日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

新山古墳|奈良県北葛城郡広陵町 ~馬見古墳群最古の大型墳の被葬者は誰か?~

2021-06-09 12:42:56 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2020年9月5日(土)



この日の探訪箇所
狐井稲荷山古墳 → 狐井城山古墳 → 領家山古墳群 → 築山古墳 → かん山古墳 → 新山古墳 → 安部山1号墳 → 牧野古墳 → 佐味田宝塚古墳 → 三吉2号墳 → 巣山古墳 → 狐塚古墳 → 倉塚古墳 → 一本松古墳 → ナガレ山古墳 → 乙女山古墳 → 池上古墳

 ⇒前回の記事はこちら

 築山古墳を見た後は、同じく南群を代表するもう1基の古墳である新山(しんやま)古墳を目指しましょう。

 近鉄築山駅東側の踏切を渡ります。



 テクテクと北へ向けて歩いていると、前方に古墳の森らしきものが見えてきました。



 新山古墳はあれでしょう。



 いつの間にか広陵町に入っていました。



 西側に見えるあの森も気になる・・・



 新山古墳が近づいてきました。



 新山古墳も水堀で囲まれています。



 さて、墳丘に入れないことは知っていますが、説明板とかはないでしょうか。

 周囲を探してみます。

 おや、標柱が見えますよ。



 「大塚陵墓参考地」とあります。



 この標柱が建っていることから分かる通り、新山古墳は陵墓参考地のため墳丘には入れないのです。



 墳丘を見上げます。



 これでは墳丘がどちらを向いているのかもサッパリ分かりませんが、新山古墳は前方後方墳で、前方部は南を向いています。

 つまり、私がアプローチしてきた方に前方部を向けているわけですね。

 西側から回ってみましょう。



 新山古墳は馬見丘陵の東側の縁の部分に造られており、東側は低くなっていますが、西側は丘になっています。



 後円部側に来ました。

 あの上に登ると何かありそう。



 よし、説明板発見。



 先ほども言いましたが新山古墳は前方後方墳で、ここに書いてある通り、墳丘長は126mあります。

 ちなみに、前方後方墳としては国内で4番目の大きさで、前方後方墳の大きさBEST5を示すと以下の通りとなります。

 1位 奈良県天理市・西山古墳 180m
 2位 奈良県天理市・波多子塚古墳 144m
 3位 群馬県前橋市・前橋八幡山古墳 130m
 4位 奈良県広陵町・新山古墳 126m
 5位 栃木県足利市・藤本観音山古墳 117m 

 まあ、大きさも重要かと思いますが、前方後方墳という形状を知った途端、もしかして馬見古墳群で最古の古墳じゃないの?と閃く方もおられると思いますが、まさしくその通りなのです。

 さきほど訪れた築山古墳よりも古いということで、築山古墳は葛城襲津彦の墓だとしたら、新山古墳は誰の墓になっちゃうんでしょうね?

 まさか武内宿禰ということは無いと思いますが・・・

 奥には墳丘の後円部側があるはずですが、良く分かりません。



 地元の方が貼り付けた説明があります。



 前方後方墳は一般的には前方後円墳よりも主体部や副葬品が貧弱とされますが、三角縁神獣鏡が見つかったというのはとても興味深いです。

 ここからの眺望。





 みささぎプラザという名前がいいですね。



 時刻は11時半ですから、そろそろお昼を食べたいです。

 さっきのみささぎプラザにある店も魅力的ですが、他に食べられるところはないだろうか・・・

 おっとその前に歩道橋チャンス!



 遺跡に来た時に歩道橋があったら登って高い場所から遺跡を見ることをお勧めしているのですが、それを「稲用語」で「歩道橋チャンス」といいます。



 眼下の道路は、奥の方から手前の方に向かって坂を登ってくるのですが、古墳の北側は掘り割っているのが分かります。



 つまり、新山古墳のある場所は丘の縁ですが、高低差が結構あって、東側の低い場所からよく見えたことが想像できます。

 先ほども見えましたが、耳成山が見えますね。



 ということはそのバックは三輪山かな。

 あー腹減った。

 そろそろ何かを食べないと動けなくなります。

 おっと中華屋さん発見。

 ここにしましょう。



 ※註:看板を見ると店の名前が分かりづらいですが、「海鮮中華料理 呑」という店名です。

 よく東京の方にある廉価な中華屋さんと表の佇まいが似ていたのですが、店内に入りメニューを見るとちゃんとした中華屋さんでした。

 そこそこ値段がしますが、えい、奮発して酢豚だ!

 おー、結構豪勢だ。



 盛り付け方も美しい。



 美味しい・・・

 大好物の酢豚を食べたことにより元気になりましたが、それはまさしくジャムおじさんに顔を取り換えてもらったアンパンマンのそれに酷似しています。

 午前中だけで9㎞歩いちゃいましたが、元気百倍になった以上は午後はそれ以上歩くのだ。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足(2021年6月9日追記)                       


古墳を画一的に考えてはいけない


 馬見丘陵上において100m以上の大型古墳の築造は、4世紀前半の新山古墳の築造を端緒として始まります。

 おそらく、多くの古墳マニアは、馬見丘陵上に3世紀に遡る古墳は無いのか気になるでしょうし、新山古墳の形状が前方後方墳というのも気になるはずです。

 3世紀の古墳の問題には今回は触れません。

 前方後方形の意味について一般的な説明で良くあるのが、「ヤマト王権によって古墳の形状で序列を表すことが行われており、偉い順に前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳の順である」というような意味の話です。

 東国で前方後方墳をたくさん見ている私からすると、「何アホなことを抜かしておるんや?」となぜか西の言葉で思ったりしますが、東国の古墳を見に来ることを面倒くさがる畿内の研究者であればそう考えても仕方がないかもしれません。

 ただし、一概にアホな説と断定することはできず、実はその説もある意味では当たっていると言えます。

 以前からツアーの時にも話していますが、古墳時代は長いですし、日本列島は東西に長いです。

 原則的には前方後方墳は前期に築造されますが、前期と言っても130年から150年くらいの幅がありますので、前期の始めの頃の前方後方墳と前期の終わりの頃の前方後方墳とでは、築造する意味付けが違っても当然です。

 なおかつ、地域が変わればヤマト王権の浸透度も変わりますし、考え方が変わることも十分にあり得ます。

 繰り返し言いますが、古墳時代は長く、日本列島も東西に長い、ということをまずは念頭においてください。

 そして、ヤマト王権の権力が一挙に日本列島を覆って、すべての地域でヤマトのマニュアル通りに時代が経過したわけでもないですし、何事にも例外は付きものだということをよく知っておいてください。

 例えば、前方後方墳は中期になると全国的にほとんど造られなくなりますが、後期になると出雲で大型のものが現れ、出雲で最も大きい古墳は山代二子塚古墳という墳丘長94mの前方後方墳です。

 この古墳と前期の関東地方の前方後方墳が同じ意味付けで築造されたとは考えない方がいいでしょう。

畿内の前方後方墳の被葬者像


 関東地方の前方後方墳からは必ずといっていいほど東海系の土器(S字甕など)が見つかり、古墳時代の幕開けとともに関東地方は東海人によって席巻された感があります。

 ただしこれは関東地方の常識であって、畿内や西日本にそれが言えるかどうかは別問題です。

 例えば畿内では、奈良県天理市の大和(おおやまと)古墳群に前期の大型墳が多く作られ、それらは初期ヤマト王権の幹部級の人たちの墓域であると想像ができますが、その中には、波多子塚古墳(墳丘長140m)や下池山古墳(120m)などの大型のものを含め、前方後方墳が最低でも6基あります。

 『大和古墳群Ⅰ ノムギ古墳』(天理市教育委員会/編・2014年)を加筆したものを以下に示します。



 これらの古墳からは東海系の土器が見つかることもありますが、だからと言って関東地方と同じように、ヤマト王権の中枢ともいえるこの場所を東海勢力が席巻したと考えることはできないでしょう。

 このように畿内においては東国とは違う見方をする必要があり、畿内の研究者から上述の「序列説」が生まれるのも頷けます。

 私の推測では、大和古墳群の中にある前方後方墳は、初期ヤマト王権を運営していく過程で、王権にとって有力なパートナーであった東海勢力から赴任してきた人びとの墓ではないかと考えています。

 彼ら東海人は低地での水田開発能力に秀でていたため、水田化が難しい奈良盆地の開発に功績があったのではないでしょうか。

新山古墳の被葬者


 そして、今話題にしている新山古墳ですが、実は新山古墳の周囲にも前方後方墳があったのです。

 新山古墳とその周辺の古墳の分布に関して、『黒石東2号墳・3号墳 発掘調査概要報告書』(広陵町教育委員会/編・1993年)を加筆したものを以下に示します。



 この周辺で目立つのは新山古墳ですし、周囲の古墳の多くは破壊されてしまっているため気づかないのですが、新山古墳以外にも前方後方墳が2基あったことが分かります。

 ※本論とは関係ないですが、弥生時代後期の方形台状墓が1基見つかっているのは馬見丘陵の古墳時代の幕開けを探る上では非常に重要かと思います。

 ただし、該書による築造順は、新山古墳が最初で、そのあとに他の前方後方墳が2基造られたとされており、そうなると前期でも後半に入ってくるため、大和古墳群と同じく、前期前半に関東地方を東海人が席巻したのとは事情が違うことが容易に想像できるはずです。

 今のところ私が知る限りでは、これらの前方後方墳から東海系の土器が見つかったとは聞いていません(これらの古墳の遺物で東海系の物が出たことをご存じの方がいらっしゃったらご教示ください)。

 新山古墳とそれ以降の前方後方墳が前期後半の築造だとすると、大和古墳群の前方後方墳に葬られた東海有力者(水田開発技術者を率いた)の系譜を引く人が王権の命によってこの地の経営にやってきて、死後に葬られたのではないでしょうか。

 ですから、築山古墳のページで述べたことと関連してきますが、馬見丘陵上の前期古墳の被葬者は、葛城氏とは関係ない人びとであると考えます。

 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」026 大和葛城の大古墳群 馬見古墳群』 河上邦彦/著 2006年


築山古墳およびかん山古墳|奈良県大和高田市 ~朝鮮半島での戦いに活躍した葛城襲津彦の墓か~

2021-06-08 21:17:41 | 歴史探訪


 

3.探訪レポート                         


2020年9月5日(土)



この日の探訪箇所
狐井稲荷山古墳 → 狐井城山古墳 → 領家山古墳群 → 築山古墳 → かん山古墳 → 新山古墳 → 牧野古墳 → 佐味田宝塚古墳 → 三吉2号墳 → 巣山古墳 → 狐塚古墳 → 倉塚古墳 → 一本松古墳 → ナガレ山古墳 → 乙女山古墳 → 池上古墳

 ⇒前回の記事はこちら

 では先ほどからずっと見えていた築山古墳へ向かいますよ。

 よし、電車と一緒に撮れた!



 さて、どの道から古墳にアプローチしようか。

 線路を渡り、ひとまず線路沿いの道を東へ行って、しかる後に北へ向かって進むとします。

 ※後日註:この日はほとんど下調べなしで来たため知らなかったのですが、築山古墳の近くには見ておくべき古墳が何基かありますので、つぎに行ったときはきちんと見てこようと思います。

 小さい円墳がありますよ。



 「陵西陵墓参考地陪塚」とあります。





 築山古墳が近づいてきました。



 左手に池がありますが、これは二重堀の外堀の名残ではないでしょうか。



 となると、右手のこちらの墓域は、水堀跡の上にあるということになります。



 堀の間際まで来ました。

 でかすぎて全体を収めることができませんよ。





 もうちょっと東へ移動します。



 前方部側ですね。





 築山古墳は、4世紀後半に築造された墳丘長210mの超大型前方後円墳です。

 250基以上の古墳からなる馬見古墳群に対して、現代の研究者は北群・中央群・南群に分けて考えることが多いのですが、南群のなかでも盟主墳に相当するのがこの築山古墳とあとで訪れる予定の新山古墳です。

 前方部の底辺側を北上してみます。



 築山古墳は、宮内庁により磐園陵墓参考地として、特定の天皇は挙げられていませんが陵墓参考地に治定されています。

 ところで、馬見古墳群を葛城氏の墓域とする説は昔からあったわけですが、その一方で、馬見古墳群の各古墳のスケールの大きさや主体部の充実さから、天皇家(大王家)の墓域であると考えている研究者もいるのです。

 宮内庁が陵墓参考地にしているということは、宮内庁的には馬見古墳群は天皇家の墓域として考えているのかもしれません(大王の妻の墓と考えている可能性もありますが)。

 大王家の一家臣に過ぎない葛城氏が大王墓に匹敵する墓を造るのはおかしいと考えるのは真っ当な考え方かもしれませんが、私は葛城氏が大王家に匹敵する力を持っていたと考えているため、馬見古墳群は葛城氏の墓域であると考えています。

 葛城氏は5世紀後半に雄略天皇によってかなり力を削がれてしまったことが日本書紀からは読み取れますが、そのあと、葛城氏に関する歴史のうち、王権にとって都合の悪いものは抹殺されてしまったのでしょう。



 北側には公園がありますよ。



 公園の北側が丘になっています。



 「通称かん山」とありますね。



 古墳でしょうかね?

 登ってみましょう。



 古墳に見えなくもない・・・

 ※帰宅後調べたところ、かん山古墳という径40mほどの円墳で、帆立貝形古墳の可能性もあるそうです。

 東側の遠くに見える丘が気になります。



 あ、あれは耳成山ですね。



 ということは、この古墳が造られた当時も、ここからはヤマト王権の本拠地が見えたのです。

 お互い、見て呪うことができる・・・

 西側の眺望。





 南側には築山古墳が見えます。


※この写真は2枚の写真をパノラマ合成したものです。

 ところで、日本書紀には武内宿禰の子として、葛城襲津彦(かづらきのそつひこ)という人物が登場し、葛城氏の元祖的扱いをされています。

 日本書紀が引用している朝鮮半島の史書である「百済記」には、沙至比跪(さちひこ)という人物が登場し、それが葛城襲津彦のことであると考える研究者は多いですが、もしそうだとすると、葛城襲津彦は朝鮮半島での戦いに活躍した日本の将軍ということになります。

 時代的に見てみても、築山古墳の被葬者は大王ではなく、葛城襲津彦でよいのではないかと私は考えています。

 私は今日、築山古墳までテクテクと歩いてきましたが、遠くから見た築山古墳の森は、葛城氏の元祖的人物の墓に相応しいと強く感じました。

 ※後日註:この探訪の時点では、築山古墳の築造時期を4世紀末と考えていたため、沙至比跪(=葛城襲津彦)の墓であると考えていましたが、その後、白石太一郎先生の『古墳からみた倭国の形成と展開』で確認したところ、築山古墳の造営は「4世紀中葉過ぎ」としており、これが事実であれば382年に朝鮮半島で活躍した沙至比跪より前の世代の墓となります(これについては、「4.補足」に記述しておきました)。

 では、公園に降ります。





 さて、時刻は11時。

 馬見丘陵最南端の築山古墳に来たということで、いよいよこれから本格的に馬見古墳群歩きを始めますよ。

 でもすでに7㎞近く歩いているので、果たして今日はあとどれだけ歩けるだろうか・・・

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足(2021年6月8日追記)                      


古代の葛城地域について


 日本書紀のいわゆる欠史八代の記述を読むと、大王の宮殿や墓の場所の地名が葛城地域を示していると考えられるものが多く、葛城地域が大王家にとって重要な場所であったことが分かりますが、それを証拠立てる物的証拠(遺跡など)はありません。

 3世紀半ば以降の古墳時代になると、すでにヤマト王権はオープンしており、その中心地は桜井市の纏向遺跡であり、墓域も桜井市から天理市にかけてオオヤマト古墳群として展開していて、これらが3世紀半ば以降のヤマト王権の物的証拠となります。

 ところが、葛城氏に関わるであろう葛城地域の遺跡を探してみると、3世紀代から4世紀代までにヤマト王権に匹敵するような集落跡や居館跡は見つかっておらず、また古墳に関しても3世紀代には大型のものはありません。

 葛城氏の墓域といわれることのある馬見丘陵上に最初に築かれた大型墳は新山古墳ですが、それは4世紀前半であり、ようやくこれ以降葛城氏に関連しそうな大型古墳が築造され、4世紀代の馬見丘陵上には、築山古墳と巣山古墳が築造され、これらが葛城氏が繁栄した物的証拠となるといわれることがあります。

 しかし、果たして本当に馬見丘陵上の古墳は、葛城氏の古墳と考えて良いのでしょうか。

 上の「3.探訪レポート」には、築山古墳を沙至比跪(=葛城襲津彦)の墓と考えて記していますが、その後考えが変わったため、本稿では現段階での私の考えを述べます。

 まず、築山古墳ですが、沙至比跪(=葛城襲津彦)の活躍した時代と築山古墳の築造時期が合わないことが分かりました。

 日本書紀の神功皇后紀には、百済記からの引用で、壬午の年に新羅が日本に朝貢しなかったため、日本は沙至比跪(さちひこ)を遣わせて討たせたとありますが、壬午の年は西暦にすると382年に該当しますので、『古墳からみた倭国の形成と展開』(白石太一郎/著・2013年)で述べられている築山古墳の築造時期(4世紀中葉過ぎ)よりあとの話になってしまいます。

 そのため、沙至比跪の墓が400年頃に造られたと仮定すると、築山古墳よりかは宮室山古墳が該当すると思われます。

 その宮室山古墳の近くには南郷遺跡群があります。

 南郷遺跡群は葛城氏の王都と目されている遺跡群ですが、その南東域にある極楽寺ヒビキ遺跡では王の高殿ではないかと考えられる建物跡も検出されており、この南郷遺跡群が出現するのが5世紀初頭頃ですから、沙至比跪によって造られた葛城氏の「首都」の可能性があります。

 では、沙至比跪の父や祖父が分かれば、築山古墳や巣山古墳の被葬者が分かるかもしれません。

 それを探ってみましょう。

ヤマト王権と紀伊国との関係


 以前から日本書紀を読んでいて、武内宿禰と紀伊国との関係が気になっていました。

 葛城氏と関係が深いであろう高鴨神社のある場所は、大和川水系の範囲ですが、吉野川水系との分水嶺に近く、葛城の地は吉野川、すなわち紀の川へのアクセスも良い場所です。

 そのため、沙至比跪の系統の出自は紀伊であり、欠史八代の頃に活躍した葛城氏や、馬見丘陵上の新山古墳、築山古墳、巣山古墳などの被葬者とは直接は繋がらない可能性もあると思い、それを検証してみます。

 それでは、日本書紀の崇神紀以降の紀伊国に関連する記事を見てみましょう。

 まず、崇神紀によると、崇神天皇の后の一人に紀伊国の荒河戸畔(あらかわとべ)の娘・遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ)という美しい名前の女性がいます。

 崇神は積極的に外部勢力との連携強化を進めていて、この結婚もその一環でしょうが、崇神期には紀伊国の在地勢力との同盟関係ができていたことがこれで分かります。

 つぎに、崇神の孫の景行紀を見てみると、景行は紀伊国に巡幸して神を祀ったのですが、占ってみると吉と出ませんでした。

 そのため巡幸を中止し、屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)を遣わせて祀らせ、彼は紀直の遠祖・菟道彥(うじひこ)の娘・影媛(かげひめ)を娶り、武內宿禰が生まれました。

 景行が紀伊国にて占いをして吉と出なかったというのは、この時期、景行朝と紀伊国勢力とは関係が悪化していたことを示しており、景行は関係を改善するために屋主忍男武雄心を派遣して、紀伊の在地勢力である菟道彥との関係を修復させたのでしょう。

 もしかするとこの時は武力も行使したかもしれません。

 なお、屋主忍男武雄心の父は彦太忍信で、さらにその父は第8代孝元天皇ですから、屋主忍男武雄心はヤマト王権が発足する前からの奈良の在地勢力の系統といえますが、名前に「忍」が使われていることから、景行天皇の姻戚の可能性が高く、景行朝では重要メンバーとして活動していたと考えられます。

 つまり、葛城氏の祖とされる武内宿禰は紀伊出身で、菟道彥の勢力基盤を引き継いだと考えられ、何もなければそのまま紀伊の一豪族として生涯を終えたはずでしたが、彼には飛躍するための大きなチャンスが待ち受けていました。

 応神天皇のヤマト侵略戦争です。

武内宿禰=葛城襲津彦=沙至比跪の葛城入部


 仲哀紀によると仲哀天皇は紀伊国に巡幸し、徳勒津宮(ところつのみや=和歌山県和歌山市新在家に比定)に滞在したのですが、このとき熊襲が叛いたということで、この地から熊襲征討に赴いています。

 この記事をどう評価するかですが、武内宿禰は景行系の王権に仕えながらも、西方に新たに発足した応神の王権にも接触を開始していたのではないでしょうか。

 神功紀では、既述した通り百済記からの引用で、沙至比跪が朝鮮半島で活躍していたこを示していますが、この沙至比跪は、葛城襲津彦と同一人物で、さらにもう一歩考えを進めると、武内宿禰とも同一の人物だと考えます。

 神功紀によると、神功皇后は応神天皇を連れて九州からヤマトへ攻め込んだ際、それに抵抗してきた忍熊王と戦いましたが、このとき神功勢は紀伊へ上陸し、武内宿禰の活躍もあって忍熊王軍を撃滅し、ヤマトの平定を完成させました。

 つまり、神功勢とすっかり親しんだ武内宿禰は、元々の地盤である紀伊に舞い戻り、その勢力を動員して忍熊王(=ヤマト王権の王)と戦い、神功・応神のヤマト入りを成功に導いたわけです。

 ところで、日本書紀の記述では神功がその子応神を引き連れてヤマト入りしたように書かれていますが、主役は神功皇后ではなく、応神天皇と見て良いでしょう。

 応神天皇は日本書紀でも九州出身と記されている通り、あきらかにヤマトの勢力ではなく、ここで魅力的なのは、小林惠子さんの「応神天皇=五胡十六国の氐の符洛(ふらく)」説です。

 中国大陸で活動していた氐の符洛が日本に渡って応神天皇になったという説ですが、符洛ではないとしても、外部勢力が武力によりヤマト王権を引き継いだことは確かでしょう。

 この「応神天皇」に従って活躍した武内宿禰こそが葛城襲津彦であり、朝鮮半島で活躍した沙至比跪ではないでしょうか。

 応神天皇のヤマト入りを助けたのはかなり大きな功績ですから、このときの論功行賞として沙至比跪は紀伊国からヤマトの葛城地方に進出し、葛城氏の祖となったと考えます。

 応神天皇のヤマト入りによって倭国は新たなフェーズに移行したわけですが、沙至比跪(=葛城襲津彦)はそのときの重要メンバーの一人であり、このように考えると、これ以降葛城の地に200m級の超大型前方後円墳が造られた理由が分かります。

 ただし問題は、それよりも前の4世紀代に造られた、新山古墳、築山古墳、巣山古墳、鳥の山古墳をどう考えるかです。

 葛城氏の墓で無いとしたらいったい誰の墓なのでしょうか。

 沙至比跪以前の「プレ葛城氏」といえる一族がいて、彼らの墓域なのでしょうか。

 (つづく)

 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」026 大和葛城の大古墳群 馬見古墳群』 河上邦彦/著 2006年

三吉2号墳/馬見古墳群|奈良県北葛城郡広陵町 ~公園内の単なる築山のようだが墳丘長93mを誇る大型の帆立貝形古墳~

2021-06-08 14:17:33 | 歴史探訪


三吉(みつよし)2号墳は古墳時代中期に築造された墳丘長93mを誇る大型の帆立貝形古墳です。

発見容易
墳頂登頂可能
簡易説明板あり
駐車場あり
トイレは公園内各所にあり

お勧め度:

1.基本情報                           


所在地


奈良県北葛城郡河合町佐味田2202(中和公園事務所)



現況


公園

史跡指定



出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


5世紀後半

墳丘


形状:帆立貝形古墳
墳丘長:93m
墳高:
段築:
葺石:
埴輪:あり

主体部



出土遺物


円筒埴輪、家形埴輪
埴輪棺(前方部外堤)

周堀



 

3.探訪レポート                         


2020年9月5日(土) 



この日の探訪箇所
狐井稲荷山古墳 → 狐井城山古墳 → 領家山古墳群 → 築山古墳 → かん山古墳 → 新山古墳 → 安部山1号墳 → 牧野古墳 → 佐味田宝塚古墳 → 三吉2号墳 → 巣山古墳 → 狐塚古墳 → 倉塚古墳 → 一本松古墳 → ナガレ山古墳 → 乙女山古墳 → 池上古墳

 ⇒前回の記事はこちら

 家屋文鏡が出土した佐味田宝塚古墳を見た後は、いよいよ馬見古墳群の中でもメイン的様相を呈している馬見丘陵公園の古墳へ向かいます。

 さきほど歩いてきた道を引き返します。

 今度は精神的余裕があるため、周辺の景色を見ながら歩きますよ。

 池の向こう岸は公園のようになっているのでしょうか。



 なにやら説明板らしきものが見えますね。



 呪力ズーム!



 人間たまには、ほのぼのしたいものですね。



 馬見丘陵公園の森が見えてきました。



 谷まで降りてくると、道しるべがありました。



 でも単に古墳の方向を示すだけというのは少し不親切で、距離を書いておくといいですよね。

 例えば、今日の私とは逆に馬見丘陵公園からこちらへ歩いてきた人が、これを見て佐味田宝塚古墳が近くにあると思ったとしても、実はあと700mはありますし、さきほど自分で歩いて分かっていますが、本当に古墳はあるんだろうかと不安になる道ですから、距離は書いてあった方が旅人は安心します。

 史跡案内図もあります。



 ではまた丘に登ります。



 今日は新木山古墳は割愛します。

 多分時間もないし、体力的、というか足がそろそろダメになりそうなので無理だと思います。

 ※後日註:新木山古墳は、2021年4月9日に訪れました。

 ここには南北方向で北流する佐味田川が流れており、馬見丘陵と一口にいっても、西側にある滝川とこの佐味田川によって細長い3つの丘に分けることができます。



 今まではその3つの丘の真ん中にいたのですが、これから東側の丘へ登ります。

 橋の名前が面白いですよ。

 「だだ橋」。



 私的には「だだ」と言ったら、ラーメンの「田田」です。



 上に載っているモヤシを食べきるまで、所要時間の半分を要します。

 そういえば、先月行きましたな。

 それはそうと、「だだ」って面白い地名ですね。

 ※後日註:帰宅後に知りましたが、ここの東側の字は「ダダオシ」と言って、ダダオシ古墳という墳丘長48mの前方後円墳があるようです。

 さあ、ようやく馬見丘陵公園に着きました。



 もう14時半を過ぎていますし、今日はすでに16㎞歩いていますが、これから馬見丘陵公園内の古墳探訪を始めます。

 南側入口から入りますよ。



 公園の全体図があります。



 今日はこの公園を北へ向かって歩いて行き、この地図には載っていませんが、最終的には池部駅の隣の箸尾駅で近鉄に乗ろうと思っています。

 遠くの森が巣山古墳でしょう。



 公園の全体図には載っていないのですが、入ってすぐ右側に墳丘らしきものがあります。



 お、詳しい図がありますぞ。



 三吉2号墳という帆立貝形古墳のようです。

 でも帆立貝形で墳丘長93mはでかいですね。

 登ってみましょう。

 円丘に突出部のようなものが付いていますが、向こう側から墳頂に登る階段のようです。



 墳頂。



 現在のように公園として整備される前の写真を見るとここに一般のお家が建っています。

 後円部に母屋を建て、前方部はお庭として使っていたようです。

 この位置からだと巣山古墳は樹木にさえぎられて側面全体が見えるというわけではないですね。



 見下ろすと前方部の幅がかなり広いのが分かります。



 さすが93mの大型帆立貝形古墳ですが、馬見古墳群には墳丘長130mを誇る日本で2番目に大きい帆立貝形古墳である乙女山古墳がありますからあとで行ってみますよ。

 今は残っていませんが、往時は周堀と外堤も存在し、前方部の外堤上に埴輪棺を埋納した土坑が見つかり、その埴輪棺を編年に照らし合わせて、三吉2号墳の築造時期は5世紀後半とされています。

 墳丘を降ります。

 階段を少し下ると巣山古墳の横腹が先ほどよりもよく見えます。



 巣山古墳とは反対側の西側の少し離れた場所に墳丘のようなものが見えます。



 さきほど話したダダオシ古墳かなと思いましたが、そうじゃないようです。



 ダダオシ古墳はここからでは森に隠れて見えません。

 つづいて、馬見古墳群で最大の巣山古墳を見てみましょう。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」026 大和葛城の大古墳群 馬見古墳群』 河上邦彦/著 2006年

佐味田宝塚古墳|奈良県北葛城郡河合町 ~他に例のない家屋文鏡が出土したことで有名な前方後円墳~

2021-06-08 13:47:29 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2020年9月5日(土)



この日の探訪箇所
狐井稲荷山古墳 → 狐井城山古墳 → 領家山古墳群 → 築山古墳 → かん山古墳 → 新山古墳 → 安部山1号墳 → 牧野古墳 → 佐味田宝塚古墳 → 三吉2号墳 → 巣山古墳 → 狐塚古墳 → 倉塚古墳 → 一本松古墳 → ナガレ山古墳 → 乙女山古墳 → 池上古墳

 ⇒前回の記事はこちら

 牧野古墳に続いて佐味田宝塚古墳を目指しますが、佐味田宝塚古墳の位置は分かっているものの、古墳に到達するための道が良く分かりません。

 今いる住宅街の外側に古墳はあるのですが、この住宅街から古墳へ向かう道が無さそうなのです。

 ひとまず、牧野古墳のすぐ東側にある公園にやってきました。

 これも古墳っぽいですが分かりません。



 先ほどの牧野古墳は「うまさん公園」でしたが、こちらの公園は「ねずみさん公園」。



 公園の西側にはさきほどの牧野古墳の森が見えます。



 公園内の丘は古墳に見えるんだけどなあ・・・





 佐味田宝塚古墳は公園の北東方向にあるということは分かっているのですが、そっちへ行く道がありません。

 公園の隣のこの森の中には径30mの円墳の貝吹山2号墳があると思うのですが、これも良く分かりません。





 仕方がないので遠回りになりますが、住宅街を歩いて向こう側へ行ける道を探してみます。

 あ、南の方には新木山古墳の森が見えますよ。



 このあと行ってみる予定ではありますが、だんだん疲れてきたので今日は無理かもしれません。





 ※帰宅後に気づきましたが、新木山古墳の右側(西側)には、葺石で復元された三吉石塚古墳も写っていました。

 住宅街の中をウロウロしますが、全然近接できない。

 かなり無駄に歩いて疲労だけが増加して行きます。

 半ば諦めかけたところ、住宅街の端っこで向こう側の道とわずかながら繋がっている個所を発見しました。

 車は通れませんが、徒歩なら行ける。

 ありがたい。



 古墳からはかなり離れてしまいましたが、この道を進んでいけば佐味田宝塚古墳に到達するはず。

 さきほどの住宅街とは打って変わって、谷沿いの景色の良い場所を歩いて行きます。

 でも、いくら景色は良くても全然古墳は現れません。

 通常、古墳は標高の高い場所にあるのに、道は徐々に下り坂になって行きました。

 本当に古墳はあるのかな?

 不安になってきました。

 人も歩いていないし、車も全然通らない。

 でもこの道でいいはずなので歩き続けます。

 相変わらず緩い下り坂が続きます。

 あ、カーブの向こうに説明板らしきものが見える!

 あったー!



 佐味田宝塚古墳発見!



 見つかってよかった・・・

 説明板を読んでみましょう。



 佐味田宝塚古墳は、ここに書いてある通り墳丘長111.5mの前方後円墳で、馬見古墳群の前方後円墳の中では最古級です。

 銅鏡が36面も見つかっており、その中でも目玉は、倭鏡と考えられている家屋文鏡で、4棟の違う種類の建物が描かれており、こういう文様の鏡は他にはないですし、古墳時代の建物を知る上でも非常に重要な資料になっています。



 ご覧の通り4種類の建物が描かれており、まるで後世の私たちのためにわざわざ造ってくれた資料のように思えて感動です。

 現物は宮内庁が管理しており私は見たことが無いのですが、超貴重な鏡なので、その出土した場所をこの目で見たいと思い、今日はここまでやってきたわけです。

 なお、上野の東京国立博物館の平成館には、佐味田宝塚古墳から出土した他の遺物が展示してあります(以下3枚の写真は平成館にて撮影)。

 ●変形方格規矩獣文鏡



 ●斜縁二神二獣鏡(中国製です)



 ●巴形銅器



 これら3点はすべて国指定の重要文化財ですよ。

 墳丘はご覧の通り。



 でも現況は藪化しており、墳丘に足を踏み入れることはできません。



 前方部底辺側から見ます。



 見つかった安堵感から、座る場所も無い道端に座り込み少し休憩します。



 お茶が少し残っていて良かった。

 さて、時刻はもう14時ですが、ようやくこれからある意味で馬見古墳群のメインともいえる馬見丘陵公園へ向かいます。

 でも今歩いてきた道を引き返さないといけない。

 さすがにこれだけ歩いていると車が欲しくなりますね。

 さあ、頑張ってもう一歩きしますよ。

 ⇒この続きはこちら

安部山1号墳および牧野古墳|奈良県北葛城郡広陵町 ~押坂彦人大兄皇子の墓との説もある17mもの長大な石室を備えた大型円墳~

2021-06-08 11:27:39 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2020年9月5日(土)



この日の探訪箇所
狐井稲荷山古墳 → 狐井城山古墳 → 領家山古墳群 → 築山古墳 → かん山古墳 → 新山古墳 → 安部山1号墳 → 牧野古墳 → 佐味田宝塚古墳 → 三吉2号墳 → 巣山古墳 → 狐塚古墳 → 倉塚古墳 → 一本松古墳 → ナガレ山古墳 → 乙女山古墳 → 池上古墳
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 美味しい酢豚を食べて元気を取り戻し、午後の探訪を開始します。

 次は、見事な横穴式石室を備えた牧野(ぼくや)古墳を目指しますよ。

 牧野って書いて「ぼくや」と音すると、中国で紀元前11世紀に殷の紂王と周の武王が戦った「牧野の戦い」を想起する方も多いと思います。

 その戦いで殷が滅びて周が中国大陸を代表する王朝になったんですね。

 殷の紂王は「酒池肉林」を催したことで有名な暴君ですが、日本書紀の武烈天皇の記述のモデルにもなったんじゃないかと思っています。

 ※後日註:帰宅後に知りましたが、ランチを食べた中華屋さんのすぐ北側には、式内論社の於(うえの)神社があり、その南には以前は墳丘長37mの帆立貝形古墳である於古墳があったそうです。

 西へ向かって歩いていくと、右手に公園が現れました。



 西谷公園。

 この辺りはいわゆるニュータウンで、丘を削って住宅地にしていますが、地図を見てみると公園も結構多いようです。



 なんか古墳が残っていそうな雰囲気がしますよ。

 公園の中を散策してみましょう。

 この地膨れは古墳かなあ?



 公園の北側にある駐車場からの景観。



 公園の中央に大きめの丘があり、こちらは古墳のような佇まいを感じさせます。



 でも説明板とかはないので分からないですね。

 職業柄、公園に来たら必ず確認。



 職業柄というのは、掃除ではなくナビゲーターの方ですよ。

 うーん、怪しい公園でしたが先へ行きましょう。

 ※後日註:帰宅後に『広陵町遺跡分布調査概報』(広陵町教育委員会/編・1989年)で調べてみたところ、公園中央の丘はやはり安部山1号墳という墳丘長42mの後期後半の前方後円墳で、上の写真の向かって左側(東側)が後円部です。さらにその周辺には安部山2号墳から7号墳までの6基の小規模な円墳があることから、上の写真の円墳らしきものは、その中の1基かもしれませんがご存じの方がいらっしゃったら教えてください。

 前方に古墳の森らしきものが見えてきました。





 いったん少し広い道路に出ます。



 またも公園が現れました。



 公園の名前を示すようなものは見当たりません。

 念のため公園内を歩いてみます。

 旧地名を示す標柱。



 どこもそうですが、ニュータウンとして造成されると地名もハイカラな名前に変わってしまいます。

 とても残念なことなのですが、こうやって旧地名が分かるように表示してあるというのはとても良いですね。

 ここの大字は「三吉(みつよし)」ですが、馬見丘陵公園の南側南端部分と同じ字名で、ここと公園南側入口は直線距離で2㎞ありますから、三吉の範囲は結構広いかもしれません。

 この公園内にも地膨れがあります。



 でもここの場合は、土塁状になっているのもありますね。



 単に公園にしたときに削り残してデザインの一部にしているだけかもしれませんが気になります。



 ここにも旧地名表示が。



 大垣内という字名は気になりますね。

 先ほど見た通り、土塁状の物もありますから、そういったものが昔からあって地元の人が「大垣」と呼んでいた可能性は無いでしょうか。

 と、まったくのよそ者が適当なことを考えています。

 さらに15分ほど歩き、ようやく牧野古墳がある公園に到着しました。



 牧野史跡公園という名前になっていますね。



 公園の説明板は少し滅亡しかかっています。



 これが牧野古墳の墳丘ですね。



 牧野古墳の説明板がありました!



 ちゃんと石室の画も書いてあっていいですね。

 ここに書いてある通り、牧野古墳は径55mの大型の円墳です。

 時代的にはもう終末期になりますから、その時期までこの周辺が葛城氏の墓域として使われていたら、この古墳の被葬者は間違いなくその時点での葛城氏の最有力者です。

 ただし、この古墳の被葬者は押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)ではないかという説が結構強いんですね。

 押坂彦人大兄皇子は、第30代敏達天皇の第一皇子で、母は息長真手王の娘・広姫ということで、蘇我氏全盛の6世紀末において、蘇我氏と血縁関係ない王族として独特な地位にいたと考えられます。

 蘇我馬子や厩戸皇子(いわゆる聖徳太子)と同時期の人で、蘇我系ではないためか歴史の表面にあまり出てこないのが残念です。

 石室が開口していますよ。



 残念ながら石室内には入れません。

 カメラを突っ込んで撮影してみます。



 説明板の図に書かれている石棺らしきものが遠くにあります。

 おっと敵機襲来!

 かなりの数の藪蚊が襲ってきました。

 写真撮影中は応戦できない!



 多少の被弾は覚悟で写真を撮る!

 全長17mもある横穴式石室ということで、玄室まではなかなか見通せないです。



 花崗岩でできた石室なので、花崗岩独特な模様がありますね。

 馬見古墳群は横穴式石室が見られる古墳がほとんどないため、油断して懐中電灯を持ってきませんでした。

 では、周辺、というか古墳の上の丘を歩いてみます。



 牧野古墳は山寄形なので、背後に丘が続いています。

 背後の丘も前方後円墳に見えてしまいますねえ。





 西側かな?眺望がきいています。









 こちらは草茫々であまり近所の人たちも来ないエリアなのかもしれません。



 では、ここからは東にある馬見丘陵公園へ向かいますが、その途中で佐味田宝塚古墳を見ておきたい。

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