*** 本ページの目次 *** 1.基本情報 2.諸元 3.探訪レポート 4.補足 5.参考資料 |
1.基本情報
所在地
奈良県桜井市大字芝58-2
2.諸元
入館料
無料
3.探訪レポート
2016年10月15日(土)
⇒前回の記事はこちら
本日は生まれて初めて奈良へ来ています。
初めての場所に来た場合は、まずはその土地の博物館や資料館を訪れるのが一番良いと思っていますが、桜井市の場合は埋蔵文化財センターがいつもオープンな感じで迎えてくれるようなので、唐古・鍵考古ミュージアムにつづいては、桜井市立埋蔵文化財センターへ行ってみましょう。
大神神社のすぐ近くにセンターはありました。
入館は無料ですぞ。
では、お邪魔します。
日本各地に埋蔵文化財センターはありますが、こうやって常時オープンしているところばかりではありません。
それだけ桜井市は目玉となる遺跡や遺物に恵まれているということかもしれませんね。
縄文時代の丸木舟かしら?
いいえ、大福遺跡から出土した刳抜式木棺墓の剥ぎ取りでした。
腐ってなくなってしまうことが多い木棺墓をこういうふうに見られるのは貴重ですね。
銅鐸の埋納状態をしめしています。
桜井市の遺跡の中でとくに有名なのが纏向(まきむく)遺跡です。
期待を裏切らず、展示室の一画には纏向遺跡コーナーがありますよ。
遺跡全体を鳥瞰した航空写真。
纏向遺跡の範囲は、時代とともに拡大していき、現在では一番外側の紫色で囲ってあるのが範囲となります。
と言っても、土地勘がないのではっきりしたことは分かりませんが、かなり広そうです。
でも、この広い範囲で実際に発掘しているのはまだ2%だそうです。
纏向遺跡から出土した面白いものが並んでいますね。
あ、これは有名な仮面だ。
これを顔に装着して祭祀をしていたんでしょうか?
しかし、祭祀って便利な言葉で、その実際の模様などは一切わからなくても「祭祀に使用したと考えられる」と説明すると、説明された方もなんとなくそれで納得できるから不思議ですね。
こちらの「弧文円板」は車輪ではありませんよ。
では何かと尋ねられても・・・
分かりません!
あ、祭祀です祭祀・・・
これも話題になったことのある桃のタネ。
纏向遺跡でも多くの外来系土器が出ています。
外来系土器がどこから運ばれてきたかを示す地図です。
ここに九州がないことに注目してください。
実際にはあるのですが、その数はほぼ無いに等しく、このことは「邪馬台国畿内説」にとっては非常に不利なのです。
邪馬台国連合には北部九州の伊都国や奴国なども含まれているわけですから、もし「卑弥呼の都するところ」である邪馬台国がここにあったら、ここからそれらの地方の土器が出てこないとおかしいのです。
奈良に来ていてこういうことを言うのも非常にアウェー感がありますが、私は邪馬台国は北部九州にあったと考えており、邪馬台国とヤマト王権は無理してくっつけず、別個に考えています。
つまり、北部九州に邪馬台国ほか魏志倭人伝に出てくる国ぐにが存在するのと同時に、奈良盆地を中心にした大きな政治勢力(私は「本州西部広域連合」と呼ぶ)が存在し、魏の国はそこまで詳しく列島の様子を把握していなかったと考えます。
魏からやってきた官吏が通常訪れることができる範囲は伊都国までで、そこから先へはほどんと訪れたことがなかったんじゃないかと考えています。
外来系土器の中でも半分を占めているのが東海系の土器です。
でもこのデータの出展は1976年刊行の『纏向』を元にしておりかなり古いので、最新の統計を知りたいですね。
大好きなS字甕がここにもありました!
邪馬台国の話はひとまず置いておいても、私は多くの研究者と同じで、纏向遺跡がヤマト王権の誕生の地だと考えていますが、この場所の背後には広大な東国社会が広がっており、彼らは濃尾の勢力を筆頭として、とくにマンパワーで王権に協力したと考えています。
つまり、ヤマト王権からすると、西へ向けて戦争を仕掛ける場合や古墳築造などの大規模な土木工事をする際、裏口である東側から供給される膨大な数の東国の人びとが軍事力あるいは労働力として活用できるわけです。
それがヤマト王権の強みの一つだったと考えます。
辻地区で検出された大型建物跡の復元模型があります。
このような大型建物跡が見つかったことが邪馬台国畿内説の人びとを喜ばせました。
3棟の建物が軸を揃えて建てられているというのはこの時代では珍しいことですが、吉野ヶ里遺跡ではすでに軸を揃えて建物や祭殿、墳丘墓を構築しています。
纏向遺跡には、「纏向型前方後円墳」と言われている、弥生墳丘墓とするか古墳とするか人によって評価が分かれる墳墓があります。
今日はこの後行ってみようと思っていますよ。
市内の古墳出土の埴輪コーナー。
おー、横穴式石室の写真がいっぱい!
こうやっていろいろな石室の写真を同時に眺めるって楽しいですね。
綺麗な装身具。
※2019年5月19日撮影
※2019年5月19日撮影
※2019年5月19日撮影
※2017年12月17日撮影
大神神社には、この後参拝しようと思っています。
何となく、子持勾玉というのが出雲っぽい。
古墳の編年図。
さて、今日は奈良に着いたのが昼だったため、唐古・鍵考古学ミュージアムと桜井市立埋蔵文化財センターを見学しただけで、探訪に使える時間が残りわずかになってしまいました。
ひとまず、箸墓古墳を一瞥して、纏向古墳群へ向かおうと思います。
なお、桜井市立埋蔵文化財センターでの戦利品はこちら。
(つづく)
2017年12月17日(日)
クラブツーリズムにて案内してきました。
と言っても、ここでの解説は学芸員の方がしてくださるので、私はむしろ聴きながら勉強です。
見学者は絶対に手を触れてはダメですが・・・
なんと、屋根が取れて間取りが見れるんですね!
ちなみにこの模型は、こちらの職員の方が100円ショップなどで材料を買ってきて作ったそうですよ。
普通に仕事として模型作りを受注できそうです。
こちらのS字甕は前回来た時に撮ったものかな?
こちらは撮っていなかったと思います。
2018年5月20日(日)
クラブツーリズムにて案内してきました。
纏向遺跡の辻地区で検出された大型建物跡は、当初は4棟並んでいるといわれたのですが、一番西側の1棟はその後、他の建物と直接な関係がないということで外されてしまいました。
模型をよく見たらその形跡まできちんと表現されていますよ。
第21代雄略天皇の宮跡の可能性が高い脇本遺跡の最近の発掘成果。
そして纏向遺跡でも少しずつ発掘が進んでいます。
第191次。
つづいて第192次。
そして第193次。
194次では、茶ノ木塚古墳を発掘しました。
2018年9月23日(日)
クラブツーリズムにて案内してきました。
いつも見ていたのですが、改めて見るとこれは珍しい埴輪ですね。
冠帽形埴輪・・・
何を表しているんでしょうか?
脇本遺跡と言えば雄略天皇の宮跡の可能性が高い遺跡ですが、雄略天皇はずいぶん小柄な方だったんですね。
なんだ、飛鳥時代か。
なんだじゃなくて・・・
「稲」という文字には反応してしまいます。
多分、「稲」の墨書土器は初めて見ました。
古代史じゃないけど気になる・・・
2019年3月10日(日)
クラブツーリズムにて案内してきました。
いつもながらここでの解説は学芸員のTさんにお任せです。
通説では、馬は5世紀に日本にやってきたことになっていますが、纏向遺跡では4世紀には乗馬が行われていた可能性が高いです。
4世紀の乗馬の形跡は山梨県でも見つかっており、私は通説よりも早く日本列島にて馬が実用化されていたのではないかと考えています。
さらにいうと、日本には朝鮮半島から馬が入ってくるより前に、すでに在来馬がいたのではないかとも睨んでいます。
高地性集落も気になっており、調べて歩きたいのですが、なかなか時間が確保できないですねえ。
今回は外来系土器をたくさん撮りますよ!
2019年5月19日(日)
クラブツーリズムにて案内してきました。
そういえば今まで、古墳時代中心にご紹介していて、縄文時代のことなどは紹介していませんでしたね。
桜井市立埋蔵文化財センターには縄文土器もちゃんと展示してありますよ。
桜井市が平成30年度に調査した遺跡はこのような感じです。
安倍寺遺跡第18次調査。
纏向遺跡の第195次調査。
2019年9月15日(日)
クラブツーリズムにて案内してきました。
今回は茅原大墓古墳出土の盾持人埴輪をご紹介します。
バラバラになっちゃいましたが、笑顔は忘れません。
もともとはこういう形だったんですね。
基部はこのように残っていました。
茅原大墓墳は墳丘長86mの帆立貝形古墳ということで、帆立貝形としたら全国的に見ても大型の部類ですよ。
2019年12月1日(日)
クラブツーリズムにて案内してきました。
探訪記事は準備中です。
4.補足
5.参考資料
・現地説明板