日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

孝霊神社・笹鋒山1号墳・同4号墳|奈良県磯城郡田原本町 ~見事な馬形埴輪と馬曳人埴輪のコンビが2セット出土した前方後円墳~

2021-06-11 23:04:02 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年4月9日(金)



この日の探訪箇所
三吉石塚古墳 → 新木山古墳 → 讃岐神社 → 巣山古墳 → ナガレ山古墳 → 乙女山古墳 → 黒田廬戸宮伝承地(法楽寺) → 黒田大塚古墳 → 孝霊神社 → 笹鋒山4号墳 → 笹鋒山1号墳 → 石見遺跡 → 唐古・鍵遺跡

 ⇒前回の記事はこちら

 黒田大塚古墳の次は、笹鋒山1号墳へ行きたいと思いますが、その前に孝霊神社が気になるので参拝して行きます。

 こちらですね。



 「廬戸神社」とあります。



 由緒書がありますので読んでみましょう。



 主祭神は、神社の名前から分かる通り孝霊天皇です。

 祭神には、吉備津彦もいらっしゃいますが、ちゃんとカッコ書きで「桃太郎噺のモデル」と書いてあるところがチャーミングですね。

 でも個人的には「他三神」が気になります・・・

 そして、さきほど黒田駅に降り立った時に話した太子道の続きがこの神社の前の道です。

 では、境内にお邪魔します。



 もう一つ説明板がありました。



 こちらが拝殿です。



 欠史八代の問題を解くのはなかなか難しいと思いますが、この黒田の地が少しの期間であっても「都」であったことを想像するのが古代史のロマンであります。

 ただその場合は、まだ倭国の都ではなく、奈良盆地内に群雄割拠していた、一方の雄の本拠地と考えると無難かもしれません。

 無難になると急に萎えますでしょうか?

 では、当初の予定通り、笹鋒山1号墳を目指しますよ。

 笹鋒山1号墳は、孝霊神社からは約1㎞の距離にあります。

 本当にこの周辺の道は条里チックだ。

 まっすぐ延びる道を東へ向かって歩いて行きます。

 あ、近鉄だ!



 私は鉄道マニアではありませんが、鉄道は大好きであります。



 おっと、電車に気を取られていて危うく見過ごすところでしたが、これは古墳じゃないでしょうか?



 ※帰宅後調べてみたら、笹鋒山4号墳という円墳でした。

 遠くに見えるあの森がおそらく笹鋒山1号墳でしょう。



 また電車。



 実は先ほどデジイチの電池が切れて、もうサブ機のコンデジしか使えなくなったのですが、コンデジだといつもの「呪力ズーム」が使えるため、かなり遠くのものまで写せる利点があります。

 あの駅は石見駅で、今日は唐古・鍵遺跡まで行った後は、石見駅まで戻ってきて電車で帰ります。



 あ、帰ると言っても家に帰るのではなく、大和八木駅のカンデオホテルに帰りますよ。

 明日から2日間、クラツーの奈良ツアーの案内をしますからね。



 笹鋒山1号墳の北側にも古墳があったようですが、それらしきものは見えません。



 笹鋒山1号墳は、墳丘長約50mの前方後円墳ということですが、あんまりよく分かりませんね。



 中軸は東西方向ですが、さきほどの黒田大塚古墳と反対に、前方部は東を向いています。



 後円部側からは墳丘に侵入できないようなので、前方部側に回ってみましょう。

 稲荷神社がありました。





 結局、墳丘の形も良く分からないまま鳥居をくぐって境内に登ってしまいましたが、うーん、良く分かりません。



 説明板もありませんし、古墳としての気配を消しているな。

 こういう古墳を稲用語(いなようご)で「ステルス墳」といいます。

 では、降ります。

 道が丸くなっており紛らわしいですが、こちらは前方部側です。



 ※後日註:帰宅してから、『笹鋒山古墳群 ー第1~5次発掘調査概報ー』(田原本町教育委員会/編・2005年)を読んでみたら、鳥居が立っているあたりは前方部の真ん中あたりで、なんと、二重堀を備えた古墳でした。

 さて、笹鋒山1号墳から出土した遺物で有名なのが、馬形埴輪と馬曳人埴輪のセットで、しかも2セットあるのです。

 こちらは顔に入れ墨がある方。



 こちらは入れ墨が無い方。



 お馬さんがポッチャリしていて可愛らしいのですが、何で馬曳人の顔に入れ墨があるのとないのがあるのでしょうか。

 これは気を付けていただきたいのですが、博物館などで馬曳人埴輪を見る機会があったら、ぜひ顔をよく見てください。

 馬曳人の顔は、上のように入れ墨をしていたり、作りが異様に醜かったりして、普通の人物埴輪の顔をしていないことが良くあります。

 そういうのも古墳時代の社会を探る上での重要な手がかりになるでしょう。

 それでは、さらに東に進んで唐古・鍵遺跡を目指しますが、その前に有名な石見遺跡を見ておきたいのだ。

 (つづく)

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『笹鋒山古墳群 ー第1~5次発掘調査概報ー』 田原本町教育委員会/編 2005年
・『消えた古墳』 唐古・鍵考古学ミュージアム/編 2011年

黒田大塚古墳/三宅古墳群|奈良県磯城郡田原本町 ~低地に残存した貴重な大型前方後円墳~

2021-06-11 21:57:14 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年4月9日(金)



この日の探訪箇所
三吉石塚古墳 → 新木山古墳 → 讃岐神社 → 巣山古墳 → ナガレ山古墳 → 乙女山古墳 → 黒田廬戸宮伝承地(法楽寺) → 黒田大塚古墳 → 孝霊神社 → 笹鋒山4号墳 → 笹鋒山1号墳 → 石見遺跡 → 唐古・鍵遺跡

 ⇒前回の記事はこちら

 それでは、さきほど見えていた黒田大塚古墳へ行ってみましょう。

 バーン!



 ポッチャリ系の可愛らしい古墳ですね。

 古墳の周囲は公園のようになっており綺麗に整備されています。

 黒田大塚古墳の主軸はほぼ東西方向で前方部が西側を向いていますから、右手が前方部ですよ。

 敷地内にはトイレもあって、建物の壁に説明板があります。



 珍しく、古墳築造後の変遷が書いてありますね。

 この説明の通り、黒田大塚古墳は低地に築造された古墳で、最近では奈良盆地でも低地に古墳が思いのほかたくさんあったことが分かってきました。

 でも多くは「古墳跡」で、この黒田大塚古墳のように多少削られてしまってはいても墳丘がちゃんと残っているのはレアケースなのです。

 前方後円墳だけを見たら、田原本町では黒田大塚古墳と、このあと行く予定の笹鋒山1号墳しかないのです。

 後円部側から見ます。



 周堀の跡が分かるようになっています。

 後円部から前方部方向を見ると周堀の形跡が良く分かりますね。



 後円部側はもう分からなくなっています。



 それでは、墳丘に登りましょう。

 ちょっと急だ。

 鞍部から後円部墳頂を見ます。



 前方部墳頂。



 前方部墳頂からだいたい南西方向の眺望。



 前方部墳頂から見た後円部。



 後円部側は段築のようになっているのが分かります。



 周辺の景色を見ても、低地部に築造されているのが分かると思います。



 さきほど訪れた法楽寺の森。



 黒田大塚古墳が破壊されずに現代にまで残っている理由は、単に大きいからではなく、黒田大塚古墳よりも大きい古墳がどんどん破壊されて跡形もなくなってしまっています。

 法楽寺は古代の後半から中世にかけてかなり勢威があり、黒田大塚古墳はその境内にあったため破壊を免れたと考えることができます。

 全国的に見ても、古墳がお寺や神社によって守られてきたというケースはとても多いです。

 少し遠くを見ると一際高い高架の道路が見えますが、あれを造るときにこの辺の発掘も進んだようです。



 もちろん道路を造るのが目的ですから、遺跡は調査した後に無くなっちゃうわけですが・・・



 登ってきたのと反対側の南側の方から降ります。

 おっと、こっちにも説明板があった。



 三宅古墳群というと、133点もの車輪石や石釧や鍬形石が出土した墳丘長200mの島の山古墳が有名です。

 島の山古墳と結構距離があるように思えますが、同じ古墳群として研究者は考えているんですね。

 ※地図で確認したら、直線距離で2㎞もないです。

 墳丘長は70mということで、現状はそれより少し小さいように思えます。

 前方部の底辺はカットされている感じがしましたし。

 ※『消えた古墳』(唐古・鍵考古学ミュージアム/編・2011年)では、墳丘長を85mとしています。

 築造時期は6世紀初頭ですね。

 最後に書いてある羽子田1号墳出土の牛形埴輪には、唐古・鍵考古学ミュージアムに行くと会えます。



 これは珍しいのでミュージアムに行ったときは必ず見てくださいね。

 馬形埴輪は列島各地で普通に出てきますが、牛形埴輪は全国でも9例しか見つかっていない大変貴重な物なのです。

 黒田大塚古墳の説明板にわざわざ書いてあるというのは、読む人にそのすごさに気づいて欲しいからだと思います。

 おっと、黒田大塚古墳に来ているのに最後の〆が羽子田1号墳の牛形埴輪の話だと、黒田大塚古墳の被葬者が残念がりそうだ。

 いやいや、あなたは大きさでは羽子田1号墳よりも全然大きい!



 しかし良い古墳に出会えてよかったです。

 つづいて、笹鉾山1号墳へ行ってみますよ。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『消えた古墳』 唐古・鍵考古学ミュージアム/編 2011年

黒田廬戸宮伝承地および法楽寺|奈良県磯城郡田原本町 ~大人になればあなたも分かるそのうちに~

2021-06-11 17:14:06 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年4月9日(金)



この日の探訪箇所
三吉石塚古墳 → 新木山古墳 → 讃岐神社 → 巣山古墳 → ナガレ山古墳 → 乙女山古墳 → 黒田廬戸宮伝承地(法楽寺) → 黒田大塚古墳 → 孝霊神社 → 笹鋒山4号墳 → 笹鋒山1号墳 → 石見遺跡 → 唐古・鍵遺跡

 馬見丘陵上の古墳の下見を終えて近鉄の池部駅までやってきました。



 こちらは河合町役場の入口。



 この門構えから推測するに、河合町の職員さんたちは羽織袴で職務に就いている蓋然性が極めて高い。

 ここからは黒田駅まで電車で移動です。

 お、ちょうど電車が来たから写真撮ろうっと。



 ところで、私が乗る電車はいつ来るんだ?

 しまった、さっきのだった!

 次のはしばらく来ませんよ。
 
 まあでも、急ぐ旅ではありませんから、ベンチに座ってジュースでも飲んでます。

 近くに座った地元の方らしき二人のご婦人の世間話に耳を傾けていると電車が来ました。

 池部駅から3駅乗って黒田駅に到着。



 田原本町には、「楼閣と桃太郎生誕のまち」というキャッチがあったんですね。



 楼閣は唐古・鍵遺跡の復元楼閣(というか、その元になった絵画土器)のことを指しているのは分かりますが、かの有名な桃太郎氏はここで生まれたんですね。

 説明板の前に「駐車禁止」の看板が覆いかぶさっている。



 なかなかシュールな設置位置ですが、これは多分、大事な説明板を保護する意味もあって建てたのでしょう。

 まさか説明板の存在を無視しているなんて、田原本町に限ってそんなことはないはずです。

 では、説明板を駐車禁止の看板の横から覗いてみましょう。
 
 ほー、太子道の説明でしたか!



 ここに書いてある通りですが、聖徳太子が斑鳩の宮と飛鳥を往復した道で、斜行しているのが特徴です。

 遺跡として飛鳥時代に造られた斜行の道が確認できるとしたら、飛鳥時代に道を作るというのは大変な権力がないとできない事業ですから、やはり斑鳩の宮にいた厩戸皇子は蘇我政権内でかなりの力を持っていたと考えられます。

 ちょうどいま、クラツーのオンライン講座の作業が一時停止中なのですが、再開したら日本書紀講座の次の回は聖徳太子について語ります。

 そのせいか、「引き寄せられの法則」に従って、最近は太子関係のものに引き寄せられるようになっています。

 太子道の北方面。



 ※後日註:北方面への道はほぼ真北へ向かっているため、往時の太子道とは道筋が違います。

 太子道の南方面。



 ※後日註:南方面への道はやや東へ振れた斜め方向の道になっているため、こちらは往時の太子道と重なると考えられます。

 ところで、何で黒田駅で降りたのかというと、黒田大塚古墳を見ることと、法楽寺を拝するためです。

 法楽寺は、第7代孝霊天皇の黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)跡と言われているため、「欠史八代マニア」としては、以前からずっと来てみたいと思っていました。

 ではいったん踏切を渡って北側から法楽寺へ回り込もうと思います。



 あ、黒田大塚古墳が見えますよ。



 古墳にはあとで行きます。



 法楽寺に着きました。

 説明板があります。



 聖徳太子開基伝承を持つお寺って「法」が付くお寺が多いですね。

 それは、聖徳太子が自身のコア・コンセプトとして法(仏法)を学ぶことを最も尊重したからだという説があります。

 立派な伽藍や美しい仏様を造立しなくても、心の中にしっかりと信仰を持っていれば仏の道に邁進することができます。

 私はそう思います。

 つづいて桃太郎伝説について。



 そういえば、吉備津彦は孝霊天皇の子ですが、吉備津彦が西道を討ったのは、日本書紀だと第10代の崇神天皇の御代なのに古事記だと孝霊天皇の時なんですよね。

 日本書紀と古事記の記述でこのような違いがあるのは、いわゆる「欠史八代」について探る上には大きなヒントになるでしょう。

 この説明板には鳥取県日野地方という地名が出てきますが、その近くには孝霊山という山があって、妻木晩田遺跡からもよく見えます。

 以前から伯耆の国における孝霊天皇は気になっているんですよねえ。

 本堂でしょうか?



 あれ、扁額には子安地蔵とありますよ。



 そうか、説明板に書かれていた通り、往時は25宇を数えたものが現在はこのお堂のみとなってしまったんですね。





 桃太郎の看板がまたありました。



 しかし、さきほどはかぐや姫の伝承を楽しみましたが、今度は桃太郎ということで、奈良は「リアル昔話ワールド」が展開していて面白いですね。

 人によっては、桃太郎とか孝霊天皇とか、そういったものは絵本だけのお話だと考える方もおられると思いますが、ウインクこそはしないものの、大人になればきっと分かると思います。

 往時の伽藍配置。



 ではつづいて、先ほども見えていた黒田大塚古墳へ行ってみますよ。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足(2021年6月11日)                    


 上述の踏切から南方向を向いて撮った写真を再掲します。



 奥の方が少し左に曲がっていますが、太子道はその場所から一直線に飛鳥まで向かっていました。

 帰宅してから知ったのですが、黒田駅からこの道を5分も歩かずに黒田池に到達し、その南側には保津・宮古遺跡があります。

 『太子道の巷を掘る』(唐古・鍵考古学ミュージアム/編・2006年)によると、1995年の保津・宮古遺跡第14次調査の際に、幅3mほどの溝が検出され、これが真北から西に約22度傾いた太子道の地割と一致したため、その遺構を太子道西側の側溝跡と考え、これをもって太子道は考古学的に証明されたとしています。

 また、その近辺では「保津・阪手道」と仮称される東西の道も見つかっており、その辺りは飛鳥時代から交通の要衝であったことが分かったのです。

 道と道が交差する場所を「衢(ちまた)」と呼びますが、そういう場所には市が立っていた可能性があり、悪い霊が集まる可能性もあるため、神を祀って呪術的に防御していた可能性もあります。

 事実、飛鳥時代の土馬や、奈良時代の斎串が出土しています。

 さらに、飛鳥時代から奈良時代にかけての官衙的な建物跡も見つかっており、古墳時代後期の黒田大塚古墳の存在も含め、黒田駅の南側は非常に注目すべき地域であると言えましょう。
 
 現代の道路地図で太子道を追いかけていくと、黒田駅を中心に南北約3.2㎞くらいの道の形跡は、現代の道路で追うことができますが、それ以外はほぼすべて不明です。

 「今昔マップ」で明治時代の地図を見てみましたが、すでにそのころには現代と変わらないくらいに斜向の道筋は無くなっています。

 太子道の南北の起点がどこか調べてみると、南側に関しては現在分かる道筋を飛鳥まで延長していくとちょうど向原寺に当たります。

 向原寺は我が国初の尼寺と伝えられ、太子とともに政治を執った蘇我馬子の父であり、かつ太子の曽祖父にあたる蘇我稲目の邸宅だった場所です。

 太子が生きた時代は向原寺の裏の甘樫丘は蘇我氏の本拠地となっており、大雑把に言って、太子道の飛鳥側の起点は甘樫丘や向原寺であったと考えられます。

 反対の北側の起点は、そのまま線を引いて行くと斑鳩町高安付近になり、ちょうどそこから富雄川を渡って西へ進めばすぐに法隆寺にたどり着きます。

 ただし、太子道の北側は大和川の支流が集まる場所を縦断していますから、無理に一直線の道として考えずに、自然堤防上をある程度ウネウネと進んだ可能性もあるのではないでしょうか。

 なお、太子道の性格ですが、よく「太子の通勤路」と言われることがありますが、普通考えたら道路を作る最大の目的は軍事利用です。

 当時の豪族はそれぞれ自身の軍事力を保持しており、当然太子の一家も軍事力を保持しており、「いざ鎌倉」ではないですが、飛鳥に何かあったときは斑鳩の軍勢を即座に動かす意図のもとに太子道を作ったのではないかと考えます。

 そう考えると、飛鳥時代はいつも平和だったわけではなく、日本書紀にも蘇我氏と物部氏との軍事衝突などが記載されている通り、意外と不穏な空気が流れることも多かったのではないかと考えます。

 こういった飛鳥時代の貴族同士の軍事的関係については、今後詳しく調べて行こうと思います。

 余談ですが、私は太子に対して武勇に優れた青年貴族のイメージを持っており、子供の頃は結構「腕白」で、ケンカの強さで若者たちから認められていた少年貴族だったんじゃないかと想像しています(あくまでも個人的な想像です)。

 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『太子道の巷を掘る』 唐古・鍵考古学ミュージアム/編 2006年

新山古墳|奈良県北葛城郡広陵町 ~馬見古墳群最古の大型墳の被葬者は誰か?~

2021-06-09 12:42:56 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2020年9月5日(土)



この日の探訪箇所
狐井稲荷山古墳 → 狐井城山古墳 → 領家山古墳群 → 築山古墳 → かん山古墳 → 新山古墳 → 安部山1号墳 → 牧野古墳 → 佐味田宝塚古墳 → 三吉2号墳 → 巣山古墳 → 狐塚古墳 → 倉塚古墳 → 一本松古墳 → ナガレ山古墳 → 乙女山古墳 → 池上古墳

 ⇒前回の記事はこちら

 築山古墳を見た後は、同じく南群を代表するもう1基の古墳である新山(しんやま)古墳を目指しましょう。

 近鉄築山駅東側の踏切を渡ります。



 テクテクと北へ向けて歩いていると、前方に古墳の森らしきものが見えてきました。



 新山古墳はあれでしょう。



 いつの間にか広陵町に入っていました。



 西側に見えるあの森も気になる・・・



 新山古墳が近づいてきました。



 新山古墳も水堀で囲まれています。



 さて、墳丘に入れないことは知っていますが、説明板とかはないでしょうか。

 周囲を探してみます。

 おや、標柱が見えますよ。



 「大塚陵墓参考地」とあります。



 この標柱が建っていることから分かる通り、新山古墳は陵墓参考地のため墳丘には入れないのです。



 墳丘を見上げます。



 これでは墳丘がどちらを向いているのかもサッパリ分かりませんが、新山古墳は前方後方墳で、前方部は南を向いています。

 つまり、私がアプローチしてきた方に前方部を向けているわけですね。

 西側から回ってみましょう。



 新山古墳は馬見丘陵の東側の縁の部分に造られており、東側は低くなっていますが、西側は丘になっています。



 後円部側に来ました。

 あの上に登ると何かありそう。



 よし、説明板発見。



 先ほども言いましたが新山古墳は前方後方墳で、ここに書いてある通り、墳丘長は126mあります。

 ちなみに、前方後方墳としては国内で4番目の大きさで、前方後方墳の大きさBEST5を示すと以下の通りとなります。

 1位 奈良県天理市・西山古墳 180m
 2位 奈良県天理市・波多子塚古墳 144m
 3位 群馬県前橋市・前橋八幡山古墳 130m
 4位 奈良県広陵町・新山古墳 126m
 5位 栃木県足利市・藤本観音山古墳 117m 

 まあ、大きさも重要かと思いますが、前方後方墳という形状を知った途端、もしかして馬見古墳群で最古の古墳じゃないの?と閃く方もおられると思いますが、まさしくその通りなのです。

 さきほど訪れた築山古墳よりも古いということで、築山古墳は葛城襲津彦の墓だとしたら、新山古墳は誰の墓になっちゃうんでしょうね?

 まさか武内宿禰ということは無いと思いますが・・・

 奥には墳丘の後円部側があるはずですが、良く分かりません。



 地元の方が貼り付けた説明があります。



 前方後方墳は一般的には前方後円墳よりも主体部や副葬品が貧弱とされますが、三角縁神獣鏡が見つかったというのはとても興味深いです。

 ここからの眺望。





 みささぎプラザという名前がいいですね。



 時刻は11時半ですから、そろそろお昼を食べたいです。

 さっきのみささぎプラザにある店も魅力的ですが、他に食べられるところはないだろうか・・・

 おっとその前に歩道橋チャンス!



 遺跡に来た時に歩道橋があったら登って高い場所から遺跡を見ることをお勧めしているのですが、それを「稲用語」で「歩道橋チャンス」といいます。



 眼下の道路は、奥の方から手前の方に向かって坂を登ってくるのですが、古墳の北側は掘り割っているのが分かります。



 つまり、新山古墳のある場所は丘の縁ですが、高低差が結構あって、東側の低い場所からよく見えたことが想像できます。

 先ほども見えましたが、耳成山が見えますね。



 ということはそのバックは三輪山かな。

 あー腹減った。

 そろそろ何かを食べないと動けなくなります。

 おっと中華屋さん発見。

 ここにしましょう。



 ※註:看板を見ると店の名前が分かりづらいですが、「海鮮中華料理 呑」という店名です。

 よく東京の方にある廉価な中華屋さんと表の佇まいが似ていたのですが、店内に入りメニューを見るとちゃんとした中華屋さんでした。

 そこそこ値段がしますが、えい、奮発して酢豚だ!

 おー、結構豪勢だ。



 盛り付け方も美しい。



 美味しい・・・

 大好物の酢豚を食べたことにより元気になりましたが、それはまさしくジャムおじさんに顔を取り換えてもらったアンパンマンのそれに酷似しています。

 午前中だけで9㎞歩いちゃいましたが、元気百倍になった以上は午後はそれ以上歩くのだ。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足(2021年6月9日追記)                       


古墳を画一的に考えてはいけない


 馬見丘陵上において100m以上の大型古墳の築造は、4世紀前半の新山古墳の築造を端緒として始まります。

 おそらく、多くの古墳マニアは、馬見丘陵上に3世紀に遡る古墳は無いのか気になるでしょうし、新山古墳の形状が前方後方墳というのも気になるはずです。

 3世紀の古墳の問題には今回は触れません。

 前方後方形の意味について一般的な説明で良くあるのが、「ヤマト王権によって古墳の形状で序列を表すことが行われており、偉い順に前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳の順である」というような意味の話です。

 東国で前方後方墳をたくさん見ている私からすると、「何アホなことを抜かしておるんや?」となぜか西の言葉で思ったりしますが、東国の古墳を見に来ることを面倒くさがる畿内の研究者であればそう考えても仕方がないかもしれません。

 ただし、一概にアホな説と断定することはできず、実はその説もある意味では当たっていると言えます。

 以前からツアーの時にも話していますが、古墳時代は長いですし、日本列島は東西に長いです。

 原則的には前方後方墳は前期に築造されますが、前期と言っても130年から150年くらいの幅がありますので、前期の始めの頃の前方後方墳と前期の終わりの頃の前方後方墳とでは、築造する意味付けが違っても当然です。

 なおかつ、地域が変わればヤマト王権の浸透度も変わりますし、考え方が変わることも十分にあり得ます。

 繰り返し言いますが、古墳時代は長く、日本列島も東西に長い、ということをまずは念頭においてください。

 そして、ヤマト王権の権力が一挙に日本列島を覆って、すべての地域でヤマトのマニュアル通りに時代が経過したわけでもないですし、何事にも例外は付きものだということをよく知っておいてください。

 例えば、前方後方墳は中期になると全国的にほとんど造られなくなりますが、後期になると出雲で大型のものが現れ、出雲で最も大きい古墳は山代二子塚古墳という墳丘長94mの前方後方墳です。

 この古墳と前期の関東地方の前方後方墳が同じ意味付けで築造されたとは考えない方がいいでしょう。

畿内の前方後方墳の被葬者像


 関東地方の前方後方墳からは必ずといっていいほど東海系の土器(S字甕など)が見つかり、古墳時代の幕開けとともに関東地方は東海人によって席巻された感があります。

 ただしこれは関東地方の常識であって、畿内や西日本にそれが言えるかどうかは別問題です。

 例えば畿内では、奈良県天理市の大和(おおやまと)古墳群に前期の大型墳が多く作られ、それらは初期ヤマト王権の幹部級の人たちの墓域であると想像ができますが、その中には、波多子塚古墳(墳丘長140m)や下池山古墳(120m)などの大型のものを含め、前方後方墳が最低でも6基あります。

 『大和古墳群Ⅰ ノムギ古墳』(天理市教育委員会/編・2014年)を加筆したものを以下に示します。



 これらの古墳からは東海系の土器が見つかることもありますが、だからと言って関東地方と同じように、ヤマト王権の中枢ともいえるこの場所を東海勢力が席巻したと考えることはできないでしょう。

 このように畿内においては東国とは違う見方をする必要があり、畿内の研究者から上述の「序列説」が生まれるのも頷けます。

 私の推測では、大和古墳群の中にある前方後方墳は、初期ヤマト王権を運営していく過程で、王権にとって有力なパートナーであった東海勢力から赴任してきた人びとの墓ではないかと考えています。

 彼ら東海人は低地での水田開発能力に秀でていたため、水田化が難しい奈良盆地の開発に功績があったのではないでしょうか。

新山古墳の被葬者


 そして、今話題にしている新山古墳ですが、実は新山古墳の周囲にも前方後方墳があったのです。

 新山古墳とその周辺の古墳の分布に関して、『黒石東2号墳・3号墳 発掘調査概要報告書』(広陵町教育委員会/編・1993年)を加筆したものを以下に示します。



 この周辺で目立つのは新山古墳ですし、周囲の古墳の多くは破壊されてしまっているため気づかないのですが、新山古墳以外にも前方後方墳が2基あったことが分かります。

 ※本論とは関係ないですが、弥生時代後期の方形台状墓が1基見つかっているのは馬見丘陵の古墳時代の幕開けを探る上では非常に重要かと思います。

 ただし、該書による築造順は、新山古墳が最初で、そのあとに他の前方後方墳が2基造られたとされており、そうなると前期でも後半に入ってくるため、大和古墳群と同じく、前期前半に関東地方を東海人が席巻したのとは事情が違うことが容易に想像できるはずです。

 今のところ私が知る限りでは、これらの前方後方墳から東海系の土器が見つかったとは聞いていません(これらの古墳の遺物で東海系の物が出たことをご存じの方がいらっしゃったらご教示ください)。

 新山古墳とそれ以降の前方後方墳が前期後半の築造だとすると、大和古墳群の前方後方墳に葬られた東海有力者(水田開発技術者を率いた)の系譜を引く人が王権の命によってこの地の経営にやってきて、死後に葬られたのではないでしょうか。

 ですから、築山古墳のページで述べたことと関連してきますが、馬見丘陵上の前期古墳の被葬者は、葛城氏とは関係ない人びとであると考えます。

 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」026 大和葛城の大古墳群 馬見古墳群』 河上邦彦/著 2006年


築山古墳およびかん山古墳|奈良県大和高田市 ~朝鮮半島での戦いに活躍した葛城襲津彦の墓か~

2021-06-08 21:17:41 | 歴史探訪


 

3.探訪レポート                         


2020年9月5日(土)



この日の探訪箇所
狐井稲荷山古墳 → 狐井城山古墳 → 領家山古墳群 → 築山古墳 → かん山古墳 → 新山古墳 → 牧野古墳 → 佐味田宝塚古墳 → 三吉2号墳 → 巣山古墳 → 狐塚古墳 → 倉塚古墳 → 一本松古墳 → ナガレ山古墳 → 乙女山古墳 → 池上古墳

 ⇒前回の記事はこちら

 では先ほどからずっと見えていた築山古墳へ向かいますよ。

 よし、電車と一緒に撮れた!



 さて、どの道から古墳にアプローチしようか。

 線路を渡り、ひとまず線路沿いの道を東へ行って、しかる後に北へ向かって進むとします。

 ※後日註:この日はほとんど下調べなしで来たため知らなかったのですが、築山古墳の近くには見ておくべき古墳が何基かありますので、つぎに行ったときはきちんと見てこようと思います。

 小さい円墳がありますよ。



 「陵西陵墓参考地陪塚」とあります。





 築山古墳が近づいてきました。



 左手に池がありますが、これは二重堀の外堀の名残ではないでしょうか。



 となると、右手のこちらの墓域は、水堀跡の上にあるということになります。



 堀の間際まで来ました。

 でかすぎて全体を収めることができませんよ。





 もうちょっと東へ移動します。



 前方部側ですね。





 築山古墳は、4世紀後半に築造された墳丘長210mの超大型前方後円墳です。

 250基以上の古墳からなる馬見古墳群に対して、現代の研究者は北群・中央群・南群に分けて考えることが多いのですが、南群のなかでも盟主墳に相当するのがこの築山古墳とあとで訪れる予定の新山古墳です。

 前方部の底辺側を北上してみます。



 築山古墳は、宮内庁により磐園陵墓参考地として、特定の天皇は挙げられていませんが陵墓参考地に治定されています。

 ところで、馬見古墳群を葛城氏の墓域とする説は昔からあったわけですが、その一方で、馬見古墳群の各古墳のスケールの大きさや主体部の充実さから、天皇家(大王家)の墓域であると考えている研究者もいるのです。

 宮内庁が陵墓参考地にしているということは、宮内庁的には馬見古墳群は天皇家の墓域として考えているのかもしれません(大王の妻の墓と考えている可能性もありますが)。

 大王家の一家臣に過ぎない葛城氏が大王墓に匹敵する墓を造るのはおかしいと考えるのは真っ当な考え方かもしれませんが、私は葛城氏が大王家に匹敵する力を持っていたと考えているため、馬見古墳群は葛城氏の墓域であると考えています。

 葛城氏は5世紀後半に雄略天皇によってかなり力を削がれてしまったことが日本書紀からは読み取れますが、そのあと、葛城氏に関する歴史のうち、王権にとって都合の悪いものは抹殺されてしまったのでしょう。



 北側には公園がありますよ。



 公園の北側が丘になっています。



 「通称かん山」とありますね。



 古墳でしょうかね?

 登ってみましょう。



 古墳に見えなくもない・・・

 ※帰宅後調べたところ、かん山古墳という径40mほどの円墳で、帆立貝形古墳の可能性もあるそうです。

 東側の遠くに見える丘が気になります。



 あ、あれは耳成山ですね。



 ということは、この古墳が造られた当時も、ここからはヤマト王権の本拠地が見えたのです。

 お互い、見て呪うことができる・・・

 西側の眺望。





 南側には築山古墳が見えます。


※この写真は2枚の写真をパノラマ合成したものです。

 ところで、日本書紀には武内宿禰の子として、葛城襲津彦(かづらきのそつひこ)という人物が登場し、葛城氏の元祖的扱いをされています。

 日本書紀が引用している朝鮮半島の史書である「百済記」には、沙至比跪(さちひこ)という人物が登場し、それが葛城襲津彦のことであると考える研究者は多いですが、もしそうだとすると、葛城襲津彦は朝鮮半島での戦いに活躍した日本の将軍ということになります。

 時代的に見てみても、築山古墳の被葬者は大王ではなく、葛城襲津彦でよいのではないかと私は考えています。

 私は今日、築山古墳までテクテクと歩いてきましたが、遠くから見た築山古墳の森は、葛城氏の元祖的人物の墓に相応しいと強く感じました。

 ※後日註:この探訪の時点では、築山古墳の築造時期を4世紀末と考えていたため、沙至比跪(=葛城襲津彦)の墓であると考えていましたが、その後、白石太一郎先生の『古墳からみた倭国の形成と展開』で確認したところ、築山古墳の造営は「4世紀中葉過ぎ」としており、これが事実であれば382年に朝鮮半島で活躍した沙至比跪より前の世代の墓となります(これについては、「4.補足」に記述しておきました)。

 では、公園に降ります。





 さて、時刻は11時。

 馬見丘陵最南端の築山古墳に来たということで、いよいよこれから本格的に馬見古墳群歩きを始めますよ。

 でもすでに7㎞近く歩いているので、果たして今日はあとどれだけ歩けるだろうか・・・

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足(2021年6月8日追記)                      


古代の葛城地域について


 日本書紀のいわゆる欠史八代の記述を読むと、大王の宮殿や墓の場所の地名が葛城地域を示していると考えられるものが多く、葛城地域が大王家にとって重要な場所であったことが分かりますが、それを証拠立てる物的証拠(遺跡など)はありません。

 3世紀半ば以降の古墳時代になると、すでにヤマト王権はオープンしており、その中心地は桜井市の纏向遺跡であり、墓域も桜井市から天理市にかけてオオヤマト古墳群として展開していて、これらが3世紀半ば以降のヤマト王権の物的証拠となります。

 ところが、葛城氏に関わるであろう葛城地域の遺跡を探してみると、3世紀代から4世紀代までにヤマト王権に匹敵するような集落跡や居館跡は見つかっておらず、また古墳に関しても3世紀代には大型のものはありません。

 葛城氏の墓域といわれることのある馬見丘陵上に最初に築かれた大型墳は新山古墳ですが、それは4世紀前半であり、ようやくこれ以降葛城氏に関連しそうな大型古墳が築造され、4世紀代の馬見丘陵上には、築山古墳と巣山古墳が築造され、これらが葛城氏が繁栄した物的証拠となるといわれることがあります。

 しかし、果たして本当に馬見丘陵上の古墳は、葛城氏の古墳と考えて良いのでしょうか。

 上の「3.探訪レポート」には、築山古墳を沙至比跪(=葛城襲津彦)の墓と考えて記していますが、その後考えが変わったため、本稿では現段階での私の考えを述べます。

 まず、築山古墳ですが、沙至比跪(=葛城襲津彦)の活躍した時代と築山古墳の築造時期が合わないことが分かりました。

 日本書紀の神功皇后紀には、百済記からの引用で、壬午の年に新羅が日本に朝貢しなかったため、日本は沙至比跪(さちひこ)を遣わせて討たせたとありますが、壬午の年は西暦にすると382年に該当しますので、『古墳からみた倭国の形成と展開』(白石太一郎/著・2013年)で述べられている築山古墳の築造時期(4世紀中葉過ぎ)よりあとの話になってしまいます。

 そのため、沙至比跪の墓が400年頃に造られたと仮定すると、築山古墳よりかは宮室山古墳が該当すると思われます。

 その宮室山古墳の近くには南郷遺跡群があります。

 南郷遺跡群は葛城氏の王都と目されている遺跡群ですが、その南東域にある極楽寺ヒビキ遺跡では王の高殿ではないかと考えられる建物跡も検出されており、この南郷遺跡群が出現するのが5世紀初頭頃ですから、沙至比跪によって造られた葛城氏の「首都」の可能性があります。

 では、沙至比跪の父や祖父が分かれば、築山古墳や巣山古墳の被葬者が分かるかもしれません。

 それを探ってみましょう。

ヤマト王権と紀伊国との関係


 以前から日本書紀を読んでいて、武内宿禰と紀伊国との関係が気になっていました。

 葛城氏と関係が深いであろう高鴨神社のある場所は、大和川水系の範囲ですが、吉野川水系との分水嶺に近く、葛城の地は吉野川、すなわち紀の川へのアクセスも良い場所です。

 そのため、沙至比跪の系統の出自は紀伊であり、欠史八代の頃に活躍した葛城氏や、馬見丘陵上の新山古墳、築山古墳、巣山古墳などの被葬者とは直接は繋がらない可能性もあると思い、それを検証してみます。

 それでは、日本書紀の崇神紀以降の紀伊国に関連する記事を見てみましょう。

 まず、崇神紀によると、崇神天皇の后の一人に紀伊国の荒河戸畔(あらかわとべ)の娘・遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ)という美しい名前の女性がいます。

 崇神は積極的に外部勢力との連携強化を進めていて、この結婚もその一環でしょうが、崇神期には紀伊国の在地勢力との同盟関係ができていたことがこれで分かります。

 つぎに、崇神の孫の景行紀を見てみると、景行は紀伊国に巡幸して神を祀ったのですが、占ってみると吉と出ませんでした。

 そのため巡幸を中止し、屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)を遣わせて祀らせ、彼は紀直の遠祖・菟道彥(うじひこ)の娘・影媛(かげひめ)を娶り、武內宿禰が生まれました。

 景行が紀伊国にて占いをして吉と出なかったというのは、この時期、景行朝と紀伊国勢力とは関係が悪化していたことを示しており、景行は関係を改善するために屋主忍男武雄心を派遣して、紀伊の在地勢力である菟道彥との関係を修復させたのでしょう。

 もしかするとこの時は武力も行使したかもしれません。

 なお、屋主忍男武雄心の父は彦太忍信で、さらにその父は第8代孝元天皇ですから、屋主忍男武雄心はヤマト王権が発足する前からの奈良の在地勢力の系統といえますが、名前に「忍」が使われていることから、景行天皇の姻戚の可能性が高く、景行朝では重要メンバーとして活動していたと考えられます。

 つまり、葛城氏の祖とされる武内宿禰は紀伊出身で、菟道彥の勢力基盤を引き継いだと考えられ、何もなければそのまま紀伊の一豪族として生涯を終えたはずでしたが、彼には飛躍するための大きなチャンスが待ち受けていました。

 応神天皇のヤマト侵略戦争です。

武内宿禰=葛城襲津彦=沙至比跪の葛城入部


 仲哀紀によると仲哀天皇は紀伊国に巡幸し、徳勒津宮(ところつのみや=和歌山県和歌山市新在家に比定)に滞在したのですが、このとき熊襲が叛いたということで、この地から熊襲征討に赴いています。

 この記事をどう評価するかですが、武内宿禰は景行系の王権に仕えながらも、西方に新たに発足した応神の王権にも接触を開始していたのではないでしょうか。

 神功紀では、既述した通り百済記からの引用で、沙至比跪が朝鮮半島で活躍していたこを示していますが、この沙至比跪は、葛城襲津彦と同一人物で、さらにもう一歩考えを進めると、武内宿禰とも同一の人物だと考えます。

 神功紀によると、神功皇后は応神天皇を連れて九州からヤマトへ攻め込んだ際、それに抵抗してきた忍熊王と戦いましたが、このとき神功勢は紀伊へ上陸し、武内宿禰の活躍もあって忍熊王軍を撃滅し、ヤマトの平定を完成させました。

 つまり、神功勢とすっかり親しんだ武内宿禰は、元々の地盤である紀伊に舞い戻り、その勢力を動員して忍熊王(=ヤマト王権の王)と戦い、神功・応神のヤマト入りを成功に導いたわけです。

 ところで、日本書紀の記述では神功がその子応神を引き連れてヤマト入りしたように書かれていますが、主役は神功皇后ではなく、応神天皇と見て良いでしょう。

 応神天皇は日本書紀でも九州出身と記されている通り、あきらかにヤマトの勢力ではなく、ここで魅力的なのは、小林惠子さんの「応神天皇=五胡十六国の氐の符洛(ふらく)」説です。

 中国大陸で活動していた氐の符洛が日本に渡って応神天皇になったという説ですが、符洛ではないとしても、外部勢力が武力によりヤマト王権を引き継いだことは確かでしょう。

 この「応神天皇」に従って活躍した武内宿禰こそが葛城襲津彦であり、朝鮮半島で活躍した沙至比跪ではないでしょうか。

 応神天皇のヤマト入りを助けたのはかなり大きな功績ですから、このときの論功行賞として沙至比跪は紀伊国からヤマトの葛城地方に進出し、葛城氏の祖となったと考えます。

 応神天皇のヤマト入りによって倭国は新たなフェーズに移行したわけですが、沙至比跪(=葛城襲津彦)はそのときの重要メンバーの一人であり、このように考えると、これ以降葛城の地に200m級の超大型前方後円墳が造られた理由が分かります。

 ただし問題は、それよりも前の4世紀代に造られた、新山古墳、築山古墳、巣山古墳、鳥の山古墳をどう考えるかです。

 葛城氏の墓で無いとしたらいったい誰の墓なのでしょうか。

 沙至比跪以前の「プレ葛城氏」といえる一族がいて、彼らの墓域なのでしょうか。

 (つづく)

 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」026 大和葛城の大古墳群 馬見古墳群』 河上邦彦/著 2006年

三吉2号墳/馬見古墳群|奈良県北葛城郡広陵町 ~公園内の単なる築山のようだが墳丘長93mを誇る大型の帆立貝形古墳~

2021-06-08 14:17:33 | 歴史探訪


三吉(みつよし)2号墳は古墳時代中期に築造された墳丘長93mを誇る大型の帆立貝形古墳です。

発見容易
墳頂登頂可能
簡易説明板あり
駐車場あり
トイレは公園内各所にあり

お勧め度:

1.基本情報                           


所在地


奈良県北葛城郡河合町佐味田2202(中和公園事務所)



現況


公園

史跡指定



出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


5世紀後半

墳丘


形状:帆立貝形古墳
墳丘長:93m
墳高:
段築:
葺石:
埴輪:あり

主体部



出土遺物


円筒埴輪、家形埴輪
埴輪棺(前方部外堤)

周堀



 

3.探訪レポート                         


2020年9月5日(土) 



この日の探訪箇所
狐井稲荷山古墳 → 狐井城山古墳 → 領家山古墳群 → 築山古墳 → かん山古墳 → 新山古墳 → 安部山1号墳 → 牧野古墳 → 佐味田宝塚古墳 → 三吉2号墳 → 巣山古墳 → 狐塚古墳 → 倉塚古墳 → 一本松古墳 → ナガレ山古墳 → 乙女山古墳 → 池上古墳

 ⇒前回の記事はこちら

 家屋文鏡が出土した佐味田宝塚古墳を見た後は、いよいよ馬見古墳群の中でもメイン的様相を呈している馬見丘陵公園の古墳へ向かいます。

 さきほど歩いてきた道を引き返します。

 今度は精神的余裕があるため、周辺の景色を見ながら歩きますよ。

 池の向こう岸は公園のようになっているのでしょうか。



 なにやら説明板らしきものが見えますね。



 呪力ズーム!



 人間たまには、ほのぼのしたいものですね。



 馬見丘陵公園の森が見えてきました。



 谷まで降りてくると、道しるべがありました。



 でも単に古墳の方向を示すだけというのは少し不親切で、距離を書いておくといいですよね。

 例えば、今日の私とは逆に馬見丘陵公園からこちらへ歩いてきた人が、これを見て佐味田宝塚古墳が近くにあると思ったとしても、実はあと700mはありますし、さきほど自分で歩いて分かっていますが、本当に古墳はあるんだろうかと不安になる道ですから、距離は書いてあった方が旅人は安心します。

 史跡案内図もあります。



 ではまた丘に登ります。



 今日は新木山古墳は割愛します。

 多分時間もないし、体力的、というか足がそろそろダメになりそうなので無理だと思います。

 ※後日註:新木山古墳は、2021年4月9日に訪れました。

 ここには南北方向で北流する佐味田川が流れており、馬見丘陵と一口にいっても、西側にある滝川とこの佐味田川によって細長い3つの丘に分けることができます。



 今まではその3つの丘の真ん中にいたのですが、これから東側の丘へ登ります。

 橋の名前が面白いですよ。

 「だだ橋」。



 私的には「だだ」と言ったら、ラーメンの「田田」です。



 上に載っているモヤシを食べきるまで、所要時間の半分を要します。

 そういえば、先月行きましたな。

 それはそうと、「だだ」って面白い地名ですね。

 ※後日註:帰宅後に知りましたが、ここの東側の字は「ダダオシ」と言って、ダダオシ古墳という墳丘長48mの前方後円墳があるようです。

 さあ、ようやく馬見丘陵公園に着きました。



 もう14時半を過ぎていますし、今日はすでに16㎞歩いていますが、これから馬見丘陵公園内の古墳探訪を始めます。

 南側入口から入りますよ。



 公園の全体図があります。



 今日はこの公園を北へ向かって歩いて行き、この地図には載っていませんが、最終的には池部駅の隣の箸尾駅で近鉄に乗ろうと思っています。

 遠くの森が巣山古墳でしょう。



 公園の全体図には載っていないのですが、入ってすぐ右側に墳丘らしきものがあります。



 お、詳しい図がありますぞ。



 三吉2号墳という帆立貝形古墳のようです。

 でも帆立貝形で墳丘長93mはでかいですね。

 登ってみましょう。

 円丘に突出部のようなものが付いていますが、向こう側から墳頂に登る階段のようです。



 墳頂。



 現在のように公園として整備される前の写真を見るとここに一般のお家が建っています。

 後円部に母屋を建て、前方部はお庭として使っていたようです。

 この位置からだと巣山古墳は樹木にさえぎられて側面全体が見えるというわけではないですね。



 見下ろすと前方部の幅がかなり広いのが分かります。



 さすが93mの大型帆立貝形古墳ですが、馬見古墳群には墳丘長130mを誇る日本で2番目に大きい帆立貝形古墳である乙女山古墳がありますからあとで行ってみますよ。

 今は残っていませんが、往時は周堀と外堤も存在し、前方部の外堤上に埴輪棺を埋納した土坑が見つかり、その埴輪棺を編年に照らし合わせて、三吉2号墳の築造時期は5世紀後半とされています。

 墳丘を降ります。

 階段を少し下ると巣山古墳の横腹が先ほどよりもよく見えます。



 巣山古墳とは反対側の西側の少し離れた場所に墳丘のようなものが見えます。



 さきほど話したダダオシ古墳かなと思いましたが、そうじゃないようです。



 ダダオシ古墳はここからでは森に隠れて見えません。

 つづいて、馬見古墳群で最大の巣山古墳を見てみましょう。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」026 大和葛城の大古墳群 馬見古墳群』 河上邦彦/著 2006年

佐味田宝塚古墳|奈良県北葛城郡河合町 ~他に例のない家屋文鏡が出土したことで有名な前方後円墳~

2021-06-08 13:47:29 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2020年9月5日(土)



この日の探訪箇所
狐井稲荷山古墳 → 狐井城山古墳 → 領家山古墳群 → 築山古墳 → かん山古墳 → 新山古墳 → 安部山1号墳 → 牧野古墳 → 佐味田宝塚古墳 → 三吉2号墳 → 巣山古墳 → 狐塚古墳 → 倉塚古墳 → 一本松古墳 → ナガレ山古墳 → 乙女山古墳 → 池上古墳

 ⇒前回の記事はこちら

 牧野古墳に続いて佐味田宝塚古墳を目指しますが、佐味田宝塚古墳の位置は分かっているものの、古墳に到達するための道が良く分かりません。

 今いる住宅街の外側に古墳はあるのですが、この住宅街から古墳へ向かう道が無さそうなのです。

 ひとまず、牧野古墳のすぐ東側にある公園にやってきました。

 これも古墳っぽいですが分かりません。



 先ほどの牧野古墳は「うまさん公園」でしたが、こちらの公園は「ねずみさん公園」。



 公園の西側にはさきほどの牧野古墳の森が見えます。



 公園内の丘は古墳に見えるんだけどなあ・・・





 佐味田宝塚古墳は公園の北東方向にあるということは分かっているのですが、そっちへ行く道がありません。

 公園の隣のこの森の中には径30mの円墳の貝吹山2号墳があると思うのですが、これも良く分かりません。





 仕方がないので遠回りになりますが、住宅街を歩いて向こう側へ行ける道を探してみます。

 あ、南の方には新木山古墳の森が見えますよ。



 このあと行ってみる予定ではありますが、だんだん疲れてきたので今日は無理かもしれません。





 ※帰宅後に気づきましたが、新木山古墳の右側(西側)には、葺石で復元された三吉石塚古墳も写っていました。

 住宅街の中をウロウロしますが、全然近接できない。

 かなり無駄に歩いて疲労だけが増加して行きます。

 半ば諦めかけたところ、住宅街の端っこで向こう側の道とわずかながら繋がっている個所を発見しました。

 車は通れませんが、徒歩なら行ける。

 ありがたい。



 古墳からはかなり離れてしまいましたが、この道を進んでいけば佐味田宝塚古墳に到達するはず。

 さきほどの住宅街とは打って変わって、谷沿いの景色の良い場所を歩いて行きます。

 でも、いくら景色は良くても全然古墳は現れません。

 通常、古墳は標高の高い場所にあるのに、道は徐々に下り坂になって行きました。

 本当に古墳はあるのかな?

 不安になってきました。

 人も歩いていないし、車も全然通らない。

 でもこの道でいいはずなので歩き続けます。

 相変わらず緩い下り坂が続きます。

 あ、カーブの向こうに説明板らしきものが見える!

 あったー!



 佐味田宝塚古墳発見!



 見つかってよかった・・・

 説明板を読んでみましょう。



 佐味田宝塚古墳は、ここに書いてある通り墳丘長111.5mの前方後円墳で、馬見古墳群の前方後円墳の中では最古級です。

 銅鏡が36面も見つかっており、その中でも目玉は、倭鏡と考えられている家屋文鏡で、4棟の違う種類の建物が描かれており、こういう文様の鏡は他にはないですし、古墳時代の建物を知る上でも非常に重要な資料になっています。



 ご覧の通り4種類の建物が描かれており、まるで後世の私たちのためにわざわざ造ってくれた資料のように思えて感動です。

 現物は宮内庁が管理しており私は見たことが無いのですが、超貴重な鏡なので、その出土した場所をこの目で見たいと思い、今日はここまでやってきたわけです。

 なお、上野の東京国立博物館の平成館には、佐味田宝塚古墳から出土した他の遺物が展示してあります(以下3枚の写真は平成館にて撮影)。

 ●変形方格規矩獣文鏡



 ●斜縁二神二獣鏡(中国製です)



 ●巴形銅器



 これら3点はすべて国指定の重要文化財ですよ。

 墳丘はご覧の通り。



 でも現況は藪化しており、墳丘に足を踏み入れることはできません。



 前方部底辺側から見ます。



 見つかった安堵感から、座る場所も無い道端に座り込み少し休憩します。



 お茶が少し残っていて良かった。

 さて、時刻はもう14時ですが、ようやくこれからある意味で馬見古墳群のメインともいえる馬見丘陵公園へ向かいます。

 でも今歩いてきた道を引き返さないといけない。

 さすがにこれだけ歩いていると車が欲しくなりますね。

 さあ、頑張ってもう一歩きしますよ。

 ⇒この続きはこちら

安部山1号墳および牧野古墳|奈良県北葛城郡広陵町 ~押坂彦人大兄皇子の墓との説もある17mもの長大な石室を備えた大型円墳~

2021-06-08 11:27:39 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2020年9月5日(土)



この日の探訪箇所
狐井稲荷山古墳 → 狐井城山古墳 → 領家山古墳群 → 築山古墳 → かん山古墳 → 新山古墳 → 安部山1号墳 → 牧野古墳 → 佐味田宝塚古墳 → 三吉2号墳 → 巣山古墳 → 狐塚古墳 → 倉塚古墳 → 一本松古墳 → ナガレ山古墳 → 乙女山古墳 → 池上古墳
 ⇒前回の記事はこちら

 美味しい酢豚を食べて元気を取り戻し、午後の探訪を開始します。

 次は、見事な横穴式石室を備えた牧野(ぼくや)古墳を目指しますよ。

 牧野って書いて「ぼくや」と音すると、中国で紀元前11世紀に殷の紂王と周の武王が戦った「牧野の戦い」を想起する方も多いと思います。

 その戦いで殷が滅びて周が中国大陸を代表する王朝になったんですね。

 殷の紂王は「酒池肉林」を催したことで有名な暴君ですが、日本書紀の武烈天皇の記述のモデルにもなったんじゃないかと思っています。

 ※後日註:帰宅後に知りましたが、ランチを食べた中華屋さんのすぐ北側には、式内論社の於(うえの)神社があり、その南には以前は墳丘長37mの帆立貝形古墳である於古墳があったそうです。

 西へ向かって歩いていくと、右手に公園が現れました。



 西谷公園。

 この辺りはいわゆるニュータウンで、丘を削って住宅地にしていますが、地図を見てみると公園も結構多いようです。



 なんか古墳が残っていそうな雰囲気がしますよ。

 公園の中を散策してみましょう。

 この地膨れは古墳かなあ?



 公園の北側にある駐車場からの景観。



 公園の中央に大きめの丘があり、こちらは古墳のような佇まいを感じさせます。



 でも説明板とかはないので分からないですね。

 職業柄、公園に来たら必ず確認。



 職業柄というのは、掃除ではなくナビゲーターの方ですよ。

 うーん、怪しい公園でしたが先へ行きましょう。

 ※後日註:帰宅後に『広陵町遺跡分布調査概報』(広陵町教育委員会/編・1989年)で調べてみたところ、公園中央の丘はやはり安部山1号墳という墳丘長42mの後期後半の前方後円墳で、上の写真の向かって左側(東側)が後円部です。さらにその周辺には安部山2号墳から7号墳までの6基の小規模な円墳があることから、上の写真の円墳らしきものは、その中の1基かもしれませんがご存じの方がいらっしゃったら教えてください。

 前方に古墳の森らしきものが見えてきました。





 いったん少し広い道路に出ます。



 またも公園が現れました。



 公園の名前を示すようなものは見当たりません。

 念のため公園内を歩いてみます。

 旧地名を示す標柱。



 どこもそうですが、ニュータウンとして造成されると地名もハイカラな名前に変わってしまいます。

 とても残念なことなのですが、こうやって旧地名が分かるように表示してあるというのはとても良いですね。

 ここの大字は「三吉(みつよし)」ですが、馬見丘陵公園の南側南端部分と同じ字名で、ここと公園南側入口は直線距離で2㎞ありますから、三吉の範囲は結構広いかもしれません。

 この公園内にも地膨れがあります。



 でもここの場合は、土塁状になっているのもありますね。



 単に公園にしたときに削り残してデザインの一部にしているだけかもしれませんが気になります。



 ここにも旧地名表示が。



 大垣内という字名は気になりますね。

 先ほど見た通り、土塁状の物もありますから、そういったものが昔からあって地元の人が「大垣」と呼んでいた可能性は無いでしょうか。

 と、まったくのよそ者が適当なことを考えています。

 さらに15分ほど歩き、ようやく牧野古墳がある公園に到着しました。



 牧野史跡公園という名前になっていますね。



 公園の説明板は少し滅亡しかかっています。



 これが牧野古墳の墳丘ですね。



 牧野古墳の説明板がありました!



 ちゃんと石室の画も書いてあっていいですね。

 ここに書いてある通り、牧野古墳は径55mの大型の円墳です。

 時代的にはもう終末期になりますから、その時期までこの周辺が葛城氏の墓域として使われていたら、この古墳の被葬者は間違いなくその時点での葛城氏の最有力者です。

 ただし、この古墳の被葬者は押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)ではないかという説が結構強いんですね。

 押坂彦人大兄皇子は、第30代敏達天皇の第一皇子で、母は息長真手王の娘・広姫ということで、蘇我氏全盛の6世紀末において、蘇我氏と血縁関係ない王族として独特な地位にいたと考えられます。

 蘇我馬子や厩戸皇子(いわゆる聖徳太子)と同時期の人で、蘇我系ではないためか歴史の表面にあまり出てこないのが残念です。

 石室が開口していますよ。



 残念ながら石室内には入れません。

 カメラを突っ込んで撮影してみます。



 説明板の図に書かれている石棺らしきものが遠くにあります。

 おっと敵機襲来!

 かなりの数の藪蚊が襲ってきました。

 写真撮影中は応戦できない!



 多少の被弾は覚悟で写真を撮る!

 全長17mもある横穴式石室ということで、玄室まではなかなか見通せないです。



 花崗岩でできた石室なので、花崗岩独特な模様がありますね。

 馬見古墳群は横穴式石室が見られる古墳がほとんどないため、油断して懐中電灯を持ってきませんでした。

 では、周辺、というか古墳の上の丘を歩いてみます。



 牧野古墳は山寄形なので、背後に丘が続いています。

 背後の丘も前方後円墳に見えてしまいますねえ。





 西側かな?眺望がきいています。









 こちらは草茫々であまり近所の人たちも来ないエリアなのかもしれません。



 では、ここからは東にある馬見丘陵公園へ向かいますが、その途中で佐味田宝塚古墳を見ておきたい。

 ⇒この続きはこちら

領家山古墳群|奈良県大和高田市 ~かつてはもっと多くの古墳が存在したか~

2021-06-07 19:14:34 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2020年9月5日(土)



この日の探訪箇所
狐井稲荷山古墳 → 狐井城山古墳 → 領家山古墳群 → 築山古墳 → かん山古墳 → 新山古墳 → 牧野古墳 → 佐味田宝塚古墳 → 三吉2号墳 → 巣山古墳 → 狐塚古墳 → 倉塚古墳 → 一本松古墳 → ナガレ山古墳 → 乙女山古墳 → 池上古墳

 ⇒前回の記事はこちら

 狐井城山古墳から次の目的地までは少し距離があります。

 4㎞くらい、テクテク歩きますよ。

 あ、二上山が綺麗に見える。



 いいですねえ。



 この辺は条里制の名残か分かりませんが、道路は一定のサイズで碁盤の目状になっており、斜めにショートカットできそうな道が無いですね。

 狐井城山古墳の森が見えます。



 JR和歌山線の線路を渡ってすぐ、右手に澤田酒造を発見。



 こういうところを訪ねながらゆっくり歩ける日はいつになったら来るのかしら。

 どうしても歩くときは遺跡優先になってしまうのです。

 あれ、何だこの碑は?

 神武天皇!



 例えば関東地方では、明治天皇が来たことがある場所を「聖蹟」といって残したりしますが、さすが奈良、神武天皇が遥拝した場所が残っているのは凄い。

 というか、凄いのは分かりますが、詳細は分かりません!

 日本書紀を細かく読んでみれば書いてあるかなあ?

 こんな感じの場所にあります。



 実は私、曲がる道を一本間違ってこの道に来たのですが、これはまさしく「引き寄せられの法則」ですね。

 道を間違って遺跡に巡り合えるパターンです。

 なんか嬉しい。

 狐井城山古墳を出てから30分くらい歩いていますが、気づけば南東方向に大きな古墳らしき森が見えます。



 あれは、位置的に築山古墳でしょう。



 いや、こういう風景が見れれるのは良いですよ。

 築山古墳という馬見古墳群を代表する古墳の一つが、こんな遠くからもよく見えるということが分かりました。

 さきほどの神武天皇遥拝所跡もそうですが、歩いているからこそ巡り合ったり見えたりするものがあるのです。



 二上山も綺麗。



 築山古墳のちょうど真西に来ました。



 築山古墳はこちら側(西側)が後円部です。

 ところで、この周辺はメリヤス工場が多いですね。

 こういった地域の産業の起こりを調べるとまた面白いことが分かったりするので、いずれ調べてみようと思います。

 陵西小学校の近くのお堂。



 次なる目的地の森が見えてきました。



 築山古墳の南に回り込んできていますね。





 南側にも古墳の森らしきものが見えます。



 ※帰宅後に調べてみましたが、墳丘長27.5mの前方後円墳である岡崎山1号墳でしょうか。





 あの丘へ向かいます。



 さて、丘の麓に来ましたが、どこからこの丘に取り付けばよいのでしょうか?



 丘の麓には住宅が建て込んでおり、入口が分かりません。

 西側の景色。





 なんか無駄に歩いている気がしますが、あれ、この道は先ほどは気づかなかったな。



 お、説明板発見!



 鳥居があります。



 上に行ってみましょう。



 丘の上からの眺望。



 しかし、どこにどういう古墳があるのかサッパリ分かりません。



 はい、これは玉砕パターンですね。



 下調べをちゃんとしないで来るとたまにこういうことになります。



 サッサと諦めて丘から降りましょう。



 せっかく遠くまで来たのに満足に古墳が見られずに撤退するのは残念だと思われるかもしれませんが、私は意外と平気です。

 今回は縁がなかった。

 それだけです。

 縁があれば再び来ることができるでしょう。

 縁があれば再会できるはずの人間関係と一緒ですね。

 では、築山古墳へ行きますよ。

 ※帰宅後にWebで調べたところ、領家山古墳群には、長辺24m×短辺20.5mの方墳である1号墳と、径9.5mの円墳である2号墳があるそうです。

 ⇒この続きはこちら

狐井稲荷山古墳および狐井城山古墳|奈良県香芝市 ~馬見古墳群最後の大型前方後円墳~

2021-06-07 17:45:33 | 歴史探訪


 

3.探訪レポート                         


2020年9月5日(土)



この日の探訪箇所
狐井稲荷山古墳 → 狐井城山古墳 → 領家山古墳群 → 築山古墳 → かん山古墳 → 新山古墳 → 安部山1号墳 → 牧野古墳 → 佐味田宝塚古墳 → 三吉2号墳 → 巣山古墳 → 狐塚古墳 → 倉塚古墳 → 一本松古墳 → ナガレ山古墳 → 乙女山古墳 → 池上古墳

 王寺駅南口近くの東横インで目覚めました。

 窓から外の景色を見てみます。



 南方向だな。

 遠くに少し高い山が見えます。



 そんなに晴れている感じでもないですが、天気予報によると日中は晴れるようです。

 今日は馬見古墳群を歩きますよ。

 奈良にはよく来ていますが、何しろ古代史好きにとっては見どころの数が桁外れなため、今回はようやく馬見古墳群を訪れる機会が巡ってきたのです。

 王寺の東横インはオープンして間もないため、サンキュー・ゴメンネキャンペーンで、3,950円で泊ることができました。

 ありがたい。



 ホテルの横の公園にある案内板。



 聖徳太子ゆかりの地ですぞ!

 ホテルから王寺駅までは歩いて2~3分です。



 今日は1日かけて馬見古墳群を歩き回ろうと思いますが、まずは古墳群の近くまで電車で移動しますよ。





 JR和歌山線に乗って香芝駅までやってきました。

 いつものごとく乗ってきた電車を撮影。





 今日はゆっくりスタートで、もう8時45分になっています。

 香芝駅。



 まずは狐井(きつい)城山古墳へ行ってみたいと思いますが、駅前には奈良に来るとたまに見かける天皇陵への道標が立っていますね。



 狐井城山古墳は香芝駅から南方向に1㎞ほど行ったところにあるはずです。

 鹿島神社。





 近鉄の下田駅前まで来ました。

 駅の向こうには二上山が見えています。



 さらに歩きますよ。

 お、前方が登り坂になっていますね。



 坂を登った先には森が見えますが、あの森が狐井城山古墳かしら?



 丘の上に向けて歩いていると道路左手に先ほど見えた森が近づいて行きました。



 あれ、でもちょっと様子がおかしい。

 説明板とかもないし、狐井城山古墳は水堀に囲まれているはずなのにそれもないし、これは違うな。

 狐井城山古墳はもう少し先だ。

 ※帰宅後、Webの「前方後円墳データベース」で調べてみたら、あの森はやっぱり狐井稲荷山古墳という古墳で、狐井城山古墳より前の中期後半に築造された墳丘長70mほどの古墳で、墳形は多分前方後円墳だろうということです。

 さらに進むとまたも左手に、今度は絶対古墳だろうと思われる水堀で囲まれた森が現れました。





 狐井城山古墳は陵墓や陵墓参考地ではありませんが、普通にフェンスで囲まれています。



 というか、フェンスが無いと水堀に転落する。

 歩いてきた道を振り返ります。



 お、ちゃんと説明板があった!



 ここに書いてある通り、狐井城山古墳は墳丘長140mの前方後円墳です。

 スペックを補足すると、後円部径が90mなのに対し、前方部幅がグッと広がって110mとなっており、なおかつ後円部の高さが12mなのに対し、前方部の高さは13mとなっていて前方部の方が高くなっているため、これらの数値を見ただけで容易に後期古墳であると推定できます。

 みつかった円筒埴輪はⅤ式で、家形もしくは蓋形の埴輪も見つかっており、葺石が葺かれていました。

 外堤の外側で刳抜式長持形石棺の蓋石と家形石棺の蓋石片が見つかっているということで、少なくとも2名の埋葬があったことが分かりますが、竜山石は身分の高い人の棺に使われる石ですし、しかも長持形ということで、かなりの権力者が埋葬されていたことが考えられます。

 狐井城山古墳が築造された5世紀末から6世紀初めというと、葛城氏の最盛期からはだいぶ後になって、日本書紀を読んでもそのころの葛城氏の活躍は良く分かりません。

 時代的には継体天皇が活躍していた時期に当たりそうですが、そもそも継体天皇が権力を振るっていた時期を実年代で具体的に示すことは困難ですし、この地にある古墳だからと言って葛城氏一族が眠っていると断定するのは避けないとなりません。

 ただ、葛城氏に「関連しそうな」大型古墳としてはこの狐井城山古墳が最後になりますので、非常に気になる存在ではありますね。

 というわけで、ヴィジュアル的にはあまり優れていませんが、まずは狐井城山古墳を見ることができました。



 次は、築山古墳へ行ってみたいのですが、築山古墳と線路を挟んだ南側の丘にも古墳があるようなので、そこを見てから築山古墳へ行ってみたいと思います。

 ⇒この続きはこちらです

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」026 大和葛城の大古墳群 馬見古墳群』 河上邦彦/著 2006年


内裏塚古墳(内裏塚古墳群)|千葉県富津市 ~千葉県最大の前方後円墳~

2021-06-04 16:12:10 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2019年6月17日(月)



この日の探訪箇所
 木更津市郷土博物館 → きみさらずタワー → 君津市八重原公民館 → 南子安金井崎遺跡 → 九十九坊廃寺跡 → 道祖神裏古墳 → 八幡神社古墳 → 三直城跡 → 古墳の里ふれあい館 → 内裏塚古墳 → 白姫塚古墳 → 九条塚古墳 → 森山塚古墳 飯野陣屋跡 → 亀塚古墳 → 割見塚古墳 → 稲荷山古墳 → 小久保藩庁・藩主邸跡 → 弁天山古墳 → 東京湾観音 → 源頼朝上陸地


 それでは、内裏塚古墳群めぐりを開始しましょう。

 この富津ふるさと展示室には駐車場が無いため、とりあえずどこかの古墳まで行って、そこに雷電號を停めて歩いてめぐろうと思います。

 まずは何をおいても内裏塚古墳へ行ってみます。

 墳丘長144mを誇る、千葉県で最も大きな古墳です。

 埼玉・東京・神奈川を合わせた南関東でも最大ですよ。

 富津ふるさと展示室を出てすぐに、内裏塚古墳の傍までやってきました。



 なんか完全な森になっていて、整備されているような感じはありませんね。

 説明板がありますので読んでみましょう。



 ここに書いてある通り、内裏塚古墳は5世紀半ばの築造で、履中陵と墳形が似ているという指摘もあることから、当時のヤマト王権と密接な関係のあった在地首長の墓である可能性が高いですが、内裏塚古墳群はこの内裏塚古墳の築造を端緒として築造が開始されます。

 ということは、在地首長が元々この地に居たとして、彼がいきなりこんな大型墳を築造したとしたら、よっぽど王権に対して大きな功績があったと考えるべきで、それがいったい何だったのかを考えると面白いです。

 しかしその一方で、元々いた在地首長の墓ではなく、ヤマト王権の政策によってこの地に送り込まれてきたヤマトの将軍(王族の場合もある)の墓である可能性も捨てきれません。

 ところで、説明板の最後に書いてある「古墳祭」が気になりますね。

 ※帰宅後Webで調べてみたところ、それらしい祭りの記事は見つかりませんでしたが、「富津ふるさとまつり」というのは毎年開催されているようです。

 とりあえず、雷電號を停められるところを探します。

 普通車が数台停められるスペースがみつかりました。

 よし、それでは墳丘へ登ってみたいと思いますが、この森にはどこから入るのがいいんだろうか?

 ここ行けそうだな。



 茂みの中に飛び込むと道が付いていました。



 後円部墳頂に到着。



 登ってきた道を振り返ります。



 これが先ほどの説明板に書いてあった珠名姫に関する説明ですね。



 墳頂には立派な石碑が建っていますよ。





 ※あとで知りましたが、石碑の台座になっている石は石室の天井石だそうです。


※2019年12月22日にクラツーのツアーで案内した時に撮影

 前方部側を見ます。







 ここにも下に行く道が付いている。



 内裏塚古墳は全体的に木々に覆われており、辛うじて墳頂部分のみが普通に歩行可能になっています。

 ですから、墳頂から下の方を見下ろしても、墳丘の形状などを観察することはできません。



 千葉県最大の前方後円墳なのに、なんかちょっと残念な佇まいだなあ。

 クラツーで案内しようと考えていますが、ツアーのタイトルには「千葉県最大の前方後円墳」を持ってきても、現地はこれですから、お客様はちょっとガッカリするかもしれない。

 ここから県道方向に降りられます。



 古墳から出ました。



 あ、ここにも説明板があった。



 説明の最後に書いてありますが、須恵国造の系譜に連なる人物かどうか、興味深いですね。

 須恵の初代国造の墓は、この後訪れる予定の墳丘長103mの九条塚古墳じゃないかと考えていますが、九条塚古墳の被葬者と彼の曽祖父くらいの世代に当たる内裏塚古墳の被葬者が果たして血縁関係にあったかどうか、それは分かりません。

 墳丘図をよく見てみましょう。



 墳丘も長いですが、横幅もあってグラマラスなプロポーションをしており、中期の古墳らしい形をしています。

 とてもヤマトチック。

 ただ、これだけの大型墳であっても周堀は二重じゃないんですね。

 二重堀の可能性はないのかなあ?



 全景を写すのは無理そうですね。



 前方部側の周堀跡。



 これくらい引くのが限界かな。



 さて、実際に内裏塚古墳を見た感じでは、ヴィジュアル的にはちょっと弱いため、古墳群の他の古墳で面白ポイントを探してみます。

 ここからしばらくは歩いて探索してみますよ。

 (つづく)

藤本観音山古墳|栃木県足利市 ~前方後方墳としては全国で5番目に大きい大型墳~

2021-05-26 18:21:49 | 歴史探訪


発見容易
登頂可能
説明板あり
駐車場なし
トイレなし

お勧め度:

1.基本情報                           


所在地


栃木県足利市藤本町967



現況


古墳

史跡指定


国指定史跡
史跡名:藤本観音山古墳
指定日:平成18年7月28日

出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


4世紀初頭か

墳丘


形状:前方後方墳
墳丘長:117.8m 
段築:
葺石:
埴輪:

主体部



出土遺物



周堀


あり(長方形的だが不整形)

 

3.探訪レポート                         


2019年1月23日(水)



この日の探訪箇所
赤城塚古墳 → 善導寺(榊原康政墓) → 山王山古墳 → 赤岩堂山古墳 → 光恩寺 → 荻野吟子生家の長屋門 → 古海松塚古墳群 → 西ノ原1号墳 → 大泉町文化むら埋蔵文化財展示室 → 古海前原1号墳 → 朝子塚古墳 → 塚廻り4号墳 → 藤本観音山古墳 → 寺山古墳 → 西鹿田中島遺跡 → 群馬県立歴史博物館

 ⇒前回の記事はこちら

 塚廻り4号墳の傍らでしばし休憩した後は、栃木県足利市に入り、前方後方墳の藤本観音山古墳を目指します。

 足利市と言っても歴史的に見るとこの辺は上毛野の範囲なんですよね。

 墳丘の近くまで来たため、空いている場所に雷電號を停め、墳丘へ向かいます。

 おや、お出迎えですか?



 古墳に行くとたまにいらっしゃる現地ガイドの方でしょうか。



 何か「ニャーニャー」と独り言を発しながら近づいてきます。



 でも近づいてきたと思ったら、古墳の方へ向かってしまいました。





 あーなるほど、まずは墳丘に登れということですね。



 解説する前に身体を砂にスリスリしてコンディションを整えています。





 いやいやちょっと待ってよ。



 解説する気満々なのは分かりますが、私は先に説明板を読みたいのです。



 墳丘長117.8mの大型前方後方墳です。

 「浅間C軽石」という言葉が出てきますが、上毛野周辺はとくに火山の噴火によって積もったものが古墳の時代を決めるときに役立つのです。

 ただ、その噴火の年代は研究者によって少し幅があって、例えば「浅間C軽石」は3世紀末から4世紀初頭の幅があります。

 噴火の年が実年代でちゃんと分かると面白いんですがね。

 墳丘図を見ると周堀の形がかなりいびつですが、古墳時代の人は上空から見ていないですし、とくに関東の古墳の周堀の造りは現代人が見ると雑に思えることがあります。



 古代人は大らかなのです。

 前方後方墳だけあって、東海系の土器が出ていますね。



 では、墳丘へ取り付こうかな。



 と、その前に全体を撮りたいのでちょっと引いてみます。



 おや、先ほどのガイドさんが墳丘から降りてきましたよ。



 説明したくて仕方がないようです。



 こういった種族のガイドさんとはスキンシップも欠かせません。









 今度は雷電號の方に行きました。



 多分もう帰りたくなったのでしょう。



 家まで送ってくれということでしょうか。

 それならそれで、私は一人で古墳を見てきますよ。

 では、後方部の階段を登ります。



 墳頂には小祠が仲良く3つ並んでいます。



 墳頂からの眺望。



 かなり破壊されている前方部を見下ろします。







 前方部の損傷は激しいですし、また前期古墳らしく前方部との高低差が激しいので、墳丘上を降りて行くことはせずに階段から下に降りて側面を見てみようと思います。

 あれ、さっきのガイドさんとは違う猫ちんがいますよ。



 あ、あいつ、あの子を追いかけていく・・・



 これは問題行動ですぞ。

 まあ、しつこくすると嫌われるから程々にしておきなさい。

 前方部の方に回ってみます。



 下から見ても前方部は全然原型をとどめていないのが良く分かりますね。



 タケノコはむしろ採った方がいいと思うのですが、確かにタケノコを掘るときは結構深く掘りますから、史跡の場合は違反になってしまいますね。



 しかしこの辺はだだっ広いなあ。





 前方部側からのいつものアングルで撮ってみます。



 でも前方部が大きくえぐられているので、全然画になりませんね。



 周堀跡。

 それでは雷電號に乗り込みます。

 ちょっと離れて遠景を撮影。



 藤本観音山古墳はこのように墳丘がかなり破壊されており残念な現況ですが、歴史的に見ると非常に重要な前方後方墳ですから、古代史を探求している方はぜひ一度訪れてみるのがいいと思います。

 クラツーでも来れないかなと思って墳丘近くの道幅や駐車できそうなスペースを調べてみましたが、大型バスで近くまで寄ることは無理そうです。

 では、この次も前方後方墳へ行ってみましょう。

 (つづく)


盃塚古墳|山梨県笛吹市 ~前方後円墳の岡銚子塚とセットになっているような円墳~

2021-05-26 08:08:52 | 歴史探訪


発見容易
登頂可能
説明板あり
駐車場あり
トイレあり

お勧め度:

1.基本情報                           


所在地


山梨県笛吹市八代町岡



現況


笛吹市八代ふるさと公園

史跡指定


市指定史跡
史跡名:盃塚古墳
指定日:昭和55年3月31日

出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


5世紀頃

墳丘


形状:円墳
径:23m
段築:
葺石:
埴輪:

主体部


竪穴系(礫槨?)

出土遺物



周堀


あり

 

3.探訪レポート                         


2018年11月7日(水)甲信古代史探訪⑬



この日の探訪箇所
川柳将軍塚古墳 → 姫塚古墳 → 長野県立歴史館 → 千曲市森将軍塚古墳館 → 森将軍塚古墳 → 弘法山古墳 → 松本市立考古博物館 → 山梨県立考古博物館 → かんかん塚古墳 → さかづき塚 → 丸山塚古墳 → 甲斐銚子塚古墳 → 岩清水遺跡 → 岡銚子塚古墳 → 盃塚古墳 → 花鳥山遺跡 → 釈迦堂博物館

 ⇒前回の記事はこちら

 岡銚子塚古墳から見えていたのがこちらの古墳です。



 こちらにも説明板があります。



 径23mの円墳ですね。

 でも、先ほどの甲斐銚子塚古墳も隣に丸山塚という円墳がありましたし、こちらも岡銚子塚古墳の隣にこの盃塚古墳という円墳があります。

 そういえば、甲斐銚子塚古墳と同時期で当時の東日本における二大古墳である宮城県名取市の雷神山古墳も隣に円墳があります。

 面白い・・・

 墳丘に登ってみましょう。



 岡銚子塚古墳の雄姿が見られます。



 丸山塚古墳は甲斐銚子塚の前方部側にありましたが、この盃塚も岡銚子塚の前方部側に位置しています。

 偶然ですが、素敵な古墳たちに会えてよかったです。





 公園の説明板がありました。



 花鳥山遺跡に行こうと思っているんですが、なかなか進みませんね。

 さて、時刻はもう15時20分です。

 急げ急げ。

 (つづく)

岡銚子塚古墳|山梨県笛吹市 ~甲府盆地の王を支えた八代の首長の墓~

2021-05-26 07:48:58 | 歴史探訪


発見容易
登頂可能
説明板あり
駐車場あり
トイレあり

お勧め度:

1.基本情報                           


所在地


山梨県笛吹市八代町岡2315



現況


古墳

史跡指定


県指定史跡
史跡名:岡・銚子塚古墳
指定日:昭和63年5月12日

出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


4世紀後葉

墳丘


形状:前方後円墳
墳丘長:92m 後円部径:48m 後円部高:7.5m 前方部幅:41m 前方部高:4m
段築:後円部3段築成
葺石:あり
埴輪:あり

主体部


竪穴系(割竹形木棺と粘土槨)

出土遺物



周堀


あり

 

3.探訪レポート                         


2018年11月7日(水)甲信古代史探訪⑫



この日の探訪箇所
川柳将軍塚古墳 → 姫塚古墳 → 長野県立歴史館 → 千曲市森将軍塚古墳館 → 森将軍塚古墳 → 弘法山古墳 → 松本市立考古博物館 → 山梨県立考古博物館 → かんかん塚古墳 → さかづき塚 → 丸山塚古墳 → 甲斐銚子塚古墳 → 岩清水遺跡 → 岡銚子塚古墳 → 盃塚古墳 → 花鳥山遺跡 → 釈迦堂博物館

 ⇒前回の記事はこちら

 甲斐銚子塚古墳などの見学を終え、次もツアーで案内する予定の花鳥山遺跡の下見に向かいます。

 え?

 なんか今、古墳みたいなのが見えた。

 車窓左手に前方後円墳の横腹らしきものが見えたため、Uターンして急行します。

 うわ、古墳だ。



 しかも前方後円墳じゃないの?

 行ってみましょう。



 墳丘に登れますね。



 後円部の墳頂には竪穴系の主体部が表示されています。



 先ほど見た甲斐銚子塚が小さくなったような古墳で、よく似ています。



 甲府盆地が見渡せますよ。





 前方部から後円部を見ます。



 後円部は3段築成になっていますし、この高低差からして前期の古墳でしょうか。

 しかし、素敵な古墳ですが、どこかに説明板はないかしら。



 隣には円墳らしきものが見えますので、後で行ってみましょう。



 お、説明板を見つけました。



 墳丘長は92mで、甲斐銚子塚古墳よりは小さいですが、堂々たる大型前方後円墳ですね。

 築造時期は4世紀後葉という表現なので、甲斐銚子塚古墳とだいたい同じ時期と考えて良いでしょうか。

 なんか兄弟のよう。

 ※後日註:宝暦13年に発掘された鼉龍(だりゅう)鏡、仿製二神二獣鏡、それと種類不明の3面の銅鏡はどこかへいってしまったそうです。

 いや、まったく予測しない状況でこんな立派な古墳に会えるなんて嬉しいです。







 つづいて、隣にある円墳らしきものへ行ってみましょう。

 ⇒この続きはこちら




甲斐銚子塚古墳|山梨県甲府市 ~4世紀後半の時点で東国におけるヤマト王権の最大支持勢力の墓~

2021-05-26 00:00:08 | 歴史探訪


発見容易
登頂可能
説明板あり
駐車場あり
トイレあり

お勧め度:

1.基本情報                           


所在地


山梨県甲府市下曽根町



現況


古墳

史跡指定


国指定史跡
史跡名:銚子塚古墳附丸山塚古墳
指定日:昭和5年2月28日

出土遺物が見られる場所


山梨県立考古博物館
東京国立博物館・平成館

 

2.諸元                             


築造時期


4世紀後半

墳丘


形状:前方後円墳
墳丘長:169m 後円部径:92m 後円部高:15m 前方部幅:68m 前方部高:8.5m
段築:3段築成
葺石:あり
埴輪:あり

主体部


竪穴式石室
長さ:6.5m 幅:0.9m 高さ:1.35m

出土遺物



周堀


あり(前方後円形)

 

3.探訪レポート                         


2018年11月7日(水)甲信古代史探訪 その10



この日の探訪箇所
川柳将軍塚古墳 → 姫塚古墳 → 長野県立歴史館 → 千曲市森将軍塚古墳館 → 森将軍塚古墳 → 弘法山古墳 → 松本市立考古博物館 → 山梨県立考古博物館 → かんかん塚古墳 → さかづき塚 → 丸山塚古墳 → 甲斐銚子塚古墳 → 岩清水遺跡 → 岡銚子塚古墳 → 盃塚古墳 → 花鳥山遺跡 → 釈迦堂博物館

 ⇒前回の記事はこちら

 丸山塚古墳に続いて、すぐ隣にある銚子塚古墳へ登りますよ。





 銚子塚古墳は全長が169mもあり、4世紀後半の時点では東日本全体を見渡しても、宮城県名取市の雷神山古墳が銚子塚とほぼ同じ168mですので、両者はヤマト王権からすると東日本の二大与党ということになります。

 銚子塚古墳は、私的には景行天皇の陵の可能性が高い渋谷向山古墳の平面形と似ていると感じますので、時代を見ても、この被葬者はヤマトタケルのモデルとなったヤマトの将軍の斡旋で景行の有力な支持者となったのではないかと考えています。

 なお、両者と近い時期の古墳としては、もしかすると銚子塚より一世代後になるかもしれませんが、群馬県高崎市の浅間山古墳が両者とほぼ同じ大きさの171mなので、何か関連性があるかもしれません。

 ちなみに、5世紀前半には群馬県太田市に太田天神山古墳(210m)が築かれ、当該古墳が古墳時代全時代を通じて東日本最大の古墳となりますが、太田天神山の時期にはヤマトのトップは景行系から応神系へ変わっており、この地の王に対しても対応が変わったことが想像できます。

 前方部に登ります。



 前期古墳らしく、後円部との比高差がありますね。



 周溝は墳丘の形状に沿った形です。



 後円部へ登ります。

 こちらも広い・・・



 これだけ広いと複数の主体部を期待できますね。

 主体部の表示。





 さきほどの丸山塚の被葬者はもしかすると女性かも知れませんが、こちらは鉄鏃片が出ているので男性でしょう。

 特筆すべきは、5面出た鏡に三角縁神獣鏡が含まれていることで、甲信以東では三角縁神獣鏡の出土は少なく、被葬者の特別な地位が想像できます。


※東京国立博物館・平成館展示の甲斐銚子塚古墳出土・三角縁神獣車馬鏡(2019年9月3日撮影)

 後円部から前方部を見下ろすとこの標高差。



 これが前期古墳の素晴らしいところ!

 後円部の高さが15mなのに対して、前方部の高さは8.5mですから、かなりの高低差がありますよ。

 北側を見下ろします。



 銚子塚の主軸と丸山塚の中心軸が合っていないところがまた面白い。



 前方部に降りました。



 では、墳丘の周りを一周してみます。



 墳丘の周りにも説明板があります。



 くびれ部分で祭祀が行われていたんですね。



 おや、変わったものが建ってる。



 凄いね!

 こんなものが見つかったんだ・・・



 木製品の出土が多いのも甲斐銚子塚古墳の特徴の一つですね。



 これまた何かありますよ。



 造出とは呼ばす、突出部と呼んでいます。







 国史跡の標柱。



 全体を写真に収めたいなあ・・・

 側面は無理そうです。





 一番好きなアングルで辛うじて撮れました。



 これ以上は下がれません。

 これで銚子塚古墳は一通り見たので、車へ戻ります。

 いや、改めて見てみても、丸山塚古墳もでかいねえ。



 ⇒この続きはこちら


関東 古墳探訪ベストガイド
東京遺跡散策会
メイツ出版