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皇后・雅子さまの「気を許せる側近」野村一成氏、彼が私に語っていた「皇室」のこと

2021-11-30 11:00:00 | 日記

現代ビジネスオンライン様のホームページより下記の記事をお借りして紹介します。(コピー)です。

「野村のおじさま」
天皇、皇后両陛下の最もつらい時期を支えた比類なき東宮大夫だった。7日4日に81歳で亡くなった元宮内庁東宮大夫とうぐうだいぶ・野村一成いっせいさんを悼む。
2006年4月、駐ロシア大使を退任して、皇太子ご一家(現在の天皇ご一家)のお世話をする宮内庁東宮職のトップである東宮大夫に就任した。1960年代の若かりし頃、駐ソ連大使館で、皇后雅子さまの父・小和田恒さんと共に勤務したことがあり、まだほんの3、4歳ほどだった雅子さまから「野村のおじさま」と呼ばれ、慕われたという。適応障害の治療が続いていた雅子さまにとって「気の許せる側近」の存在が必要で、野村さんの東宮大夫就任にはそうした事情が作用したというのが、衆目の一致するところだった。


野村さんは1940年、名古屋市で生まれ、兵庫県の淡路島で少年時代を過ごした。東大法学部卒業後、外務省に入省。いわゆる「ロシア・スクール」に進んで欧州や旧ソ連の日本大使館で勤務した。ソ連課長などを経て1999年には「国内大使」の「沖縄担当大使」となり、2000年の沖縄サミット開催に力を注いだ。その後駐ドイツ大使、駐ロシア大使を歴任した。
2006年に東宮大夫になった時、雅子さまは療養生活に入ってまだ4年足らずで、病状も深刻だった。大夫として求められた任務は、ひとえに「皇太子ご一家を支え、守ること」「雅子さまの心を解きほぐし、回復を図ること」だった。同じ年に宮内庁常駐記者となった私の記憶に焼き付いているのは、週に1度の定例記者会見で、記者からの辛辣な質問を一身に受け止めて耐え続けていた姿だ。
妃殿下だってたまりませんよ」
当時、雅子さまの療養の影響で、皇太子ご夫妻そろっての公務は極めて少なかった。「公務もしないで私的に高級レストランにばかり行っている」「友人と遊んでばかりいる」といった類いのバッシングが嵐のように続いていた。
2001年に誕生したご夫妻の長女・愛子さまの幼稚園行事などの取材を巡って「取材設定をしろ」「いや、できない。理解してほしい」と、記者との応酬が続いた。
「大木さん、ちょっと、ちょっと」。皇太子さまの誕生日会見の後だったと記憶しているが、ぞろぞろと帰って行くほかの記者たちに内緒で、東宮御所の玄関脇にある小さな応接室にこっそり呼び入れてくれたことがある。
「どうしたら記者のみなさんに理解してもらえるのでしょうね。妃殿下(雅子さま)の取材にしたって、記者団が同じ所に固まって顔色はどうだとか、ご様子拝見とばかりに目の奥をのぞき込むようなことをされたら、妃殿下だってたまりませんよ」。どうしたらご一家を少しでも人間らしい環境に置けるのか、いつもそのことを考え、悩んでいたように思う。
皇太子妃時代の雅子さま(2006年1月)〔PHOTO〕Gettyimages
応接室で話し込んでいると、外で小さな女の子の声が聞こえた。はしゃぐ女の子の後ろから「ほらほら、そっちは駄目ですよ」と壁越しに聞こえてきたのは、ほかならぬ雅子さまの声だった。こんなにも普通で、人間的で、ありのままの、雅子さまと愛子さまの声を聞かせてくれたのは、野村さんからの素敵なプレゼントだったと今も思っている。
2008年、当時の羽毛田信吾宮内庁長官が、皇太子ご一家の御所訪問が少ないことを「両陛下(現在の上皇ご夫妻)も心配されていると思う」と発言した。数日後の皇太子さまの誕生日記者会見で、この件についての質問を買って出た私は、綿密に言葉を練った上で、このように質問した。
「長官がご自分の一存だけであの発言をされたとは、私には到底思えないのですが、皇室のご家庭内のことを、ああした公式の場所で発言せざるを得ない、こういう状況が今の皇室のご家庭の中にあるというこの現状を、どのように受け止めていらっしゃるのかお聞かせください」。家庭内のことを側近に言わせる当時の両陛下への反感も盛り込んだつもりだった。
これに対し皇太子さまは「御所に参内する頻度についてもできる限り心掛けてまいりたいと思っております。家族のプライベートな事柄ですので、これ以上立ち入ってお話しをするのは差し控えたいと思います」とだけ答えた。当然の答えだと思う。野村さんは私の質問を評価し、「考え抜かれた質問だった。質問者があなたでよかった」と言ってくれた。
雅子さまの復活を信じて
私が宮内庁担当を離れ、野村さんが大夫を退任した後は、2人でたびたび杯を交わした。雅子さまの病状は世間が思うよりはずっといいこと。将来、皇后となってからのことには何の不安も感じていないこと。思うように仕事ができない悔しさに雅子さまがたびたび涙を見せていたこと。今、雅子さまが活躍すれば、それを快く思わないであろう人物がいること。いろいろなことを話し合ったが、野村さんはいつも、雅子さまがいつか復活することを信じていた。
皇太子さまの言う「時代に即した新しい公務」が具体的に何なのか分からない、との批判については「あらかじめこれをやりますと言うべきではない」というのが持論だった。「日本の社会や世界との関係は、どんどん変化しているし、これからも変化する。皇室の公務の方向や性質というのはその中で見極めるべきだ」。そんなふうに話していた。
地方訪問をされた雅子さまが予定の一部をこなすことができず落ち込んでいたとき、「お声掛け禁止」の決まりに背いてまで「妃殿下、お疲れさまでした」と声を掛けたある新聞社記者の行動を「人間的で、本当にありがたかった」と喜んだこともあった。記者と皇室が、人間的で暖かみのある気さくな関係を持つことを望んでいた。
名護の夜の思い出
沖縄担当大使を務めた縁もあり、沖縄の大学での学生指導にも熱心だった。地域の振興を目指すとともに沖縄平和祈念堂を運営する公益法人「沖縄協会」の会長も務めた。
2013年11月、沖縄県名護市にある名桜大学で国際文化をテーマに集中講義をすると聞き、東京から名護まで押しかけて聴講させてもらったことがある。
その日、2人で名護の夜を過ごしながら、野村さんは言った。「大木さん、見ていてくださいね。妃殿下は必ず復活する。立派な皇后になる。これまでの皇后とは全く違う皇后に」。治療の一環として、東京・渋谷の国連大学で国際関係論の聴講を続けていた雅子さまの志向や行動力を、活発な慈善活動で知られた英国の故ダイアナ元皇太子妃に例えることもあった。
雅子さまのことは常に「妃殿下」と呼んでいたが、酔いが回ると、ふと「雅子さん」になることがあった。そんな時の表情は、昔の「優しい野村のおじさま」に戻っているように感じられた。
天皇陛下が即位し、雅子さまは皇后となった。断言していた通り、雅子さまは見事に復活した。コロナ禍に阻まれてはいるが、野村さんが支え続けた皇太子妃は、願った通りの皇后像を描こうとしているように思える。
雅子さまの復活を見届けたかのように、野村さんは突然逝ってしまった。もっともっと長く、両陛下の活躍を見守っていてほしかった。心からのご冥福をお祈りいたします。

皇室記者からの追悼

大木 賢一 プロフィール



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