(東側)には斐伊川が北流しており、いまは東側の宍道湖にそそいでいますが、往時は出雲平野を現在の出雲大社方面へ西流していました。



 突出部を上から見下ろします。



 北隣には貼石を全体的に復元した2号墓の雄姿が見えますよ。





 3号墓の突出部の先端と2号墓の突出部の先端はかなり近接しています。



 出雲商業高校のグラウンド。



 ここの生徒たちはいつも出雲の王たちに見守れながら勉学に励んでいることでしょう。



 手を抜くと王様に怒られますから油断できませんね。

 しかし、歴代の王の中には、「学校の勉強なんかそこそこで良いんだよ」と言ってくれる王もいるかもしれません。

 実際その通り。

 下に降りて3号墓の説明板を読んでみましょう。



 3号墓の方丘部の大きさは南北30m前後、東西40m前後で、突出部を含めると50mとなります。

 高さが4.5mもありますが、弥生墳丘墓といえども、外見上はもう立派な古墳ですね。



 墳頂に再現されている主体部は2つだけですが、少なくとも8つはあったようです。



 四隅突出型墳丘墓は、弥生時代中期後葉に広島県北部の三次盆地で発生したと考えられていますが、当初の突出部は目立たないものでした。

 ただし、発生当初から貼石はあります。

 大きさも十数メートルとかその程度だったのですが、なぜかいきなり、この西谷の地で3号墓が造られたときは既述した通り50mもの大型のものになってしまいました。

 3号墓は大型のよすみの嚆矢ともいえる存在です。

 なぜ、2世紀半ばに急に今までにない大型の墳丘墓が造られるようになったのでしょうか?

 そして既述した通り、同じ時期の吉備でも総長80mという楯築墳丘墓が築造されたのです。

 2世紀半ばころ、「何か」が起きたことにより、吉備と出雲の王はそれぞれ今までにない大型の墳丘墓を構築し、そして両者は手を結んでその「何か」に対応したのです。

 その「何か」とは何か!?

 ・・・つづいて2号墓を見てみましょう。


⑤ 2号墓



 このように往時の状況になるべく似せて復元することを「積極的復元」といいます。



 この公園は奥に行けば行くにつれて復元の積極度も高まってきますね。

 まずは説明板を読みます。



 方丘部の大きさは、南北36m、東西24m、突出部を含めると約50mで、高さは4mあります。

 2号墓の墳端の配石構造は3号墓と同じく2段ですね。



 おっとここで、横穴墓の説明板がありました。



 ここの横穴墓は後期よりも新しい7世紀の終末期のもののようです。



 でも現物を見ることはできませんよ。

 なるほど、高校の野球部がボールを飛ばしてくることがあるんですね。



 2号墓は中に入れるようになっていますが、中に入る前に西谷墳墓群のよすみについてまとめてみようと思います。

 西谷墳墓群の築造は、後期後葉(2世紀中ごろ)から始まり、以下の順で造営されました。

 3号墓 ・・・ 南北30m前後、東西40m前後、突出部を含めると50m、高さ4.5m
 2号墓 ・・・ 南北36m、東西24m、突出部を含めると約50m、高さ4m
 4号墓 ・・・ 南北26m、東西32m、突出部を含めると40m、高さ不詳
 9号墓(公園外) ・・・ 南北35m、東西42m、突出部を含めると60m、高さ5m
 6号墓(9号墓と同じころ) ・・・ 東西約16m、南北8m以上、高さ2.5m

 9号墓が築造されたのは3世紀前半で、箸墓古墳より1世代か2世代ほど前にあたります。

 100年も見たない間に大型のよすみを4基も築造しましたが、弥生時代の終わりころに一つの場所に連続して首長墓を造るケースは、列島各地を見渡しても他に例がありません。

 なお、最大化した9号墓の築造を最後として、出雲に大型の墳丘墓が築かれることはなくなり、古墳時代になっても出雲は大型の古墳がほとんど造られない地域となります。

 これが出雲の王の凋落を表しているのか、それとも単に古墳の大きさや有無だけでその勢力の大小を計ってよいのだろうか・・・

 単純に古墳の大きさから見たら、ヤマト王権から冷遇されています。

 もし、冷遇され続けたとしたら、その原因は何でしょうか?

 記紀の神話を読むと出雲にはかなり大きな勢力がいたことが想像できますが、それは果たして神話だけの話なのでしょうか?

 こういうのを考えるのが古代史の楽しみの醍醐味でしょう。





 では、中に入ります。

 中はパネル展示が基本のようですね。



 土層の展示があります。











 ※初めて訪れたときはよく説明を読んでいなくてここに被葬者が浮かび上がるのを確認せず、その後、クラツーで案内するとこれに驚くお客様が多くて意外と好評です。

 この装置は何でしょう?



 ハンドルが付いていますよ。



 回すとこの地の各時代の説明が見られます!



 生れ出た。



 つづいて1号墓へ行きます。


⑥ 1号墓



 ちいちゃなよすみですね。





 公園の図を見るとこの先にはまだ番外1号墓と番外2号墓があるようですが、見学は難しそうです。

 では、よすみを見ながら元来た道を戻ることにしましょう。







 東側に流れている斐伊川の水面が見えています。



 左手奥には宍道湖も辛うじて・・・見えないかな?

 荒神谷遺跡もこの範囲に収まっているはずで、あの三角の山(仏経山?)の向こう側には加茂岩倉遺跡があります。

 2号墓の向こうには3号墓。



 2号墓の突出部の配石構造が良くわかります。



 そういえば、2号墓の墳頂に登っていませんでした。

 登ります。



 しかし今日はよく晴れていて気持ちよい!









 2号墓から降ります。

 記念碑。



 東側にはこんもりとした森が見えます。



 あの森が9号墓かな?



 今日は時間がありませんので、いつか行ってみたいです。

 麓まで降りてきました。

 ここにも説明板があります。



 観音坂は今は通れないようです。



 こちらにも説明板がありました。





 さきほど、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の方面を見ましたが、実は結構近い場所にあって車を使えばすぐに行けるんですね。





 今日は後は、少なくとも両遺跡は見ておかないとなりませんが、時刻はまだ14時20分ですから大丈夫でしょう。

 ※後から考えたら9号墓に行く時間もありましたが、このときはなぜか行く気にならなかったのです(多分まだ「その時期」ではなかったということでしょう)。

 (つづく)

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」034 吉備の弥生大首長墓 楯築弥生墳丘墓』 福本明/著 2007年
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」123 出雲王と四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群』 渡辺貞幸/著 2018年

真脇遺跡および真脇遺跡縄文館|石川県能登町 ~イルカ漁や環状木柱列で有名な北陸を代表する縄文集落跡~ 【北陸古代史探訪 2日目①】

2021-08-24 23:13:56 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年7月21日(水)



この日の探訪箇所
真脇遺跡 → 須曽蝦夷穴古墳 → のと里山里海ミュージアム → 能登国分寺展示館 → 能登国分寺跡 → 能登国総社 → 万行遺跡

 北陸古代史探訪の2日目は、「ホテル東横INN新高岡駅新幹線南口」からスタートです。

 今日は部屋じゃなくて下の食堂で食べようっと。

 お、凄い、新高岡駅新幹線南口の朝飯はスペシャルだ!



 私は東横インのヘビィーユーザーで、列島各地の東横インに泊まっていますが、ここは最高レヴェルですね。

 オムライス風なご飯に唐揚げ、マーボ豆腐などなど。

 みそ汁はシジミですよ。

 美味しかった。

 今日は一発目に真脇遺跡に行くので、ちょっと早く出ようと思っていたのですが、何気に出発の時間が遅くなって、結局ホテルを出たのは7時ちょっと前です。

 能登半島方面へ行くには、下道しかないのかなと思っていたのですが、結構先まで無料の高速道路である「のと里山海道」が通じていますね。

 ホテルを出て1時間半くらい走ったところで、ちょうどよくSAがありました。

 ちょっと休憩しよう。

 別所岳サービスエリア。



 なんか、展望台のようなものがありますよ。



 何とかと煙と同じく、高いところは大好きなので看過するわけには行かない。

 長い廊下や階段が続きます。

 山が綺麗だ。



 この先には何があるのかな?



 海だー!



 でも思い切り逆光だー!



 ※写真が見苦しくて済みません。



 この展望台は東を向いているらしく、今はまだ8時半ですから、写真撮影には適していないですね。



 ※肉眼だともう少し綺麗でしたよ。



 山側は綺麗に写せる。



 周辺図があります。





 正面のキラキラしている海は、七尾北湾ですね。



 能登島方面。



 ツインブリッジが見えます。



 今日の午後は能登島に行く予定ですが、あの橋を渡るのだろうか?

 ※結果的にはナヴィの指示によって能登島大橋を渡って行きました。

 いや、いいねえ。

 楽しい。

 でもあまり長居はできないので車に戻りましょう。

 長い廊下をもと来た道を歩きます。

 あれ、下にヤギさんがいるぞ。



 行ってみよう。

 どんぐりひろば出現!



 奥に行くとヤギが3頭います。

 でも、自己紹介は2頭ですよ。



 なるほど、きなこちゃんとおはぎちゃんは双子の女の子で、お母さんの名前は判読不能だ。



 おはぎちゃん、それは食べられないよ!



 頭が黒いから、きなこちゃんですか?



 ちょっかいを出しても、皆さん食事に夢中で全然相手をしてくれません。

 自称「高尾のムツゴロウ」としては忸怩たる思いを拭いきれません。

 というか、ここで時間を使うわけには行かないのでみなさんさようなら。

 再出発。

 やがて「のと里山海道」が終わり、山の中の道をしばらく走ると、真脇遺跡に到着しました。

 時刻は9時半。

 途中、SAで景色を見たりヤギさんに相手にされなかったりしましたが、新高岡駅前から2時間半以上掛かりました。

 そこそこ遠かったけど、ドライヴには最適な道ですよ。

 今日は一人なのでちょっとつまらないですが。

 高速道路がずっと無料区間だったのがありがたかった。

 さて、まずは真脇遺跡縄文館の見学から始めましょう。



 おっと残念!

 ここは写真撮影NGです。

 ただし、「研究のため」などで個人的に使用するのであれば、申請書を書いて出せば撮影OKです。

 もちろん申請しました。

 展示室はこんな感じ。



 ※私は写真をガンガン撮りましたが、約束は守らなければなりませんので、撮った写真は個人使用に限り、このブログでも公開しません。

 遺物を見学していると、私よりも先に入っていたおじさんが何か疑問があるらしく、受付の方を呼んできて質問を始めました。

 おじさんは好奇心が旺盛のようで、縄文館の方が持て余すほどの質問攻めが展開されているので、お節介だと思いましたがその会話に入り込みました。

 結局、3人であーだこーだと話が弾み、偶然にも他のお客様がいらっしゃらなかったので、遺物を見ながら断続的に3人で2時間近く喋っていました。

 こういう話って楽しいですね。

 私も蒙が啓かれる気分でとても勉強になりました。

 何しろ、北陸の縄文に関してはほとんど知識がない状態でこちらに来ていますから、昨日と今日で急速に北陸の縄文時代についてキャッチアップできましたよ。

 といっても、100段階レヴェルの1から5に上がったくらいだと思いますが。

 展示室自体はそれほど広くありませんが、展示内容はかなり濃いです。

 まず、真脇遺跡はイルカ漁で有名ですが、ここに来ると謎が深まりますよ。

 だって、イルカって肉が多すぎますから、1頭捕まえただけでも数組の家族じゃ食べきれないんですよね。

 余った肉はどうしているのか?

 ましてや、数頭を捕獲した場合は、明らかに肉の有効活用を考えないと、漁をしても無駄です。

 これは旧石器時代のゾウの捕獲にも言えることなので併せて考えてみるといいでしょう。

 それと、環状木柱列も有名ですが、それに関する展示も豊富ですし、土器類も素晴らしいものがたくさん並んでいるため、土器好きには堪りません。

 今上天皇陛下が皇太子時代にこちらにお見えになったときに非常に関心を示して実見された「お魚土器」を始め素晴らしい土器が集まっています。

 ⇒宮内庁のこのページに当時の皇太子殿下ご視察の時の写真が掲載されています

 その他、謎の遺物も盛りだくさん。

 もちろん土偶ちゃんもいます。

 縄文というと北東北や甲信越が有名ですが、北陸も負けないくらい面白いですよ。

 なお、廊下側にも展示ケースがあって、そこも面白いので忘れずに見学しましょう。

 ではつづいて、遺跡のほうに行ってみたいと思います。

 11時半を回っている・・・

 日本漁業発祥の地ですぞ!



 出ました!



 トーテムポールではありません。

 縄文館に展示してある国指定重要文化財「彫刻柱」のレプリカです。

 縄文時代前期のもので、大量のイルカの骨の下に埋まっていました。

 長さは2.52mでクリの木でできていますが、用途は不明です。

 私が知る限りでは、全国を見渡してもこのように彫刻を施された縄文時代の丸太は他に例が無いように思えますが、何かご存じの方がいらっしゃったら教えてください。

 遺跡公園を見渡します。



 縄文集落跡でよく見かける盛土遺構のようなものがあります。



 うーん・・・



 縄文遺跡と言えば定番なのが竪穴住居の復元ですが、この公園にはこの1棟しか建っていません。



 外には「縄文小屋」の表札も出ていますから、遺跡とは関係のないイヴェント用の建物かな?



 あ、なんかここからが正式な遺跡のような雰囲気がする。



 ところで、真脇遺跡の概要ですが、縄文時代前期中頃から晩期までの長期間にわたってほぼ途切れることなく人が住み続けた集落跡です。

 その中でも有名なのが遺跡の存続した全期間にわたってイルカの骨が見つかることで、イルカ漁が盛んだったことを示していますが、イルカ以外にも海獣の骨をはじめとして様々な魚介類の遺物が出土します。

 なお、弥生時代以降、イルカ漁をしていたのかは不明ですが、記録によれば江戸期から昭和30年代までは、真脇の村ではイルカ漁が盛んにおこなわれていました。

 現代の多くの人びとはイルカ漁に馴染みが無いと思いますが、縄文遺跡からイルカの骨が見つかることはたまにあるため、今後各地の遺跡に行った時にはその点を留意しようと思っています。

 それと、真脇遺跡では列島各地の土器が見つかることから、この地には各地から大勢の人々が集まってきていたことが分かり、もしかするとイルカ漁に関する一大交易センターとして当時は存在が知れ渡っていたのかもしれません。

 時代によっては今の公園のすぐ近くまで海が来ていたときもあったそうで、公園より高い場所には多くの住居跡が見つかっており、おそらくまだまだたくさんの住居跡が眠っているのではないでしょうか。

 公園で現在見ることができるのは、いたってシンプルで2つだけです。

 左手が環状木柱列で、右手が「板敷き土壙墓」。



 まずは板敷き土壙墓から行きましょう。



 3本の木柱が立っており、その下には土壙墓があります。

 説明板を読んでみましょう。



 縄文時代中期前葉から中期後葉に造られた4基の土壙墓で、3号墓からは屈葬の人骨が見つかっており、その人物は20~30代の男性で、この土壙墓が造られた時代は、この場所が集落の中心であることから、埋葬されたのはムラのリーダーであったと想定されています。

 3号墓は縄文館に展示があります。

 手前が2号墓で、2号墓の左手が3号墓、右手が1号墓、奥のが4号墓です。



 土壙墓というのは、単に穴を掘ってそこに遺体を埋葬するだけの墓ですが、この遺構はネーミングからわかる通り、1~3号の3基は底に木の板を敷いていたのです。

 それがどうしたんですか?

 と聴かれそうですが、縄文時代の土壙墓の底に板が敷いてあるというのは私は初めて聴きました。

 そして、木の板を造るということが実は大変なのです。

 想像してみてください。

 金属がなく石器しか道具がない時代に板を作るんですよ。

 2号墓の側面に立石のようなものがあるのが気になります。
 


 3本の木柱列は、いずれも数回立て替えた形跡がありますが、ここに立っているということは、説明板に書いてある通り、墓の位置を示すものであったと考えるのが自然かもしれません。

 木柱の耐用年数は分かりませんが、もし墓の位置を示すものだとすると、数回立て直したということは、数世代に渡ってこの場所を示す状態に置かれたということになります。

 ではつづいて、この遺跡の目玉でもある環状木柱列へ行ってみましょう。
 


 まずは説明板を読んでみてください。



 北陸を訪れたことがないと、この環状木柱列が異様に珍しく見えるのですが、石川県と富山県では他にも例があります。

 クリの木を縦に半分に切って、平らな方を外側に向けて立てますが、本数は8本か10本が多く、6本の例もあります。

 さらに入口らしきものを設けることもあります。

 真脇遺跡の場合は、6回の立て替えが確認されており、A環と呼ばれるものは、縄文時代晩期に造られています。







 南側に設けられた門扉状遺構を正面から見ます。



 中に入ると・・・

 何もない!



 この何もないのが特徴なのですが、何で何もないのかこれもまた謎なのです。

 半裁された丸太の様子。



 西側から見ると、門扉状遺構の入口らしき感じが分かると思います。



 縄文館を見ます。



 それでは遺跡をあとにしましょう。





 シンプルな遺跡公園でしたが、復元展示されているものが私のようによそから来た者にとっては珍しいものなので、強烈な個性を感じる面白い遺跡です。

 つづいて、能登島へ向かいますよ。

 (つづく)