さんぜ通信

合掌の郷・倫勝寺のブログです。行事の案内やお寺の折々の風光をつづっていきます。 

典座教訓私訳 第4回

2010-02-28 18:47:07 | お坊さんのお話

 (十)食数・食量の確認

行事を終えて自分の部屋に帰ってきたら、典座はただちに目を閉じ、
僧堂の中には幾人分の坐禅の席があって今そこには何人が起居しているか、
また、先輩や役職経験者など部屋持ちの僧は幾人いるか、さらに、病気療養のための延寿堂、老僧が起居している部屋にそれぞれどれだけの僧がいるか、
他所に出かけて留守の僧侶が何人、また行脚僧が一晩宿泊する旦過(たんが)寮に何人いるか、
境内の塔頭や小庵には幾人いるかと静かに思いめぐらせ、在籍している僧侶の人数をかぞえなさい。

このようにして山内の人数を何度も数え直して、もし少しでも不審な点があれば僧堂の監督責任者である維那や、
各寮の責任者である頭主や寮長、衆寮の長である寮首座に確認しなさい。
疑問が解消し人数を確認し終えたならば、次に食事の分量について寮内のものと相談しなさい。

                                          さんしゅゆの花

たとえば、ひと粒のお米を必要とするときには、ひと粒のお米を供するのだが、
ひと粒のお米を半分に分ければ、半粒のお米が二つできる。ひと粒のお米は三つにも四つにも分けることができる。
また、半分を一つとして使うこともできるし、半分にしたものを二つ使うこともある。
つまり、二つある半粒のお米を用いれば、ひと粒のお米を使ったのと同じことになる。
また、修行僧が食べるうち九分を使えば残りはどれだけになるか、また逆に九分を納めれば全体でいくつになるかを常に把握しておかねばならない。


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算数の問題のような箇所ですが、決まった量のお米しか使えないときにどうやって多くの修行僧を養っていくかということについて書かれています。
若い雲水もいれば、老年のものもあり、病気の僧もいる。彼等がみな同じ量の食事をするわけではないので、
人数や老若、仕事の軽重によって日々のご飯の量を加減し、さらに、年間のお米の量はだいたい決まっているのだから、
修行の人数が多くなればお米をお粥にし、さらに増えれば米湯にして出すことも考えなさい、
またそのためにも、在庫をきちんと把握していなければならない、ということをお伝えになっていると思います。
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                                           ツバキ

修行僧たちは一粒のおいしいお米、すなわち典座の心のこもった食事を頂いて、
そこに潙山霊祐禅師のような立派な志を持った典座和尚の修行の跡方を感じ取り、
また、典座は心のこもった食事をふるまって、水牯牛(すいこぎゅう)に例えられるひたむきに精進する修行僧を見守るのである。
水牯牛すなわち修行僧は、潙山僧すなわち典座の供養を有難く頂戴し、
潙山僧すなわち典座は、水牯牛である修行僧の佛道成就のために心をつくして食事を整える。

                                       枝垂れ紅梅(2区)

人数やお米の量をしっかり把握したかどうか、数を相談された方もきちんと数えられたかどうか。
典座はそれらを何度も繰り返して点検し、きっぱりと明らかに理解したならば、寮内のものにその時々に適切な指示を与え、説き示しなさい。
また、このような工夫精進をひたすらに毎日毎日続け、片時も忘れてはならない。
寺の後援者が寺に来て財を施し、昼食を供養してくれるような時も、他の諸役の方々と一緒に相談しなさい。
これは修行道場の昔からの決まりである。
援助者から施されたさまざまな供物を皆に分配する時も、同じように一緒に相談しなさい。
典座が他の役職の方々の権限を侵すようなことをしてはならない。


(十一)僧食(そうじき)の作法

昼食や朝のお粥を作法に則って用意し終えたならば、それを庫院の韋駄尊天前の机の上に安置する。
典座は袈裟をかけ坐具を展べて、僧堂に向かって焼香し九回礼拝し、礼拝が終わって食事を僧堂へと送りだすのである。

このように、典座は一昼夜をかけて昼食や朝のお粥を調え支度することに勤め、むなしく時を過ごすようなことがあってはならない。
誠実に仕事を行い按排良く食事が出来たならば、典座の立ち居振る舞いや仕事すべてが、自らの仏としての身体を養い育てていく力となるのである。
またそれだけでなく、立場を変えてみれば、食事そのものが修行する者みなの安楽の道となるのである。


わが日本国で仏法の名を聞くようになってだいぶ経つのであるが、
修行僧のための食事を作法通りに作るということに関しては、先人はだれも書き記さず、また諸先輩も教えてくれなかった。
まして修行僧の食べる食事に対して香をたき、心を込めて九回も礼拝してから食事の場に送り出すという僧食九拝の礼などは、夢にも見たことのないことであった。
我が国の一般の人々は、僧侶の食事などまるで鳥や獣の食事と同じようなものと思っているであろう。
食事作法にしてもまことに嘆かわしい様子であり、まったくかなしむべきことである。
一体どうしたらよいものか。

                                         サクランボの花

(十二)中国留学中の体験

1:他は是れ吾にあらず

私が中国に留学して天童山景徳寺で修行していた時、地元寧波(ニンポー)府出身の用という方が典座に任じられていた。


ある日、私が昼食後に東の回廊を通って超然斎という部屋に行こうとしていた時、用典座は仏殿の前で海藻を干していた。
手に竹の杖をもち、頭には笠ひとつ被らずにいるのだが、太陽はカンカンと照りつけ敷き瓦は焼けつくように熱くなっていた。
そのなかで汗だくになりながら、あちこち動き回っては一生懸命に海藻を干しているのである。
その様子は、だいぶ苦しそうにも見えた。背骨は弓のように曲がっているし、眉は鶴のように真っ白である。


私は傍によって用典座の年齢を聞いた。すると用典座は「六十八歳だ」という。
私はいたたまれずに
「このように大変な苦しい仕事を、なぜ下働きものや雇人を使ってやらせないのですか」
と、尋ねた。すると用典座は、
「他人のしたことは、私の修行にはならないよ(他は是れ吾にあらず)」
という。
私は
「老僧が真面目にやっておられるのはよく解ります。しかし、太陽が中天に昇って一番暑いこの時間に、なぜわざわざこのようなことをしているのですか」
と尋ねた。
すると用典座は
「海藻を干すのに一番よい時間をはずして、いつ干せるというのだね。」
と答えたのであった。私は言葉を返すことができなかった。
廊下を歩みながら、私は心のうちで典座の役職がいかに大切な仕事であるかを肝に銘じたのであった。
           
                               (第五回に続く)

 

今日はここまで。

 



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