3.探訪レポート
2020年9月5日(土)
この日の探訪箇所
狐井稲荷山古墳 →
狐井城山古墳 →
領家山古墳群 →
築山古墳 →
かん山古墳 →
新山古墳 → 牧野古墳 → 佐味田宝塚古墳 →
三吉2号墳 →
巣山古墳 → 狐塚古墳 → 倉塚古墳 → 一本松古墳 → ナガレ山古墳 → 乙女山古墳 → 池上古墳
⇒前回の記事はこちら
では先ほどからずっと見えていた築山古墳へ向かいますよ。
よし、電車と一緒に撮れた!
さて、どの道から古墳にアプローチしようか。
線路を渡り、ひとまず線路沿いの道を東へ行って、しかる後に北へ向かって進むとします。
※後日註:この日はほとんど下調べなしで来たため知らなかったのですが、築山古墳の近くには見ておくべき古墳が何基かありますので、つぎに行ったときはきちんと見てこようと思います。
小さい円墳がありますよ。
「陵西陵墓参考地陪塚」とあります。
築山古墳が近づいてきました。
左手に池がありますが、これは二重堀の外堀の名残ではないでしょうか。
となると、右手のこちらの墓域は、水堀跡の上にあるということになります。
堀の間際まで来ました。
でかすぎて全体を収めることができませんよ。
もうちょっと東へ移動します。
前方部側ですね。
築山古墳は、4世紀後半に築造された墳丘長210mの超大型前方後円墳です。
250基以上の古墳からなる馬見古墳群に対して、現代の研究者は北群・中央群・南群に分けて考えることが多いのですが、南群のなかでも盟主墳に相当するのがこの築山古墳とあとで訪れる予定の新山古墳です。
前方部の底辺側を北上してみます。
築山古墳は、宮内庁により磐園陵墓参考地として、特定の天皇は挙げられていませんが陵墓参考地に治定されています。
ところで、馬見古墳群を葛城氏の墓域とする説は昔からあったわけですが、その一方で、馬見古墳群の各古墳のスケールの大きさや主体部の充実さから、天皇家(大王家)の墓域であると考えている研究者もいるのです。
宮内庁が陵墓参考地にしているということは、宮内庁的には馬見古墳群は天皇家の墓域として考えているのかもしれません(大王の妻の墓と考えている可能性もありますが)。
大王家の一家臣に過ぎない葛城氏が大王墓に匹敵する墓を造るのはおかしいと考えるのは真っ当な考え方かもしれませんが、私は葛城氏が大王家に匹敵する力を持っていたと考えているため、馬見古墳群は葛城氏の墓域であると考えています。
葛城氏は5世紀後半に雄略天皇によってかなり力を削がれてしまったことが日本書紀からは読み取れますが、そのあと、葛城氏に関する歴史のうち、王権にとって都合の悪いものは抹殺されてしまったのでしょう。
北側には公園がありますよ。
公園の北側が丘になっています。
「通称かん山」とありますね。
古墳でしょうかね?
登ってみましょう。
古墳に見えなくもない・・・
※帰宅後調べたところ、かん山古墳という径40mほどの円墳で、帆立貝形古墳の可能性もあるそうです。
東側の遠くに見える丘が気になります。
あ、あれは耳成山ですね。
ということは、この古墳が造られた当時も、ここからはヤマト王権の本拠地が見えたのです。
お互い、見て呪うことができる・・・
西側の眺望。
南側には築山古墳が見えます。
※この写真は2枚の写真をパノラマ合成したものです。
ところで、日本書紀には武内宿禰の子として、葛城襲津彦(かづらきのそつひこ)という人物が登場し、葛城氏の元祖的扱いをされています。
日本書紀が引用している朝鮮半島の史書である「百済記」には、沙至比跪(さちひこ)という人物が登場し、それが葛城襲津彦のことであると考える研究者は多いですが、もしそうだとすると、葛城襲津彦は朝鮮半島での戦いに活躍した日本の将軍ということになります。
時代的に見てみても、築山古墳の被葬者は大王ではなく、葛城襲津彦でよいのではないかと私は考えています。
私は今日、築山古墳までテクテクと歩いてきましたが、遠くから見た築山古墳の森は、葛城氏の元祖的人物の墓に相応しいと強く感じました。
※後日註:この探訪の時点では、築山古墳の築造時期を4世紀末と考えていたため、沙至比跪(=葛城襲津彦)の墓であると考えていましたが、その後、白石太一郎先生の『古墳からみた倭国の形成と展開』で確認したところ、築山古墳の造営は「4世紀中葉過ぎ」としており、これが事実であれば382年に朝鮮半島で活躍した沙至比跪より前の世代の墓となります(これについては、「4.補足」に記述しておきました)。
では、公園に降ります。
さて、時刻は11時。
馬見丘陵最南端の築山古墳に来たということで、いよいよこれから本格的に馬見古墳群歩きを始めますよ。
でもすでに7㎞近く歩いているので、果たして今日はあとどれだけ歩けるだろうか・・・
⇒この続きはこちら
4.補足(2021年6月8日追記)
古代の葛城地域について
日本書紀のいわゆる欠史八代の記述を読むと、大王の宮殿や墓の場所の地名が葛城地域を示していると考えられるものが多く、葛城地域が大王家にとって重要な場所であったことが分かりますが、それを証拠立てる物的証拠(遺跡など)はありません。
3世紀半ば以降の古墳時代になると、すでにヤマト王権はオープンしており、その中心地は桜井市の纏向遺跡であり、墓域も桜井市から天理市にかけてオオヤマト古墳群として展開していて、これらが3世紀半ば以降のヤマト王権の物的証拠となります。
ところが、葛城氏に関わるであろう葛城地域の遺跡を探してみると、3世紀代から4世紀代までにヤマト王権に匹敵するような集落跡や居館跡は見つかっておらず、また古墳に関しても3世紀代には大型のものはありません。
葛城氏の墓域といわれることのある馬見丘陵上に最初に築かれた大型墳は新山古墳ですが、それは4世紀前半であり、ようやくこれ以降葛城氏に関連しそうな大型古墳が築造され、4世紀代の馬見丘陵上には、築山古墳と巣山古墳が築造され、これらが葛城氏が繁栄した物的証拠となるといわれることがあります。
しかし、果たして本当に馬見丘陵上の古墳は、葛城氏の古墳と考えて良いのでしょうか。
上の「3.探訪レポート」には、築山古墳を沙至比跪(=葛城襲津彦)の墓と考えて記していますが、その後考えが変わったため、本稿では現段階での私の考えを述べます。
まず、築山古墳ですが、沙至比跪(=葛城襲津彦)の活躍した時代と築山古墳の築造時期が合わないことが分かりました。
日本書紀の神功皇后紀には、百済記からの引用で、壬午の年に新羅が日本に朝貢しなかったため、日本は沙至比跪(さちひこ)を遣わせて討たせたとありますが、壬午の年は西暦にすると382年に該当しますので、『古墳からみた倭国の形成と展開』(白石太一郎/著・2013年)で述べられている築山古墳の築造時期(4世紀中葉過ぎ)よりあとの話になってしまいます。
そのため、沙至比跪の墓が400年頃に造られたと仮定すると、築山古墳よりかは宮室山古墳が該当すると思われます。
その宮室山古墳の近くには南郷遺跡群があります。
南郷遺跡群は葛城氏の王都と目されている遺跡群ですが、その南東域にある極楽寺ヒビキ遺跡では王の高殿ではないかと考えられる建物跡も検出されており、この南郷遺跡群が出現するのが5世紀初頭頃ですから、沙至比跪によって造られた葛城氏の「首都」の可能性があります。
では、沙至比跪の父や祖父が分かれば、築山古墳や巣山古墳の被葬者が分かるかもしれません。
それを探ってみましょう。
ヤマト王権と紀伊国との関係
以前から日本書紀を読んでいて、武内宿禰と紀伊国との関係が気になっていました。
葛城氏と関係が深いであろう高鴨神社のある場所は、大和川水系の範囲ですが、吉野川水系との分水嶺に近く、葛城の地は吉野川、すなわち紀の川へのアクセスも良い場所です。
そのため、沙至比跪の系統の出自は紀伊であり、欠史八代の頃に活躍した葛城氏や、馬見丘陵上の新山古墳、築山古墳、巣山古墳などの被葬者とは直接は繋がらない可能性もあると思い、それを検証してみます。
それでは、日本書紀の崇神紀以降の紀伊国に関連する記事を見てみましょう。
まず、崇神紀によると、崇神天皇の后の一人に紀伊国の荒河戸畔(あらかわとべ)の娘・遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ)という美しい名前の女性がいます。
崇神は積極的に外部勢力との連携強化を進めていて、この結婚もその一環でしょうが、崇神期には紀伊国の在地勢力との同盟関係ができていたことがこれで分かります。
つぎに、崇神の孫の景行紀を見てみると、景行は紀伊国に巡幸して神を祀ったのですが、占ってみると吉と出ませんでした。
そのため巡幸を中止し、屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)を遣わせて祀らせ、彼は紀直の遠祖・菟道彥(うじひこ)の娘・影媛(かげひめ)を娶り、武內宿禰が生まれました。
景行が紀伊国にて占いをして吉と出なかったというのは、この時期、景行朝と紀伊国勢力とは関係が悪化していたことを示しており、景行は関係を改善するために屋主忍男武雄心を派遣して、紀伊の在地勢力である菟道彥との関係を修復させたのでしょう。
もしかするとこの時は武力も行使したかもしれません。
なお、屋主忍男武雄心の父は彦太忍信で、さらにその父は第8代孝元天皇ですから、屋主忍男武雄心はヤマト王権が発足する前からの奈良の在地勢力の系統といえますが、名前に「忍」が使われていることから、景行天皇の姻戚の可能性が高く、景行朝では重要メンバーとして活動していたと考えられます。
つまり、葛城氏の祖とされる武内宿禰は紀伊出身で、菟道彥の勢力基盤を引き継いだと考えられ、何もなければそのまま紀伊の一豪族として生涯を終えたはずでしたが、彼には飛躍するための大きなチャンスが待ち受けていました。
応神天皇のヤマト侵略戦争です。
武内宿禰=葛城襲津彦=沙至比跪の葛城入部
仲哀紀によると仲哀天皇は紀伊国に巡幸し、徳勒津宮(ところつのみや=和歌山県和歌山市新在家に比定)に滞在したのですが、このとき熊襲が叛いたということで、この地から熊襲征討に赴いています。
この記事をどう評価するかですが、武内宿禰は景行系の王権に仕えながらも、西方に新たに発足した応神の王権にも接触を開始していたのではないでしょうか。
神功紀では、既述した通り百済記からの引用で、沙至比跪が朝鮮半島で活躍していたこを示していますが、この沙至比跪は、葛城襲津彦と同一人物で、さらにもう一歩考えを進めると、武内宿禰とも同一の人物だと考えます。
神功紀によると、神功皇后は応神天皇を連れて九州からヤマトへ攻め込んだ際、それに抵抗してきた忍熊王と戦いましたが、このとき神功勢は紀伊へ上陸し、武内宿禰の活躍もあって忍熊王軍を撃滅し、ヤマトの平定を完成させました。
つまり、神功勢とすっかり親しんだ武内宿禰は、元々の地盤である紀伊に舞い戻り、その勢力を動員して忍熊王(=ヤマト王権の王)と戦い、神功・応神のヤマト入りを成功に導いたわけです。
ところで、日本書紀の記述では神功がその子応神を引き連れてヤマト入りしたように書かれていますが、主役は神功皇后ではなく、応神天皇と見て良いでしょう。
応神天皇は日本書紀でも九州出身と記されている通り、あきらかにヤマトの勢力ではなく、ここで魅力的なのは、小林惠子さんの「応神天皇=五胡十六国の氐の符洛(ふらく)」説です。
中国大陸で活動していた氐の符洛が日本に渡って応神天皇になったという説ですが、符洛ではないとしても、外部勢力が武力によりヤマト王権を引き継いだことは確かでしょう。
この「応神天皇」に従って活躍した武内宿禰こそが葛城襲津彦であり、朝鮮半島で活躍した沙至比跪ではないでしょうか。
応神天皇のヤマト入りを助けたのはかなり大きな功績ですから、このときの論功行賞として沙至比跪は紀伊国からヤマトの葛城地方に進出し、葛城氏の祖となったと考えます。
応神天皇のヤマト入りによって倭国は新たなフェーズに移行したわけですが、沙至比跪(=葛城襲津彦)はそのときの重要メンバーの一人であり、このように考えると、これ以降葛城の地に200m級の超大型前方後円墳が造られた理由が分かります。
ただし問題は、それよりも前の4世紀代に造られた、新山古墳、築山古墳、巣山古墳、鳥の山古墳をどう考えるかです。
葛城氏の墓で無いとしたらいったい誰の墓なのでしょうか。
沙至比跪以前の「プレ葛城氏」といえる一族がいて、彼らの墓域なのでしょうか。
(つづく)
5.参考資料
・現地説明板
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」026 大和葛城の大古墳群 馬見古墳群』 河上邦彦/著 2006年