もうすぐ子供の日。
園内では草友会の方々のご協力をいただき、鯉のぼりをあげています。
数年前、霊園に墓所をお持ちの方から「うちではもう上げられないので」と掲揚の竿などもあわせて、一式ご寄付いただきました。
横浜では、こんな大きな鯉のぼりをあげている個人宅は少なくなりました。
先日も、珍しいのか、写真を撮りに来てる人がいました。
大きな鯉だけでなく、ちっちゃな鯉のぼりも一緒にあげています。
鯉は急峻な滝を跳ねあがって龍になる、そんな伝説が鯉のぼりの起源だと聞いたことがあります。
わが子の成長と輝かしい未来を祈念して、鯉のぼりは空に放たれているのですね。
6日までは天気もよさそうですから、鯉も気持ちよく泳げそうです。
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ここ数年、あちこち探していた古書を友人が送ってくれました。
山形県川西町出身の田中仏心老師の行実記。
若い頃に読んで感銘を受けた本です。
田中老師についてFacebookで先輩と会話していた内容を見た友人が、ネットで探して送ってくれました。
昭和6年の発刊ですから、もう92年あまり前の本です。
明治のはじめに廃寺となった道元ゆかりの吉峰(きっぽう)寺(福井県)を30年に再興した。
大正3年8月9日死去。48歳。
出羽(でわ)置賜(おきたま)郡(山形県)出身。旧姓は片岡。名は久弥,のち友昌。
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観光庁のホームページで吉峰寺を検索すると、次のような紹介文があります。
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老梅山吉峰寺:老梅山吉峰寺の概要
吉峰寺は、禅宗・曹洞宗の開祖である道元禅師が1200–1253)が1243年に越前(福井県)に到着後、禅の修行に従事した場所である。
境内には、道元禅師が坐禅をしたと言われる大きな坐禅石があり、現在も参拝することができる。
13世紀、寺には最小限の設備しかなかった。
最も近い竈は、およそ2キロ離れた山の麓の村人の家にしかなかった。
寺に住む僧侶のためのお粥を準備するために、徹通(てっつう)(1219–1309)という名の僧侶は、1日2回、村まで往復した。
炊事、掃除、入浴などの日常的な作業を心からこなすことは、古くから、曹洞宗では重要なことであった。
徹通(てっつう)にとって、山の往復は日常の修行の一つに過ぎなかった。
村人たちは彼の献身に驚き、山道を「徹通坂」(てっつうざか)と呼び始めた。
約900メートルの険しい山道には、慈悲の菩薩である観世音菩薩のさまざまな姿を描いた33体の石像が並んでいる。
徹通は永平寺の第三代住職を務めた。
1244年、道元禅師は新たに開山された大仏寺:永平寺の前身に移った。
道元が離れた後、吉峰寺はほとんど放棄され、徐々に荒廃した。
数世紀後の1892年、永平寺で修行していた田中仏心(1867~1914)という名の若い僧侶が吉峰寺を訪れ、廃寺になっていたことに衝撃を受けた。
仏心は、全国各地の僧侶に復元の援助を求めた。
仏心の努力の結果、1903年、道元禅師650回忌を記念し、「法堂」(達磨堂)が完成した。
残りの修復作業は1907年に終了した。
吉峰寺の特徴は、開山堂が一般公開されていることである。
ほとんどの寺院では、開山堂への入堂は特定の階級の僧侶にのみ許可されている。
永平寺の開山堂と同じように、開山堂の祭壇の中央には道元禅師の大きな像が安置されている。
通常、そのような彫像は幕で隠されているが、吉峰寺では完全に公開され目にすることができる。
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田中老師は山形県川西町生まれ。
米沢の林泉寺、住職の故郷河北町の長谷寺などで修行し、そののち永平寺へ安居。
そこでの不惜身命の修行の様子を、時の貫首滝谷禅師が激賞されたとのこと。
ちなみに田中老師、永平寺では典座寮にて古仏を彷彿とさせる修行をなされたということです。
「今釈迦」とよばれるほどの修行の様子、教化の様子を少しずつ読んでいこうと今からワクワクしているところです。
しかも届いた5月1日は、昭和6年、田中仏心老師の17回忌法要の逮夜(前晩)法要が。
そして今日2日は正當(当日)法要がそれぞれ吉峰寺で行われた日なので、何ともうれしいご因縁であります。
いやあ、まさか手に入るとは思わなかったです。
あちこちの古書専門サイトにリクエストを送っていたのですが、全く見つかりませんでした。
探し方が違うのかなあ・・・
T梨さん、本当にありがとうございました。お勉強させていただきます。
感謝です。
今日はここまで。