歴史の足跡

フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」の会」もよろしく。

歴史は語る・34・承和の変

2014-10-26 05:24:17 | 例会・催事のお知らせ
三十四、承和(じょうわ)の変(へん)

光仁十四年(823)四月十六日嵯峨天皇は譲位し、代わって異母兄弟の大伴親王皇太子は淳和天皇として即位した。この即位と同時に正良親王に決められた。
その次を考えてみれば自分の子の恒貞親王に譲位の暗黙の見返りを予測しての譲位が皇太子正良親王への擁立に有った。
桓武天皇の後継者には平城天皇、次に嵯峨天皇、そして次に淳和天皇と異母兄弟が弟に続けて譲位していったが、ここに自分の皇子に継がせたい思いが過ぎって生じたのが、承和の変である。
承和九年(842)嵯峨上皇が五十七歳で死去し、淳和上皇の方が、それより早くその二年前の五十五歳で没した。
嵯峨上皇の死後直後の春宮坊帯刀伴健岑(とうぐうぼうたちかきとものこれみね)と但馬権守橘逸勢が皇太子恒(つね)貞(さだ)皇太子(こうたいし)を奉じて挙兵し、仁明天皇を廃する計画を立てそれが発覚をした。
発覚した原因は伴健岑が平城天皇の皇子阿保親王を謀反に誘ったが阿保親王は前回の薬子の事件で懲りて、ここが挽回とばかりに藤原義房に手渡し良房が仁明に知らせ露見した。
建岑、逸勢に至っては流罪、大納言藤原愛発、中納言藤原吉野等は退けられ淳和天皇の近臣者は排除された。直ちに恒貞親王の皇太子が廃され、良房の甥で仁明天皇の皇子の道康親王が皇太子になった。
仁明天皇はこれまで両統迭立されてきた状態の断ち切るに絶好の機会を得た感じである。結果藤原の良房の天皇家と姻戚関係を造った面で勝利した。
この良房後が摂政時代の先駆けと成った。
承和の遣唐使は親政三代に渡り唐風追随の平安に入って二回目となる遣唐使は一定の成果を収め、参議藤原常嗣が大使に弾正少弼篁副使によって唐の医、陰陽、雅楽、天文、暦などと唐の情勢を知った。
桓武天皇系に平家が誕生したように、嵯峨は多数の皇子に源朝臣の氏姓を与えた。

★恒貞親王(825~884)淳和天皇の第二子。母は皇后正子。嵯峨太上天皇が没すると、承和の変が発覚すると皇太子が廃された。その後は出家し恒(ごう)寂(じゃく)と称し貞観18年に創建された大覚寺の開祖となる。
★藤原良房(804~872)平安の公卿、父は北家の冬嗣、母は南家真作の女。妻は嵯峨天皇の皇女。三十一歳で参議に、翌年権中納言、三十六歳で中納言になった。
承和の変では伴健岑・橘逸勢を謀反罪で捕え、皇太子恒貞親王を廃し、道康親王を皇太子に立て、大納言、右大臣に昇進した。
翌年文徳天皇が没すると、惟仁親王が九歳で即位し、外戚として政務を摂行した。良房が摂関家を不動の基にした。
◆「承和の変」承和九年(842)七月に「承和の変」が勃発した。藤原良房による。伴健岑(ばんこわみね)、橘逸勢らの排斥事件。嵯峨太上天皇の死をきっかけに春宮坊帯(とうぐんぼう)太刀(たちはぎ)の伴健岑、但馬権守の橘逸勢が皇太子恒貞親王を奉じて謀反が計画されていると仁明天皇に上奏があった。
恒貞親王は皇太子を廃し、両者は流罪に処された。この事について父淳和太上天皇は再三固辞したが、許されなかったと言う。
承和の変が発覚すると皇太子は廃された。この事件は裏に嵯峨・仁明派の官人と淳和・恒貞派の官人の対立を利用して藤原良房陰謀説がある。

※藤原良房の画策に承和の変が誘発され、反良房の淳和天皇の皇子恒貞親王が謀反と判定され皇太子を廃し、出家をする、平安時代の前半の摂関時代の先駆けとなる藤原北家の時代に移って行く、良房の女明子(めいし)の生んだ惟(これ)仁(ひと)親王が即位し外戚として権勢を振る形が良房から始まる。
生まれた惟仁親王は皇太子になり、文徳天皇の思いは紀氏所生の第一子惟(これ)喬(たか)親王を皇太子にしたい思いも良房への遠慮で出来なかったと言う。