歴史の足跡

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歴史は語る・33・平安京の新都の陰影

2014-10-24 05:13:40 | 例会・催事のお知らせ
三十三、平安京の新都の陰影

桓武天皇には平安遷都をしても、拭い切れない、暗い影を秘めながら政務と皇位の方向性を定めなければならなかった。
皇位継承の皇太子安殿親王の心身不調の蔭に、早良親王の誤った処遇の悔いと怨霊に心痛める日々に、重ねて井上内親王の事が増幅させた。
早良親王は桓武の弟、自分の皇子に継がせたい思いが冷遇し謀反の疑いも成り行きに任せ非業の死に、その報いを恐れ天皇の称号を追悼した。
また井上内親王も他戸親王と共に闇に葬られた。改めて光仁天皇の皇后と復した。桓武天皇は後継については慎重にならざるを得なかった。
延暦二十五年(806)安殿親王は大極殿に於いて即位をした。元号を大同と改め、平城天皇とした。同時に皇太子に同母弟十二歳の賀美能親王が立太子をした。
そんな折り、伊予事件が起きた。大同二年(807)藤原宗成なる男が、桓武天皇の皇子の一人である伊予親王が謀反を企てていると聞き知って、大納言藤原雄友が右大臣藤原内麻呂に相談をして明るみに出た。
危険を知った伊予親王は先に宗成が謀反を勧めたことを天皇に奏上した。所が宗成親王こそ主犯者だと弁解をした。
これを聞き受けた天皇は伊予親王と母藤原吉子を大和国の河原寺に幽閉をした。食事を止められること十日間、運命を悟った二人は毒をあおって自害をした。
その後平城天皇は呵責(かしゃく)の念で、怨霊に際悩まされ、風病(躁鬱病(そううつびょう))にかかって譲位の意を示し東宮に移ってしまった。
これを受けて践祚(桓武天皇より践祚の時より別の日に行うことが常例となった。)即位式を挙げた嵯峨天皇は平城天皇の弟、この時には嵯峨天皇には皇子が無く、平城天皇の高岳親王が皇太子になった。
平城上皇は寵愛していた藤原薬子らや多数の官僚と共に平城故宮に移った。ここに平安京と平城京の二元政治が始まり、それぞれ主権をかけて発令を下した。
この頃平城京で薬子の兄の仲成が平城宮改修に二千五百人の雇夫達と立ち働いていた。薬子の勅令に関わる職責についていたが、こう言った勅令は嵯峨天皇の不意打ちに行われ。
遂に嵯峨天皇は薬子の職を解任、薬子の兄仲成を逮捕監禁で対決姿勢が鮮明になってきた。この事件が「薬子の変」と呼ばれておる。
上皇は東国に入り再起を図ったが、坂上田村麻呂らに行く手を阻まれて出家、薬子も毒を飲んで自殺をした。その後平城上皇は五十一歳まで生き天長元年(824)に没した。

★平城天皇(774~824)平安初期の天皇。在位三年間。桓武天皇の第一の皇子。母は式家の藤原良継の娘。皇后乙牟漏(おとむろう)。藤原種継暗殺事件に連座し皇大弟の早良親王失脚後に立太子した。藤原薬子と密通し桓武天皇の死の際に践祚。即位して大同に改元した。
治世は短く情緒不安定なうえ鬱病に侵されていた。伊予事件では親王と母藤原吉子を死に至らしめ、薬子の変では遷都を強行しょうとして失敗、出家をした。
★嵯峨天皇(786~842)在位十四年間。父桓武天皇、平城天皇とは同母弟、兄の平城天皇の病気の後二十四歳で践祚。政治は桓武天皇を継承し、天皇の権力を強化した。淳和天皇に譲位した後も上皇として君臨をしていた。
★伊予(いよ)親王(しんのう)(?~807)桓武天皇の第三子、母は藤原是公の娘吉子(きっし)、桓武宇天皇は伊予親王を寵愛し、桓武天皇没後は藤原宗成によって謀反の首謀者とされ、伊予親王と母吉子は川原寺に幽閉され食を絶たれ、毒を仰いで死去した。

◆薬子(くすこ)の変*薬子の変平城天皇の寵愛する藤原薬子とその兄藤原仲成らによるクーデター事件。病気で退位した平城上皇が嵯峨天皇から政権奪取を目指して挙兵。平城京遷都を企てた。所が平城天皇の平城京遷都と「人心騒動」「二所朝廷」に賛同は得有られず、仲成は逮捕殺害、上皇は出家、薬子は自殺に終わった。

※またしても皇位継承に暗い影が覆う、平城天皇の異質な振る舞いに平城京へ遷都とそれに加わった仲成都薬子事件は軽率な振る舞いだった。伊予親王事件でも明らかに陰謀と窺える事件にも手を差し伸べなかった。

まだまだ平安京は不安定な状況であったようである。