日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

丸山塚古墳|山梨県甲府市 ~装飾古墳かもしれない大型円墳~

2021-05-25 23:32:57 | 歴史探訪


発見容易
登頂可能
説明板あり
駐車場あり
トイレあり

お勧め度:

1.基本情報                           


所在地


山梨県甲府市下曽根町923



現況


古墳

史跡指定


国指定史跡
史跡名:銚子塚古墳附丸山塚古墳
指定日:昭和5年2月28日

出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


5世紀初め

墳丘


形状:円墳
径:72m 高:11m
段築:2段築成
葺石:
埴輪:あり

主体部


竪穴式石室
長さ:5.55m 幅:1.05m 高さ:0.85m

出土遺物



周堀


あり

 

3.探訪レポート                         


2018年11月7日(水)甲信古代史探訪 その9



この日の探訪箇所
川柳将軍塚古墳 → 姫塚古墳 → 長野県立歴史館 → 千曲市森将軍塚古墳館 → 森将軍塚古墳 → 弘法山古墳 → 松本市立考古博物館 → 山梨県立考古博物館 → かんかん塚古墳 → さかづき塚 → 丸山塚古墳 → 甲斐銚子塚古墳 → 岩清水遺跡 → 岡銚子塚古墳 → 盃塚古墳 → 花鳥山遺跡 → 釈迦堂博物館

 ⇒前回の記事はこちら

 かんかん塚とさかづき塚に捕まってしまいましたが、軌道修正して銚子塚古墳を目指しましょう。

 おーっ、でかい墳丘が現れました。



 でもこれは銚子塚古墳の後円部ではなく、銚子塚に隣接した丸山塚古墳という円墳なんですね。



 5世紀初めに造られた直径が72mもある大型円墳で、円墳としては山梨県内で一番大きく、全国を見渡してもかなり大きい部類に入るのではないでしょうか。

 墳丘に登ります。

 墳頂、広いね。



 竪穴式石室の場所が明示してあります。





 石釧が出土したということですが、もしそれが遺骸の腕部分から見つかっていて、しかも説明板に書かれていないように鉄鏃も見つかっていなければ、この被葬者は女性です。

 また、壁面に赤色円文が施されていたということですが、そうなると、装飾古墳の仲間になりますね。

 先ほどからチラチラ見えている銚子塚古墳。



 これらの古墳の北側は少しだけ土地が低くなっていますが、丘陵上の古墳というわけではないです。





 周溝。



 これは無残だ・・・



 写真の方はなんとか見れますね。

 近くには多くの遺跡があります。



 先ほど博物館で見た、ホーケーシューコーバー垂涎の遺跡、上の平遺跡も写っていますね。

 では続いて、銚子塚古墳へ登りますよ。



 ※後日註:2019年3月13日にクラツーでご案内した時は良い天気で、丸山塚古墳からはこのような眺めを楽しめました。





 ついでに言うと、クラツーのこのコースはランチがとても美味しいのです。







 季節のデザートがまた俊逸でヴォリュームもあります。



 でも、コロナ以降はこのコースはご無沙汰しております・・・

 あるお客様から「稲用先生のツアーは食事が今一だよね」と言われたことがあるのですが、決してそのようなことはございません!

 しかし、いろいろな都合があって食事の予算を削るということもないわけでもなくて、えー、そのー、あのー・・・

 ⇒この続きはこちら


関東 古墳探訪ベストガイド
東京遺跡散策会
メイツ出版


杉山古墳および杉山瓦窯跡群|奈良県奈良市 ~墳丘が瓦窯に再利用された珍しい前方後円墳~

2021-05-18 21:50:36 | 歴史探訪


杉山古墳は大安寺の旧境内にある墳丘長154mの大型前方後円墳で、後に大安寺の瓦を焼くために前方部に窯が造られてしまったという珍しい古墳です。

地図を見て行けば発見容易
登頂可能
説明板あり
駐車場は大安寺にあり
トイレは大安寺にあり

お勧め度:

1.基本情報                           


所在地


奈良県奈良市大安寺4丁目



現況


古墳

史跡指定


国指定史跡
指定日:

出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


5世紀後半

墳丘


形状:前方後円墳
墳丘長:154m 後円部径:80m 後円部高:9m 前方部幅:80m 前方部高7m
段築:3段築成か
葺石:あり
埴輪:円筒Ⅳ式、家形埴輪

主体部



出土遺物



周堀


楯形

 

3.探訪レポート                         


2021年3月25日(木) 



この日の探訪箇所
岩屋山古墳 → 高松塚古墳壁画館 → 高松塚古墳 → 中尾山古墳 → キトラ古墳壁画体験館 → キトラ古墳 → 石舞台古墳 → 大安寺 → 杉山古墳および杉山瓦窯跡群

 大安寺の僧房跡からは墳丘がチラッと見えましたが、もう一度大安寺境内にあった説明板の地図を確認してみましょう。



 こういう周辺を住宅に囲まれている古墳って意外と近接が困難なんですよね。

 でも、どこからかは古墳に行けるはず。

 時間の関係で周辺を一周することはできません。

 よし、KKDで西側を攻める!

 墳丘西側の路地を北進していくと、前方に右手の墳丘方面へ向かう道が付いているような感じの場所があります。

 あそこから行けるかも!

 あった!



 なんだ、意外とちゃんとしているじゃないですか。

 おーっ、墳丘だ!



 ヤバい、思っていたより立派な墳丘です。

 これはまったく迂闊でした。

 大安寺に行くことはもちろん知ってはいましたが、まさかこんな古墳が近くにあるとは知らず、全然予備調査をしていませんでした。

 これは余裕で100mオーヴァーじゃないですか。

 後円部側。



 おや?

 トイレかと思いましたが、何かの覆屋のようですよ。



 説明板があります。



 先ほどの大安寺の説明板の地図を見ても分かる通り、杉山古墳の前方部には窯跡が造られていました。

 墳丘の高まりを利用して大安寺に使う窯を作ってしまったんですね。

 こういう再利用の仕方は斬新だ。

 窓から中を覗きます。



 へー、凄い。





 時間が無いので墳丘へ行きます。

 くびれ部分には葺石の復元があります。



 先日訪れた愛知県の志段味古墳群にある白鳥塚古墳も一部分だけ葺石を復元していましたが、予算などを勘案するとこういう見せ方もいいですね。

 墳丘に登りますよ。

 鞍部から前方部を見ます。



 後円部を見ます。



 前方部から北側を望むと大安寺の杜が見えますね。



 墳丘をくまなく歩く時間が無く、地図で見ると東側には造出があるような雰囲気ですが確認できません。



 西側の眺望。





 あ、なんだ、入口には説明板があるじゃないですか。



 うわ、やっぱりでかいですね。

 復元すると154mになります。

 あー、やっぱり東側には造出があるんだ、というか今はもう削平されて無いのかな?



 ※帰宅後に奈良市のホームページで確認したところ、大安寺を造営するときに葺石や前方部の土が使われ、前方部がかなり削られてしまったあとに窯を作りました。

 集合時刻が迫っているので走ってバスへ戻ります。

 駐車場近くまで来ると、反対方向からお客様たちが戻ってくるのが見えます。

 私以外の皆様は、塔跡の方へ行ったようです。

 でも、もし事前に杉山古墳のことを知っていたとしても、お客様をお連れする時間はありませんでしたよ。

 さすがにお客様を走らせるわけにはいきませんからね。

 ん?

 推古天皇社?



 折角なので参拝してからバスに戻りますか。





 はい、間に合いました。

 お客様も続々とバスに戻ってきます。

 というわけで、3日間の大阪・奈良の古墳ツアーもこれにて終了です。

 ご参加いただいた皆様、どうもありがとうございました!

 新大阪駅に着くと、皆様は普通に東京方面へ帰りますが、私はこのあと、明日から九州4県のツアーを案内するので、単騎博多へ向かいます。

 皆様さようなら。

 新幹線のホームには東海道新幹線では見られない車両が停まっていますよ。





 500系の運転席って戦闘機の水滴型風防みたいでカッコいい。



 こちらはN700系。



 しかし500系は良いな。



 私が乗る電車が来ました。

 新大阪駅から乗車して博多駅へ向かうのは生まれて初めてです。

 あんまりお腹は空いていませんが、とりあえずカツサンド。



 うま。

 博多到着後はまっすぐ東横インへ向かいます。

 ようやく本格的にお腹が空いてきたので、ホテルの近くで見つけた「牛心」という定食屋で和風ハンバーグ定食をテイクアウトで購入。

 部屋に入るとようやく人心地です。

 さて、さっそく弁当食べようっと。



 お、このハンバーグ美味い!

 ご飯大盛にしてもらえばよかった・・・
 
 つぎに博多に泊まった時もまた食べようっと。

 コロナが収束したら、お持ち帰りじゃなくてお店でビール飲みながら食べるのもいいな。

 それでは、明日からの九州4県ツアーの案内も頑張ります!

 (了)

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板
・奈良市ホームページ




*** ツアーおよび講座のお知らせ ***

本ブログの管理人は、2016年4月よりクラブツーリズムにてツアーのガイドや講座の講師をやっています。

ツアーに関しては、古墳をはじめとした古代遺跡を中心に、関東の日帰りツアーや列島各地の宿泊ツアーを案内。

講座に関しては、日本書紀や続日本紀、それに東北や関東の古代史、中国大陸の古代史などをやっていましたが、一部をオンライン化しています。

そういった情報に関しては、このブログ内のこちらのページにまとめてあります。





新鎌ヶ谷駅周辺の変遷

2021-05-17 00:22:07 | 歴史探訪
 プロフィールのページにも書いてある通り、私は1972年に松戸市で生まれましたが、もっと細かく言うと、新京成の常盤平駅の北口にあった佐々木産婦人科で生まれ、同じく新京成のみのり台駅の近くの賃貸マンションで幼少期を過ごし、小学校に上がる直前にこれまた新京成の元山駅の近くの賃貸マンションに引っ越しました。

 24歳で最初の結婚をして東京都杉並区久我山に引っ越すまで18年くらい元山、正確には五香六実にいたわけですが、五香六実という場所は面白い場所で、松戸市ではあるものの市川市や鎌ケ谷市や沼南町(現・柏市)や柏市にも徒歩で行けるという、松戸市内においては辺境の地、と言ったら怒られちゃうかもしれませんが、要するに境界の町であり、私がいまだに辺境や境界という言葉に惹かれるのは、そういった住環境で育ったことも重要なファクターとなっていると思料されます。

 その生まれ故郷の松戸には東京に引っ越してからは数えるほどしか行っていないのですが、2019年12月に雷電號を手放すことが決まったため、お別れのドライヴで千葉の古墳をめぐり、そのついでに40年ぶりくらいにみのり台を訪れてきました。

 ⇒2019年末に車で訪れた時の探訪レポートはこちら

 それにつづき、2020年5月30日には、江戸幕府の牧場であった小金牧の跡を歩いてみたくなって、電車と徒歩で訪れています。

 ⇒2020年に歩いて彷徨ったときの探訪レポートはこちら

 さて、何でいきなりこんな話をしたのかというと、先日仕事で千葉に行き、五香六実からほど近い新鎌ヶ谷のホテルに一泊したため、その時の様子をレポートしようと思いついたからです。

 いや、レポートというほどの内容では無いな。

 私のイメージの中では、新鎌ヶ谷駅の周辺は梨畑だらけだったのですが、超久しぶりに行ってみたらまったく当時の面影が無く、本当にビックリしました。

 私が泊まったのは東横インです。



 私は東横イン好きなので、宿泊地に東横インがある場合は最優先で選択するのですが、いや、そんなことはどうでもよく、新鎌にビジネスホテルがあるということ自体を現実として受け止めるまでに少しの時間を要してしまいました。

 ホテルをチェックアウトした後は、すぐに「成田スカイアクセス線」に乗って成田空港方面まで行かないとならないため、ほとんど写真を撮る暇はありません。

 駅まで向かって歩いていると、昨日の夜は暗くて分からなかった景色が明らかになっており、本当にここは新鎌なのかと、夢でも見ているのではないかと、私は覚束ない足取りで新鎌ヶ谷駅へ向かいました。



 ない、ない、どこにも無い!



 梨畑が無い!

 ・・・え、え!?

 鎌ケ谷市の観光案内図!



 鎌ケ谷大仏が大きくフィーチャーされてる!

 しかも等身大!

 全然関係ないですが、古代はこの辺は相馬郡の最南端で、「相馬の野馬追」に関連した祭りを鎌ケ谷でもやっているんですよ。

 平将門のテリトリーなのだよ。

 商業施設もありまする。



 おっかしいなあ・・・

 梨畑はいったいどこに・・・



 もう現実を直視して、梨畑への妄執を解き放つことにします。

 こちらは東武線の入口。



 新鎌ヶ谷駅は、北総開発鉄道、新京成、東武野田線の3線が乗り入れる巨大ターミナル駅へと変貌していました。

 あ、巨大は誇張です、ごめんなさい。

 ※あとで気づきましたが、上の写真に梨があった!

 北総線(成田スカイアクセス線)はこちらから。



 はい、電車来た。



 ということなのですが、ちょっとここで新鎌ヶ谷駅とその周辺の歴史を簡単に振り返ってみます。

 まず、現在の地図を見てみましょう。



 これを見ると駅の近くには果樹園のマークがわずかながら残っています。

 やはりまだ少しは梨畑があるんですね。

 電車は3つの線が乗り入れているのが分かると思います。

 南北の線が東武野田線で、東西の直線方向が北総線、グニャっと曲がっているのが新京成で、北初富駅と初富駅は新京成の駅です。

 ※ちなみに、新京成は松戸駅と京成津田沼駅の間をやたらと無駄にグニャグニャ走っているのですが、下総台地の上の分水嶺に線路を引いたためグニャグニャしてしまったという面白い経緯があり、戦時中までは民間の鉄道ではなく、日本陸軍の演習用の路線でした。

 五香六実に住んでいた頃は、この地図の範囲内は普段の行動範囲で、母は初富のイトーヨーカドー内のポッポでパートをしていた関係で、たこ焼きとかを焼くのが上手です。

 上の地図上の「鎌ケ谷市」と大きく書いてある横には「下総小金中野牧跡」という史跡マークがありますが、それは2020年に訪れていますのでレポートを参照してください。

 それでは、これより少し前の1998~99年です。



 一見、それほど変わりが無いように見えますが、新鎌ヶ谷駅前にはまだ商業施設はなく、道路の走り方も違いますね。

 東武線の新鎌ヶ谷駅はまだありませんし、新京成の北初富駅の場所も違います。

 北初富駅は、この時点では地上駅だったのですが、2019年に場所を移動して高架駅となりました。

 さらに遡って、1987~88年です。



 これは現在とかなり違いますよ。

 新鎌ヶ谷駅はまだ存在しません。

 この頃の北総線はまだ京成線方面に繋がっておらず、北初富駅~小室駅間だけ開通しており、北初富から先は新京成に乗り入れて松戸まで行っていたのです。

 そして、小室駅から成田方面の隣の千葉ニュータウン中央駅までの1区間は、「住宅都市整備公団鉄道」という別の鉄道が開業しており、千葉ニュータウン中央駅から先はまだできていませんでした。

 これから少し経って、1991年には新鎌ヶ谷駅が開業して、北総線は京成線に乗り入れて都心へ向かうようになります。

 私の頭の中にイメージとしてある新鎌ヶ谷駅はこの頃のもので(つまりは30年前!)、駅のホームも極端に言うとプラットホームしかないくらい簡素なもので、ホームから見渡す風景は、時には緑の風景、あるいは寒風吹きすさぶ季節には荒涼たる風景に映ったものです。

 ですから、上述したように現代の新鎌ヶ谷駅周辺の風景を見て我が目を疑ってしまったわけです。

 当時の写真が手元に1枚もないのが本当に残念。

 もしタイムマシンが製造されたら、それに乗って当時の自分に写真を撮っておくように伝えに行きます。

 最後にもう少し古い、1978~79年のものをお見せします。



 あー、ちょうどYMOが流行っていた頃ですね。

 第1次テクノブームでした。

 と、知ったかぶりをして言いますが、小学校に上がったころの私は当時のテクノブームはリアルタイムでは知りません。

 さて、この地図では北総線がまだ北初富につながっていませんが、画面の右側と左側で地図が造られた時期が1年違うため、こんなふうになってしまっています。

 北総線が北初富~小室間で開通したのは1979年でした。

 当時私は小学校に上がったばかりだったと思いますが、従兄弟たちとよく電車に乗って遊んでおり(1年生になってからしばらくは、未就学児と偽って無賃乗車をしていました<時効成立>)、開業したての北総線にもよく乗りましたよ。

 7000形、カッコよかったな。


※Wikipediaより転載(PekePONさん撮影)

 できたてホヤホヤの車内の匂いはいまだに鮮明に覚えています。

 今でもまれに新造車両に乗ることがありますが、すごくいい匂いなんですよねえ。

 当時画期的だったのは、駅に自動改札機を導入したことで、その頃はそれを見るたびに「今ここに未来がある」と感じたものです。

 というわけで、簡単に新鎌ヶ谷駅周辺の歴史を振り返ってみました。

 ちなみに、自治体名の鎌ケ谷市を表記する際の「ケ」は大きい方で、駅名の新鎌ヶ谷は小さい方ですよ。

 余談ですが、この日の前の晩は、東武野田線の鎌ヶ谷駅近くにある「博士ラーメン」に行きました。

 博士ラーメンは、ラーメンも美味しいですがタイ料理もとても美味しくて、以前食べた時の味が忘れられず訪問したのです。



 そして今回は、とても評判の良いトムヤムクン・ラーメンを注文してみました。



 噂にたがわず美味い!

 濃厚なエビ出汁のスープが中太麺によく絡んで絶妙な味です。

 時短営業でかつアルコール類も頼めませんでしたが来てよかった。

 コロナが収まったら、鎌ケ谷や船橋に住んでいる友人たちと食べに行きたいです。

 (了)

 ⇒2019年末に車で千葉を訪れた時の探訪レポートはこちら

 ⇒2020年に故郷を歩いて彷徨ったときの探訪レポートはこちら

 

今宿大塚古墳/今宿古墳群|福岡県福岡市西区 ~町中に綺麗な墳丘を見せる後期の前方後円墳~

2021-04-20 18:13:44 | 歴史探訪


今宿大塚古墳は、今宿バイパスを糸島方面から博多方面へ向けて走っていると車窓からしっかり見ることができる墳丘長64mの立派なボディの前方後円墳です。

登頂したらダメ?
説明板あり
駐車場なし
トイレ不明

お勧め度:

1.基本情報                           


所在地


福岡市西区今宿西1-26



現況



史跡指定


国指定史跡

出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


6世紀前半

墳丘


形状:前方後円墳
墳丘長:64m
段築:2段築成
葺石:下段にのみあり
埴輪:あり

主体部


未調査のため不明

出土遺物



周堀


周堀の外側に周堤がめぐり、さらいのその外側に周溝がめぐる二重堀構造

 

3.探訪レポート                         


2017年6月18日(日) 吉野ヶ里ツアーの下見



この日の探訪箇所
下高橋官衙遺跡 → 小郡官衙遺跡 → 上岩田遺跡 → 焼ノ峠古墳 → 大宰府政庁 → 筑前国分寺跡 → 筑前国分尼寺跡 → 福岡市博物館 → 古賀崎古墳 → 伊都国博物館 → 井原鑓溝遺跡推定地 → 平原王墓 → 今宿大塚古墳 → 須玖岡本遺跡(坂本地区) → 板付遺跡

 そろそろこの下見旅行も終局に近くなってきました。

 残るノルマは須玖岡本遺跡と板付遺跡です。

 今宿バイパスを東へ向かいますが、この道は混みますね。

 お、「建築マニア」って何でしょうか?



 世の中にはいろいろなマニアの方がいらっしゃいます。

 例えば私は古墳・・・あれ、古墳のようなものが見えますよ。



 やっぱそうだ。



 自転車のお兄さんも写っちゃった。

 見つけてしまったからには寄ってみましょう。

 でも駐車場がないですね。

 邪魔にならないところに路駐して走って見てきます。



 説明板が見えますね。



 大塚古墳ですか。



 大塚古墳だけだとどこにでもある名前になるので、字を取って今宿大塚古墳と呼ぶのがいいでしょうね。

 2段築成で下段にのみ葺石があるのが面白いです。

 この辺の古墳については全然知らないのでこういう偶然の発見って嬉しいですね。



 でも、墳丘全体がゆるいロープで囲まれているため、ここから先に入って行って墳丘に登るのは気が引けます。

 なんだこのちっちゃい古墳みたいのは。



 もう一つ説明板がありました。



 7基も前方後円墳あるなんて知らなかったです。

 ※註:国指定史跡・今宿古墳群を構成するのは、この大塚古墳のほか、丸隈山古墳、山の鼻1号墳、飯氏二塚古墳、兜塚古墳、鋤崎古墳、若八幡宮古墳の合計7基です。

 寄り道してちょっと時間を使ってしまいました。



 急いで須玖岡本遺跡へ向かいましょう。

 (つづく)

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板


新原・奴山古墳群|福岡県福津市 ~古墳として初めて世界遺産に登録~

2021-04-20 14:36:17 | 歴史探訪


新原・奴山古墳群は国指定史跡・津屋崎古墳群の中の支群的扱いですが、津屋崎古墳群全部ではなく、新原・奴山古墳群のみ世界遺産に入っています。

登頂可能の古墳あり
説明板多数あり
ガイドほぼ常駐
駐車場あり
トイレあり(駐車場)

お勧め度:

1.基本情報                           


所在地


福岡県福津市新原・奴山



現況



史跡指定


世界遺産
国指定史跡

出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期



墳丘


形状:
墳丘長:
段築:
葺石:
埴輪:

主体部



出土遺物



周堀




 

3.探訪レポート                         


2017年8月21日(月) 宗像ツアーの下見⑦



この日の探訪箇所
宮地嶽神社および宮地嶽古墳 → 在自剣塚古墳 → 須多田下ノ口古墳および須多田ミソ塚古墳 → 須多田天降神社古墳 → カメリアステージ歴史資料館 → 生家大塚古墳 → 新原・奴山古墳群 → 田熊石畑遺跡 → 東郷高塚古墳 → 久原澤田古墳群 → 朝町竹重遺跡 → 光正寺古墳

 ⇒前回の記事はこちら

 生家大塚古墳では一気にテンションが下がりましたが、気分を切り替えてお仕事をしましょう。

 すなわち、新原・奴山古墳群の下見です。

 最近整備されたらしい駐車場に到着しました。

 おー、ここから古墳群が見渡せますね。

 でも、写真をどうしようかという問題があります。

 デジイチ、コンデジ、ガラケー、スマホ、すべてもう使えません。

 こうなったら最終手段で、神武號(ノートPC)のカメラを使ってみます。

 凄い使いづらい・・・



 なかなか撮りたいようには撮れませんが、本番の時に歩くルートを調べる方が大事なので写真はとりあえず諦めるとして、古墳群を歩いてみます。

 フラフラと古墳を見ながら21号墳の前まで来ました。



 21号墳には中世の板碑が多数建立されています。



 でも、私にとってお馴染みの武蔵型板碑とは形状が異なり、自然石に近い感じですね。

 もう少し古墳を見てみます。







 おや、可愛いワンちゃんがいますよ。

 人懐っこくて撫でてあげても嫌がりません。

 飼い主の方に断らないで勝手に写真を撮ると怒られるかもしれませんが、ツーショットが撮りたい。

 でも神武號だとなかなかうまく撮れない・・・



 何枚か挑戦。



 ようやく撮れたかな?



 最後はワンちゃんと遊んで新原・奴山古墳群の下見は終了です。

 これで今度のツアーの下見のノルマはすべて達成しましたが、福岡空港へ戻る道すがら、他にも気になる遺跡があるため寄って行こうと思います。

 (つづく)

 ※後日註(2021年4月20日)

 いまでこそクラツーで新原・奴山古墳群を案内するときは自分の家の庭のように案内していますが、初めて訪れた時は上記のようなグダグダな状態でした。

 この時の下見以来、もう十数回訪れているため、古墳にいらっしゃるボランティアの方から「ここがよっぽど好きなんですね」と言われたことがあります。

 はい、好きです!

 ちなみに、上記のワンちゃんですが、このあと2回くらいは会っているのですが、その後はもうあのお宅の庭では見かけなくなってしまいました。

 とても可愛かったので残念です。

 ところで、新原・奴山古墳群の詳しい解説はまた後日追記しようと思いますが、いつもクラツーで喋っている遺跡って、どういうわけかあまり文章化する気がしないんですよね。

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・『宗像地域の古墳』 宗像考古学研究会/編 2017年

生家大塚古墳|福岡県福津市 ~前方部が失われた中期の前方後円墳~

2021-04-20 13:40:47 | 歴史探訪


生家大塚古墳は5世紀後半に築造された墳丘長73mの前方後円部で、前方部はほとんど破壊されてしまっているようです。

登頂可能(のよう)
説明板なし
道路向かいの大塚神社に駐車可能
トイレなし

お勧め度:

1.基本情報                           


所在地


福岡県福津市生家



現況



史跡指定



出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


5世紀後半

墳丘


形状:前方後円墳
墳丘長:73m
段築:
葺石:
埴輪:あり

主体部


未調査

出土遺物



周堀


後円部北側に周堀・周堤残存

 

3.探訪レポート                         


2017年8月21日(月) 宗像ツアーの下見⑥



この日の探訪箇所
宮地嶽神社および宮地嶽古墳 → 在自剣塚古墳 → 須多田下ノ口古墳および須多田ミソ塚古墳 → 須多田天降神社古墳 → カメリアステージ歴史資料館 → 生家大塚古墳 → 新原・奴山古墳群 → 田熊石畑遺跡 → 東郷高塚古墳 → 久原澤田古墳群 → 朝町竹重遺跡 → 光正寺古墳

 新原・奴山古墳群へ行く途中、大塚神社の道路向かいに生家(ゆくえ)大塚古墳という70mオーヴァーの前方後円墳があるようなのでチョロッと寄ってみます。

 495号線を北上し、新原・奴山古墳群の少し手前で東側の丘に上がります。

 あ、神社がありました。

 大塚神社発見。

 境内に車を停めさせてもらってさっそく探訪開始です。

 まずは折角なので神社に参拝。

 既述した通り、今日はデジイチが調子が悪く、ついでコンデジも充電が切れてしまい、かつガラケーも電池が切れてしまったので、ここからは不慣れなスマホで撮影します。



 つづいて古墳へ行ってみましょう。

 おっと、完全な林と化している。



 生家大塚古墳は後円部は残っているようですが、前方部はほとんど残っていないようです。

 道路側からは良く分かりません。



 ああ・・・

 今度はスマホの電池が終焉を迎えました・・・

 なんか非常にテンション下がりますね。

 いいや、ここはもう諦めて下見の本題である新原・奴山古墳群へ向かうことにします。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・『宗像地域の古墳』 宗像考古学研究会/編 2017年

浦山古墳および浦山公園古墳館|福岡県久留米市 ~装飾の施された石棺に入れる極めて破天荒な管理状態の古墳~

2021-04-19 21:49:43 | 歴史探訪


浦山古墳は、5世紀後半の帆立貝形古墳ですが、横口式家形石棺に入ることができる極めて珍しい古墳です。

発見容易
登頂可能
石棺侵入可能
説明板あり
駐車場あり
トイレあり

お勧め度:

1.基本情報                           


所在地


久留米市上津町1386-22 成田山久留米分院



現況


境内

史跡指定


国指定史跡
指定日:

出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


5世紀後半

墳丘


形状:帆立貝形古墳
墳丘長:60m(説明板)
段築:
葺石:あり
埴輪:

主体部



出土遺物



周堀




 

3.探訪レポート                         


2021年4月3日(土) 



この日の探訪箇所
御塚古墳 → 権現塚古墳 → 浦山古墳および久留米成田山 → 浦山公園古墳館 → 横道遺跡(筑後国府跡) → 筑後国分寺跡 → 高良大社および神籠石 → 田主丸大塚古墳 → 大塚2号墳 → 寺徳古墳 → 中原狐塚古墳 → 朝倉橘広庭宮跡 → 平塚川添遺跡 → 仙道古墳

 今回の下見に出かける前にちょっと知りたいことがあって久留米市教育委員会に電話をしたのですが、そのときに久留米市内でおすすめの古墳をお尋ねして、浦山古墳のことを知りました。

 横穴式石室に入れる古墳は珍しくありませんが、浦山古墳は何と石棺に入れるそうなのです。

 なんでそんな凄い古墳のことを今まで知らなかったのか不思議でなりません。

 もしかしたら、かつてどこかで知ったのかもしれませんが、その時はまだ自分の古墳レヴェルが石棺を楽しむ領域まで達していなかったため記憶に残らなかったのかもしれません。

 今なら行ける。

 機は熟しました。

 浦山古墳がある場所は久留米の成田山分院の境内ということで、大きな観音様はこちらに来ると必ず見ており、迷わず到着することができるでしょう。

 ところが、車を運転しながら観音様を見つけようとしますが、あの白く輝く身体が全然見えて来ません。

 その代わり、変な高層ビルのようなものが遠くに見えます。

 おかしいなと思いつつ近接すると・・・

 なんだ、こういうことか!



 観音様は足場に囲まれていました!

 いまは改修中だったんですね。

 では、駐車場に車を止めて古墳へ行ってみましょう。



 説明板があるので読みます。



 え、え!

 観音様の原型を作った仏師は松戸の方だったんですね!

 いつも私は生まれ故郷の松戸を紹介する際は、ドラッグストアのマツモトキヨシと松本清市長と「すぐやる課」、それに20世紀梨の話をしていますが、これからはこれも話せます。

 ちなみに、唐突に「松戸市」と言われてもどこにあるか分からないかもしれませんが、千葉県ですよ。

 久留米の観光案内図。



 久留米と言ったら個人的には久留米ラーメンとダルム(焼き鳥)かな。

 お寺の縁起などはこちら。

 私は将門ファンなので、実は成田山ってちょっと・・・



 あ、でも将門について触れていなくてよかった。



 まあ、目的は古墳ということで、将門も許してくれるでしょう。

 石棺が納められている石室に入るためには、本堂脇に行って鍵を借りないとならないそうです。

 行ってみましょう。

 石段には朝の清掃をされている方々がいます。



 こちらが本堂です。



 本堂脇に行きお寺の方に声をかけると、帳面への記帳を促されました。

 パッと見た感じでは、何日かに一人、全国各地から石棺を拝みに来る方がいらっしゃいます。

 お寺の方は鍵と懐中電灯を貸してくださり、あとはご自由にということです。

 では行きますよ。

 墳丘はどちらかしら?

 説明板らしきものが見えますね。



 古墳の説明板でした。



 後円部の墳頂らしき場所に建物が見えますよ。



 この中に石室があるんですね。



 ここにも説明板があります。





 おもむろに扉を開き中に入ります。

 穴がある。



 おー凄い凄い、石棺が見える!



 ひやー、凄いですねえ。

 横口式の家形石棺がありますよ。



 天井石は2枚残っています。



 まずは石棺の蓋を外側から観賞します。



 環状縄掛突起が面白いですね。



 妻側には突起はないです。

 同じような石棺では広川町の石人山古墳の石棺を見慣れていますが、あちらは蓋の外側に文様が施されているのにこちらの場合は外側には無いようです。

 久留米市教育委員会の方からは、石棺に足をかけるようにして降りると聞いているので、罰当たりですが、そうせざるを得ない状況なのでそのようにさせていただきます。

 降りました。

 石室の奥の方を見てみます。



 今日は天気が良くてこの覆屋の中も明るくて雰囲気が良いですが、これは暗いときに一人できたらちょっと怖いかも。

 でも、異様に興奮を覚えるのはなぜでしょうか。

 この喜びを分かち合える人がいないため、一人で歓喜の奇声を発します。

 ではいよいよ・・・

 入ります。

 おっと、デジイチだと撮れない・・・

 コンデジで撮ります。

 家形になっているのが良く分かりますよ。



 いいねえ。



 本物の石棺の中に入ったのは出雲の大念寺古墳に続いて2つ目です。



 凄い、装飾が見える。



 いや、いいねえ、いいよ。



 説明板には内部は赤く塗ってあるとありましたが、現況ではあまり色味は見えません。





 石棺内から外を見ます。



 では生まれ出ましょうか。

 天井石を中から見ます。



 楽しかった・・・

 今度のツアーはもう行程が決まっているためこの古墳を入れることはできないので、もし続編ができることになったら浦山古墳は絶対に入れる!

 説明板には横穴式石室で羨道はくびれの方へ向かっていたと書いてありますが、現在の状況を見るとちょっと想像が付きません。

 横穴式石室ではなく、竪穴系横口式石室なのかなと思いますが、もうちょっと調べてみたいと思います。

 後円部からの眺望。





 そういえば気持ちが石棺に行ってしまっていて、墳丘を全然見ていませんでした。

 後円部から前方部を見ます。





 下に降りて墳丘を見ます。





 では車に戻りますよ。

 この感動を分かち合える人がいないため、石段を掃いているお寺の方に思わず「あちらの古墳凄いですね」と話しかけてしまいました。

 少し雑談していると、この近くに展示コーナーがあることを教えてくれました。

 折角なのでそちらへも行ってみます。

 教えていただいた通り、浦山公園の駐車場へやってきました。





 そうそう、浦山公園には浦山古墳群があるんですよね。

 でも今日は時間の都合で公園内を散策することはしません。

 あの建物が展示コーナーかな?



 本当だ、展示コーナーになってますね。



 浦山公園古墳館と名付けられています。



 浦山古墳の模型があります。



 これを見ると、成田山の本堂まで墳丘がかかっているように見えますが、前方部は造出のように短いのでしょうか。

 おー、先ほど見てきた御塚古墳の円筒埴輪がありますよ!



 古墳を見ると遺物も見たくなりますから嬉しいです。

 でもこの円筒埴輪の突帯は控え目な作りだな。

 こちらは装飾古墳の説明。



 資料館などに行くと、たまに紡錘車が展示してあることがありますが、どうやって使っていたのかはこの展示を見れば一目瞭然です。



 お寺の方が教えてくださったお陰で良いものも見れました。

 では引き続き、久留米市内をめぐりますよ。

 (つづく)

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板

巣山古墳/馬見古墳群|奈良県北葛城郡広陵町 ~珍しい出島状遺構を備えた超大型前方後円墳~

2021-04-07 00:58:37 | 歴史探訪


巣山古墳は馬見古墳群の中央群で中心的な地位にある墳丘長220mの超大型前方後円墳で、国の特別史跡に指定されています。

発見容易
説明板あり
駐車場あり
トイレは公園内各所にあり

お勧め度:

1.基本情報                           


所在地


奈良県北葛城郡広陵町大字三吉元斉音寺



現況


古墳

史跡指定


国指定特別史跡
指定日:昭和27年(1952)3月29日

出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


4世紀終わり頃(現地説明板より)

墳丘


形状:前方後円墳
墳丘長:220m(全国ランキング23位)、後円部径:118m、前方部幅:96m
後円部高:17m、前方部高:15m
外堤を含む全長:333m、全幅:245m
段築:後円部・前方部ともに3段築成
葺石:あり
埴輪:あり

主体部


竪穴系の埋葬主体が2基

出土遺物



周堀


周堀とその外側に周堤あり

 

3.探訪レポート                         


2020年9月5日(土) 



この日の探訪箇所
狐井城山古墳 → 築山古墳 → 新山古墳 → 牧野古墳 → 佐味田宝塚古墳 → 三吉2号墳 → 巣山古墳 → 狐塚古墳 → 倉塚古墳 → 一本松古墳 → ナガレ山古墳 → 乙女山古墳 → 池上古墳

 では、先ほどからチラチラ見えていた、巣山古墳の方へ行ってみましょう。



 巣山古墳は主軸をほぼ南北方向に取り、南側(写真右側)が後円部です。

 周濠に近づくと説明板がありました。



 築造時期に関しては説明板には4世紀終わり頃と記されており、中期古墳に分類する研究者もいますが、前期古墳から出土する車輪石や鍬形石が見つかっていることや、後述する通り、墳丘のデザインから考えて、私的には前期古墳に分類したいと思います(車輪石や鍬形石の編年と照らし合わせて考えが変わる可能性もあります)。

 まあ、前期とか中期とかは研究者個人の分類上の問題であまり本質的な話ではないですね。

 さて、この巣山古墳は説明板にも書かれている「出島状遺構」で有名です。



 造出とはまた違う趣の遺構で、独特な形状をしています。

 説明板では文字と写真による説明ですが、これだとよく分からないですよね。

 『巣山古墳 調査概報』(広陵町教育委員会/編)より巣山古墳調査位置図を転載します。



 このように3段築成となっていますが、後円部の最上段がかなり高いですね。

 形状だけをパッと見た感じでは前期古墳だと判断します。

 そして前方部の西側に変なものがくっついていますよね。

 変な物とか言うと被葬者に怒られそうですが、それの実測図も前述書から転載します。



 この図だと上の墳丘図から90度回転していますが、これが「出島状遺構」で、大変珍しいものです。

 私的には見た瞬間、「よすみ」(四隅突出型墳丘墓)を想起しましたよ。

 後円部側を見ます。



 前方部側を見ます。



 この位置から見えるのは、出島状遺構ではなく西側の造出です。



 巣山古墳が築造された場所は丘陵の東側斜面で、古墳の向こう側(東側)は地形が低くなっています。



 巣山古墳は、東側に向かって落ちている地形の途中に地山を削り出して構築しましたが、おそらく東側は盛土をしないと構築できないと思います。

 ところで、馬見古墳群は南北約7㎞、東西約3㎞の細長い丘陵を中心に点在する古墳の総称ですが、便宜上、北群、中央群、南群に分けて説明されることが多いです。

 厳密にはこの分類は往時の政治情勢を鑑みると正確な分類にはなりませんが、地理的に分かりやすいため、この分類で説明されることが多いわけです。

 その中で、墳丘長220mの巣山古墳は、すぐ南にある200mの新木山古墳とともに中央群を代表する超大型前方後円墳で、築造順は巣山古墳の方が早いです。

 さて、残り時間も少なくなってきましたし、下へは降りずに巣山古墳は今回はこの程度に留めておきましょう。

 いずれクラツーで馬見古墳群のツアーをやりたいので、そのときにまた下見で来れるでしょう。

 というか、朝からもう15㎞くらい歩いているのでそろそろ足がダメになってきて歩き回るのがつらくなってきた・・・

 とにかく今日は近鉄の駅までたどり着かないことには帰れませんから、重要な古墳を見つつ、なるべく最短ルートを歩いて駅まで向かおうと思います。

 (つづく)

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『巣山古墳 調査概報』 広陵町教育委員会/編 2005年
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」026 大和葛城の大古墳群 馬見古墳群』 河上邦彦/著 2006年


摩利支天塚古墳|栃木県小山市 ~史跡公園として整備するために発掘調査が進行中の大型前方後円墳~

2021-02-27 21:51:51 | 歴史探訪


 

摩利支天塚古墳は5世紀後半に下毛野を治めた王が眠る墳丘長120mの大型前方後円墳で、2020年1月からは大規模発掘が始まっており現在非常にホットな古墳の一つです。

発見容易
説明板あり
墳頂登頂可能
駐車場あり
トイレは資料館にあり

お勧め度:

1.基本情報                           


所在地


栃木県小山市飯塚362



現況


摩利支天尊

史跡指定


国指定史跡
指定日:昭和53年7月21日

出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


5世紀後半から6世紀初頭

墳丘


形状:前方後円墳
墳丘長:120.6m
墳高:
段築:前方部・後円部共に2段築成か
葺石:なし
埴輪:あり

主体部


不明

出土遺物


埴輪(人物埴輪など)

周堀


盾形二重

 

3.探訪レポート                         


2019年1月20日(日) 下毛野・古代史強化探訪⑬



この日の探訪箇所
長塚古墳 → 桃花原古墳 → 羽生田茶臼山古墳 → 羽生田富士山古墳 → 上神主・茂原官衙遺跡および浅間神社古墳 → 多功大塚山古墳 → 御鷲山古墳 → 下野薬師寺跡および下野薬師寺歴史館 → しもつけ風土記の丘資料館 → 甲塚古墳 → 国史跡摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館 → 琵琶塚古墳 → 摩利支天塚古墳 → 寺野東遺跡およびガイダンス施設 → 小山市立博物館 → 乙女不動原瓦窯跡

 ⇒前回の記事はこちら

 先ほど琵琶塚古墳の墳頂から見えた摩利支天塚古墳へは歩いてやってきました。

 ちょうど墳丘の横っ腹が見える場所に来ましたよ。



 琵琶塚古墳からは歩いて3分くらいです。

 右手が前方部で左手が後円部。



 前方部側へ回ってみましょう。



 さきほどの琵琶塚と大きさはそれほど変わりませんが、墳丘に木が生えているせいか小さく見えます。



 立派な「摩利支天尊」の石柱があることから摩利支天が祀られているのが分かり、鳥居があります。



 あれ、でも摩利支天は「天」だから仏さまですよね。

 摩利支天「尊」だから神社でオッケー?

 私は神仏習合人間ですからこういうことは気にしません。

 振り返ると参道が伸びています。



 近辺の案内図。



 こちらは古墳の説明板。



 ここでは墳丘長は117mとありますが、さきほど見た資料館のパネルでは墳丘長は120.6mとなっていました。

 120.6mって栃木県で3位か?

 栃木には吾妻古墳と琵琶塚古墳以外に120mオーヴァーの古墳ってありましたっけ?

 前方後方墳の上侍塚や藤本観音山も数メートル足りないはず。

 そして摩利支天塚も二重周堀ですね。

 摩利支天塚は琵琶塚よりも前の古墳なのに墳丘の平面デザインは時代と逆行していて、古い摩利支天塚の方は後円部径より前方部幅の方が大きく、新しい琵琶塚は後円部径より前方部幅の方が小さいのです。

 こういう一般的な編年に当てはまらないのが栃木の古墳の面白いところかもしれません。

 そしてこの墳丘図をよく見てください。



 資料館のパネルにも書いてありましたが、前方部底辺のラインを見てください。

 底辺の中央が突出していますよね。

 つまりは、全国的に見ても珍しい剣菱形になっているのです。

 6世紀の前方後方墳でまれにみられる形状ですが、こういう形状になっている事実は分かっていても、なぜこういう形状にしたのかは分かっていません。

 ただし、継体天皇陵の今城塚古墳も以前は剣菱形と言われていたのが、後世の地崩れによるものと分かっていたり、全国的に見ると確実に剣菱形と言えるものがいくつあるのか不明で、2020年に出た『摩利支天塚古墳の測量・GPR 調査』(早稲田大学東アジア都城・シルクロード考古学研究所/編)には、「発掘の際に「剣菱形」と誤認した可能性が高い」と考えられ、「「剣菱形前方部」である可能性は限りなく低いと判断できる」とあります。

 それと、一般的な説明では、摩利支天塚の次に造られた琵琶塚から「下野型」の特徴である基壇を設けるようになったとされるのですが、墳丘図を見ると摩利支天塚の尾根は下野型と同様に「細尾根状」になっており、すでに下野型の設計思想は摩利支天塚の時点で始まっているのではないかと思います。

 では、墳丘に登ってみましょう。



 前方部の墳頂にも鳥居がありました。



 宝珠?



 前方部から下を見下ろします。



 前方部の高さは7m。

 後円部を見ます。



 こう見ても結構比高差がありますが、後円部は10mあり、とても後期古墳とは思えない激しい比高差があります。

 築造時期は早くて5世紀末ということですが、「末」とは言わず、もう少し早まる可能性を含めて「後半」でいいんじゃないでしょうか。

 後円部の裾の方を見ますが、墳丘には段築らしきものがハッキリしませんし、裾にも周堀らしきものはよく見えません。



 眺望。



 後円部墳頂に来ました。

 2階建てですかね?

 思っていたより立派なお堂があります。



 まずはお参りです。

 昭和16年1月の奉納額。



 「摩利支天尊」とありますね。

 建物内をちょっと。 



 うん、やっぱり結構な高低差だ。



 琵琶塚の前方部が見えますね。



 角度を変えて資料館方向。



 後円部法面のこの窪みは盗掘の跡かな?



 墳丘を降ります。





 琵琶塚同様、摩利支天塚も周堀跡が良く分かりません。



 では、資料館の駐車場へ戻りましょう。

 再び琵琶塚古墳。



 美しい古墳だなあ。







 真横に来ました。



 雷電號と琵琶塚古墳。



 さて、今日も早朝からたくさんの古墳を見ていますが、もう少し時間があるため、小山市内の遺跡をいくつか見てみようと思います。

 (つづく)

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『摩利支天塚古墳の測量・GPR 調査』 早稲田大学東アジア都城・シルクロード考古学研究所/編 2020年

琵琶塚古墳|栃木県小山市 ~美しい古墳が多い栃木県の古墳の中でもポッチャリ系ではナンバーワン~

2021-02-25 20:33:52 | 歴史探訪


 

琵琶塚古墳は6世紀前半に築造された墳丘長124.8mを誇る栃木県で2番目に大きい前方後円墳で、国造時代より前の「下毛野の王」が葬られた古墳と考えられます。

発見容易
説明板あり
大きさは栃木県第2位
墳頂登頂可能
駐車場は資料館にあり
トイレは資料館にあり

お勧め度:

1.基本情報                           


所在地


栃木県小山市飯塚655



現況


古墳

史跡指定


国指定史跡
指定日:大正15年2月24日

出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


6世紀前葉

墳丘


形状:前方後円墳
墳丘長:124.8m
墳高:
段築:後円部3段、前方部2段(それぞれ最下段は基壇)
葺石:なし
埴輪:あり(埴輪列検出)

主体部


不明

出土遺物



周堀


二重

 

3.探訪レポート                         


2019年1月20日(日) 下毛野・古代史強化探訪⑫



この日の探訪箇所
長塚古墳 → 桃花原古墳 → 羽生田茶臼山古墳 → 羽生田富士山古墳 → 上神主・茂原官衙遺跡および浅間神社古墳 → 多功大塚山古墳 → 御鷲山古墳 → 下野薬師寺跡および下野薬師寺歴史館 → しもつけ風土記の丘資料館 → 甲塚古墳 → 国史跡摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館 → 琵琶塚古墳 → 摩利支天塚古墳 → 寺野東遺跡およびガイダンス施設 → 小山市立博物館 → 乙女不動原瓦窯跡

 国史跡摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館の見学を終え、実際の古墳を見てみますよ。

 まずは琵琶塚古墳からです。

 墳丘はきれいに整備されていて素晴らしい!



 トラックが停まっていますが、切り倒した樹木の搬出をしているようです。

 では、向かって右手の後円部側から見てみましょう。

 周堀の跡。



 琵琶塚は二重堀なので、これは内堀になります。

 後円部を見上げます。



 大きいですねえ。

 琵琶塚は墳丘長124.8mで、そもそもが大きな古墳ではありますが、さきほど資料館で墳丘図を見た通り、ポッチャリ体型で後円部が大きいため、後円部の裾から見上げると墳丘長以上のヴォリューム感があります。



 周堀跡を歩きます。



 栃木県のこの周辺には「下野型」と呼ばれる広い基壇を設けた上に細尾根のような墳丘を乗せる古墳が流行して、今日も朝から散々見てきましたが、6世紀前半に築造されたこの琵琶塚古墳がその嚆矢となるようです。

 一番下に基壇があって、その上に2段の墳丘が乗っているのが何となくわかりますね。



 こういう古墳は2段築成なのか3段築成なのか表現に迷いますが、私は基壇を含めて3段築成と呼ぶことにしています。

 では、ちょうど逆光になってしまいますが、後円部を登りますよ。



 墳頂には祠がありました。



 このまとめてある石は葺石でしょうか。



 でも下野型古墳はあまり葺石せず、琵琶塚も同様なため古墳とは関係のない石だと思われます。

 墳頂からくびれ方向を見ます。



 琵琶塚古墳はに西側に南流する思川と東側に南流する姿川に挟まれた台地の上にあります。

 西側の眺望。



 東側の眺望。



 只今作業中。



 後円部から前方部を見ます。



 やはり124mもあっても下野型ですから墳頂の尾根は細めに作られています。

 実はポッチャリではない?

 前方部の方へ行ってみましょう。

 振り返って後円部。



 前方部。



 前方部の先端から見下ろすと、下野型古墳の特徴である基壇が良く分かりますね。



 向こうには琵琶塚より古い世代の摩利支天塚古墳の森が見えます。



 前方部から後円部を見ます。



 雲一つない青空、に限りなく近い空!



 気持ちいい!

 東側は周堀の跡は分かりませんね。



 西側の方がまだ分かるかな。



 前方部のエッヂ部分を見下ろします。



 それでは、墳丘を降りましょう。

 今度は前方部側からのいつものアングル。



 いいねえ。

 説明板と標柱はこちらにありました。





 この説明板のスペックを見ると、墳丘長が資料館のパネル展示と少し違うとかそういう細かいことは抜きにすると、6世紀になっているのにまだ後円部径の方が前方部幅よりも少しだけ大きくて、古風な設計要素を残しているところが面白いです。

 全然関係ないですが、「思川」とか「姿川」って川の名前が素敵ですね。

 先ほども言った通り、後円部の径を大きめに作っているため、公園裾から見た時によりヴォリューミーに感じます。
 


 なお、栃木県内で最も大きい古墳は下野市の吾妻古墳で墳丘長は約128mですから僅差ですね。

 吾妻古墳はここから北へ3㎞ほどの位置にあり、6世紀後半に築造されていますので、下毛野の初代国造が眠る古墳は吾妻古墳かもしれませんが、琵琶塚古墳の被葬者とどのような繋がりがあったのか興味深いです。

 ではつづいて、このまま歩いて摩利支天塚古墳まで行ってしまいましょう。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板


諏訪山29号墳/諏訪山古墳群|埼玉県東松山市 ~比企地方の古墳時代前期の謎とともに藪に覆われて眠っている古墳~

2021-02-25 14:33:02 | 歴史探訪


諏訪山29号墳は、いわゆる諏訪山古墳群と呼ばれる後期の群集墳とは別個の前期古墳で、埼玉県内における最古級の前方後方墳のうちのひとつです。

発見困難
説明板なし
墳丘登頂不可能ではないが絶望的
駐車場なし
トイレなし

お勧め度:

 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


東松山市西本宿



現況


雑木林

史跡指定



出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


3世紀第3四半期(稲用編年)

墳丘


形状:前方後方墳
墳丘長:53m
墳高:
段築:
葺石:
埴輪:なし

主体部


不明

出土遺物


五領Ⅰ式の古式小型器台形土器、坩形土器、二重口縁壺形土器、小型高坏形土器

周堀


あり

 

3.探訪レポート                         


2015年2月1日(日)



この日の探訪箇所
富士浅間神社古墳(諏訪山36号墳) → 諏訪山29号墳 → 東武鉄道高坂構外側廃線跡 → 高濟寺および高坂氏館跡ならびに高済寺古墳 → 稲荷塚古墳 


 ⇒前回の記事はこちら

 富士浅間神社を後にして、今回の探訪の一番の目的である当地域の最古級の古墳を探しに行きます。

 これも古墳かなあ?



 富士浅間神社の南側にはデイサービスセンターがあり、おそらくその近辺じゃないかと思うのですが・・・

 ウロウロしていると、雑木林の中にあきらかな土盛が。



 こういう藪って写真にとってもほとんど意味が無いんですよね。

 でも確かに雑木林の中に古墳らしきものがあります。



 ただ、それが29号墳なのか35号墳なのか良く分かりませんが、両墳は南北に並んで隣接しており、おそらく29号墳じゃないかと思います。

 昨日の夜、出発直前に思い付いた探訪なので、下調べが十分にできていないことと、この後の予定が詰まっていることが相まって、今日は深く追及している時間はありません。

 久々に玉砕しました。

 もう時間がないので、次の目的地である高坂館跡を目指しましょう。

 (つづく)

 

4.補足                             


 上述の探訪でよくわからなかった29号墳と35号墳についてですが、『埼玉の古墳 比企・秩父』を元に簡単にスペックを示すと、

 29号墳 ・・・ 全長約53m 前方後方墳 4世紀前葉末
 35号墳 ・・・ 全長約68m 前方後円墳 4世紀後半末 県内の前方後円墳では最古級

 となっています。

 『東松山市史 資料編第1巻 原始古代・中世 遺跡・遺構・遺物編』では、35号墳の北側に古墳の印がマーキングされており、位置的にみると私が見たのはやっぱり29号墳ですね。

 『新編 埼玉県史 資料編2 原始・古代 弥生・古墳』が編された時点(1982年)では、浅間神社古墳と29号墳、35号墳ともに発掘調査がされておらず、該書には詳細な説明はありません。

 『季刊考古学・別冊15 武蔵と相模の古墳』によれば、埼玉県内(北武蔵)では、古墳時代初期に比企地方に諏訪山29号墳を始めとした前方後方墳の構築が始まります。

 なお、29号墳の築造時期は、上述のように4世紀前葉末という慎重な意見もありますが、私はもっとアグレッシヴに3世紀第3四半期で、熊谷市の塩1号墳と同時期と考えています。

 さらにもう1世代古い古墳としては、塩3号墳(方墳)や、根岸稲荷神社古墳(前方後方墳)を編年しています。

 面白いのは、こういった古い古墳は比企丘陵に集まっており、県内を見渡すと3世紀に遡る古墳はこの地域、つまりは入間川の支流域にしかないのです。

 このことから、濃尾の勢力が関東にやってきた際は、荒川よりも入間川を遡上して勢力を築くことを選択したことが分かります。

 ただし、後の令制武蔵国全体にまで範囲を広げると、南部の多摩川下流地域に大型前方後円墳の造営が早期に始まりその後も継続しますので、古墳時代前期では、入間川流域勢力より多摩川流域勢力の方がヤマトとのつながりが強かったことが分かります。

 それと、諏訪山古墳群はその連番が示す通り多くの古墳から構成されますが、塩野さんが言っている通り、29号墳と35号墳は前期の古墳として別格であり、それ以外の後期に群集する古墳とは別個に検討する必要があると思います。

 ただ、別個とはいっても大きな目立つ古墳のそばに群集墳を築造しているわけですから、それら後期の人びとは前期の王と系譜的につながりがあると信じていた人びとか、そうでなくてもリスペクトしていたというのは間違いないはずです。

 

5.参考資料                           


・『新編 埼玉県史 資料編2 原始・古代 弥生・古墳』 1982年
・『東松山市史 資料編第1巻 原始古代・中世 遺跡・遺構・遺物編』
・『埼玉の古墳 比企・秩父』(塩野博/著) 2004年

富士浅間神社古墳(諏訪山36号墳)/諏訪山古墳群|埼玉県東松山市 ~古墳群の中では大きい方だが詳細不明な古墳~

2021-02-25 13:55:45 | 歴史探訪


富士浅間神社古墳は、現状では円墳に見えますが元々は前方後円墳だったといわれている詳細不明の古墳です。

発見容易
説明板なし
墳丘登頂可能
前方部は消滅

お勧め度:

 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


東松山市西本宿996



現況


富士浅間神社境内

史跡指定



出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


不詳

墳丘


形状:前方後円墳
墳丘長:
墳高:
段築:
葺石:
埴輪:あり

主体部


不明

出土遺物


埴輪

周堀



 

3.探訪レポート                         


2015年2月1日(日)



この日の探訪箇所
富士浅間神社古墳(諏訪山36号墳) → 諏訪山29号墳 → 東武鉄道高坂構外側廃線跡 → 高濟寺および高坂氏館跡ならびに高済寺古墳 → 稲荷塚古墳 


 今日も早朝の現場に行くのと同じくらいに6時20分に家を出て、電車を乗り継いで北上します。

 東武東上線の高坂駅に到着するころ、車窓からはきれいな富士山が見えました。



 富士山は見慣れていますが、いつ見てもなぜか幸せな気分になりますね。

 高坂駅には7時51分に到着。



 まずは西口に出ます。



 ちなみに、「高坂」は、「こうさか」ではなく「たかさか」と音しますよ。

 まだ朝早いのでメインストリートも静かな感じです。



 いやー、でも風が冷たい。

 県北では痩せ我慢はやめて、ついに手袋をはめます。

 10分くらいニョゴニョゴと歩いていると、前方に杜が見えてきました。



 おそらく、あの辺りに古墳があるに違いない。

 杜に近接しました。



 おっと、神社を発見!



 富士浅間神社です。

 富士浅間神社の境内にも古墳があるそうですが・・・

 ありました。

 古墳の上に社殿が建つ、よくある形式ですね。



 最初、円墳かと思いましたが、本来は前方後円墳で、前方部は削り取られてしまったらしいです。



 富士浅間神社の沿革は分かりませんが、『新編武蔵風土記稿』によれば、元宿村の鎮守で、常安寺の持ということです。

 地図で確認すると、常安寺は関越自動車道の向こう側にあり、現在も法灯を伝えています。 

 『東松山市史 資料編第1巻 原始古代・中世 遺跡・遺構・遺物編』によると、昭和42年の分布調査時には、諏訪山古墳群には3基の前方後円墳を含む37基の古墳が確認されていましたが、その時点でほとんどが損傷を受けていました。

 3基の前方後円墳とは、こちらの富士浅間神社古墳(36号墳)、29号墳、諏訪山古墳(35号墳)の3基のことですが、29号墳はのちに前方後方墳であったことが判明しています。

 ところで、とりあえずやってきた富士浅間神社古墳ですが、詳細に関してはまったくわからないのです。

 諏訪山古墳群の他の古墳の中には調査を行ってそれなりに遺物を見つけている古墳があるのですが、富士浅間神社古墳に関しては神社境内ということもあって発掘調査も行われていないようで、埼玉県の古墳を調べる際に最も頼りになる塩野博著の『埼玉の古墳』でもほとんど触れられていません。

 ということで、本日の探訪の本来の目的である武蔵国内における最古級の前方後方墳である29号墳と、同じく最古級の前方後円墳である35号墳を探しに行きましょう。

 (つづく)

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・『新編武蔵風土記稿』
・『東松山市史 資料編第1巻 原始古代・中世 遺跡・遺構・遺物編』
・『埼玉の古墳 比企・秩父』(塩野博/著) 2004年

柊塚古墳/根岸古墳群|埼玉県朝霞市 ~埼玉県南部では貴重な見ごたえのある墳丘が残る帆立貝式古墳~

2021-02-25 12:09:26 | 歴史探訪


 

柊塚古墳は埼玉県南部に残る古墳では最大級で、帆立貝式古墳として見た場合も全国的にも大きな部類に入る墳丘長72mの古墳です。

発見容易
説明板あり
墳丘登頂不可能
駐車場あり
トイレあり

お勧め度:

 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


埼玉県朝霞市岡3-29-1ほか



現況


柊塚古墳歴史広場

史跡指定


埼玉県指定史跡
指定日:平成14(2002)年3月14日

出土遺物が見られる場所


朝霞市博物館

 

2.諸元                             


築造時期


6世紀前半

墳丘


形状:帆立貝式古墳
墳丘長:72m、後円部径:48m
墳高:8m
段築:
葺石:
埴輪:あり

主体部


竪穴系
後円部に粘土槨と木炭槨の2基の埋葬施設

出土遺物


家形埴輪など

周堀


あり

 

3.探訪レポート                         


2015年1月17日(土)



この日の探訪箇所
柊塚古墳 → 岡城 → 朝霞市博物館 → 滝の城


 2015年になり、先日は「NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会」で開催する八王子城跡めぐりの下見のために、「城はじめ」を兼ねて八王子城跡に行ってきましたが、ちょうど国分寺に行く用ができたので、今年の史跡めぐり第2回目を遂行することに決めました。

 国分寺に近いところを考えた結果、埼玉県朝霞市にある岡城跡や所沢市の滝の城跡がちょうど良いロケーションです。

 実は両城とも、2003年11月8日に埼玉県在住の知人に連れて行ってもらいましたが、滝の城跡に到着したときはもう日が暮れかけていて、ほとんど見れていません。

 そのため、岡城跡と滝の城跡を再訪することに決め、出発の前日にWebで調べていると、岡城跡の近くには柊塚古墳や朝霞市博物館があることが分かったので、それらを含めると時間的にもちょうど良いということで、これで当日のコース設計は完了です。

*     *     *

 国分寺で用が済んだ後は、西国分寺まで一駅乗って、武蔵野線に乗り換え、北朝霞駅までやってきました。

 武蔵野線を降ります。



 ところで、私はお腹が空いているのだ。

 北朝霞駅の改札をくぐり、まずは昼飯が食べられる場所を探すとしましょう。

 ガード下にラーメン屋がありました。



 寒い日はラーメンがことのほか美味しいですね。

 ちなみに右手が武蔵野線の北朝霞駅で、正面が東武東上線の朝霞台駅です。



 東上線沿線には面白い城跡がたくさんあるのですが、それらを探訪するときはここで東上線に乗り替えて行きますよ。

 ラーメンを食べた後は甘い缶コーヒー。

 いやー、それにしても今日は風が冷たいです。

 時期的には1年で一番寒い時期ですが、それでもカメラの操作がしにくくなるので手袋は着けません。

 歩きだしてすぐに道は下り坂になり、黒目川の段丘を一段降ります。



 浜崎分署前の交差点を左折。



 黒目川の堤の上を進みます。



 あ、ちなみに桜並木で有名な「目黒川」ではないですよ。



 犬の散歩やジョギングをしている人たちとすれ違いながら、テクテクと歩いていると川の向こう岸に岡城跡が見えてきました。



 今日は岡城にも行きますが、その前に柊塚古墳を見たいと思っています。

 河川敷を10分くらい歩くと、左手に何か城郭遺構のようなものが現れました。



 うわー、何だこれは!



 杉山城跡のように丸裸になった遺構を見ると、本城郭は二つの曲輪からなり、左手の一段高いのが本曲輪、右手のすり鉢状になっているのが二の曲輪と推測されます。

 位置的には岡城に対して黒目川の対岸にあるので、岡城を攻撃するために作られた向城と考えられ、築造年代は・・・



 「朝霞どろんこ保育園」は、園庭に面白いものを作っちゃいましたね。

 おそらくここに通った子供の体内には中世城郭の面白さが染み付いてしまい、将来城郭研究家になる子もいるかもしれません。

 というわけで、岡城のすぐ近くに到着しました。



 城跡の北東側の黒目川沿いには駐車場があるので、車で来る人はここに停めるといいですね。

 なんだあの看板は!



 ビジネスはスピードが命ですが、何の会社かは分かりませんが仕事が速そうですね。

 丘の上にあるあの森が古墳かな?



 坂道を登ります。



 柊塚古墳歴史広場に到着!



 台数は少ないですが、駐車場もあります。



 馬形埴輪のレプリカも飾ってありますね。

 柊塚古墳は黒目川の沖積地から比高17mの台地上にあります。

 標柱と案内図がありました。



 こう見ると、後円部側は残りが良さそうですが、前方部側は削られてしまっていますね。

 朝霞市は「埼玉県南部に唯一残る前方後円墳」と謳っていますが、この平面形を見る限りでは帆立貝式古墳です。

 ただし、古墳は立体的な構造物ですから平面形だけで判断してはダメなのです。

 この形状で前方部が著しく低ければ帆立貝式となり、そういった古墳は主に5世紀に築造されますが、6世紀になると、通常の前方後円墳のように前方部がそれなりの高さがあるのに極端に短い古墳が築造されるようになります。

 一般的にはそういった古墳も帆立貝式古墳と説明することが多いのですが、立体構造物としてみた場合は明らかに別物ですから、私はそれを新たな類型として考えるようにしています。

 柊塚古墳が帆立貝式古墳かどうかを確かめるには実物を見るしかないですね。

 階段を登っていくと、目の前に墳丘が現れました!



 いいねえ。

 ただ、墳丘の周囲は生垣で囲ってあり、登ることはできません。

 説明文もありますよ。



 お、立体模型がありましたよ。



 この模型を見る限りでは前方部を低くしていますからこの造形で間違いなければ帆立貝式でいいでしょう。

 出土遺物から見て築造時期を6世紀前半とするなら帆立貝式の中でも最新式のものとなります。

 あとは、周堀が全周していないのが面白いです。

 周堀も絶対に全周しなければいけないということもありませんが、通常は全周するものですから、もしかしたら発掘調査の範囲外で確認できなかっただけかな?



 規模は説明板に書いてある通り、墳丘の長さは72mで、後円部の径は48m、前方部の長さは18m、墳丘の高さは8mです。

 72mというのは、帆立貝式古墳の中では全国的に見ても大型の部類に入り、柊塚古墳から比較的近い場所では東京都世田谷区にある野毛大塚古墳が82mの帆立貝式古墳で見ごたえがあります。

 周堀跡は分かるように表示されていますね。



 前方部は後円部と比べて少し雑な扱いで草茫々ですが、対して高さがなく、帆立貝式古墳の特徴を示しています。



 東側の荒川方面の往時が開けており、やはりこういった眺望の良い場所を選んで築造していることが分かりますね。







 柊塚古墳は現在の地図で見ると荒川水系の新河岸川の支流の黒目川沿いにありますが、荒川や新河岸川も近世以降にかなり河川改修をして人工的に河道を作ったりしており、柊塚古墳は築造当時は入間川水系と見ていいです。

 当時の入間川は今の隅田川に接続して東京湾に注いでおり、荒川とは別水系です。

 柊塚古墳の被葬者は6世紀前半にこの地域に新たに進出してきて入間川下流域を治めた人物でしょう。

 6世紀前半というと、荒川水系の埼玉古墳群の王族が相当な力を持っており、彼らは无邪志(むざし=後の武蔵)南部の多摩川流域にまで影響力を及ばせていたと考えられるため、この柊塚古墳の被葬者も「埼玉の王」の影響の外にいたとは考えられません。

 柊塚古墳からは家形埴輪が出土しており、これから行く朝霞市博物館で見られるようですが、それを模したトイレがあります。



 柊塚古墳のすぐ南西側には、かつては並び立つように一夜塚古墳というのがあったのですが、戦時中に朝霞第二小学校の校舎を建設するために破壊されました。

 一夜塚古墳は直径50m・高さ7mの円墳で、柊塚古墳などとともに根岸古墳群を形成していましたが、一夜塚古墳の埋葬施設は木炭槨であり、一方柊塚古墳の方は、後円部に粘土槨と木炭槨の2基の埋葬施設が確認されています。

 おっと、小学生がワラワラと集まってきてボールなどで遊び始めました。

 彼らの邪魔になるので退散しましょうか。

 公園の西側の入口はこんな感じ。



 それでは次は、岡城跡を目指しましょう。

 (つづく)

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・朝霞市のホームページ
・現地説明板
・『新編埼玉県史 資料編2 原始・古代 弥生・古墳』 埼玉県/編 1982年


稲荷前古墳群|神奈川県横浜市青葉区 ~鶴見川中流域を支配した首長たちの墓域~

2021-02-24 23:22:26 | 歴史探訪


 

稲荷山古墳群にはかつて前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳が合計10基と横穴墓が9基あり、多様な古墳があることから「古墳のデパート」との異名を持ちましたが、現在は前方後方墳の16号墳を含め3基の古墳が保存されています。

発見容易
説明板あり
墳丘登頂可能
駐車場あり
トイレなし

お勧め度:

 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


神奈川県横浜市青葉区大場町156-10ほか



現況


古墳公園のような感じ

史跡指定


神奈川県指定史跡
指定日:昭和45年(1970)3月24日

出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期



墳丘


16号墳
形状:前方後方墳
墳丘長:37.5m、後方部幅:15.5m、前方部幅:14m
墳高:
段築:
葺石:
埴輪:

主体部



出土遺物


底部穿孔壺形土器など

周堀



 

3.探訪レポート                         


2015年7月14日(火)



この日の探訪箇所
都筑郡家跡(長者原遺跡) → 稲荷前古墳群


 都筑郡家跡を見た後は、以前から気になっていた稲荷前古墳群もチョロッと見てみます。

 地図を頼りに古墳群に近接すると、おっと、ちゃんと駐車場がありますよ。

 普通車であれば数台停められます。

 しかしよくあることで、ちゃんと「稲荷前古墳群専用駐車場」と書いてあるのに、おそらくは関係ない人が停めているのではないかと思われます。

 駐車場に停まっている台数分の人間が古墳にいるということは、まず無いんですよね。

 というか、説明板の前ギリギリに停めるのやめて欲しい。

 写真を撮りにくくて仕方がないです。

 それでも無理に撮影。



 かつては丘の上に10基の古墳と3つの横穴墓群があり、現在は15・16・17号墳が保存されているということですね。

 なぜこの古墳群に惹かれるのかというと、何といっても前方後方墳があるからです。

 前方後方墳の16号墳が保存された3基のうちに入っているというのが嬉しい!

 古墳の配置図もありますよ。



 古墳の数は10基なのに15号墳とか16号墳とかあって数が合わないなあと思ったら、綺麗に連番になっているわけではないんですね。

 横穴墓の数は合計9基ですが探せばもっとありそうですね。

 現在みられる古墳は15~17号墳ということで、この丘の一番南側で、これらの古墳の直下に駐車場があります。

 付近にも横穴墓群がありますが、今日は時間の都合で行けません。



 それでは、丘の上にある古墳へ行ってみましょう。



 整備された階段を登って行きます。



 お、なんかそれらしきものが見えてきましたよ。



 おーっ、墳丘だー!



 さっそく取り付きますが、丘の上にいきなり墳丘がポコポコあって、いったい何号墳を見ているのかしら。

 登ってきた方を振り向きます。



 とりあえず行けるところまで行ってみましょう。

 もっとも北側にあって、少し形状が崩れているこの墳丘が方墳の15号墳でしょう。



 さきほどの説明板には「規模不明」と書かれていましたね。

 ということは、この大き目の古墳が前方後方墳の16号墳だな。

 前方部から後方部を見ます。



 そしてその南側にチラッと見えているのが、これまた規模不明な方墳の17号墳で、その先は地形が落ちていて丘が終わっています。



 墳頂から南西方向の眺め。



 多分、長津田方面じゃないかな。

 見えませんが眼下にが鶴見川が流れており、この古墳群は鶴見川水系の古墳ということになります。

 だいたい東側の眺望。



 だいたい北側の眺望。



 この丘はさらに北の方に続いているのですが、ここから北側は完全に住宅地と化しています。

 本当にこの3墳のみが保存されたというわけですね。

 いや、でもこんな住宅街にこれだけしっかりとした古墳が残っているというのは嬉しいです。

 16号墳を後方部側から見ます。



 墳丘長38mで、前期の前方後方墳では、40mくらいという古墳はよくあり、海老名市にある秋葉山古墳群の4号墳は37.5mということでほぼ同格、平塚の塚越古墳は45mくらいでちょっと負けてますがいい勝負です。

 つまり、稲荷山16号墳は古墳時代前期では規模から見ても相模地方を代表する古墳と言っても良いわけです。

 説明板がありますが、草に覆われています。



 草をどかしながら何とか撮影します。

 まずは文章による説明から。





 16号墳はこちらに37.5mとあり、そうなると秋葉山4号墳と正確な形の比較をしてみたくなりますね。

 規模不明と言われた15号墳は一辺が12mの方墳ということです。

 周溝らしきものは見えませんでしたが、一応あるんですね。

 16号墳の築造時期は4世紀後半ということで、出土した土師器を見て見ないと何とも言えませんが、もっと早い時期かもしれません。

 墳丘図。



 遺物の写真もありますが、この写真を手掛かりに築造時期を考えるのは難しいかも知れません。



 お、鶴見川上・中流域の古墳編年。



 これはマニアックですね。

 そして現在残っている3墳の配置図です。



 今日は天気も最高で墳丘の上は気持ちよい!



 神奈川県の最古級の古墳を探っていくと、既述した秋葉山古墳群の4号墳が最古級で、同古墳群の3号墳も甲乙つけがたいですが、3世紀半ばまで遡る可能性が高いです。

 秋葉山古墳群は相模川流域の王の墓ですが、それよりやや遅れて、金目川流域の王墓である塚越古墳やこの鶴見川流域の王墓である稲荷前16号墳が築造されたということになります。

 神奈川県は関東地方の他県と比べてそれほど大きな古墳は多くないのですが、その希少価値のある大型古墳の多くが破壊されてなくなっているという残念な状況を呈しており、あまり詳しいことは分からないのです。

 そして、関東の他県と比べてヤマトに近いというせいもあると思いますが、いち早くヤマト王権の直轄地になっていった様子が分かります。



 稲荷前古墳群は鶴見川水系の勢力ですが、鶴見川の下流には、3世紀後半から4世紀にかけて、川崎市の加瀬白山古墳や横浜市の観音松古墳といった100m級の大型前方後円墳が築造されます。

 その二つの古墳は多摩川右岸の古墳と見ることもでき、位置的に多摩川と鶴見川の2つの水系を支配していた可能性があり、稲荷前古墳群の被葬者は、そのどちらかの古墳の被葬者の支配下にあったのかもしれません。

 何しろその2墳も今はもうなくなってしまっており、本当に神奈川の古墳は良く分かりません。

 まあ、良く分からないとかいって諦めてはいけませんから、今後も調査を続行するつもりです。



 名残惜しいですが、帰らなければ。

 (了)

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板

鉄砲山古墳/埼玉古墳群|埼玉県行田市 ~埼玉古墳群で3番目に大きい107mの首長墳~

2021-02-19 13:47:01 | 歴史探訪




鉄砲山古墳は江戸期に忍藩の砲術練習場になっていたことからその名が付いた埼玉古墳群の首長墓系列にあたる大型前方後円墳で、2016年度まで7ヵ年度に渡る発掘が行われ、さきたま史跡の博物館で最新の遺物を見ることができます。

発見容易
説明板あり
墳丘登頂不可能
駐車場あり
トイレあり

お勧め度:

 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


埼玉県行田市埼玉4834(埼玉県立さきたま史跡の博物館)



現況


さきたま古墳公園

史跡指定


国指定特別史跡
指定日:令和2年(2020)3月10日

出土遺物が見られる場所


埼玉県立さきたま史跡の博物館(展示替えがあるため常に見られるとは限らない)

 

2.諸元                             


築造時期


6世紀後半

墳丘


形状:前方後円墳
墳丘長:107.6m、後円部径:49.7m、前方部幅:68.1m
墳高:後円部高8.5m、前方部高:9.5m
段築:前方部、後円部ともに2段か
葺石:なし(埼玉古墳群では丸墓山古墳以外では葺石は見つかっていない)
埴輪:

主体部


横穴式石室
羨道の側壁は角閃石安山岩の切石、天井は緑泥片岩

出土遺物


須恵器

周堀


長方形、二重(北西側では3番目の堀跡が見つかっている)

 

3.探訪レポート                         


2021年2月6日(土)2021年ファースト古墳めぐり⑧



この日の探訪箇所
栢山天王山塚古墳 → 塩古墳群 → 宮塚古墳 → 瓦塚古墳 → 奥の山古墳 → 中の山古墳 → 戸場口山古墳 → 鉄砲山古墳 → 浅間塚古墳 → 二子山古墳 → 将軍山古墳 → 稲荷山古墳 → 白山愛宕山古墳 → 神明山古墳 → 白山古墳 → 丸墓山古墳 → 愛宕塚古墳

 ⇒前回の記事はこちら

 戸場口山古墳で遺構も説明板も何一つないことを確認して、中の山古墳まで戻ってきました。

 中の山古墳からはいつもと同じで鉄砲山古墳の東側面へ向かいますが、実は先ほど、瓦塚古墳から奥の山古墳へ向かうときに、西側面は見ていました。

 何度も来ているのに、この抉りは初めて見たと思います。



 確か、いつもこの辺はもっと散らかっていたイメージがあるのですが、発掘調査の際に綺麗にしたのでしょうか。

 鉄砲山というニックネームは、江戸時代に忍藩の砲術練習場があったことからネーミングされましたが、御風呂山という別称もあります。

 前方部側。



 そして、2015年3月に来た時。



 墳丘にブルーシートが被せてありますが、2010年度から2016年度まで7ヵ年度に渡って発掘調査が行われていました。

 鉄砲山も赤い説明板なのです!



 2017年夏の青い墳丘。



 鉄砲山古墳も造出を備えていますが、忍藩によって大幅に改変されてしまったそうです。

 そもそも草茫々だと分からないですね。

 同じ説明板をまた撮っていますが、本当に読みづらい。



 そういえば、赤い説明板では墳丘長は112mとなっていますが、最新の調査結果では107.6mであったことが分かり、ちょっと小さくなってしまい残念です。

 その後、クラツーで4度案内していますが、通常ツアーのときは説明しながら歩いているため、自分が写真を撮ることはあまりないのですが、2020年2月22日は珍しく鉄砲山古墳の写真を撮っていました。



 さらにその次の10月10日のツアーのときは博物館で鉄砲山出土遺物の展示を撮ってきています。

 まずは円筒埴輪。



 一番左のは何と、9条も突帯があり、器高は90㎝くらいある大型品です。

 埼玉古墳群で出土した円筒埴輪では9条が最大です。

 これも凄いですぞ。



 蓋形埴輪の器台部分です。

 復元できなかった立飾りの部分は他の形象埴輪と一緒に並んでいます。



 これら形象埴輪の発見位置。



 鉄砲山古墳に並べられた埴輪は、鴻巣市の生出塚埴輪窯で焼かれたもので、生出塚は高級ブランドですよ。

 2017年夏の東国を歩く会の「夏期古墳講習」でも訪れています。



 ちなみに、現在の生出塚埴輪窯跡は普通の児童公園のようになっていて見るべきものは説明板くらいです。



 さらに言うと、あの時はクレア鴻巣を訪れて、重要文化財の埴輪も見ています。



 ここは凄いのでお勧めします。

 さて、話を戻して再び今回の探訪の続きです。



 初めて来たときに「おや?」と思ったのは写真右側の土盛りで、最初は古墳かと思いましたが違います。



 初心者には見分けがつかないので、何か表示の一つでもしてくれればいいのになと思います。

 鉄砲山は、首長墓としては、稲荷山(120m)、二子山(132.2m)につづいて築造された大型前方後円墳で、既述した通り墳丘長は107.6mあります。

 今日はいままで、瓦塚、奥の山、中の山と70m前後の中型前方後円墳を見てきたので、鉄砲山の大きさは際立っていますね。



 墳丘長が30m違うというのは、当たり前なことですが単に長さだけでなく高さも幅も大きくなり、ヴォリューム感がかなり違うのです。

 埼玉古墳群の県道南側を歩いた時のクライマックスを飾るのに相応しい大型墳ですね。

 東側後円部を狙います。



 つづいて、ツアーのときは二子山古墳へ向かうのですが、今日は史跡外の浅間塚古墳に寄ってから行こうと思います。

 近道はないかな?と見てみると、道路まで出なくても神社の森に通じていそうな小径がありましたよ。

 行ってみましょう。

 (つづく)

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『埼玉の古墳 北埼玉・南埼玉・北葛飾』 塩野博/著 2004年
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」016 埼玉古墳群』 高橋一夫/著 2005年
・『史跡埼玉古墳群 総括報告書Ⅰ』 埼玉県教育委員会/編 2018年