ブナの中庭で

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舞鶴引揚記念館

2016年10月25日 | いろいろ
見学しながら胸が締め付けられる思いに。

***
舞鶴。
高速道路で通過することはあっても、その町に降り立ったのは初めてでした。

私の母、第二次世界大戦末期、当時6歳。
昭和20年春、両親、幼い弟2名の5名で暮らしていた木浦(モッポ、韓国)から、本土へ向けて引き揚げることになりました。

木浦モッポの港から小さな漁船に乗って、1週間もかけて下関へ到着。
水も食べ物も不足し、船の中ではつぎつぎと亡くなる人がいたそうです。
ようやく到着した下関から、鉄道を乗り継いで金沢へ。
途中通り過ぎた大阪は一面の焼野原で、その悲惨さに乗客がどよめいたそうです。

その母と共に先日、舞鶴引揚記念館を訪れました。


舞鶴引揚記念館は、第二次世界大戦後に大陸からの引揚やシベリア抑留の史実を伝えるために建てられました。


シベリアから日本の家族に送った手紙、日誌などの記録は、2015年10月、ユネスコ世界記憶遺産に登録されました。






引揚船の模型。

よく見ると「宗谷」も。南極観測船も引揚に使われたんだ‥。

記念館からでて引揚記念公園の中の道を登ると。

眼下は、引揚船がついた入り江。
ここでいったいどのような風景が繰り広げられたのでしょう‥。
想像すると胸がしめつけられます‥。
本当に平和が一番です。

舞鶴引揚記念館
 舞鶴市字平1584番地、電話0773-68-0836

4 コメント

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ありがとう (Unknown)
2016-10-28 11:01:15
書いてくれてありがとう。当時のこと少しおぼえています。
大阪までの汽車の中で、海軍の兵隊さんからゆで卵をもらいました。たぶん今思うと広島辺りだったんでしょうね  海軍さんだから(呉港が近い) 私たちが広島を通過した5ヶ月後に原爆が投下されたことになります。 なにか私たちは不思議な幸運を感じます。
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コメントありがとうございました (Repu)
2016-10-28 11:02:25
今回、母から、戦中戦後の苦労した話を聞くことができました。命からがら日本に生還することができたおかげで、私の生命があります。心から、祖父母に深く感謝しています。
このような体験はぜひ語り継いでいただいて、次の私たちの世代が後世へ伝えなければいけないと思っています。
いま残念なのは、亡父からもっともっと、立川基地での少年航空隊の話を聞いておくべきだった、と。壮絶な時間があったと思います。また祖父から木浦での大変だったことも聞きたかったです。
コメントいただき、本当に嬉しいです。ありがとうございました。
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Unknown (白山神駈道の風露草)
2016-12-09 22:23:31
亡くなった家内の両親は上海にいました。敗戦後、工場の後始末で帰国を遅らせた義父。義母は幼い家内と妹を連れ女手ひとつでの引き上げ船。舞鶴でしょう。
その後、家内は高校時代の瀬戸内海を船で大阪から別府に渡る修学旅行に行けませんでした。命がけの悲惨な引き上げ船の記憶がまだ生々しく残る義母、娘を船に乗せることがどうしてもできず必死に反対。哀しい思い出話です。
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白山神駈道の風露草さんへ (Repu)
2016-12-12 22:17:00
コメントありがとうございます。
修学旅行に行けないほど悲惨な体験をされたとは‥。この時代を生き抜いた方々、本当に大変な思いをされました。
この体験を無にしないよう、我々は頑張らないといけませんね。
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