日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

領家山古墳群|奈良県大和高田市 ~かつてはもっと多くの古墳が存在したか~

2021-06-07 19:14:34 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2020年9月5日(土)



この日の探訪箇所
狐井稲荷山古墳 → 狐井城山古墳 → 領家山古墳群 → 築山古墳 → かん山古墳 → 新山古墳 → 牧野古墳 → 佐味田宝塚古墳 → 三吉2号墳 → 巣山古墳 → 狐塚古墳 → 倉塚古墳 → 一本松古墳 → ナガレ山古墳 → 乙女山古墳 → 池上古墳

 ⇒前回の記事はこちら

 狐井城山古墳から次の目的地までは少し距離があります。

 4㎞くらい、テクテク歩きますよ。

 あ、二上山が綺麗に見える。



 いいですねえ。



 この辺は条里制の名残か分かりませんが、道路は一定のサイズで碁盤の目状になっており、斜めにショートカットできそうな道が無いですね。

 狐井城山古墳の森が見えます。



 JR和歌山線の線路を渡ってすぐ、右手に澤田酒造を発見。



 こういうところを訪ねながらゆっくり歩ける日はいつになったら来るのかしら。

 どうしても歩くときは遺跡優先になってしまうのです。

 あれ、何だこの碑は?

 神武天皇!



 例えば関東地方では、明治天皇が来たことがある場所を「聖蹟」といって残したりしますが、さすが奈良、神武天皇が遥拝した場所が残っているのは凄い。

 というか、凄いのは分かりますが、詳細は分かりません!

 日本書紀を細かく読んでみれば書いてあるかなあ?

 こんな感じの場所にあります。



 実は私、曲がる道を一本間違ってこの道に来たのですが、これはまさしく「引き寄せられの法則」ですね。

 道を間違って遺跡に巡り合えるパターンです。

 なんか嬉しい。

 狐井城山古墳を出てから30分くらい歩いていますが、気づけば南東方向に大きな古墳らしき森が見えます。



 あれは、位置的に築山古墳でしょう。



 いや、こういう風景が見れれるのは良いですよ。

 築山古墳という馬見古墳群を代表する古墳の一つが、こんな遠くからもよく見えるということが分かりました。

 さきほどの神武天皇遥拝所跡もそうですが、歩いているからこそ巡り合ったり見えたりするものがあるのです。



 二上山も綺麗。



 築山古墳のちょうど真西に来ました。



 築山古墳はこちら側(西側)が後円部です。

 ところで、この周辺はメリヤス工場が多いですね。

 こういった地域の産業の起こりを調べるとまた面白いことが分かったりするので、いずれ調べてみようと思います。

 陵西小学校の近くのお堂。



 次なる目的地の森が見えてきました。



 築山古墳の南に回り込んできていますね。





 南側にも古墳の森らしきものが見えます。



 ※帰宅後に調べてみましたが、墳丘長27.5mの前方後円墳である岡崎山1号墳でしょうか。





 あの丘へ向かいます。



 さて、丘の麓に来ましたが、どこからこの丘に取り付けばよいのでしょうか?



 丘の麓には住宅が建て込んでおり、入口が分かりません。

 西側の景色。





 なんか無駄に歩いている気がしますが、あれ、この道は先ほどは気づかなかったな。



 お、説明板発見!



 鳥居があります。



 上に行ってみましょう。



 丘の上からの眺望。



 しかし、どこにどういう古墳があるのかサッパリ分かりません。



 はい、これは玉砕パターンですね。



 下調べをちゃんとしないで来るとたまにこういうことになります。



 サッサと諦めて丘から降りましょう。



 せっかく遠くまで来たのに満足に古墳が見られずに撤退するのは残念だと思われるかもしれませんが、私は意外と平気です。

 今回は縁がなかった。

 それだけです。

 縁があれば再び来ることができるでしょう。

 縁があれば再会できるはずの人間関係と一緒ですね。

 では、築山古墳へ行きますよ。

 ※帰宅後にWebで調べたところ、領家山古墳群には、長辺24m×短辺20.5mの方墳である1号墳と、径9.5mの円墳である2号墳があるそうです。

 ⇒この続きはこちら

狐井稲荷山古墳および狐井城山古墳|奈良県香芝市 ~馬見古墳群最後の大型前方後円墳~

2021-06-07 17:45:33 | 歴史探訪


 

3.探訪レポート                         


2020年9月5日(土)



この日の探訪箇所
狐井稲荷山古墳 → 狐井城山古墳 → 領家山古墳群 → 築山古墳 → かん山古墳 → 新山古墳 → 安部山1号墳 → 牧野古墳 → 佐味田宝塚古墳 → 三吉2号墳 → 巣山古墳 → 狐塚古墳 → 倉塚古墳 → 一本松古墳 → ナガレ山古墳 → 乙女山古墳 → 池上古墳

 王寺駅南口近くの東横インで目覚めました。

 窓から外の景色を見てみます。



 南方向だな。

 遠くに少し高い山が見えます。



 そんなに晴れている感じでもないですが、天気予報によると日中は晴れるようです。

 今日は馬見古墳群を歩きますよ。

 奈良にはよく来ていますが、何しろ古代史好きにとっては見どころの数が桁外れなため、今回はようやく馬見古墳群を訪れる機会が巡ってきたのです。

 王寺の東横インはオープンして間もないため、サンキュー・ゴメンネキャンペーンで、3,950円で泊ることができました。

 ありがたい。



 ホテルの横の公園にある案内板。



 聖徳太子ゆかりの地ですぞ!

 ホテルから王寺駅までは歩いて2~3分です。



 今日は1日かけて馬見古墳群を歩き回ろうと思いますが、まずは古墳群の近くまで電車で移動しますよ。





 JR和歌山線に乗って香芝駅までやってきました。

 いつものごとく乗ってきた電車を撮影。





 今日はゆっくりスタートで、もう8時45分になっています。

 香芝駅。



 まずは狐井(きつい)城山古墳へ行ってみたいと思いますが、駅前には奈良に来るとたまに見かける天皇陵への道標が立っていますね。



 狐井城山古墳は香芝駅から南方向に1㎞ほど行ったところにあるはずです。

 鹿島神社。





 近鉄の下田駅前まで来ました。

 駅の向こうには二上山が見えています。



 さらに歩きますよ。

 お、前方が登り坂になっていますね。



 坂を登った先には森が見えますが、あの森が狐井城山古墳かしら?



 丘の上に向けて歩いていると道路左手に先ほど見えた森が近づいて行きました。



 あれ、でもちょっと様子がおかしい。

 説明板とかもないし、狐井城山古墳は水堀に囲まれているはずなのにそれもないし、これは違うな。

 狐井城山古墳はもう少し先だ。

 ※帰宅後、Webの「前方後円墳データベース」で調べてみたら、あの森はやっぱり狐井稲荷山古墳という古墳で、狐井城山古墳より前の中期後半に築造された墳丘長70mほどの古墳で、墳形は多分前方後円墳だろうということです。

 さらに進むとまたも左手に、今度は絶対古墳だろうと思われる水堀で囲まれた森が現れました。





 狐井城山古墳は陵墓や陵墓参考地ではありませんが、普通にフェンスで囲まれています。



 というか、フェンスが無いと水堀に転落する。

 歩いてきた道を振り返ります。



 お、ちゃんと説明板があった!



 ここに書いてある通り、狐井城山古墳は墳丘長140mの前方後円墳です。

 スペックを補足すると、後円部径が90mなのに対し、前方部幅がグッと広がって110mとなっており、なおかつ後円部の高さが12mなのに対し、前方部の高さは13mとなっていて前方部の方が高くなっているため、これらの数値を見ただけで容易に後期古墳であると推定できます。

 みつかった円筒埴輪はⅤ式で、家形もしくは蓋形の埴輪も見つかっており、葺石が葺かれていました。

 外堤の外側で刳抜式長持形石棺の蓋石と家形石棺の蓋石片が見つかっているということで、少なくとも2名の埋葬があったことが分かりますが、竜山石は身分の高い人の棺に使われる石ですし、しかも長持形ということで、かなりの権力者が埋葬されていたことが考えられます。

 狐井城山古墳が築造された5世紀末から6世紀初めというと、葛城氏の最盛期からはだいぶ後になって、日本書紀を読んでもそのころの葛城氏の活躍は良く分かりません。

 時代的には継体天皇が活躍していた時期に当たりそうですが、そもそも継体天皇が権力を振るっていた時期を実年代で具体的に示すことは困難ですし、この地にある古墳だからと言って葛城氏一族が眠っていると断定するのは避けないとなりません。

 ただ、葛城氏に「関連しそうな」大型古墳としてはこの狐井城山古墳が最後になりますので、非常に気になる存在ではありますね。

 というわけで、ヴィジュアル的にはあまり優れていませんが、まずは狐井城山古墳を見ることができました。



 次は、築山古墳へ行ってみたいのですが、築山古墳と線路を挟んだ南側の丘にも古墳があるようなので、そこを見てから築山古墳へ行ってみたいと思います。

 ⇒この続きはこちらです

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」026 大和葛城の大古墳群 馬見古墳群』 河上邦彦/著 2006年


内裏塚古墳(内裏塚古墳群)|千葉県富津市 ~千葉県最大の前方後円墳~

2021-06-04 16:12:10 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2019年6月17日(月)



この日の探訪箇所
 木更津市郷土博物館 → きみさらずタワー → 君津市八重原公民館 → 南子安金井崎遺跡 → 九十九坊廃寺跡 → 道祖神裏古墳 → 八幡神社古墳 → 三直城跡 → 古墳の里ふれあい館 → 内裏塚古墳 → 白姫塚古墳 → 九条塚古墳 → 森山塚古墳 飯野陣屋跡 → 亀塚古墳 → 割見塚古墳 → 稲荷山古墳 → 小久保藩庁・藩主邸跡 → 弁天山古墳 → 東京湾観音 → 源頼朝上陸地


 それでは、内裏塚古墳群めぐりを開始しましょう。

 この富津ふるさと展示室には駐車場が無いため、とりあえずどこかの古墳まで行って、そこに雷電號を停めて歩いてめぐろうと思います。

 まずは何をおいても内裏塚古墳へ行ってみます。

 墳丘長144mを誇る、千葉県で最も大きな古墳です。

 埼玉・東京・神奈川を合わせた南関東でも最大ですよ。

 富津ふるさと展示室を出てすぐに、内裏塚古墳の傍までやってきました。



 なんか完全な森になっていて、整備されているような感じはありませんね。

 説明板がありますので読んでみましょう。



 ここに書いてある通り、内裏塚古墳は5世紀半ばの築造で、履中陵と墳形が似ているという指摘もあることから、当時のヤマト王権と密接な関係のあった在地首長の墓である可能性が高いですが、内裏塚古墳群はこの内裏塚古墳の築造を端緒として築造が開始されます。

 ということは、在地首長が元々この地に居たとして、彼がいきなりこんな大型墳を築造したとしたら、よっぽど王権に対して大きな功績があったと考えるべきで、それがいったい何だったのかを考えると面白いです。

 しかしその一方で、元々いた在地首長の墓ではなく、ヤマト王権の政策によってこの地に送り込まれてきたヤマトの将軍(王族の場合もある)の墓である可能性も捨てきれません。

 ところで、説明板の最後に書いてある「古墳祭」が気になりますね。

 ※帰宅後Webで調べてみたところ、それらしい祭りの記事は見つかりませんでしたが、「富津ふるさとまつり」というのは毎年開催されているようです。

 とりあえず、雷電號を停められるところを探します。

 普通車が数台停められるスペースがみつかりました。

 よし、それでは墳丘へ登ってみたいと思いますが、この森にはどこから入るのがいいんだろうか?

 ここ行けそうだな。



 茂みの中に飛び込むと道が付いていました。



 後円部墳頂に到着。



 登ってきた道を振り返ります。



 これが先ほどの説明板に書いてあった珠名姫に関する説明ですね。



 墳頂には立派な石碑が建っていますよ。





 ※あとで知りましたが、石碑の台座になっている石は石室の天井石だそうです。


※2019年12月22日にクラツーのツアーで案内した時に撮影

 前方部側を見ます。







 ここにも下に行く道が付いている。



 内裏塚古墳は全体的に木々に覆われており、辛うじて墳頂部分のみが普通に歩行可能になっています。

 ですから、墳頂から下の方を見下ろしても、墳丘の形状などを観察することはできません。



 千葉県最大の前方後円墳なのに、なんかちょっと残念な佇まいだなあ。

 クラツーで案内しようと考えていますが、ツアーのタイトルには「千葉県最大の前方後円墳」を持ってきても、現地はこれですから、お客様はちょっとガッカリするかもしれない。

 ここから県道方向に降りられます。



 古墳から出ました。



 あ、ここにも説明板があった。



 説明の最後に書いてありますが、須恵国造の系譜に連なる人物かどうか、興味深いですね。

 須恵の初代国造の墓は、この後訪れる予定の墳丘長103mの九条塚古墳じゃないかと考えていますが、九条塚古墳の被葬者と彼の曽祖父くらいの世代に当たる内裏塚古墳の被葬者が果たして血縁関係にあったかどうか、それは分かりません。

 墳丘図をよく見てみましょう。



 墳丘も長いですが、横幅もあってグラマラスなプロポーションをしており、中期の古墳らしい形をしています。

 とてもヤマトチック。

 ただ、これだけの大型墳であっても周堀は二重じゃないんですね。

 二重堀の可能性はないのかなあ?



 全景を写すのは無理そうですね。



 前方部側の周堀跡。



 これくらい引くのが限界かな。



 さて、実際に内裏塚古墳を見た感じでは、ヴィジュアル的にはちょっと弱いため、古墳群の他の古墳で面白ポイントを探してみます。

 ここからしばらくは歩いて探索してみますよ。

 (つづく)

藤本観音山古墳|栃木県足利市 ~前方後方墳としては全国で5番目に大きい大型墳~

2021-05-26 18:21:49 | 歴史探訪


発見容易
登頂可能
説明板あり
駐車場なし
トイレなし

お勧め度:

1.基本情報                           


所在地


栃木県足利市藤本町967



現況


古墳

史跡指定


国指定史跡
史跡名:藤本観音山古墳
指定日:平成18年7月28日

出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


4世紀初頭か

墳丘


形状:前方後方墳
墳丘長:117.8m 
段築:
葺石:
埴輪:

主体部



出土遺物



周堀


あり(長方形的だが不整形)

 

3.探訪レポート                         


2019年1月23日(水)



この日の探訪箇所
赤城塚古墳 → 善導寺(榊原康政墓) → 山王山古墳 → 赤岩堂山古墳 → 光恩寺 → 荻野吟子生家の長屋門 → 古海松塚古墳群 → 西ノ原1号墳 → 大泉町文化むら埋蔵文化財展示室 → 古海前原1号墳 → 朝子塚古墳 → 塚廻り4号墳 → 藤本観音山古墳 → 寺山古墳 → 西鹿田中島遺跡 → 群馬県立歴史博物館

 ⇒前回の記事はこちら

 塚廻り4号墳の傍らでしばし休憩した後は、栃木県足利市に入り、前方後方墳の藤本観音山古墳を目指します。

 足利市と言っても歴史的に見るとこの辺は上毛野の範囲なんですよね。

 墳丘の近くまで来たため、空いている場所に雷電號を停め、墳丘へ向かいます。

 おや、お出迎えですか?



 古墳に行くとたまにいらっしゃる現地ガイドの方でしょうか。



 何か「ニャーニャー」と独り言を発しながら近づいてきます。



 でも近づいてきたと思ったら、古墳の方へ向かってしまいました。





 あーなるほど、まずは墳丘に登れということですね。



 解説する前に身体を砂にスリスリしてコンディションを整えています。





 いやいやちょっと待ってよ。



 解説する気満々なのは分かりますが、私は先に説明板を読みたいのです。



 墳丘長117.8mの大型前方後方墳です。

 「浅間C軽石」という言葉が出てきますが、上毛野周辺はとくに火山の噴火によって積もったものが古墳の時代を決めるときに役立つのです。

 ただ、その噴火の年代は研究者によって少し幅があって、例えば「浅間C軽石」は3世紀末から4世紀初頭の幅があります。

 噴火の年が実年代でちゃんと分かると面白いんですがね。

 墳丘図を見ると周堀の形がかなりいびつですが、古墳時代の人は上空から見ていないですし、とくに関東の古墳の周堀の造りは現代人が見ると雑に思えることがあります。



 古代人は大らかなのです。

 前方後方墳だけあって、東海系の土器が出ていますね。



 では、墳丘へ取り付こうかな。



 と、その前に全体を撮りたいのでちょっと引いてみます。



 おや、先ほどのガイドさんが墳丘から降りてきましたよ。



 説明したくて仕方がないようです。



 こういった種族のガイドさんとはスキンシップも欠かせません。









 今度は雷電號の方に行きました。



 多分もう帰りたくなったのでしょう。



 家まで送ってくれということでしょうか。

 それならそれで、私は一人で古墳を見てきますよ。

 では、後方部の階段を登ります。



 墳頂には小祠が仲良く3つ並んでいます。



 墳頂からの眺望。



 かなり破壊されている前方部を見下ろします。







 前方部の損傷は激しいですし、また前期古墳らしく前方部との高低差が激しいので、墳丘上を降りて行くことはせずに階段から下に降りて側面を見てみようと思います。

 あれ、さっきのガイドさんとは違う猫ちんがいますよ。



 あ、あいつ、あの子を追いかけていく・・・



 これは問題行動ですぞ。

 まあ、しつこくすると嫌われるから程々にしておきなさい。

 前方部の方に回ってみます。



 下から見ても前方部は全然原型をとどめていないのが良く分かりますね。



 タケノコはむしろ採った方がいいと思うのですが、確かにタケノコを掘るときは結構深く掘りますから、史跡の場合は違反になってしまいますね。



 しかしこの辺はだだっ広いなあ。





 前方部側からのいつものアングルで撮ってみます。



 でも前方部が大きくえぐられているので、全然画になりませんね。



 周堀跡。

 それでは雷電號に乗り込みます。

 ちょっと離れて遠景を撮影。



 藤本観音山古墳はこのように墳丘がかなり破壊されており残念な現況ですが、歴史的に見ると非常に重要な前方後方墳ですから、古代史を探求している方はぜひ一度訪れてみるのがいいと思います。

 クラツーでも来れないかなと思って墳丘近くの道幅や駐車できそうなスペースを調べてみましたが、大型バスで近くまで寄ることは無理そうです。

 では、この次も前方後方墳へ行ってみましょう。

 (つづく)


盃塚古墳|山梨県笛吹市 ~前方後円墳の岡銚子塚とセットになっているような円墳~

2021-05-26 08:08:52 | 歴史探訪


発見容易
登頂可能
説明板あり
駐車場あり
トイレあり

お勧め度:

1.基本情報                           


所在地


山梨県笛吹市八代町岡



現況


笛吹市八代ふるさと公園

史跡指定


市指定史跡
史跡名:盃塚古墳
指定日:昭和55年3月31日

出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


5世紀頃

墳丘


形状:円墳
径:23m
段築:
葺石:
埴輪:

主体部


竪穴系(礫槨?)

出土遺物



周堀


あり

 

3.探訪レポート                         


2018年11月7日(水)甲信古代史探訪⑬



この日の探訪箇所
川柳将軍塚古墳 → 姫塚古墳 → 長野県立歴史館 → 千曲市森将軍塚古墳館 → 森将軍塚古墳 → 弘法山古墳 → 松本市立考古博物館 → 山梨県立考古博物館 → かんかん塚古墳 → さかづき塚 → 丸山塚古墳 → 甲斐銚子塚古墳 → 岩清水遺跡 → 岡銚子塚古墳 → 盃塚古墳 → 花鳥山遺跡 → 釈迦堂博物館

 ⇒前回の記事はこちら

 岡銚子塚古墳から見えていたのがこちらの古墳です。



 こちらにも説明板があります。



 径23mの円墳ですね。

 でも、先ほどの甲斐銚子塚古墳も隣に丸山塚という円墳がありましたし、こちらも岡銚子塚古墳の隣にこの盃塚古墳という円墳があります。

 そういえば、甲斐銚子塚古墳と同時期で当時の東日本における二大古墳である宮城県名取市の雷神山古墳も隣に円墳があります。

 面白い・・・

 墳丘に登ってみましょう。



 岡銚子塚古墳の雄姿が見られます。



 丸山塚古墳は甲斐銚子塚の前方部側にありましたが、この盃塚も岡銚子塚の前方部側に位置しています。

 偶然ですが、素敵な古墳たちに会えてよかったです。





 公園の説明板がありました。



 花鳥山遺跡に行こうと思っているんですが、なかなか進みませんね。

 さて、時刻はもう15時20分です。

 急げ急げ。

 (つづく)