日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

雨の宮古墳群|石川県中能登町 ~在地的世界からヤマト的世界へ切り替わる能登の様相が分かる古墳群~ 【北陸古代史探訪 3日目④】

2021-08-24 15:29:43 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年7月21日(水)



この日の探訪箇所
氷見市博物館 → 朝日貝塚 → 朝日長山古墳 → 雨の宮古墳群 → 雨の宮能登王墓の館 → 羽咋市歴史民俗博物館 → コスモアイル羽咋 → 吉崎・次場遺跡 → 内灘町歴史民俗資料館

 荒山峠を越えて邑知潟地溝帯へ降り、少し走ってJR七尾線の能登部駅の横の踏切を渡りました。

 電車乗りたいなあ。

 踏切を超えると山へ入り、雨の宮古墳群に到着。

 朝日長山古墳からここまで、途中荒山峠で小休止しましたが、50分で来れました。

 駐車場に車を停めようとしていると、説明板の前でガイドさんらしき方が来訪者に説明しているのが見えました。

 チャンス!

 車から降りて説明板の前へ行き、ガイドの方と来訪者の方にお願いして私も混ぜていただけることになりました。



 雨の宮古墳群は、説明板に書いてある通り、4世紀中ごろから5世紀初頭にかけて築造された古墳群で、現在見つかっている古墳の数は36基です。



 それらの中でも特に大きいのが1号墳と2号墳で、1号墳は墳丘長64mを誇る前方後方墳で4世紀半ばの能登の王の墓で、墳丘長65mの前方後円墳である2号墳は、その次代の王の墓です。

 時間があれば古墳群全体を歩いてみたいですが、今日は行程の都合上、最初から1号墳と2号墳だけ見られれば良いというスタンスで来ました。

 もう一つ説明板。



 地形図上に古墳をプロットすると、1号墳のある雷ヶ峰(標高187.9m)から派生した尾根上に古墳が築造されているのが良くわかりますね。



 ただし、こちらの図は表示されている古墳の数が少ないことから少し古い図です。

 では、ガイドの中島さんの案内の元、古墳群に入っていきます。

 入口には鳥居。



 1号墳には昔から天日陰比咩神社の本殿があり、地元の方々からすると古墳群はもう神域なのです。

 少し登ると素敵な墳丘が現れました。

 円墳の6号墳です。



 ここには、6号、5号、7号墳が並んでおり、すべて円墳です。



 真ん中の5号墳。



 7号墳。



 5号墳の前には説明板があります。



 この図を見ると5号墳と6号墳が切りあって(重なって)いますが、5号墳の横に新たに6号墳を作るということで、5号墳を削って作ってしまったようです。



 各地の古墳を見ているとこういうケースはたまにあって、どうしでも「この場所でこの大きさ」に造りたいこだわりがあった場合は、以前からある古墳を壊してでもその場所に造ることがあるのです。

 もちろん、そうした理由は分かりません。

 5号墳の墳頂には主体部が表示されています。



 さて、彼ら3兄弟の横にはひときわ立派な墳丘がありますよ。

 葺石もゴロゴロ見えています。



 首長墓級の前方後円墳である2号墳の後円部ですね。

 前方部側を見てみます。



 2号墳には階段が付いていますので階段で墳頂へ登りましょう。



 3段築成に見えるのですが、中島さん曰く、一番下は「基壇」の扱いで、基壇+2段築成とするそうです。

 段築の段の部分に葺石よりも大い石が配列されています。



 後円部墳頂から3兄弟を見下ろします。



 なかなか良い景色だ。



 この古墳は邑知潟地溝帯方面の眺望に優れており、その方面の写真パネルがあり、土地勘のないよそ者にとってはありがたいです。

 北東方面から始まって、有名な七尾城跡や昨日訪れた能登国分寺跡があります。



 先ほどは荒山城跡のすぐ南側の峠を越えてきました。





 小田中親王塚古墳と亀塚古墳の名前は聞いたことがあります。



 今日は訪れる予定はありませんが、小田中親王塚古墳は、宮内庁が崇神天皇の皇子で能等国造の祖とされる大入杵命の墓に治定しています。

 亀塚古墳は、宮内庁は親王塚の陪冢としていますが、雨の宮1号墳と同じころに築造された墳丘長62mの前方後方墳です。

 雨の宮1号墳と同規模であるので、どちらがその時代の「能登の王」であったか分かりませんが、両墳の築造をもってこの地域の前方後方墳の築造は終わり、前方後円墳を作る、より「ヤマト的」な世界へと切り替わっていきます。

 今いる2号墳は、能登における「ヤマト的」な世界の幕開けを飾る古墳と考えていいでしょう。



 でも実際の眺望はパネルのようにうまくいきません。





 後円部墳頂から前方部方向を見ると、1号墳の墳丘がチラっと見えていますよ。



 上から見下ろすと、前方部も2段築成ですね。



 前方部にやってきました。

 1号墳も見えます。



 葺石がゴロゴロしていますが、川原石ではなく山石ですね。



 今なお白い石が多いため、築造当時は墳丘はモザイク状に白く輝いていたに違いありません。



 天日陰比咩神社の拝殿。



 降りたところに2号墳の説明板がありました。





 墳丘長の65.5mというのは、基壇部分を含めておらず、基壇を含めればもっと大きな古墳になります。

 地域によっては基壇部分を墳丘長に含める場合もあるので、ここもそうしてもいいんじゃないかと思います。

 説明板を読むと、基壇を墳丘長に含めない理由としては、基壇部分に葺石がないというのもその一つのようです。



 私的には、とくに基壇と呼ぶ必要はなく、普通に3段築成の前方後円墳でいいんじゃないでしょうか。

 全国の古墳を見ると、最下段に葺石を施さない古墳はよくあります。

 おや、お隣にあるこの古墳は主体部の表示もありますよ。







 36号墳です。



 さて、つづいては雨の宮古墳群でもっとも重要な古墳である1号墳へ行ってみましょう。

 1号墳出現!



 いいねえ。



 1号墳の墳頂にはもともと神社がありました。



 整備にあたって神様は墳頂から降りていただいています。



 こういうのって氏子さんたちの理解を得るのがとても難しいので、私たちがこうして綺麗に整備された古墳を見ることができるのは、地元の方々の理解の上でできているということを忘れてはいけません。

 説明板があります。





 1号墳の葺石も全国的に見られるのと同じように、一定間隔で竪に大きめの石を並べています。

 一般的には、それが作業者の担当範囲を示していると言われています。

 しかし、前期の古墳は関東地方などの平野部を除いては、ここみたいに山の上に造るケースが多いですが、葺石を葺く作業は縄文人がストーンサークルを作るよりも大変だったでしょうね。





 後方部を見ると、左右の墳丘の中ほどに大きな石が埋め込まれています。



 地元では「目玉石」と呼んでいるそうですが、こういう造形は他では見た記憶がないです。

 古墳を築造した人は何の意味を込めたのでしょうかね。

 前方部側から見ると顔に見えるので、もしかしたら被葬者の顔を思い出すように設置したのかもしれませんよ。

 墳丘は本当にきれいに整備されています。



 前方後方墳は、とくに後方部が四角いことが分からないと面白味が半減しますから、このようにきちんとエッヂが分かるようになっているのは素晴らしいです。

 考えてみれば今は真夏ですが、真夏に来てもとても歩きやすい古墳というのはとてもありがたいですね。



 この地の王様の顔を想像してみてください。



 北側にある小さな35号墳もきれいに整備されている。



 墳頂が雷ヶ峰の頂上で、標高187.9mです(プレートには188mとあります)。



 先ほどの2号墳とはまた少し違ったヴュー。



 埋葬主体の表示があります。



 最近個人的にお気に入りの車輪石も出ています。



 能登王墓の館には遺物のレプリカが展示されているそうです。





 2号墳が見えますね。



 後方部から前方部を見ます。







 17号墳があります。





 あとで行ってみようと思います。

 1号墳からの眺望をしばし楽しみます。



 今日は日差しもそれほど強くなく、真夏にしてはとても良いコンディションです。

 雪が降ったら来ることができなくなるので、晩秋あたりにまた来てみたい。

 中島さんにこの辺は雪が多いのか聴くと、「この地域はそれほどでもないですよ。積もっても40㎝くらいかな」と返ってきました。

 東京人にとっては大雪だ!







 17号墳を見ておきたい。



 こちらもちゃんと説明板があります。





 この主体部は面白いですよ。



 板石を重ねて天井部分を造っています。



 円形ではありませんが、まるで南九州の隼人の居住地と重なる板石積石室墓のようです。

 でも不思議なことにこの古墳は発掘調査を開始したのですが、このように天井石を露出させた段階でやめてしまったそうです。

 1号墳よりも古い古墳と考えられていることから、雨の宮古墳群の歴史のもっともコアな部分を握っているかもしれず残念です。

 これ以上掘ったら、何か既得権益者にとって「都合の悪い」史実が分かってしまうから止めたのでしょうか。













 1号墳、さようなら。



 雨の宮古墳群、かなり良いです!

 このあとは、能登王墓の館を引き続きご案内していただけるそうです。

 (つづく)

朝日長山古墳|富山県氷見市 ~越中において継体天皇を支持した首長の墓か~【北陸古代史探訪 2日目③】

2021-08-24 11:52:33 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年7月21日(水)



この日の探訪箇所
氷見市博物館 → 朝日貝塚 → 朝日長山古墳 → 雨の宮古墳群 → 雨の宮能登王墓の館 → 羽咋市歴史民俗博物館 → コスモアイル羽咋 → 吉崎・次場遺跡 → 内灘町歴史民俗資料館

 氷見市博物館の古墳に関する展示の中で大きくフィーチャーされていたのが朝日長山古墳でした。

 事前に調べた感触では、墳丘も破壊されていてまったく見学ができるような状況ではないようですが、ダメもとで現地に行ってみましょう。

 脳内をナヴィに支配されてたどり着きました。

 多分この辺。



 この右手の森の中のはずですが・・・

 完全な森だな。



 ただし、個人のお墓が点在しているようで、一応、階段もあります。



 でも再度、手元の資料を確認すると、ここから登って行って森に入ってもすぐには古墳には到達できないようです。

 ここよりかは、民家が並んでいる場所の裏山だな、きっと。

 あの奥の民家の裏山かな?



 うーん、無理。

 ダメ元で来ましたがダメでした。

 標柱一つもないようですね。

 ただし、現地の地形も見ることができたのでこれで良しとしましょう。

 さきほど博物館で見たものをおさらいします。

 朝日長山古墳の概要はこちら。



 築造時期は6世紀前半で、継体天皇を支持した勢力と考えられるのが魅力ですね。

 朝日長山古墳は、「前方後円墳データベース」によると、墳丘長43mの前方後円墳です。

 『朝日長山古墳 調査報告書』(氷見市教育委員会/編・1973年)によると石室は竪穴式石室で、博物館にはその模型もありました。



 遺物の中でとくによいと思ったのは杏葉。



 それと、胡禄のパーツも金メッキが残っていて素敵。



 こういった素晴らしい遺物が出土した古墳がこの裏山にあるのですが、ここで諦めて能登へ向かいます。

 ※帰宅後に調べてみたら、墳丘は完全に破壊されているそうです。

 少し走っていくと、越中から能登へ越えるための山道に入りました。

 山道をズンズン登っていきます。

 グニャグニャ道の運転は楽しい。

 前方にいた軽トラは道を譲ってくれました。

 もうすぐ荒山峠です。

 おや、左手に何かあるようですよ。

 とっさの判断で駐車スペースらしき場所に車を入れます。

 立派な説明板と標柱がある!





 お堂もありますよ。



 お地蔵さんに手を合わせます。

 お堂の前には礎石のようなものが保存されていますね。





 残念ながらこの場所からの眺望は効いていません。



 能登方向。



 登ってきた道。



 さきほど道を譲ってくれた軽トラが目の前を通過していきました。

 再び車に乗り込み、荒山峠の標識をくぐり、下り坂に差し掛かると一瞬左手に樹木がなくなって眺望が開けた場所が見えました。

 看過するわけには行かない!

 少し下ったところで、Uターンし戻ります。

 路駐して確認。

 遠くの方に平野が見えますね。



 邑知潟(おうちがた)地溝帯だ!



 昨日は七尾に行っていますから、邑知潟地溝帯の北辺を訪れているわけですが、今日はその真っただ中にある遺跡を訪れますよ。



 石川県の古代史を探るには、この邑知潟地溝帯が一つのキーとなります。

 これから訪れる雨の宮古墳群は、邑知潟地溝帯の向こう側です。

 では再び出発。

 (つづく)


中山茶臼山古墳|岡山県岡山市北区 ~吉備の古墳時代の幕開けを飾る墳丘長105mの前方後円墳~

2021-08-21 23:03:47 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年8月18日(水)



この日の探訪箇所
鬼ノ城 → 総社市埋蔵文化財学習の館 → 吉備津神社 → 中山茶臼山古墳 → 吉備津彦神社 


 時刻はそろそろ16時です。

 18時には岡山駅周辺に戻りたいので、あまり攻めれないですね。

 近くにある中山茶臼山古墳なら陵墓なので、それほど探訪時間はかからないでしょう。

 脳内をナヴィに支配されながら吉備の中山を登ります。

 狭くて急な山道なのに、地元の方々の抜け道になっているのか、結構対向車が来ます。

 あ、ここが入口だな。

 でも駐車できそうな場所がないです。

 いったんやり過ごし、Uターンして戻ると、乗用車であれば辛うじて路駐できそうなスペースがあります。

 停めるのを失敗したら脱輪しますが。

 では行きますよ。

 看板一杯。



 辛うじて陵墓を指し示すのが分かりますが、200mとありますね。

 拝所の近くまで車で行けると思っていたので甘かったですが、200mなら大丈夫でしょう。



 では登りますよ。

 1段の段差が大きいので、いい運動になると思ったら、すぐに普通になりました。

 息を弾ませながら登りきると右手に妙に明るい空間があります。



 でもそちらに古墳があるわけではないようです。

 お、「御陵」の案内板がある。

 それが指し示す先に拝所を発見!



 着きましたー。



 下から5分くらいですね。

 おっと、面白いものがあります。



 国境石。



 そういえばこの中山って令制備前国と備中国の国境線が走っていましたね。

 でもなんでこの山で国を分割してしまったのでしょうか。

 考察してみると面白そうです。

 肝心の古墳はまったく分かりませんね。



 宮内庁の制札があります。



 孝霊天皇の皇子・大吉備津彦命の墓です。

 一般的には、吉備津彦で通っていますが、なんで「大」が付くのでしょうか。

 「大」が付くのは尋常ではないですよ。

 吉備津彦については、次に訪れる吉備津彦神社でお話ししますが、中山茶臼山古墳は墳丘長105mの前方後円墳で、吉備で最古級の前方後円墳です。

 ただ最古級というのも微妙で、吉備の場合は弥生時代後期後半に墳丘墓がガンガン築造されて、その中には前方後円形のものもあり、前方後円形墳丘墓とするか、前方後円墳とするか微妙なものもあるのです。

 こういう弥生時代と古墳時代がシームレスにつながっているところが吉備の魅力なわけですが、105mという規模はそれ以前に築造された墳丘墓よりは大型化していますね。

 では、今登ってきた石段を今度は降りないとなりません。

 雨は止んでいますが、滑りやすいので気を付けて降りましょう。

 下の方は1段の段差が大きいので、そういうところは降りるのも大変なんですよね。

 ところで、この中山には他にいくつかの古墳があり、今回の旅ではとてもではないですが回り切れないですし、また時期的にも夏場は古墳めぐりに向いていないので、今度下草が枯れた時期に再訪して、中山にある古墳をめぐってみたいと思います。

 やっと、降りられた。

 では、中山茶臼山古墳の被葬者とされている大吉備津彦を祭っている吉備津彦神社へ行きますよ。

 (つづく)

作山古墳|岡山県総社市 ~中国・四国・九州地方で2番目の大きさを誇る墳丘長282mの前方後円墳~

2021-08-21 19:50:57 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年8月19日(木)



この日の探訪箇所
阿智神社 → 倉敷考古館 → 楯築遺跡(楯築墳丘墓) → 王墓山古墳 → 鯉喰神社(鯉喰神社弥生墳丘墓) → こうもり塚古墳 → 作山古墳 → 宮山墳墓群 → 造山古墳 → 千足古墳


 3年前に来たときは、その日の探訪の一番最後が作山古墳で、レンタカー屋さんが閉店するまでに広島に行かなければいけないプレッシャーもあり、墳丘に急いで登ってすぐに降りてくる程度しか見ていません。

 そのため今日は前回よりもちゃんと見てみようと思います。

 見覚えのある駐車場に着きました。

 この駐車場まで大型バスで来ることは不可能ですが、駐車場内はそれなりに広くてトイレもあります。

 日本遺産になったため、3年前には無かった説明板がありますよ。



 これは以前からある説明板。



 面白いことに周溝がなく、「巨大な墳丘のわりには端整さを欠く面もある」という評価に関しては、確かにそうかもしれませんが、後述するようにこの古墳にしかない独特な要素も持っています。

 墳丘に並んでいた円筒埴輪は、昨日訪れた総社市埋文学習の館にありました。



 埴輪は、想定では5000本以上は並んでいたとされています。



 墳丘図。



 前方部、後円部ともに3段で、北側のみに造出があり、後円部先端には1段目よりも低い平場がありますが、それは「作山段」と呼ばれており、この古墳の独特な構造です。

 また、造出に並ぶようにその西側に方形突出部があり、それもこの古墳独自のもの。

 もともとの独立丘を利用した地山造り出しの古墳ですが、余ってしまった前方部外側部分の山を潰さずにそのまま残しているというのも面白いです。

 でも、その残した山は三角形をしており、何かの使用目的があってわざと残したのではないでしょうか。

 残した部分の丘は道路の右側部分。



 昨日探訪した総社埋文学習の館に展示してあった模型を見てみるともっと分かりやすいでしょう。



 結構墳丘法面の傾斜が急に見えます。



 付近の案内図。



 では行きますよ。

 前方部コーナーのもっとも傾斜の緩い部分に自然に道ができているのが分かります。



 でも傾斜がきつくて足場が悪い場所もあるので、降りるときはとくに注意してください。

 1段上がり、テラス部分に来ました。



 前方部底辺側のテラスを見るとかなり広いのが分かります。



 先ほど確認した模型を見てみると分かりやすいです。

 後期の古墳になると、例えば栃木県内では「下野型」と呼ばれるテラスの広い古墳が造られますし、福岡県北部最大の八女市の岩戸山古墳もテラスが広いです。

 一説には土の量を減らしつつ、横から見た大きさを強調する工夫ともいわれていますが、作山古墳はまだ中期半ば(5世紀半ば)の古墳ですし、そもそも作山古墳は地山造り出しの古墳ですから、土量は気にする必要はないですね。

 後円部方向を見ると、あまりもの巨大さのため、くびれ部分や後円部がかなり遠くに見えます。



 さらにもう1段上がりました。



 そして前方部墳頂に来ましたよ。



 この先にはまだダラダラと丘が続いています。



 そういえば、3年前に来たときは、何を勘違いしたのか、ここを後円部だと思って、この奥のダラダラ続く丘は見ているのにも関わらず奥まで行かず引き上げていました。

 既述した通り、早く広島に行かなければというプレッシャーからか、とんだ勘違いをしていましたよ。

 前方部を登るときに、後円部がだいぶ先のほうにあることを前回も見たと思いますし、そもそも282mもの巨大古墳ですからここで終わりなわけがないですね。

 ダラダラ続く丘は墳丘の続きであることに今日気づきました。

 さらに奥まで歩いていくと土の高まりが現れました。

 こちらが後円部ですね。



 ちゃんと説明板もあるじゃん!



 自分の誤りに気づいてよかった・・・



 説明板はかなり滅亡に瀕しており読みにくくなっています。





 登れる古墳としたら国内で3番目の大きさですが、2番目の墳丘長330mの五条野丸山古墳(全国6位)は後円部が宮内庁管理となっており前方部しか登れないため、後円部墳頂まで登れる古墳としたら、作山古墳は日本で2番目です。

 もしゃもしゃですが。



 主体部は調査していませんが竪穴系のはずです。

 そしてなんと、盗掘の形跡がないらしいのです。

 いつか、非破壊検査技術が向上したら確認できる日が来るでしょう。

 後円部から麓の集落を見下ろすとかなりの高さがあることが分かります。



 後円部墳頂から前方部側を見ます。



 後円部を降りて後円部を振り返る。



 墳丘長が282mもあるということは、当然ながら横幅も凄いですから、全幅を目視確認することも困難です。



 冬に来ればもっとちゃんと見えるかもしれませんが、まあとにかく大きな古墳ですね。

 テラスが広いためもしゃもしゃでも段築は確認できます。



 これだけ大きいと美容院に行くのも大変です。

 前方部の端まで戻ってきて後円部側を見ます。



 前方部を降りますが、既述した通り下りはとくに気を付けましょう。



 いやー、でかい古墳でしたね。

 ところで、編年上は作山古墳の一代前は造山古墳となり、造山は墳丘長350mという超巨大古墳ですから、それと比べると作山古墳は規模が縮小され、吉備勢力凋落の兆しを示していると言われることが多いです。

 ただ、日本書紀の記述と照らし合わせると、雄略天皇によって吉備勢力の勢力削減が図られるのは5世紀後半で、この作山の被葬者よりも後の人物となります。

 282mというのは事実として超巨大で、同じ時代の古墳としては依然として日本で2番目の大きさですから単純に大きさだけで判断するのはいかがなものでしょうか。

 もちろん時代の流れ的にはヤマトの王とは相対的に権力の差が出てくるのは仕方がないですが、日本で2番目ですよ!

 この事実を忘れてはいけません。

 前方部の削り残しも、既述した通り、被葬者の権力不足(経済低下)によるものではないでしょう。

 あれくらいの山を削るのは吉備の王の権力からすればチョロいはずです。

 あの山はきっと意味があって残したものと考えています。

 さて、次は時代を弥生末期まで遡り、宮山墳墓群へ行ってみましょう。

 (つづく)

 

2018年10月1日(月)備前・備中古代史探訪⑰



この日の探訪箇所
神宮寺山古墳 → 幡多廃寺塔跡 → 備前国庁跡 → 賞田廃寺跡 → 中世山陽道 → 牟佐大塚古墳 → 備前国分寺跡 → 備前国分尼寺跡 → 両宮山古墳および茶臼山古墳・森山古墳・廻り山古墳 → 吉備津彦神社 → 吉備津神社 → 惣爪塔跡 → 楯築墳丘墓 → 造山古墳 → 備中国分尼寺跡 → こうもり塚古墳 → 備中国分寺跡 → 作山古墳

 ⇒前回の記事はこちら

 途中、いろいろな史跡に引っ掛かりながら、ようやく作山古墳の近くまでやってきました。



 さきほどの国分寺の塔と同じく、逆光になってしまった・・・

 この場所からも国分寺の塔は望見できますよ。



 時刻は17時半になろうかというところです。

 今日は吉備に来ているので、東京よりも日の入りは遅いです。

 そのため、まだギリギリ探訪できますね。

 ただ、それよりか、今日は20時までに広島駅前でレンタカーを返却しないといけないので、むしろそのためにも急いで作山古墳を見ようと思います。

 とりあえず、墳頂に登れればいいやというスタンスでいいかな。

 作山古墳もちゃんと駐車場があり、トイレもあります。

 もちろん説明板もあります。



 全国で4番目に大きい造山古墳もこちらの作山古墳も、両者とも「つくりやま」と呼ばれているので、発音で区別する場合は、こちらは「さくざんこふん」と呼びます。

 墳丘長282mの巨大古墳で、後円部の直径も前方部の幅も174mで揃えてあります。

 5世紀中葉の築造と考えられていますが、古墳時代の全時代を通じても大きさでは10位にランクインしています。



 古墳の西側の風景。



 前方部に登り口が付いていますね。



 登ってみましょう。



 前方部墳頂に上がり、後円部を見ます。





 後円部墳頂まで来ました。



 前方部を見ます。



 元来た道を戻ります。



 墳丘を詳細に見て回る心の余裕がありません。







 とりあえず、今日はこんな感じでいいでしょう。

 なお、本日の車はこちらです。



 史跡めぐりの際にはよくお世話になるトヨタのヴィッツです。

 最初は軽自動車を借りようと思ったのですが、すでに残っておらずヴィッツになりました。

 軽ではないものの小さいので史跡めぐりには適した車ですよ。

 あ、猫ちん!



 明らかに警戒されている!



 逃げられた!



 おっと、猫ちんと遊んでいる場合じゃありませんね。

 これから広島へ向かいます。

 全然土地勘がないので、ナヴィがないとどうにもなりませんね。

 倉敷ICから乗り、生まれて初めて山陽道を運転します。

 山陽道というと古代の場合は全国の道路の中で最も整備された道でした。

 というのも、外国の使者が九州方面から都を目指すときに通るのが山陽道ですから、国家の威信をかけて立派な道路にしていたわけです。

 でも今は片側2車線の普通の高速道路ですね。

 むしろ、東北道の方が立派。

 それはそれとして、私は東京のドライヴァーより、畿内のドライヴァーの方が運転が荒いと思っていますが、山陽道の場合は畿内に近いせいかトラックが結構エグイですね。

 かなり危険な割り込みを平気でしてくるトラックがあまりにも多い。

 しかもハザードを点滅させない。

 まあ、私も他人のことは言えた口ではないかもしれませんが、もし割り込んじゃったかな、と思ったときはきちんと「済まん!」という意味でハザードを点滅させますよ。

 しかし、倉敷から広島って結構ありますね。

 結局、1時間半くらい高速を走り、19時半に無事に車を返却。

 あー、お腹すいたー・・・

 ということで、ホテルに荷物を置き、たまたま見かけたラーメン屋に入ってみます。



 まずはビール。



 ひゃー、美味い・・・

 お、ラーメンも美味しそう。



 スープは豚骨も鶏ガラもバランスよく入っていてコッテリしていますが、煮干しが一番強いかな。

 私は煮干しが好きですから、とても美味いです。

 さらに、八王子ラーメンと同じで刻み玉ねぎが入っているのがまた良いですね。

 とても美味しいラーメンで一日を締めくくることができて、今日は朝から大変な目に会いましたが結果オーライでとても良い日でした。

 ⇒この続きはこちら


楯築墳丘墓|岡山県倉敷市 ~現状の残念さに驚いても史的重要性に変わりはない~

2021-08-17 11:37:59 | 歴史探訪
 ※2021年8月17日に補足しました。

 

3.探訪レポート                         


2018年10月1日(月)備前・備中古代史探訪⑫



この日の探訪箇所
神宮寺山古墳 → 幡多廃寺塔跡 → 備前国庁跡 → 賞田廃寺跡 → 中世山陽道 → 牟佐大塚古墳 → 備前国分寺跡 → 備前国分尼寺跡 → 両宮山古墳および茶臼山古墳・森山古墳・廻り山古墳 → 吉備津彦神社 → 吉備津神社 → 惣爪塔跡 → 楯築墳丘墓 → 造山古墳 → 備中国分尼寺跡 → こうもり塚古墳 → 備中国分寺跡 → 作山古墳

 ⇒前回の記事はこちら

 謎の惣爪塔跡を見た後は、楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)を目指します。

 古墳マニアとしては吉備に来たら楯築墳丘墓はぜひ見ておきたいです。

 目的地を目指して丘を登っていくと、ちょっとした駐車スペースがありました。

 多分ここに停めていいんだろうな、と思い、車から降り、今度は歩いて丘を登ります。

 お、ここが入口ですな。



 「王墓の丘史跡公園」という名前からして期待できます。

 坂道を登っていくと、説明板が林立していました。



 この場所は、「王墓の丘史跡公園」という広い公園の一部になっており、楯築墳丘墓がある場所は「楯築地区」と呼ばれています。



 他の地区にも見てみたい場所がありますが、今日のところは時間の都合で楯築墳丘墓だけを見学します。

 あー、綺麗に拭きあげたい。







 では実際の墳丘墓を見に行きますよ。

 あれがWebで見たこのある給水塔ですな。



 おや、池か?

 それとも井戸か?



 こんな高所に・・・

 付近には古墳もポコポコあるようです。



 あらまー、これはあからさま過ぎる。



 ここは南西の突出部ですが、思っていたより派手に破壊されていますね。

 丘からの眺望の説明。



 でも実際は樹木が繁茂していて眺望は効いていません・・・

 中山茶臼山古墳の位置も載っていますが、墳丘長120mを誇るこの辺では最古級の前方後円墳となります。

 宮内庁が「大吉備津彦命墓(おおきびつひこのみことのはか)」として吉備津彦の墓に治定しています。

 今日は時間がないので行けませんが、いつか行ってみたい。

 というか、この辺の古墳のネーミングは「茶臼山」が多いんですよね。

 こちらにも説明板。



 円丘部分の中央付近には謎の立石(りっせき)が並んでいます。



 楯築墳丘墓の「謎ポイント」の一つがこれらの立石で、花崗岩の自然石なのですが、当然ながら自然にこのように立つはずがありません。

 大きいもので高さが3mもあり、石の表面を加工したりはしてませんが、誰かがこれらを並べたのでしょう。

 楯築墳丘墓は弥生後期後半に築造されましたが、発掘調査によってそのときに立てられた証拠は見つからなかったものの、反対にそれを否定する材料も見つかりませんでした。

 墳丘の中央には祠があります。



 立石は祠の背後のものを1番とし、向かって左側(西側)のものから時計回りで、全部で5番まで番号が付けられています。

 なんか、不思議空間だな。

 楯築神社跡地の標柱があります。



 祠があるのに跡地って変ですが、明治末に北側にある鯉喰神社に合祀されたため、一応ここはもう「跡地」なのです。

 そしてその楯築神社には、ご神体として「弧帯文石(こたいもんせき)」と呼ばれる不思議な石があります。

 弧帯文石も「謎ポイント」の一つですよ。

 弧帯文石の実物を見ることはできませんが、たまに博物館などにそのレプリカが置いてあることがあり、上野の国立博物館の平成館にもレプリカの展示があります。



 まるで帯でがんじがらめにされているような装いです。



 そして面白いのは顔が彫られているところです。



 これは吉備の王を表現しているのか、はたまた神を表現しているのか分かりませんが、帯でがんじがらめにされているのを見ると、どうしてもこの人(神)の呪力を抑えるために封印されているように見えてしまいます。

 神社は移転したのですが、その後、このご神体のみ現地に戻ってきて収蔵庫に収められています。

 給水塔の隣にあるのが収蔵庫です。





 楯築墳丘墓は、円丘の両側に突出部を設けた、双方中円墳のような形状をした墳丘墓で、元々の総長は80mほどあったとされていますが(現地説明板では72m)、残念ながら突出部分はほとんど破壊されてしまいました。

 こちら側にも本来は北東突出部があるはずですが、現在は地形が落ちており、眼下には住宅街が広がっています。



 総長の80mというサイズは、弥生墳丘墓の中では最大級です。



 主体部もまた変わっていて、木棺を木槨で囲んでいる、まるで古代中国の墓を思い起こさせるような構造です。

 そして木棺の底には、32㎏以上という大量の朱がまかれていました。

 副葬品はほとんど見つかりませんでしたが、前述の弧帯文石と同じような石が数百の破片となって見つかっています。

 こちらはご神体よりも小さく顔の造形はありませんが、元々は弧帯文石は2つ造られ、顔が付いている大きい方はそのまま残り、小さな方は破壊されて埋納されたということです。

 不思議ですねえ。



 なお、埋葬主体はもう一か所見つかっています。

 破壊されてしまった突出部に主体部があったかどうかは不明ですが、重要なのは楯築墳丘墓はある特定の人物のために造られた墓だということです。

 つまり、集団墓ではないということで、吉備においても他者と隔絶した力を持つ「王」がこの時代に存在したことを表しています。

 そして面白いのは、楯築墳丘墓と同じころ、出雲では四隅突出型墳丘墓の西谷3号墳が築造されており、西谷3号墳に葬られた人物も確実に「王」です。


 ※西谷3号墓

 しかしそれにしても、往時の墳丘の形が全く分からないのは残念ですねえ。



 もっと当時の雰囲気が分かるのかなと期待して来ましたが、期待外れでした。

 でも、ずっと来てみたかった場所ですから、これで溜飲を下げて次へ行きましょう。

 次は超々巨大古墳・造山古墳に登りますよ!

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