定年夫婦の暮らし方(店長日記)

盛岡に住む定年夫婦(昭和20年生)の暮らしを分ち合います。

115回ピースボート世界一周航海記その46(マレーシア ランカウイ島)

2024年04月16日 | 思い出の旅行

      2023年ピースボート航海記 その18 ランカウイ島 マレーシア
    11月24日(金)
             日の出;7:13         日の入:19:02

   7時            入港 ランカウイ・クルーズターミナル1番埠頭着岸
   21時        帰船リミット

   9時、    ビスタラウンジ集合
   9時30分、 バスで出発(45分)
           スカイキャブ・ケーブルカー
           オリエンタルビレッジ
           テラガ・ハーバー・パーク
           バスで港へ(45分)
   13時      港着

 7時30分、14階でパン、茹で卵、野菜の朝食
 8時、帰室
 9時前、集合場所へ、時間通り5階玄門から下船、ターミナルまで桟橋(屋根付きの歩道)と更に土産屋やテストランなどが並ぶ商店街を合計900メートルほど歩き、駐車場に着く、バスは乗客が揃い直ぐに出発、今回は順調だった。
 英語ガイドの案内を聞きながら(ほとんど分からないが単語で内容を判断する)45分ほどのドライブ、途中に小さなリゾートホテルや地元資本の小さなレストランや店が見える、小さな店のほとんどは店を閉めている、使われていないゴーカート場もあった、観光客を当て込んでつくったのだろう。リゾートホテルもうまく行っているのかどうか分からない。
 大きな原っぱがあったガイドは飛行場だと言っていたが飛行機も舗装された滑走路も見えなかった。ガイドブックには「ランカウイ・インターナショナル・エアポート」となっていた。
 海岸沿いにコンクリートの建物が続いていた、洋式(軍隊か警察の制服か)とインドネシア(腰に紺色の布を巻き、肩から胸にかけて槐色の胸当て)の制服を着た若者の集団が整列していた、警察学校の訓練施設の様に見えた。
 牛は見た(1頭だけ)が畑らしいものは見られなかった。この辺の住民はなんで暮らしているのか?
 やがて数十棟並ぶ施設(オリエンタル・ビレッジ)が見える、ここが目的地のようだ。施設の中は小川が流れ、小さな吊り橋がかかり、ドーム型の建物、何か分からない近代的な建物、デズニーランド風の建物などごちゃごちゃに並んでいた。
 広場の前がスカイキャブ・ケーブルカーの乗場、チケットに記載されているバーコードを読み込むとゲートが開く、小さな6人乗りのケーブルカーがどんどんやってくる。5〜6人で一と組になり乗り込む、向かい側に下段に三人、私たちは上段に二人(三人用)がけ、(左に私、右にカミさん)、乗降の手際が良い(効率も良いように思えた)、VIP用(特別料金で二人掛け?確認できなかった)もあった。
 ケーブルカーはぐいぐい急勾配を登って行く、遠くに海に浮かぶ小さな島が見える、下は鬱蒼たる森林、左、遠方に滝も見えた、左右は見えるが、下は客がいて邪魔、上は後に向かなければ見えない。上を見上げるとケーブルカーの終点が見えた、かなりの角度だ。
 左側から頂上付近に大きな鉄塔で吊るされた橋が見える、床はガラス張りの様だ、人が歩いているのが見える。カミさんは「無理」と言っている。
 到着と思ったら、頂上はもう一段上だった。ケーブルカーを降り売店が並ぶ通路を通り展望台に登る、展望が素晴らしい、海に囲まれた森と海に囲まれている岬の景色を楽しむ、この施設「オリエンタル・ビレッジ」の施設と海岸にあるホテル、レストランがわずかに人工的なもので後は自然そのままだ。
 目の前にトイレがあったので入る(何でも見てやろう精神?)、綺麗だった。入口でティシュペーパーを売っていた。
 「スカイブリッジ」?は別料金とのこと、カミさんも「あなただけ行って、ここで待っている」と言う、チケットを買うのに行列も出来ており、それほどして渡る好奇心もないので止め、降りることにする。ケーブルカーは待たずにすぐ乗れた、下りの景色も楽しめたがあっという間に到着。
 ケーブルカーの土産品売場でココナツの実のボール(1個20RM ポテトチップ1、クッキー1計10RM)を購入する。
 集合場所で少し待ってバス乗り場へ向かう、小川にかかっていた吊り橋を渡る、小さいが横揺れが激しくスリルがあった。バスはもと来た道を戻り、何も無いヨットハーバーで休憩(ツアーの予定に入っていたテラガ・ハーバー・パークの様だ)、1時過ぎに出発した駐車場に到着、これでツアーは終了。
 土産屋の前を歩く、ここの土産屋さんで残ったマレーシア・リンキッドを使うことにする。

・臈纈染のポーチ1個(30RM)、小物入れ2個(1個15RM)、計60RM.。若い主婦が自分で作ったと言う。約1800円。
・店の前で美味しそうにビールを飲んでいる夫婦がいたので声をかけると「タイガービール、美味しい!」と言っていたのでビールを注文、1杯14RM で28RM  
・お腹が空いたのでサンドイッチと揚げパンをカミさんが注文(二人前50RM)、これがなかなか出てこない、隣の夫婦もかなり待たされて焼きそばのような料理が届いた、奥さんが多いのでとお裾分けしてくれた、一人前のような量だった、麺は短く柔らかめ、味は濃く辛い、私は良かったがカミさんは辛いとあまり食べない、結局私が平らげる。サンドイッチが出てこないので何回も催促(店員には通じない?心もとない対応)し、1時間ほど待ってようやく出てきた、既にほぼ満腹状態、ビールは空なので、水を飲みながらポテトチップスを食べ、サンドイッチは持ち帰ることにした。最悪な店だった。
・ネットを使うためフリーWiFiが使えるホテルの売店でビールを注文、14RM
 ここの店が大変だった!WiFiを使ってネットを処理していたが、ビールがなかなか来ないので若い女店員に伝えるとようやくビールを持ってきた、そして何とビール代を支払えと言う、シートを見せて「頼んだビールがきていない、この分は既に払っている」と言っても通じない、やはり「はらえ」と言う、中年の男の店員がいたので説明すると「OK!」と言ってくれた。最初に担当した若いボーイ(店にはいなかった)が忘れたとした思えない。二度の体験はマレーシアへの悪い印象を残した。

 カミさんは疲れているので先に帰る。シンガポール入国の手続きをしたが、かなり面倒、サイトを探すのも一苦労、手続きをするとピースボートがくれた案内には無い事項がある。まず、国番号でつまずく、選択がたくさんあって選ぶのが大変、操作を間違うと最初からやり直し、結局、諦める。メール処理(不要メールが100件以上溜まっていた。)
 ホテルを出て、船に戻る、途中から雨が降り始め風も吹いて傘もお猪口になるほど、桟橋に屋根があるが横風でまともに雨に当たる。何とか船に戻ったがかなり濡れていた。部屋に戻り、シャワーを浴びる、カミさんは寝ていた、昨日は咳で寝られなかったのだろう。今日は大変な日だった、これからはレシートをもらい、遅かったら店員に確認することが必要、日本の様に信頼してはいけない。
 持ち帰ったサンドイッチを夕食代わりに食べる、50RMはかなり高かったが結構美味しかった。

 

 

 11月25日(土) ランカウイ島 マレーシア 出航2日目

       日の出;7:10         日の入:17:02

 7時30分、起床
 8時、   朝食、6階レストランで洋食(初めて)
      食パン、(オムレツ、ベーコン、サラダ、枝豆)、スープ、チョコレートフレーク、
      牛乳、パイナップルジュース、デザート(葡萄、オレンジ)、コーヒー
      ボリュームがあり美味しかった。カミさんは多かったと言う。
      なぜか客が少なかった。
 9時30分 WiFi100分を買って帰室、シンガポールの入国手続きをする、面倒、国番号はレセプションで聞いて書き込んで行く、都市・港など選択項目が多いので選ぶのが大変、何とか、やり終え、無事返事のメールも届いた。カミさんが帰ってきたので咳の申告について相談、咳ありで再申告することにした。
 12時、カミさんが朝ご飯が多かったのでお腹が減っていないと言う、部屋で昨日のパンとりんごを食べる。
 行き交う船が増えてきた。貨物船に混じって漁船(定地綱か2グループ計5隻)も通過する。
 14時30分、カミさんは指圧へ
 15時、パスポートの受け取り7階ビスタラウンジへ、ついでにシンガポール入国手続きに「咳、熱など」について質問があったが「無し」で回答した。若干咳をするので修正したほうが良いか聞いたところ大丈夫とのこと。
 16時、カミさん帰って来る、パスポートを受け取りに5階レセプションへ。
 17時20分、夕食、5階レストランへ。前菜(野菜、鶏肉、パン)スープ(玉ねぎ、チーズのトッピング)、メイン(牛肉とご飯)、デザート(ケーキ)、コーヒー
 18時過ぎ、帰室。

 

 

 ランカウイ・クルーズターミナル1番埠頭着岸

 

 遠方の景色

 

 Sky Cab乗り場周辺  

 

 蓮の花が咲いていた

 

  Sky Cab乗り場、結構混んでいます。

 

 ケーブルカー(小さく見えます)が山の頂上まで運んでくれます。

 

 頂上の風景(左、スカイブリッジに向かうケーブルカー)

 

 ケーブルカーとスカイブリッジ

 

 展望台で

 

 紫陽花が咲いていました。

 

 ビールと焼きそば(隣のご夫婦からお裾分け) 

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115回ピースボート世界一周航海記その45(インド洋航海)

2024年03月26日 | 思い出の旅行

 2023年ピースボート航海記 その17 コロンボ港出航 インド洋航海

 11月21日(火)  
 日の出:5:58     日の入:17:35 

 8時、起床、カミさんの咳で夜中まで眠れなかったが朝方少し寝た様な気がする。
 8時30分、朝食のため5階へ行く、咳が心配なので二人席をお願いする。窓際の良い場所、船が2隻見える。
 9時30分、ショップで買い物をして帰室、カミさんは寝る。私はアウシュビッツの絵を描く。
 11時30分、カミさんを起こして5階レストランへ行く、Kさんに会う、今日、手話の発表会があるとのこと、カミさんは参加する様に言われる。ツアー受付でオプショナルツアーの申し込み(「ランカウイ島ショート観光」11,000円)をする。
 12時、帰室、カミさんは寝る、私はアウシュビッツの絵2作目を描く。その後、私も昼寝。
 16時、カミさんが帰ってくる、手話の発表会に出たとのこと、最初は一番前に座っていたが咳がひどく後に移動、そこでMさんに会ったのでスケッチを渡しておいたとのこと。
 17時30分、14階で夕食、ご飯、スープ、手羽の唐揚げ、ブドウ、紅茶、ケーキ、ゼリー
 19時前、帰室、

途中まで見た発表会の感想(カミさんの感想)
・皆さんそれぞれ楽しんでいる、見ていて気持ちよかった。
・若い男女がそれぞれ独唱した、男の子が歌った(「あなたに出会えてよかった!」の歌詞)は共感を呼び拍手を浴びた。
・手話(カミさんも参加を促されたが咳と遅れで不参加)はアウシュビッツに一緒に行った若いNKさんが先頭で頑張っていた。
・ビートルズ世代の爺さん二人がビートルズナンバーを数曲ギターを弾きながら歌って拍手喝采を浴びていた。
・バレーボールはパスを25回続ける。(新しい競技、舞台バレー?)
・全員黒の衣装で沖縄の空手の型、護身術を披露、カッコよかった。
・舞台一杯に中年以上の男女のラインダンスを披露、盛り上がっていた。

 

 11月22日(水)  
 日の出:7:06      日の入: 18:41

 7時30分、起床 水平線上にフランスパンのような雲、上空には雲の大きな塊、雲の合間には青空が覗く。
 8時、朝食、5階、二人席にしてもらう、和食
 9時、帰室、カミさんは寝る。
 10時30分 いろいろの日特別企画 結婚50年目の赤裸々トーク!にカミさんが参加、 私は読書と昼寝。
 11時15分、カミさん帰室、
  二組の夫婦(二人とも穏やかな感じの夫婦だった)が司会の質問に応える、
  ・出会いはどこで? 
    80代:喫茶店(奥さん(助産婦)が旅行で訪れていた)で夫が声を掛  けた 
    70代:カフェで夫が声をかけた
  ・プロポーズの言葉は?
    80代:奥さんを訪ねて飛行機で札幌まで行った。言葉は不明
    70代:覚えていない
  ・50年間で何が大変だったですか
    80代:仕事、子育て、親の面倒などで眠る時間を削って頑張ったことが大変だった。(寝る時間が2時間あればよかった)*夫は気づいていなかった(夫の反応:そうだったのか?)
    70代:横浜の旧家の長男で自分の家族を大事にして自分(妻)への配慮に 欠けていた。夫は自分が着飾ることを望んでいたので十分におしゃれもできた。今回もたくさん買い物をした。
             
 14時、14階で遅い昼食、パン、牛乳、野菜、ケーキ、ゼリー、お茶
 15時、帰室、二人とも寝る。
 17時30分、夕食、5階レストラン、ビール小瓶1本、前菜、スープ、メインは太刀魚のフライ、チョコレートムース、コーヒー。ビールの効果か美味しく食べられた。
 18時30分、食後ロビーでピアノ演奏(TOMOFUMI)を聴きながら読書、今までにないピアノの音色だった。
 19時30分、帰室。カミさん参加の「赤裸々トーク」を記録。


 11月23日(木)  
 日の出:7:40      日の入: 19:15
 
 予定 乗客対象避難訓練 9時15分
    →割り当てられたマスターステーションまで移動し、非常時の集合場所の確認を行う。
     警報が鳴ったらIDカード持参で移動のこと。

 曇り、波穏やか
 昨日も、夜中まで眠れなかった、朝方は少し寝たように思える。
 8時過ぎ、起床
 9時15分、乗客対象避難訓練開始のアナウンス。
 避難用階段で7階まで降りてデッキに出る、船の中央にあるマスタールーム(表示小さくがわかりにい)に入る、入口でIDカードのチェックを受け中に、中は既に乗客でいっぱい、放送ではなく時間に合わせて避難したようだ。10分過ぎても何のアナウンスもない、ただ待つのみ、デッキではノルディック歩行する夫婦がいる(何の注意も受けていない)、20分過ぎた頃、イライラする客が出てくる。何と30分経過した頃に避難してくる客が10数名いた、(周知不足か意識が低いか?)30分過ぎて、ようやく訓練終了の船内アナウンスがあった。実効性が上がるように問題点を指摘しておきたい。
・訓練の事前に、また当日、待機している客への説明(目的、内容など繰り返す)が必要。できれば救命ボートの乗り方、救援要請方法まで説明すべき。
 訓練手順が無いのではないか?クルーが沢山いるのにただ立っているだけ、客がイライラしているにも関わらず知らん顔。→クルーの役割分担を明確にする
・集合場所にハンディーマイクが不可欠、説明が聞こえないと混乱が起きる可能性が高い、また、指示(誘導など)の徹底が図れない(安全に避難できない)
 *集合場所が狭いので客の動揺は危険
・遅れてきた客に遅れの原因を聞く必要がある。→アナウンスなど周知方法の改善につなげる。
・サインが分かりにくい(高齢者を考慮していない)ので迷う客が出る(サインの改良、位置、デザイン)
・いくつか非常用を兼た階段があるが客が指示された階段を使っているか確認していない。
 我々が使用した階段、集合場所前には誘導するスタッフがいなかった。
 (部屋の中に入っていた)
・集合場所が狭まく出入口が限られているのでパニックに落ちいたら危険、IDチェックが終わったら場所を決めて分散させてはどうか。(そのまま救命ボートに乗り込めるように)
・訓練が中途半端、指定された避難場所に集まって終わりではない、ここから始まるのでは?
 集まって、次に何をするのか、具体的に説明しておく必要がある。

   「訓練は本番の様に、本番は訓練の様に」が鉄則、全くなっていない。

 10時、帰室、朝食がわりにりんご、ほうじ茶、14階から持ってきたパン3個、ジュース
 12時30分、7階のレストランで昼食、前菜なし、スープ、魚の揚げ物にご飯、デザートはアイスクリーム、シンガポールの夫妻に会ったのでスケッチ2枚(海、とパナマの十字架の丘から見た風景)、CDをプレゼントする。喜んでくれた。住所と、メールアドレスを渡す。
 14時、帰室、日本船(〇〇丸の文字が見えた)がすれ違った。読書、寝る
 17時、5階レストランへ夕食、前菜:合鴨、スープ:春雨 メイン:魚 デザート:ケーキ、コーヒー、ビール小瓶1本
 18時、アトリウムで読書
 19時、帰室、シャワー、記録
 

 

 


  
  
 

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115回ピースボート世界一周航海記その44(スリランカ コロンボ港)

2024年03月26日 | 思い出の旅行

 2023年ピースボート航海記 その17 コロンボ港 スリランカ

          日の出:         日の入:

  11月20日(月) 入港6時 コロンボ港UCT埠頭着岸予定
              Colombo port UCT「Unity Container Terminal」
              
                      利用ゲート ゲート2番または1A番
              ゲート2番の通称:G.O.H.ゲート
              ゲート1A番の通称:チャイティアゲート
       出航22時
       帰船リミット  21:00

 6時、起床
 7時、5階レストランで和食、京都の中年の女性(50歳くらいか?一緒に乗っている子供は別行動、本人はオプショナルツアーに参加するとのこと。)と同席、ピースボートの観光のこと等、懇談する。話の中で中南米に多い建築途中と思われる鉄筋剥き出し状態の住宅は税金対策(ガイドの説明では建築途中の場合は税金が安くなる)とのこと、ようやく疑問が解けた。
 8時、帰室
 9時、準備して下船、少し待ってシャトルバスで市内へ、コンテナターミナルのため出口まで遠い。出口では観光ツクツクが10台以上待っている、断ってもついてくる、客を探すのも大変だが、断るのも大変。外の日差しはキツイ(日陰は涼しい)、取り敢えず、小さな店が並ぶ道を歩く。
 IDカードのようなものを下げたおじさんがツクツクを呼んで無理無理乗せた、値段交渉も出来ないまま「まあまあ」のような感じ(怪しいと思ったがその通りだった)、2時間観光すると言う、インドのヒンズー寺院に行くと「10ドル」と言う、入館料か?興味ないので断る、次は中国が建てたと言ういやらしい塔(蓮の実をイメージした?)、中に入るかと言われ断り写真を撮ったけ(写真も撮りたくない)、ノリタケのショールームがあったので「ノリタケ!」と言ったら停めて店に案内された。買う気も無いので一通り商品を眺めただけ。
 次はお茶を飲まないかと言う、ご馳走してもいいかと思い「Ok」と言うと店の前に停める、カフェではない、紅茶の販売店だった、入るとお茶が出て一通り、商品の説明が始まる、これを買えと言うことらしい。紅茶の土産は買う予定だったので少し買う。
 次は宝石の説明を始める、断っても宝石屋に連れて行かれる。待ってましたとばかり店員が商品を持って来て説明を始める。カミさんは断れず彩子と愛子用と言ってネックレスを買う、そしたら次にブレスレットを持ってきてカミさんの手につける、カミさんはもう買う気モードに入った、「記念に」と言い出す。結局、一番高いブレスレット買う羽目になった。
 運転手にコロンボ国立博物館に行くように伝える、博物館に着いてここで良いと言うといきなり「40ドル」と言われる、一人、14ドルのはずだった、車代を書くように言っても書かなかった理由が分かった。最悪のツクツクに捕まった、油断した自分が悪いと半分の40ドル支払った。そしたら二人分だから80ドルと言い出したので日本語で「ふざけるな!」と怒鳴ったらスゴスゴ引き下がった。
 博物館は前回のピースボートの旅で訪れたところ、ツアー客(団体)も来ていた、エアコンは無く大きな扇風機が回っているだけ、日陰は涼しいので問題なかった。
 仏教やヒンズー教の遺品(金属、石、象牙、土製)が面白い、仏像の表現がそのままヒンズー教に生かされている(顔の表現は似ている)、仏教文化を壊して再構築したのではない。
 仏像を制作した鋳造技術だけでなく生活に必要な鉄製の道具(斧、鍬、鎌、鑿、楔、釘、ハサミ)も展示されていた。また、復元したものか出土したのか丸太舟が展示されていた(真っすぐな丸太(直径70〜80センチ、長さは10メートルはあったと思う)をくり抜いていた。)スリランカの周辺で使っていたのか、帆は張れないのでオールで漕いだろう。
 中国からの渡来品(陶磁器は素晴らしい)が完全な状態で展示されていた。東西交流の証である。直接中国から伝わったものではなく東南アジア経由しではないか。伝わった当時、スリランカには始末な土器しかなかったのでは、そうであれば中国磁器は宝物だったろう。
 仏像もヒンズー教の神像も同じように腰がくびれている、また顔も鼻筋が通って唇が厚め。ヒンズー教の神像は豊満でうねるような動きが魅力的、仏像とは全く異なる表現手法である。
 石像を制作する道具は興味深かった。モデルになる仏像の要所に上から重し(木?)を付けた糸を垂らして位置を決め彫っていくようだ。(石彫には色々な測定方法がある)
 職員に連れて行ってもらい建物の外にあるトイレに入る、大便器は昔の日本と同じだった。カミさんは汚そうだから入らないと言う、大変だ!博物館を出ると通りの向かいに綺麗なコーヒーショップあったので入ることにする。エアコンが効いて涼しい、建物は新しくきれい、アメリカンコーヒーとマンゴジュース、サンドイッチ、ホットドック、ケーキを頼む、美味しい。トイレも綺麗とカミさんは満足していた。
 一息ついて、ツクツクに乗る、こりたので値段交渉をしっかりする、もちろん紙にも書く。「Pettah」まで600ルピー、妥当だ!運転手に歳を聞くと笑いながら70歳と言う、我々は78歳と言うと驚いていた。
「Pettah」は小さな店が表通りから裏通りまでギッチリ並ぶ繁華街、人で溢れている。歩いていると店員に声をかけられる「ジャパン、今日は!」「ありがとう!」「東京?」などと気さくな人々だ。靴、鞄、スマホ部品、衣類、電気製品、CD、スパイス、ナッツ、などの店、店員は皆男だ。
 駅があったので屋根がある陸橋を渡る、階段を上がったら道路の半分は店になっていた。ものもらいもいた、ここであれば日差しも雨も避けられるし人は通るので商売にも良い場所だ。駅でどこから来て、どこに行くのか?バックパッカーの欧米の男女の若者が切符を買っていた、すごいエネルギーだ、良い経験になるだろう、ちょっと羨ましいかった。 
 駅を見物してシャトルバス乗り場に向かう、途中、池がある小さな公園で休む、日陰は涼しい、石のベンチ(カミさんと一緒にウエットティシュで綺麗にして)に腰掛けて涼む。魚は住めそうにないが鷺が数羽、藻で緑色になった池に立っている、壊れて使われていない様な鉄橋を扉がない列車が走って行った。
 ヒルトンホテルが見えたのでお茶を飲むことにする。リュックを背負った姿でちっと気が引けたが堂々と乗り込んだ。荷物チェックがあったがホテルマンはにこやかに迎えてくれた。屋上にカフェがあったら行きたいと言ったら女性職員に2階に連れて行かれて写真を撮って1階へ戻った(伝わっていなかった?)、カミさんが2階いた女性職員に折り鶴をプレゼントしたら喜んでくれた。
 1階のカフェでコーヒーとマンゴジュースを注文する。wi-fiもパスワードとユーザーネームを職員に聞いてメールの処理をした、なぜかLINEは使えなかった。エアコンが効いているカフェでゆっくり休み、綺麗なトイレを利用して元気になったので帰ることにする。
 シャトルバス乗場はカミさんが見つけてくれた。20分ほど待ってバスに乗り込みパシフィック・ワールド号の前で降りる、残った500ルピーでお土産を買って17時、帰船、シャワーを浴びてコロンボの誇りを落とす。
 18時、14階で夕食、ビールを飲む、冷えていて美味しい。
 19時、帰室、カミさんは寝る、私は記録を作成。
 23時、出港

 

 コロンボ港

 

 善人が豹変した悪徳運転手(観光すると言うツクツクは必ず紙に書いてもらうことが必要)

 

 ヒンズー寺院 興味なかったが連れて行かれた

 

 中国が建てた蓮形の気持ち悪いタワー ここも連れてこられた、運転手も嫌いだと言っていた。 

 

 コーヒー、紅茶、香辛料屋さん

 

 宝石屋さん カミさんは勧められると断れない

 

 コロンボ国立博物館で 涅槃像

 

 釈迦坐像 

 

 マカラ(インド神話に登場する怪魚)アーチ下の瞑想像 

 

 衣の襞が美しい仏像、ギリシャ彫刻の影響か?

 

 中国の磁器は中国との交流を物語っている

 

 

 鉄製品 左はナタ、右は鍬?

 

 鎌?

 

 博物館前のカフェで昼食 店もトイレも綺麗だった

 

 商店街風景、小さな店舗が並ぶ昔のアメヤ横丁の雰囲気

 

 食品のショーウィンドウ

  

 コロンボ駅前の歩道橋 露店が並んでいる

 

 コロンボ駅構内の風景 列車が見える

 

 ツクツクのパトカー?

 

 公園で休んでいたら古びた鉄橋を列車が通過して行った、ドアは開け放しだった。

 

 ヒルトンホテルで一休み、ここは別世界だった。

 

 

 

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115回ピースボート世界一周航海記その43(インド洋航行その3)

2024年03月26日 | 思い出の旅行

11月16日(木) 

日の出:4:54      日の入:16:11

 7時起床、
 8時、5階で和食、同年代の夫婦とピースボート、アウシュビッツ、ユダヤ人問題、差別、日本の軍隊など多彩な話題で話し合うことができた。
 10時、帰室 
 14階でジュース、オレンジを食べ5階で休息
 12時、6階で洋食の昼食、しっかりフルコースだった。
 男3人と同席、メインは鶏肉、同席した方からオーロラの写真(赤青色が確認された)を見せてもらう、肉眼では白色しか見えない、画像処理して色が出たとのこと。私の写真はオーロラ?
また、望遠で撮った自衛鑑の写真(自衛官が半ズボンでリラッスしている姿)も見せていただいた。恐るべし望遠レンズ、油断できない。
 二人は先に去り、残った一人(69歳)の方と懇談した。
 13時30分、帰室、休息、カミさんは昼寝、私は船内新聞で封筒(お世話になった方にプレゼントを入れる)作り(8枚作成)
 16時30分、森達也監督の映画「福田村事件」ができるまでを見る。
 <船内新聞に掲載された内容>
 「数々のドキュメンタリーを手がけてきた森さんが、関東大震災直後の混乱の中で実際に起こった殺害事件を劇場作品「福田村事件」に込めたメッセージについて述べる。」
 四国讃岐から来た薬売りが関東大震災直後に朝鮮人が襲ってくるとの流言飛語により福田村で村民に襲われ8名惨殺された事件をテーマにしている。殺害に関わった村人は大正天皇崩御の恩赦により釈放されたとのこと。さらに悲劇的なことに襲われた人が被差別部落出身であったことから釈放に対する抗議は無かったとのこと。
 上映中なので予告版を見ながらの説明であった。撮影はコロナ感染拡大中で大変だった(誰か罹れば中止)撮影場所もテーマがテーマだけに断られたが幸い森氏の本を読んでいた寺の理解を得て撮影できた、予算も無いので1ヶ月で完成させた。(通常は3ヶ月かかる)。制作は若松プロダクション、製作費1億円(3千万円はクラウドファンディングで集めた)俳優も積極的に出演してくれた。9月配信後、国内で上映されている、韓国の映画祭で受賞し苦手なレッドカーペットを歩いた、中国でも配信するとのこと。関東大震災時に在日韓国人が殺されたことを韓国ではほとんど知られていない、なぜなら在日韓国人は韓国人にとって裏切り者だから(在日韓国人は母国韓国と居住地日本からの二重差別を受けている)
 森氏は日本は加害側に立った映画を制作していない、アメリカ、ドイツ、韓国でもしっかり映画化していると言う。安倍元総理など右派は自虐的と言う、また、歴史的な検証(例、南京事件)がまず必要と言う、全員が一致することはない、結局結論は出ない、だから謝らないと言うことか。


11月17日(金) 

日の出:5:27      日の入:16:52

  海賊対策終了
  時差1時間早める 時差7時間   明日0時には8時間になる
  夜は音と揺れがあったが朝になると揺れが収まり穏やかな航海

 8時、朝食5階で二人だけだった。4人掛けテーブルに二人だけ。誰とも会話出来なかった。
10時、カミさんは運動会の応援、私は読書「我が闘争」、掃除スタッフが窓の覆いを外しに来た。海賊対策は終了、ようやく海が見え、照明を使えるようになった。
12時、カミさん帰ってくる。そのまま6階レストランへ、メイン:ステーキ、デザート:アイスクリーム、多いに満足。
私たちより若い夫婦と同席、北九州市から初めて乗った、レンタカーで乳頭温泉、三陸海岸に行ったことがある、乳頭温泉では白人の女性と混浴で一緒になった(奥さんの前で感激したと言っていた。)、日記を付けているとのこと。私は18年前の航海記はブログで配信している、地元新聞に6回シリーズで掲載してもらったことなどをお話しする。名刺をいただく。

13時、帰室、部屋で読書「我が闘争」
   カミさんは運動会へ、

16時、カミさん運動会から帰ってくる。
   運動会で出会ったのでNさんへのプレゼントを渡しに行く。
16時30分、カミさん帰ってくる
17時、5階のレストランへ夕食、大きなテーブルにバラバラに座らされて話が出来ない。前菜は牛肉と野菜、スープは牛のテール、コンソメ メインは白身魚のフライ、タルタルソース添え、デザート:ケーキ、コーヒー
 私の隣は高齢の女性(80歳代)、離れて同年代の男二人、皆無口で食事。女性がカミさんに「どちらが勝ったの」と聞いてきたので「まだ、わかりません」と答える。その後、会話が途絶え、男二人は結局何も喋らず席をたった。食後、私が「どちらからいらしゃいましたか?」と話しかけると「前は神戸、今は千葉、何もないところ」と言う。色々聞くと50年前に神戸から引っ越してきたが千葉には何も無い、魚は取れるけど良いものは築地に行ってしまうとこぼす。ピースボートには1回目に乗り、飛鳥含めてクルーズ船は今回で4回目とのこと。クルーズ船に詳しい。飛鳥は船も客あしらえも良いがピースボートはボロだけど観光しやすいと言う。元気なお婆さんだった。

18時、5階ロビーで一休み、私は帰室
18時30分、洗濯とシャワー 
19時30分、カミさん帰室、ソファで寝ていたとのこと。
21時、カミさんは洗濯して寝る
 記録と読書「我が闘争」広告論が面白い、宣伝のポイント、重要性を認識していたことに驚く。
イギリスは優れていると言っている。日本も戦時ポスターが盛んに制作された。(職場の先輩だったUKさんの戦中のポスター作品を思い出す)効果、軍部の意向はどうだったのだろうか?

 

 

11月18日(土)

 日の出:6:06      日の入:17:39
 *時差調整 明日、30分、早める   計8時間30分
 予定
 14:45〜15:25  航海の雑学 最終回「ランカウイから日本まで」
 16:15〜17:15  わくわく寄港地〜コロンボ&ランカウイ島〜
 19:00〜 信仰についての集まり(盛岡のMさんから出席するように依頼された)

 7時、起床
 8時、朝食5階で和食を食べる
 我々よりかなり若い夫婦と同席、奥さんは先に用があって退席、夫は残り懇談、盛岡から来たと言うと、盛岡に行ったことがある、息子が地方裁判所に勤務していた、結婚式も花巻でやった、岡山出身なので親戚は飛行機で行ったとのことなど、話が出た。夫は65歳と言うが若い、皺が無いし、髪は真っ黒だった、カミさんもびっくり。
 今回、カナダ大使館勤務の息子一家と出会えた、そのことがPBに乗った目的とのこと、二人の孫が写っている撮った写真を見せてもらった。可愛い盛り、5歳の孫と2歳のひ孫を思い出した。
 9時30分、帰室、シンドラー博物館、アウシュビッツ強制収容所の記録作成
      カミさんは診療室へ
 12時30分、カミさんは診てもらえなかったと言いながら帰って来る。
      そのまま、咳が気になるので14階へ行き、昼食。やたらと辛い麻婆豆腐、野菜、豚肉、大学芋、ゼリー(抹茶味、珍しく美味しい)、コーヒー牛乳
 13時15分、帰室、カミさんは診療室へ
 14時45分、航海の雑学最終回、航路図でイスタンブールから横浜までの航路、岬、灯台を説明。
海賊対策での自衛隊の護衛、モンスーン、海流について


「自衛隊の海賊対策」
<状況>
・紅海の出口、一番狭い海峡が狙われやすい、この付近は浅瀬が多く、海賊は狙った船を浅瀬に追い込んで動けなくなったところを襲う。
・海賊は大型船に小さなボート数艘積み込んでいる。襲う時は速度の速い小舟を下ろして集団で襲う。
・タンカーが狙われやすい。(船員も少なく、身代金も多く奪えるからか?)
<対策>
・航行する船はコンボイを組み、なるべく高速で航行する
・危険な地域を明示して注意を喚起している。(かなり広範 西インド洋の南、半分)
・航行指定箇所のポイントA(危険地域)で自衛隊艦からメールが入り護衛をスタート、自衛隊艦が並走する。ヘリコプターも監視、ポイントC(危険度が一番低い)で護衛終了となる。全て英文で事務的に行われる、挨拶などは無い。ポイントAからCまで2日半の航行となる。
・海賊が発見された場合は自衛隊艦とヘリコプターで阻止する、その方法も決められている。

 *前号写真参照

 終了後、帰室、カミさんは寝ていた。5時30分前にレストランで待ち合わせることにした。
 16時15分、7階シアター「わくわく寄港地 コロンボ&ランカウイ島」
 17時、早めの退室して帰室、カミさんと夕食に5階レストランへ、案内されたのは二人席だった。前菜は鶏肉の蒸煮(美味しかった)、スープ(忘れた)、メインはカシューナッツカレー(口に合わなかった)、デザートは抹茶ケーキ(まあまあ)とコーヒー。
 18時、帰室
 19時30分、8階、ミーティングルームへ、盛岡のMさんに誘われて宗教について懇談。台湾の青年(大学4年生)、マレーシアの女性(東京外語大学留学経験あり)が参加、神について、キリスト教について、イスラム教について、宗教について体験、考えを交換する。気持ちの良い人たちだった。
 21時、帰室、シャワーを浴びる。
 21時30分、ラム酒を飲む。

 

11月19日(日)  
 日の出:6:19     日の入:17:55

予定
 14:30〜15:30 わくわくスリランカ マリオ・ゴメス 7階シアター

 7時、起床
 8時、朝食、沖縄の親子(母親と娘、中2)、同年代の夫婦(妻/上智卒、司祭と出逢いながら未信者)、いわき市の歳上の女性と同席になる。
沖縄の親子とは沖縄の話、列車で行ったパリの話など、同年代の夫婦の妻とは受洗のきっかけや司祭の話をする。
 9時、帰室、掃除は終わっていた。
    部屋で読書(我が闘争)と昼寝(眠い)
 13時、カミさんの咳がひどいので14階で昼食をする。ご飯、味噌汁、鶏肉、カレー、オレンジ、葡萄。食後、ミニシュークリームと紅茶
 14時、帰室、読書、昼寝
 17時30分、14階で夕食、ご飯、味噌汁、茄子の煮物、ひき肉の煮物(不味い)、野菜、オレンジ、メロン(食べ頃で美味しかった)。食後のデザートは中国人がうるさく移動する。オーバランドツアーで出会った青年(40歳)の席に座らせてもらう。カミさん転んでウェートレスに連れてきてもらう、本人は何とも無いと言う。ケーキ1個、紅茶
 19時、帰室

 

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115回ピースボート世界一周航海記その42(スエズ運河就航その2)

2024年03月26日 | 思い出の旅行

11月12日(日)海賊対策避難訓練

日の出:6:38      日の入:17:43 

予定
 9時〜海賊対策避難訓練
 *2日前から船の周囲は有刺鉄線が巻かれ、14階のレストランの一部(正面)は明かりが漏れないように紙が貼られていた。少し緊迫感を感じる。

 6時、起きる、薄曇り、波は少なく穏やか、順調な航海
 7時、カミさんが飽きたと言うので14階で朝食、ご飯、味噌室、サンマ、卵、野菜、ヨーグルト、オレンジ、みかん、コーヒー牛乳。
 8時、帰室、読書、昼寝
 9時、訓練開始のアナウンス
「自室の窓から離れた場所で座って待機して下さい」
「コードジャック コードジャック コードジャック」
 10分後、「訓練を終わります。海上自衛隊が海賊を蹴散らしてくれました」
 読書、ヒットラー「我が闘争」少年期
 12時、昼食、15階でメニューを確認して4階へ、ご飯、キーマカレー、スペアリブ、野菜、オレンジ、ケーキ3種類、ゼリー、紅茶
 13時、帰室、薬、収集物(石)の整理など
 16時30分〜19時 森達也さんの「A」映画上映とトーク に出席する。会場のシアターは夜食を考えると参加しにくい時間帯にも関わらず会場はほぼ満席だった。20分前に行ったが空いている席は前列から2列目だったが中央に座れたので映画を見る支障はなかった。
 オーム真理教の幹部がいなくなり代わりに教団を率いている28歳の若者に焦点を当て各地(青山、亀戸など)にある教団施設の破産整理、新聞、テレビなどのマスコミへの対応を森氏自身のハンディカメラで追った作品。ヤクザのような警察官の嫌がらせ、不法な取り調べなどが生々しく映されていた。森氏が言っているように画像や音声は素人、子供の運動会を撮影するお父さんクラスと自分で告白していたがその通り、見ずらいし、音声が聞き取れない。それが真実ぽい雰囲気を醸し出していると考えているのだろう。
 信者たちは普通の若者、悩みから救われたい、その為にオームが教えてくれた解脱の為の修行に励む、家族や周囲の住民から厳しい視線で見られながらも信仰共同体しか生きていけない若者が哀れ。オーム真理教が教える修行のみが悩みを解決してくれると考える短絡さは何だろうか。
 終了後、著書「ぼくらの時代の罪と罰」を購入、

サインをしてもらう、18年前、ピースボートでお会いしたこと(水先案内人として乗船)を伝えると喜んでくれた。

 

         11月13日(月) 海賊対策開始

日の出:6:05      日の入:17:25

海賊対策開始
 ・夜間オープンデッキ立ち入り禁止
 ・夜はカーテンを閉めて光を漏らさない
 ・明かりは浴室又はテレビの光を利用する
予定
 ・13:00〜14:15 スリランカに見る共生のあり方 シアター 

 6時、起床、晴れ、薄雲が靄っている、上空は青っぽい。遠く貨物船が3隻見える。波は少し、揺れも少しある。
 7時、カミさんラジオ体操から帰ってくる。
5階レストランで朝食、6人席に5人(男(老人)二人組、女(中年小太り)一人)、カミさんは女性と懇談、咳のことが話題になっているようだ、気さくに良く話す方の様だ。男二人は入っていけない話題に集中しており、どちらにも入れない状態が続いた。そんな時に隣の老人がどちらから?と聞いてきたので盛岡と応えてから東日本大地震のこと、淡路関西大地震のこと、釜石の話題では新日鉄のこと造船会社のこと、下請け企業のことなど色々、展開していった。一人の男と女性が先に出た後も3人で話が弾んだ。先に帰った人は大学(技術系)の同級生で一緒に船に乗ったとのこと、8年前に奥さんが亡くなられて一人で暮らしている、老人ホーム(3,000万円+月20万円)に入ろうと考えていたら娘に勧められて中古マンション(3,000万円)を購入、富士山が見えるし、どこに行くにも3分で地下鉄に乗れる便利さが気に入っているとのこと。
 8時30分、帰室

 

     11月14日(火) 海賊対策2日目 自衛隊艦の護衛開始

日の出:4:43      日の入:16:15
   海賊対策2日目  曇り、波、揺れ少し
  *左舷側に自衛隊艦が護衛して並走、時折ヘリコプターの音がする

 7時、起床
 8時、5階レストランで和食
 9時、掃除が入っていたので7階左舷デッキへ、自衛隊艦が見える。
    Kさんが通りかかってアウシュビッツで一緒だったMさん退院して帰国するとの報告を受ける。(同じ埼玉県在住とのこと)
10時、カミさんは指圧へ
11時30分、帰室 代金は1万円、5階のレストランで昼食、そば、ご飯、ハスの煮物、オレンジ
12時30分、帰室
      7階デッキから自衛隊艦を見る
17時、5階で夕食、ビール注文 メイン:シーフードグラタン
   話題は海賊対策、体重、料金、割引
18時、帰室、読書(我が闘争、反ユダヤ主義、民主主義に関する考え方が載って居る)

 


        11月15日(水) 自衛隊艦の護衛は終了

日の出:4:18      日の入:15:39」
  自衛隊艦の護衛は終了した様子
  窓が閉じられているので天気が分からない。
  波、揺れは少しある。

 7時30分、5階で和食の朝食、一人で参加した兵庫県のおばさん(1936年生まれ)と同席、元県職員、教員の夫は定年1年前に交通事故で死亡、子供二人(男女、なぜか二人共未婚とおっしゃていた)、長男は何をやっているのか分からないがパリに住んでいる、今回ボルドーで会うことにしていたが寄港中止になってお怒りのご様子(当然だ!)本人曰く「元々ボルドー港に寄港することは船が大きすぎて不可能だったのでは、それをパイロット組合の申し出を受けたと言っているがおかしい、分かっていて計画に入れたのは許せない」とおっしゃっていた。
 夫を送り姑を送り(夫は次男だったが長男が先に亡くなったので「代理長男になった」とおっしゃったとのこと。)仕事も成し遂げ子供二人育て上げた、ただ、子供が未婚のため孫の顔が見られないのが心残り、「孫は可愛いでしょう!」と私たちに振った。孫、ひ孫に恵まれた幸せを喜ばないといけない。元気なおばさんだった。
 9時、7階デッキに出る、ベンチで一休み、光が眩しい、自衛隊艦はもう居なかった。
 9時30分、帰室
 12時、14階でパンと牛乳
 12時15分、シアターへ 森達也さんの「A3」上映、コームのその後を追う、ドキュメンタリー映画、前作「A」から2年半、オウム真理教のその後を描いたシリーズ2弾、マスメディアが伝えないオウム真理教は排斥運動を通して信仰の抱える矛盾や住民との関係を描き出す。
  *A3は完全版 A2カット版
 終了後、14階で果物と野菜を食べる。
 15時30分、帰室
 18時、14階で夕食
 19時30分、帰室

 

  

  森達也さんの著書 「guilty or not guilty」  裁判は白か黒かを判断するのではない、黒か黒でないかを判断するのだ。無罪であることを証明しなくても良い。有罪でないことを示せば良い。

 

 サインしてもらいました!

  

  海賊が出る危険性が高い航路(A〜C)アデン湾

  

  集団航行でのヘリと護衛艦による防御方法

  事前に自衛隊に護衛を依頼するようになっているが時に依頼なしで割り込んで護衛してもらう船舶もあるとのこと。

  

  自衛艦に守られ、一方でパシフィック・ワールド号は有刺鉄線(よく見て下さい)を張って防御を固める。

  夜間に光が漏れないように全ての窓に目張りをして、且つ部屋では最小限の灯りで過ごすことを求められる。

  ちょっと緊張しました。

 

 

 

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115回ピースボート世界一周航海記その41(スエズ運河就航)

2024年03月26日 | 思い出の旅行

  2023年ピースボート航海記 その16 スエズ運河就航
11月9日(木) スエズ運河就航
        日の出 6:13   日の入 16:58
        晴れ、デッキは日向は刺すような暑さ、日陰は比較的涼しい

 7時、起床、よく寝むれた、夜中一度もトイレで起きなかった。熟睡するとトイレで起きないことを実証できた。
 7時30分、 朝食5階レストラン、同席した方とピースボートのこと、経営、外国人の多さ、乗客の多さ、若者のこと、など話で盛り上がる。
 9時、帰室、船は10時頃(予定の5時間遅れ)スエズ運河に入るとの放送がある。カミさんは診療所へ、私は記録作成など。
 10時、出航、日差しがキツイ中、デッキで出航風景を見る、右舷には昔(使われていない様子)の灯台、フェリー乗り場が見える。遠方には10階建て程度の高さの集合住宅が見える、かなりの棟数だ、ポートサイドは経済的に繁栄しているように見える。
 運河に数隻の船が停泊している、パシフィック・ワールド号とコンボイを組む船かもしれない。カミさん帰ってくる、よく効く薬(高価)を処方してもらったとのこと、13,000円だった。
 12時、昼食、ミニ五目寿司、そば、サラダ。同席の方から稲荷寿司が以前はパンパンにご飯が入っていたが今は本来の稲荷寿司のようにゆったり入っていて格段に美味しくなったとのこと、今度試したい。また、昨日のオプショナルツアーについての苦情、ピースボートの問題点など盛り上がった。ただ、最後はピースボートを応援したいと皆さん意見が一致していた。
 13時、帰室、スエズ運河就航を楽しむ、日本橋を撮影、使われていない様子が気になる。
 監視塔が頻繁に現れる、大きなもモノや小さなモノがある。撮影すると小さな箱のような監視塔の中に兵士がいる、立っていたり、座っていたり様々、食事やトイレはどうする?
 駐屯地のような塀に囲まれた建物が何箇所もあった、大勢の兵士の姿も見えた。数kmおきに駐屯地を、数百メートル毎に小さな監視塔を置いているように思えた。
 運河は砂の山に囲まれている、多分運河を掘った時の砂を両サイドに積んだのではないかと考えた。また、堀のような窪地があり、排水管が数本刺さっている、浚渫した泥を入れて水を運河に戻す装置のように思えた。帰ってから調べたい。乗客から工事中に10万人亡くなったと聞いた。掘削用の機械が不十分で人力に頼ったと思われる、難工事で危険だったことは想像できる。
 湖?か幅の広い場所に来たら大型船が数隻すれ違って横向きになって停船した、同様に3隻が横向きに停船した。その後、その横を貨物船が進んでいく、コンボイの順を調整しているのかもしれない。すれ違った船はコンテナ船、タンカー、天然ガスなどで客船はいなかった。
 船内放送で間も無くイスマエルが見えてくる、レセップスの墓もあるとのこと、デッキから見たが分からない、土手に大きな肖像画が3枚現れ、十字架がついた建物も見える、この付近は18年前に見た記憶がある。(その時は逆コースでここからスエズ運河に入ったと記憶している)
 水路が2つに分かれ左側は砂の土手が続く、4時30分の船内放送でグレートビター湖に入った、40分後にスモールビター湖にそしてスエズ港に入るとのこと。この辺の位置関係は分からない。
  5時30分、5階で夕食、6人席、男二人は知り合いらしく話し合っている、隣は夫婦で話題は無いようだ黙っている。食後、私が隣の夫に昨日のピラミッド観光の顛末を話すと皆さん一気に不満が爆発、6名全員参加でけんけんがくがくとなった。ほとんど方がピースボートの問題点を指摘、それでも結論はピースボートは必要、これらも応援をしていくと言う結論で終わった、めでたしめでたし。終わった後、奥さんから不満を吐き出すことができてよかったと感謝された。
 7時、帰室、カミさんと普段はなかなか話せないことなど率直に話し合う。

 

 

 いよいよ出航

 

 ブイに固定されたロープを外す

 

 庶民的なアパートが並んでいる。

 

エジプトぽいアパート 

 古い灯台を発見

 

 灯台のUP(使われていない)

 

 フェリー(Port Fouad Ferry)乗場

 

 フェリー乗場

 

 スエズ運河に入る

 

 監視塔、中にいる兵士が見える、真夏はどうなるのか心配?

 

 巨大なクルーズ船が見える

 

 コンボイで運河を進む

 

 日本橋

 

 日本の国旗が見える

 

 エル・フェルダン回旋鉄道橋、列車が通過する時、橋が中心を軸に回旋する、普段はこの状態。

 

 運河を守る軍の基地?

 

 兵隊が運河に向かって並んでいた。

 

 立派な作りの監視塔

 

 基地?

 

 戦争慰霊碑と戦車 手前の看板には「英雄的行為と尊厳の殉教者、軍の息子そしてエジプトの息子」と書いてある。(Google翻訳)

 

 フェリー乗場、橋が少ないのでフェリーに頼っている印象

 

 フェリーの横に「贈収賄は伝染する」と書いてある。ただ乗り(顔パス)? *Google翻訳

 

 アパート群が見える

 

 エル・シェター・モスク、壁画は誰か?

 

 運河を抜ける 

 

11月10日(金) 日の出 6:00   日の入 16:54

 海賊対策:船腹に有刺鉄線が張られていた。

 8時、4階で朝食、6人席で女性の3人は友達同士の様だった、話が弾んでいる。私たちともう一人は同年齢の女性に食後話しかける。ポートサイドでは自由行動で市内とフェリーで対岸へ行ったとのこと。ピースボートは6回目でオプショナルツアーは取らないで自由行動とのこと、ピースボートに慣れている方だった。
 9時、帰室、記録の整理
 12時、4階で昼食、ご飯とうどん(汁が少ない)
 13時、「ドキュメンタリーは嘘をつく」上映&トーク」森達也
 ドキュメンタリーをテーマにしたテレビ番組の撮影収録場面を記録したもの。関係者への取材と注目されている若い監督が自分を置いて失踪した父親と再会する場面など出演者自身で撮影した映像などで構成されている、汚らしい髭ズラの森さんはドキュメンタリーぽさを演出している?またハンディカメラでの撮影もホントらしさを演出している。ドキュメンタリーって演出だ、筋書きがあって、撮影の対象も、画像も決まっていく。それ以外は切り捨てていく。
 ドキュメンタリーを手掛ける監督は全員ドキュメンタリーはフィクションだ、真実なんてない、真実がわかるのは神様しないない。色々な断片を集めてボーッとした真実に迫る事しかできない、と言う、体験的な忸怩たる思いを吐露していた、謙虚で良かった。
 セミナーが終わり、シアターを出るとデッキに人だかり、何かと見てみると有刺鉄線が巻かれていた、海賊対策だと言う。心もとないがやらないより良さそう。少なくとも海賊を警戒していると言うメッセージになるだろう。
 15時、帰室、部屋で休む、エジプトの疲れが出たよう。だるいので寝る。
 18時、カミさんに食べないで寝ると言うと14階からパンと紅茶を持ってきてくれた。
    パン2個、在庫のバナナ、りんごを食べて寝る。

11月11日(土)  日の出 6:40  日の入 17:45

 薄曇り、波穏やか、止まっている様に航行、

 6時、起床、快適、疲れが取れたよう。 7時、5階で朝食、納豆、海苔、焼き魚、昆布、梅干し、味噌汁、オレンジ、トマトジュース、ヨーグルト、コーヒー
 同席の女性(20年生まれ、一人で乗船)と食後に会話をする。家族を全て亡くしてピースボートは8回目、オプショナルツアーは参加しないで一人で寄港地を散策している。ポートサイドでは市内と対岸へフェリーで渡り散策した。観光では経験できない地元の人との交流を楽しんでいる。例えば、配布された紙で折り鶴(羽をパタパタさせる)を作っておき、綺麗に包まれているキャンデーと一緒に子供に渡すと喜んでくれる。フェリーでも親子連れと交流できた。また、ピースボートのことについて次のような話をしてくれた。
・中国資本が入っている、エコシップは中国で作る。
・申し込み金は色々理由(次のクルーズ用に預けておくと利息がつきます等)をつけて返さない、裁判を起こすと即金で返す。老人が多いので亡くなってうやむやになってしまうことを期待している様だ。
言うべきこと、要求するべきことはしっかり伝えることにしている。これはボケ防止でもある。話が止まらない状態だった。
 8時30分、帰室、掃除中だったので14階でお茶をする。
 9時、帰室、記録作成など
12時、昼食、チャーハン、中華そば、餃子
 一緒だった二人の女性(一人は同年齢、一人は少し若いか?)と懇談、波が高かったのでオーロラを見られる圏内に入らなかったと聞いたことを話したら驚いていた。オーロラ見物が大きな目的だったとのこと。
 1時、帰室、ポーランドの記録、写真整理後寝る。
 4時、作業開始
 5時、5階で夕食、サーモンの前菜、ニンジンスープ、豚肉、フルーツ盛合せ
 同席した長崎の夫婦と懇談、遠藤周作記念館、五島列島の巡礼のこと教えてもらう。
 7時、帰室

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115回ピースボート世界一周航海記その40(エジプト・ポートサイド)

2024年03月13日 | 思い出の旅行

  2023年ピースボート航海記 その15(ポートサイド エジプト)
 
     11月8日(水)ポートサイド
     3時 ポートサイド港、ツーリストポート着岸
 予定 「キザのピラミッドと博物館」 集合6時25分 

4時、起床
4時30分、14階で朝食、パン、茹で卵、野菜サラダ
5時、帰室
6時、霧のため出発が遅れるとの船内放送
6時30分、デッキからバスが数台待機しているのが見える
6時55分、集合
7時40分、出発
12時30分、エジプト考古学博物館
13時30分、   同      出発
14時、レストランで昼食
15時、レストラン出発
15時30分、土産屋
17時、キザのピラミッド入口
20時、帰船

 

ほとんど眠れずに4時起きる。4時30分、14階で朝食、5時30分帰室して準備。霧のため出発が遅れるので部屋で待機する様にとの船内放送がある。次に7時40分集合(1時間20分遅れ)との放送があり指定された集合場所に行く。かなり遅れて集合場所を出発、パスポートのチェク(出国許可スタンプの確認)、荷物検査があってエジプト入国、20台程のコンボイを組んでバスは出発(1時間30分遅れ)。
 賑やかなポートサイド市内を通過、表通りは1階が店舗の集合住宅がさらにその奥にも集合住宅びっしり並んでいた、ポートサイドの街を過ぎ高速道路に入る。料金所の前に、スピードを落とすマウンド(高さ10センチ、長さ3メートル位か?)がある、これはしっかり記憶(初めて乗った2006年のピースボートの船旅でも同じツアーに参加)にある、その先に凸型の金具が埋め込まれている場所もあった。二重のスピード調整(スピードを落とす)のための装置だ。料金所は頻繁にあるのでその度に「ガタン」と言う音と上下の振動がくるので乗り午後地は甚だ悪い。
 郊外では道路の右手(左手は何も利用されていない荒地が続く、時折、工場のような建物が見えた)には畑が広がっていた、椰子、オリーブ(多分?)、何か分からない作物が植えられていた。農家も点々と見える、大抵、ブロックの平家建て、大型の農機具は見られない。小さな畑では時折、作業している人が見られたが大きな畑では全く人が見られなかった。代わりに、巨大なスプリンクラーが見えた。長さ100メートル位あり車がついていて、円形状に散水する。運よく散水している状態を見ることができた。地下水を使うのだろうが結構な水量が必要と思われた。 
 塀で囲まれて所で10数頭、農地で2頭、牛を放牧していた、また、2〜3頭のラクダ(?)を見つけた。また、小さなモスク(地域の人々の祈りの場か、スピーカーが設置されているものもある)がよく見られた。信仰が篤いことが分かる。
 高速道路では市場に搬入するのかトマトなど野菜やシートを掛けた大きな荷物(廃棄物?)を運ぶトラックが頻繁に見られた。
 農地を出るとカイロの郊外に入った。10階建ほどの集合住宅がぎっしり並んでいる。デザインは独特な装飾を施したもの、シンプルなものが混在している、色は白か茶系、全体にくすんだ(埃っぽい)印象、建築中のもの、空き家のように見えるものもあった。一戸建てではなく集合住宅に住むようになっているのか?
 繁華街に入ると集合住宅の1階部分がネオンや照明で煌々と照らされている店舗が続き活気を醸し出している。人懐っこいのか車の荷台に乗っている人、歩いている人、休んでいる人が手を振る。さらに都心部に入ると近代的なオフィスビルと古い壊れ掛けている建物が混在している。前回訪れた時も気になったが屋上がゴミ捨て場のようになっている、ただ前回(古い建物のほどんどの屋上がゴミ捨て場状態だった)より少なくなった様に思えた。
 真新しい鉄道の駅も見え、新しい綺麗な列車が停まっていた。カイロ駅は古びていてあまり変化が見られなかった。高速道路を降り、エジプト考古学博物館に到着、見学客で混雑している。手荷物検査を受け入場する。
 内部は前回来た時と同じ(改装されていない)、ただ、展示品が少なくなっている印象を受けた。(見学者が増加したためか?)棺、ミイラ、副葬品の椅子、ベット、ツボ、皿などを重点的に見物する。ツタンカーメンの展示室は撮影禁止、黄金のマスクや身につけていた装飾品が展示されたいた。ネックレスなどの装飾品はデザイン(文様)、加工技術共に素晴らしかった。モチーフが人とシンボルの違いはあるが完成度はギリシャと匹敵すると思われた。王の彫刻は親しみは感じられないが神としての威厳、人々に恐れを抱かせる迫力を感じる。人間の姿をした神(人間的な神)を表現しているギリシャ彫刻との大きな違いだと思った。
 時間がないので早々に博物館見学を終え、レストランへ向かう。大きなビュッフェ形式のレストランでサラダ類、肉料理、魚のフライ、デザートなどを自分で皿盛って食べる。PM号の14階レストランと同じ気分になった。幸い、ビールがついたので良かったが、、。
 レストランを出ると何故かお土産屋(発掘品のレプリカ、値段は書いていない)に着いた、私たちは店の商品を見て出る。(何人か買っている人がいた。)買い物を終え、ピラミッドへ向かったが入り口でストップして動かない。30分以上その場て停車していたがピラミッド見物は出来ないとのこと、代わりに写真撮影をして良いと言われる。とりあえず、写真を撮ったが皆さん、納得できない様子、バスの中でピラミッド観光が出来なかった代わりにレストランの屋上から夕焼けのピラミッドを撮影できると釈明。皆さん言われるまま、屋上で写真撮影をするがそれほどの価値は無い。
 ピラミッド、ピラミッド展望台、スフィンクス見物は無いまま又バスに3時間乗って帰ることになった。高速道路脇でバスが集まりコンボイで港を目指す。皆さん(カミさんも)は寝ていたが私は夜景を眺めて過ごした。港近くになって、女性客の一人がこのままでは納得できないのでピースボートに抗議したい、賛同する方は署名して欲しいと提案、私たちも賛同して署名した。バスが港に到着するとピースボートのクルーズディレクターが乗ってきてお詫びをし、対応については今後、先方の代理店と検討して手紙で回答したいと説明した。
 バスを降りで外の空気を吸いながら周辺を散策、ビールなど買い物をしたかったがカミさんは銃を持った軍人が数人警戒していたので怖がって実現できなかった。ターミナルに入ると土産屋さんが店を広げていた。物色して回る、カミさんは焼物のスカラベを見つける、値段を聞くと5ドルとのこと、高いので止める。他の店にもあったので2ドルだったら買うことにして値段を聞くと1ドルとのこと、即座に購入する。
 部屋に戻り、シャワーを浴びる、埃が流された感じで気持ち良い。14階で遅い夕食、ビールを飲む、美味い!

 

 

 ポートサイド港

 

 岸壁の風景、広場があり住宅が並んでいる。

 左の公園では掃除人がやる気なさそうに作業(サボっているとしか見えない)していた。

 

 生活感あふれる団地風景です。

 

 同

 

 バスから見た風景 巨大なスプリンクラー

 

 バスから見た風景、椰子の木とサボテン

 

 バスから見た風景 有料道路の料金所、段差があります。

 

 鉄道

 

 ナイル川

 

 エジプト考古学博物館の入口

 

 博物館内部

 

 館内風景 木棺、装飾がシンプルで美しい

 

 ツタンカーメンの義理の父母のミイラ

  

 スフィンクス(ネメスと呼ばれる頭巾を付けたファラオの顔とライオンの体を持つ)神殿、王宮、墳墓の守り神

 

 土器

 

 土器

 

 ツタンカーメンの儀式用の椅子、素晴らしい装飾です。

 

 葉が土埃で覆われている

 

 昼食

 

 この土産屋に寄ったためにピラミッドは時間切れになった。(現地ガイドがリベート欲しさに寄ったと思われる。)

 

 時間ぎれで入れず、入場門の外から撮影する

 

 入口にあった観光警察の車両(ニッサンとトヨタ)

 

 レストランの屋上から三大ピラミッドを眺める。左からメンカウラー、カフラー、クフ

 

 展望は良かったがピラミッドに直に触ってみたかった

 

 港の臨時の土産屋さん

 

 値段は交渉が必要、同時に他の店と比較も必要(同じものを扱っている例が多い)

 

 ようやく帰ってきました。(自分の家に帰ってきた様な安心感)

 

 

 

 

 


    

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115回ピースボート世界一周航海記その39(トルコ・イスタンブール)

2024年03月13日 | 思い出の旅行

 2023年ピースボート航海記 その14(イスタンブール トルコ)
 
     11月5日(日) 05:00ガラタ港、サル、パザール埠頭着岸予定
             21:00 帰船リミット

 4時、目が覚める、あとはうとうとするだけ。
 6時30分起床
 7時朝食、14階から持ってきていたパン3種類(半分づつ)、ミニハンバーグ、野菜、
りんご、みかん、紅茶
 7時30分、終了、観光の準備、遠くからアザールの声が聞こえる。
 8時前、ビスタラウンジへ、入国用のバーコードをもらう。
 説明によるとマラソンの影響でバスではなくトラムで向かうことになったとのこと。下船しトラムの駅前で待つこと40分?どうもトラムが先に行ってしまったようだ。(何の説明も無いが噂が流れて分かった)代わりにフェリーで移動するとのこと。小さな港で待つ、30分以上は待った。小さな港に大きなフェリーが入ってくる、波が高く船は揺れるなか着岸、慣れているようだ。桟橋より船が高く、船員が手で引き上げてくれる、凄い力持ちだった。小さな女性は体ごと引き上げていた。
 全員乗せてフェリーは出発、荒れるボスポラス海峡を航行、かなりの数のフェリーが行き来している、PW号とは違う角度での海や街並みが見れた。やがて城壁が見えてくる、よく見ると城壁に沿った道を人が大勢走っている。今日行われているマラソン大会の様だ。旗を持っているランナーも見えた、市民マラソンも同時に開催しているのだろう。城壁を過ぎると大きなモスクが見えてきた。緑の屋根はブルーモスクに違いない。
 フェリーは小さな桟橋に着けようとしたが波が高く横揺れが大きい、横倒しになるのではとちょっと心配する。波が高いため着岸を諦め別の桟橋(Eminonu)に向かうとのこと。かなり戻って大きな桟橋に横付けする。
 集合場所を確認して解散、PBスタッフがソフィアモスクまで案内すると言うのでついて行くことにした。所狭しと並んでいる商品、煌々とした照明はバザールのような雰囲気、お菓子、スパイス、化粧品、雑貨、照明など多彩な商品を扱っている商店街を抜ける、途中、大きな店でトイレタイム、ピースボートのスタッフと懇意のようだ、日本語で挨拶される、トイレは男女兼用で便器は1つ、先に入った中国人女性がなかなか出てこない、やっと出てきたかと思うと洗面台で髪をとかしたり化粧をするのに呆れた。こんな人が増える中国は大丈夫か?
 更に進んで、Sultanahmet(公園)で解散、公園はマラソンコースになっている、選手が続々走ってくるのが見え、時折、歓声が聞こえる。私たちはソフアモスク(Hagia Sophia Mosque)を目指す、道は凄く混雑して歩きにくい。モスクの近くがゴールの様だ、道がマラソンのために半分になっておりそのために混雑がひどい。モスクに到着、門を潜ると大きな中庭に入る、中央にモスクがあり入口が見える。ソフィアモスクだと思っていたらどうもブルーモスクのようだ、中に入るのは時間制限がある、次は1時30分と言われた。1時間以上あるので入るのは諦めた。代わりに外から中を覗く、中はだだっ広い空間、周囲に小さなステンドグラスの窓が連続して何層にも連なって室内を明るく華やかにしている。壁や柱には黒字に金のアラビア文字の装飾、偶像崇拝が禁じられているので全て抽象文様で飾られている。床は絨毯、大きな円形の照明が頭上近くまで下げられている。祈りの空間として考え抜かれた結果このような様式が完成したのだろう。
 モスクを出て、公園に戻る。公園ではパレスチナの人々がパレスチナの旗を振りイスラエルへの抗議を行っていた。世界にパレスチナ問題を訴えることに尽力している様だ。
 集合場所(公園の下)を確認しに行ったがマラソンコースで道路が遮断されて渡れない、離れた場所に陸橋(下はマラソンコース)が見えたのでそこま歩いて渡たる。大きな城壁が見えてくる、地図で調べると王宮(Topkapi Palase)だった、王宮内(公園)を散策、博物館があったが余裕が無く入らなかった。王宮前でソフィアモスク写真をとる。円形と鉛筆のように尖った4本の尖塔がモスクとしての存在感を表している。高い尖塔はキリスト教会と同様に遠方からの目印(地図)、気づき(信仰を忘れるな!見ているぞ!)としての役割があったと思われる。
 ピースボートの若者がいたので道を聞くと目の前の王宮の城壁の周りを回って行けばSultanahmet(集合場所)に出られると教えてくれた。これで集合場所に戻れると一安心。集合まで2時間ほど時間があったのでバザールやブルーモスクにも行きたかったが体力の問題もあり諦め、休みを兼ねて昼食を取ることにした。城壁を周り、駅の前を通り集合場所Sultanahmetを確認できたので近くのレストランで遅い昼食を取る、レバーケバブ、スープ、ケバブ(パン生地でケバブを巻いたもの)、コーラを注文、スープ、ケバブ(パン生地でケバブを巻いたもの)の順で美味しかった。1万円近い料金は高かった。
 集合場所に10人ほど集まってきたが集合時間の4時になってもバスは来ない、「諦めて歩きましょう」と言うことになった。パシフィック・ワールド号が見えているので迷うことはないので安心して歩くことにした。ガラタ橋(Galata Bridge)を渡る、橋は二重構造になっており上が通常の橋、下は店舗があったとのこと(後から下の道を歩いたと言う人から聞く)。上では釣り人で長い欄干は完全に占領されていた。釣り竿を固定する道具(木製で欄干に取り付ける)に取り付けて椅子に座りただ当たりが来るのを待つ人の行列は異様な風景だった。足元のバケツや発泡スチロールの箱に釣った魚が入っていた。イワシのような小さな魚、鯛の様な丸い魚、サヨリの様な細い魚が見られた。このガラタ橋の先は金角湾(ヨーロッパ大陸に牛の角のように切り込んだ細長い湾)だ。
*後で橋の下を通った人から「上から釣り針が降ってくるし、釣れた魚を引き上げるし、その魚を狙って鴎が飛んでくるし、通るのは大変だった」とのこと。
 歩くことでイスタンブールならではの光景を楽しむことができた。橋を渡り海沿いにPW号に戻る、免税店でカミさんはお土産を購入、キリが無い。
 部屋に戻り、シャワーを浴びる。気持ち良い。混雑のために予定通り観光できなかったが
 ・ボスポラス海峡をフェリーで渡る(小さな船からの旧市街地の景色)
 ・マラソン大会を見物(歓声と人混み)
 ・パレスチナの人々がアピールしている姿(若者がパレスチナの旗を振っていた)
 ・ブルーモスク、王宮、城壁を見物(昔の栄華、国際関係の厳しさ、軍事的環境が偲ばれる)
 ・小さな夫婦で経営しているレストラン(中学生くらいの男の子が手伝っている姿を見た)
 ・釣り人でいっぱいのガラタ橋(Galata Bridge)(庶民のささやかな娯楽?)
 ・バザールの様な店舗(品揃え、展示、照明が演出している)

 

 山火事、爆撃されたように見えたのでウクライナ戦争が飛び火したのかと思ってしまった。

 

 ダーダネルス海峡にあるキリトバヒル城(1463年建設)

 城の上のメッセージはGooglepixel調べで「神に感謝します。私たちはトルコ人です。そして私たちは永遠にトルコ人です。私の種族のトウランの理想万歳」の意味。

 

 イスタンブール港風景、先はボスポラス海峡を経て黒海へ繋がる航路

 

 停泊地の風景、モスクが見える

 

 パシフィック・ワールド号が停泊した岸壁の風景、波が荒い。

 

 ボスポラス海峡の風景、フェリーが行き来する賑やかな港町、ここを抜ければ黒海そしてクリミア半島につながる戦略上重要な海峡である。

 

 フェリーから見た風景、頑丈な城壁に囲まれたかっての東ローマ帝国(旧市街地)

 

 海岸沿いの道をマラソンランナー(イスタンブールはマラソンの大会があった)が走るのが見えた

 城壁の上にトプカプ宮殿が見える。

 

 アヤソフィア(ビザンチン様式の教会350年創建、1453年オスマン帝国によって征服されモスクになる1935年以降は博物館として使用される)

 

 ブルーモスク(スルタンアフメト・モスク)オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世によって1609年から16年の歳月をかけて建造された。 

 

 市内風景、活気がある。

 

 街の風景

 

 惣菜屋さん、これは何だろう?

 

 パレスチナ人のアピール 

 

 ブルーモスク入口

 

 門を抜けるとモスクが現れた。

 

 ブルーモスクの中庭 

 

 ブルーモスクの全景

 

 モスクの内部を窓越しに撮影 

 

 レストランで

 

 レバー料理

 

 ガラタ橋の釣り風景(釣った鯖を焼いてパンに挟んだサンドイッチ、鯖サンドは名物とのこと)

 

 これでは鯖サンドは無理

 

 夜のイスタンブール港、出航を待つ。  

 

 11月6日(月) イスタンブール出港2日目

 7時、起床、昨日は疲れていたので良く眠れた。
 8時過ぎ朝食5階、納豆、豆腐、さんま、味噌汁、梅干し、すき焼き、ヨーグルト、トマトジュース、日本茶
 京都の方(中年男性)と一緒になる、食通の様だ、昨日はターミナルのレストランでステーキ(1万円)を食べ、安くて美味しかったとのこと。また、ニューヨークでは15万円したアメリカブランドの洋服を5万円で買った、流行に関係ない服なのでいつまででも着れるとのこと、おしゃれでもある。
 10時、帰室、発表会の準備、
 11時30分、ビスタラウンジで本番前の打ち合わせ、終了後14階で昼食、食後部屋に戻り休息。
 14時30分、7階ビスタラウンジへ、いよいよ「アウシュビッツ見学報告会」本番。トキさんが来ないハプニングがあったが何とか無事に終了した。ピースボートの冨岡さんが頑張った。
 16時10分、帰室して休む。
 17時50分、14階で夕食。ご飯をしっかり食べる。
 19時30分、14階で打ち上げ、Kさんがワインとウィスキーを提供してくれた。K夫妻、Tさん、Tさん、Tさん、Tさんといつも一緒だった女性、発表会には参加しなかったが青年が後から参加してくれた。栗原さんからスコットランドで手に入れた特別のウィスキー(アルコール度40度以上)を飲ませてもらった、特別な香り(樽か、植物か)が特徴、アルコールで舌がピリリとなる。我々もジャマイカ産ラム酒を提供する。
 Tさんがその音色に感激したと言うコカリナを演奏してくれた。太さ3センチ、長さ6センチ位の木製(楓)の小さな楽器だった。確かに澄んだ高音が魅力的だった、アンコールで「故郷」を演奏(低音が出ないので高音に編曲している)後、皆で合唱した。日本に郷愁を感じた。
 コカリナはKさんの友人だと言う、素晴らしい人なので水先案内人推薦したいと言っていた。旅をしただけではなく結果をまとめ発表したことはピースボートらしく良かった。これからもアウシュビッツの見学と発表会は継続して欲しい。(前回もやったとのことだったが、)


11月7日(火) イスタンブール出港3日目

8時、5階レストランで朝食、ご飯が2杯きた、頼み方がまずかった様だ。内容はほぼ同じメニュー。ガラス越しの隣にKさんとMさんたちがいた。
9時、帰室、記録、写真の整理など
12時、パストート受け取り、
   14階で昼食、軽くパン、鳥の唐揚げ、野菜、コーヒー牛乳、
   ここでもK、Mさんと出会う。
13時、帰室、ギリシャの記録
17時、5階で夕食、さいたま市から来た方と一緒、82歳で16歳から父親に教わって剣道をしているとのこと、剣道で台湾には100回以上、世界各国に行っているとのこと。元気なおじさんだ。
18時30分、帰室、明日の準備、記録の整理
20時過ぎ、就寝、なかなか寝つけなかった、結局うとうとして朝を迎えることに。

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115回ピースボート世界一周航海記その38(ギリシャ・ピレウス・アテネ)

2024年03月13日 | 今日の出来事

  2023年ピースボート航海記 その13(ピレウス アテネ)

     11月3日(金)ピレウス港 アテネ 7時着岸予定
 7時30分 5階で朝食
 8時30分 帰室
 9時    下船、PBスタッフに勧められて地下鉄を止めバスに乗ることに変更
      バス停へ
 9時20分 バスに乗車、プレウスから40分ほどでアクロポリスに到着

 アクロポリス博物館を目指して歩く、途中、ブズキを演奏しているストリートミュージシャンがいたので動画で撮影、50セント寄付。しばらく歩くと寂しげな音が聞こえてくる、バイオリンを小さくしたような楽器をチェロの様に立てて演奏している。ここでも撮影して50セント寄付する。
 やがて左手に近代的な建物が見えた、アクロポリス博物館だった。かってはアクロポリス内にあったが手狭になったのでここに建てられたとのこと。玄関までのアプローチに遺跡が見られる工夫がされていた。
 チケットは一人10ユーロ、ロビーでリュックを預けて入場。左右の展示棚に小物の焼物が展示されている。間近に見ることができたので形状も模様も良く分かった。造形も紋様も完成度が高く素晴らしい。ギリシャ人の日常生活がいかに豊かだったか偲ばれる。
 建物の通路の一部がガラスになっており下にある遺跡が見える、この博物館を建設する時に出た遺跡の保護と展示を兼ねて作ったのだろう。少し怖いが上から遺跡を見るのは面白い。
 破損しているが出土した大理石の彫刻が多数展示されている。その一角に大理石の柱や梁などを持ち上げる巻上機の模型があった。また、ブロンズ製の工具が展示されており分かりやすく、観覧者に親切だと思った。
 壺、皿、鉢、ランプ、針、紡錘器など生活の道具は見ていて楽しい、形、機能性はすでに完成されていると思った。小さなものでも施されている装飾文様は手を抜いていない、繊細で緻密、モノに対するギリシャ人の姿勢が現れている。そのまま現在の食卓に乗っていても違和感は無い。これだけでアテネに来た甲斐があった。
 12時前、お腹が空いてきたので博物館の2階にあるカフェで食事することにした。空いていた席に座ると、なんとアクロポリスが眼前にあり見上げればパルテノン神殿が見える特等席だった。12時までとあったブレークファーストを注文、パン3種類、野菜添えを添えた卵やき2個、チーズ2枚、サラダ、ヨーグルト、ストロベリージャム、蜂蜜、バター、ミニトマト、ジュースが出てきた。二人で29ユーロ、30ユーロで支払い、1ユーロはチップにした。パンは余ったので持ち帰る。
 満腹状態で見学の継続、映写室でパルテノン神殿が出来てから現在までの歴史を再現して見せてくれた。火事になったり、キリスト教会に利用されたり、トルコの支配下時代はイスラム教の偶像崇拝の影響を受けて彫刻を壊されたり、戦争で砲撃を受け大破したり、イギリスに彫刻を持っていかれたりした経緯を分かり易く表現している。残念な事に大理石の展示品のほとんどは破損している、オスマン帝国の占領時代に壊されたのだろう。鼻がかけたり顔の部分の破損が目立つ、従来の美術品だけでなく幅広く収集展示している。
 新しい博物館だけあって色々工夫している、ただ参考品を展示しているだけではなく、発掘の様子を見せることでアテネがどう言う所なのか、古代の遺産と現代をどの様に調和させるべきか問いかけている。また、ギリシャ時代の人々の暮らしや思いを理解して、その伝統を現在のギリシャにどの様に生かすべきか問いかけている。かって世界をリードしたギリシャ文明を取り戻すべき決意を感じる。
 博物館を出て、アクロポリスを目指す、入口でPBの乗客に出会ったのでアクロポリスのことを聞くと入場時間が設定されていたので諦めて戻ってきたとのこと。心配になったがとりあえず目指して歩く、大理石を敷いた坂道を登る、小さな道が幾つか出てきたが人が多い方を選んで登る、しばらく登ると入場口が見えた。
 チケット売り場の近くにPBの乗客から「入場券を買ったが入場時間が2時に設定されているので使えないから利用してもらえないか?」と言われた。すでに2時になっていたが予定があって戻らなければならないし無駄にしたくなかったので困っていたとのこと。早速、買い取っることにしたら喜んでもらえた。もう一枚はチケット売り場で購入、時間を聞いたら「Now」と言っていたので二人とも入れる。我々はゆっくり食事してから来たのでピークが過ぎ、空いていた時間帯だったのだろう。
 いよいよ、入場口から入る、大理石の道が続く、古代ギリシャ人も歩いたのだろうが立派なアクロポリスにしては粗末な通路だ。まず、ブーレ門(280年頃、ローマ人によって建造)までのジズザグの道を登ると正面には柱が林立し行く手を塞ぐ感じだ。ガイドブックに書いてある通り左手からアゴラの一部(へーバイオトス神殿(内壁や柱がほぼ完全に残っている点で貴重な建物、パルテノン神殿完成間も無い頃に建造されたと見られる、5〜6世紀頃内部はキリスト教の礼拝堂に作り替えられトルコ支配下でほとんど改装されたが独立後、国立博物館が完成するまで博物館として使用された)、聖アポストリ教会(11世紀初期に建てられた、1957年原型に復して再建された))が見える、ただ、柵があってかなり手前からしか見ることができない。
 前門には神殿や絵画館があったとのことなぜ、この入口にあるのかは分からない。全体の計画性が無いように思える、必要に応じて後から継ぎ足して行った感がある。
 柱だけ残る前門(プロピュライア)を通るとパルテノン神殿が現れた。完全破壊からかろうじて逃れたエレクテイオンと共に寂しげにも、周囲を威圧するかのようにも見える。かってはアクロポリスには色々な神殿があったそれが前門と同様計画的に作られたものではなく必要に応じて建造された様だ。
 工事用のクレーンや工事現場が残念だが仕方ない、クレーンを除いた状態を想像するしかない。林立するエンタシスの柱は迫力がある、どっしりと屋根の重みを支えびくともしない。国家安泰の願いと結びついているのかもしれない。梁や破風の彫刻(装飾)は剥ぎ取られ芯だけ残った、言わば屋根の重さを支える近代的な機能美を感じる。
 向かいに立つエレクテイオンの大きな壁と少女スコーレ像の組み合わせは彫刻作品の展示場の様だ。近づくことはできないので遠くから見るだけだ。
 アクロポリスはいたるところ工事中のため、近づくことはできなかったがアクロポリスの空間に立てたことを良しとしたい。博物館で見たパルテノン神殿の変遷が浮かんできた、石の塊になっていたかもしれないと思うと今、このように残っていることは奇跡的なことと思うべきだろう。
 戦いに明け暮れていても、これだけの文化を育んだギリシャ人のことをもっと知りたいと思った。
 アクロポリスを出て、坂を降りると音楽堂に出た。柵ごしにしか見られないが覗いた。コンサートに使われているとのこと、階段状のイスは新しく改修されていた。ここで音楽が聞けたらどの様に聞こえるのだろうか。遺跡を守るだけでなく活用することも必要だと思う。
 来た道を引き返しシャトルバスの停留場へ戻る、先に数人待っていたので一安心、30分以上待ってようやくバスが来る。賑わうアテネ市内からピレウスのターミナルまで街を見ながら帰る。

 

 地中海の島

 

 家が見える

 

 ピレウス港

 

 着岸風景、クルーズ船が見える。

 

 バス

 

 アクロポリス博物館

 

 アクロポリス博物館案内図

 

 内部、中央は地下の埋蔵物が見えるようにガラス張りになっている。

 

 こんな感じ、少し怖い。

 

 階段を登って展示スペースへ向かう

 

 丸柱が林立するパルテノン神殿をイメージさせる室内空間

 

 2階から見た1階の展示スペース、柱が目立つ。

 

 土器、形、文様が素晴らしい

 

 抽象文様

 

 形は現代と変わらない。

 

 ハンドルも機能的

 

 中央はオイルランプ

 

 水差し、庶民用か?

 

 オットセイ、猪、魚?

 

 柄付き壺

 

 注器、口の形状がモダン、口の位置が90度

 

 大量に作られたオイルランプ、油を溜めて芯に火をつけて使う

 

 大量の糸巻き、若い女性が結婚の守護神であるニンフの聖域に捧げたもの。 紀元前6〜5世紀

 

 左、フィブラ(止め金具)?

 

 量産された、庶民用か?

 

 簡単な絵付けが施されている

 

 人形、表現がモダン、用途は?日本の土偶に似ている。

 

 紀元前550〜500年、座っているのはギンバイカを持つ女神、崇拝者の女がギンバイカの枝を差し出している。

 

 三頭蛇体(破風彫刻の一部)

 

 犬(首輪がついている)とライオン

 

 牛?

 

 巻き上げ機、当時の建築工法が分かる。

 

 型を使って量産していた

 

 金属製の工具(上は両刃斧、左は楔?、右は槌、床右は短剣)

 

 パルテノン神殿の模型

 

 パルテノン神殿正面

 

 屋根の構造、梁は木材、その上に石の板を覆った

 

 破風の浮彫りの再現モデル 

 

 守護神の座をかけてポセイドンとアテネが争っている場面、ポセイドンはアテネの人々に「塩水の噴水」を贈ると言ったのに対してアテネは「オリーブの木」を贈るといったところ、アテネを選んだという逸話があるそうです。(アクロポリス博物館)

 

 アクロポリス博物館のテラスから見たパルテノン神殿

 

 アクロポリスは高い崖に守られていることが分かる。

 

 レストランのテラスで

 

 テラスはレストランの一部になっている。これは「ブレークファースト」お勧め!料理がテーブルいっぱいになった。

 

 アクロポリス入場門

 

 案内看板

 

 花がキレイだった。

 

 ドーリア式柱が並ぶ前門(プロピュライア)左端の台座はアグリッパの記念碑、その右にあるのが絵画館(ピナコテーケ)

ローマ人が作った階段が途中まである。

 

 展望台

 

 エレクテイオンの全景

 

 周囲は残骸の大理石

  六体の少女像の柱(本物はアクロポリス博物館に所蔵されている)

  

 

 

 

 

 パルテノン神殿の全景、大きい。

 

 破風の彫刻、残骸(模作)だけが残る姿

 

 残された馬の彫刻(模作)が素晴らしい。

 

 (丸みがわかる)柱は近くで見ると迫力がある。 

 

 修復した状態が痛々しい

 

 破壊され残された大理石の建材

 

 アクロポリスからの眺め、リカヴィトスの丘が見える。

 

 街の眺め

 

 ヘローデス・アティコス音楽堂、アクロポリスからの眺め、下に見物する人が見える。

 

 ヘローデス・アティコス音楽堂 (トイレの先にあります)

  

 上部にアクロポリスから見ている人が見えます。

 

        11月4日(土)ピレウス港出港2日目

 7時30分、起床、地中海は波が高く船が揺れる。天気は薄曇り
 11時30分、昼食
 12時30分、帰室、原稿作成、記録、写真の整理など
 14時、アウシュビッツ報告会ミーティング 6階イベントルーム1
 内容が次の様になった
   1 導入
   2 ホロコーストとは
   3 ユダヤ人とは
   4 アウシュビッツとは
   5 ポーランド1日目 
     ・クリハラカズコ
     ポーランド2日目
     ・ヨコタフミヒデ
     まとめの感想
     ・ノハラココロ
     ・トキキョウコ
     ポーランド3日目 
     ・ユグチユキコ
     ・ユグチユキコ
     ・冨岡
   絵本の読み聞かせ「灰色の朝」
   締めの言葉
  

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115回ピースボート世界一周航海記その37(イタリア・チベタベッキア)

2024年03月09日 | 思い出の旅行

 10月31日  チベタベッキア観光 自由行動

 昨日は疲れていたので良く寝れた。

 外を見ると波が高く防波堤を超えることもある。道路は海水で水浸し。

 6時、起床

 8時30分、初めて5階で朝食、ご飯、味噌汁、納豆、温泉卵、トロロ、焼き魚、梅干し、ヨーグルト、ジュース、海苔、コーヒー、量も適当で美味しかった、次回も利用したいと思った。

 9時30分、帰室、カミさんは咳がひどいので下船しないことになった。船内放送で波が高く荒れているので当局の指示で下船できない、天候が回復する12時頃になるだろうとのこと。写真の整理などして過ごす。

 12時、放送で下船可能とのこと、準備して下船する。風が強く、少し寒く感じる。ジャンバーにして良かったと思った。

 岸壁ではシャトル・バス待ちの長い行列ができている。30分ほど待ってバスに乗る、港内を走り街の入り口で降ろされる。ここが帰りの乗り場になるのか不明。

 取り敢えず、街を目指して歩く、大きな通りがあったので散策開始、すると入口付近で床屋を発見、早速髪を切ってもらうことにした。メニューに英文でhair cutとあったので「ヘアカット、オンリー」と注文、若い店員が何か言っているがさっぱり分からない、髪型のことかと思いこのままとゼスチャーで示す、今度は指でどの位切るかと聞かれた(と思う)ので店員が示した長さの倍を要求、分かったようだ、あとは任せる、ハサミとバリカンを使い20分ほどで完成、しっかり刈り込まれスッキリした。料金は15ユーロだった。これでチベタベッキアに来た目的を達成した。

 思っていたより大きな街だ、土産屋もある。大通りから路地へ、店のウインドウを見て回る。洋服屋さんでは50%offのバーゲンもやっていた。雑貨屋さんのウィンドウで南部鉄器の急須を発見、中国製ではないと思われる。

 また大きな通りに出て、来た道を戻る、道路を挟んで床屋さんの前を通ると若い女性二人が私を見て話しているように見えた。私のことではないと、そのまま港方面に向かうと女性が走ってきて帽子を渡してくれた。床屋の椅子に帽子を置いて座ってしまったのですっかり忘れていた。心配かけて申し訳なかった。

 散策を続けるとアウシュビッツに参加した方と出会あったので髪を切ったことを報告した。その方はこれから列車でローマに行くと言う、時間的に厳しい様に思えた。

 教会があったので入ろうと入口を探したが閉まっているよう、裏に回っても入口が見つからない、諦めていたらローマンカラーを付けた黒人の神父がいたので「日本から来たカトリックの信徒です」と声を掛ける、すると「私はウガンダから来た」と言う、「私の教会にカメルーンから来た司祭がいる」と言ったら分かった様だ。イタリア語を話すかと聞かれたので「ジャパニーズ オンリー」と言ったら笑っていた、通じたのだろう。そして握手して別れた。

 お腹が空いて来たのでレストランを探す、路地を入った所にピザ屋さんがあった、客が美味しそうに食べていたので小さいサイズのピザを注文、冷蔵ケールからビールを1本取り出すと、ピザを焼いている店主が栓を開けろとジェスチャーでしめす。お金を取らないので、ピザと一緒に払うのだろうと判断する。ピザがすぐ焼けると思って店内の小さなテーブルに座るとここは俺の場所だから外のテーブルへ行くように示される。周りの客の様子を見るとピザを食べている人と明らかにジュースなどを飲みながらピザが焼けるのを待って人がいる、私も外のテーブルに移動してビールを飲みながら待つことにする、ピザが焼けると店主が紙に乗せてテーブルまで持って来る。店主は顔と注文内容を覚えている、私の番の時、店主が私の顔を確認してピザを持って来てくれた。熱々のピザは美味しかった、冷えたビールと熱々ピザがあうことを最確認した。カミさんのお土産として3分1持ち帰る。

 14時、港近くの小さな店でビール2本買って船に戻ることにする。シャトルバスを待たないで歩く、20分程歩いて船に到着。カミさんに床屋に行ったことを報告し冷えてしまったピザとビールを渡す。

 17時、14階で夕食、部屋に帰りビール

 

 

 チビタベッキアの地図、海岸沿いと中心街を散策、駅も近くにあるのでローマへ行くのは容易と思われる。

 

 港の風景、小さな航空母艦が停泊していた。

 

 ヨットハーバー、奥にクルーズ船が停泊していた。

 

 帆船?

 

 洗濯物

 

 南部鉄瓶を発見、昔からフランクフルト・メッセを通じてヨーロッパに輸出していた。

 

 小さな広場、右手奥にピザ屋さんがありました。

 

 美味しかったです。大きいのでカミさん用に残しました。

 おじさんが一人で調理、給仕、会計をこなしていました。ビールはセルフサービスです。

 

 ピザが焼けた時にはビールは無くなっていました。 

 

11月1日(水)  チベタベッキア港出航(2日目)

  予定   13:00~14:20 アウシュビッツ報告会ミーティング 6Fイベントホール

          14:30~15:30 ピレウス&イスタンブール わくわく寄港地 7Fシアター

          16:30~17:00  航海の雑学、第4回~インド洋~ 7Fシアター

 波穏やか揺れが少ない、雲が少しかかっている、爽やかな気温

 7時、起床

 8時10分、 朝食を5階で取る。M夫妻と同席、アウシュビッツ、国内旅行、方言、など楽しいひと時を過ごせた。

 9時、帰室、カミさんは診療所へ、私は14階で記録作成、

 11時、帰室、カミさんは戻っていた。

 11時30分、5階で昼食、ラーメン、五目ご飯、サラダ、葡萄、紅茶

支倉常長に興味を持っていた方(昭和14年生まれ)と同席になる。チベタベッキアに支倉常長の像があると言う、この方はそれを確認することが船に乗った目的の一つとのこと。

 13時、アウシュビッツ発表会ミーティング、6階イベントルーム1

 発表内容と担当を決める。

冨岡さんのリーダーシップが素晴らしい。決して否定しない、そうですね!と受け止めきちんと落とし所に落とす、若いNさんが意見をまとめホワイトボードに整理して書いてくれた。

 最後に絵本の読み聞かせをするとのこと、私には唐突で違和感を感じたが、これは最初から計画されていたようなので了解するしかない。

 発表会の概要(映像を流しながら、概要の説明、感想、まとめ)が明確になった。

 カミさんは第2強制収容所についての感想、私はまとめを担当することとなった。

 14時30分からのわくわく寄港地は満席で諦める。部屋で作業。

 18時30分、夕食14階でご飯、豚肉、春雨麻婆豆腐、オレンジ、スイカ、おかずを取り過ぎて残す、済みません!

 19時50分、帰室、アウシュビッツの原稿作成、記録、写真の整理

 

 11月2日(木)   チベタベッキア港出航(3日目)

   予定   13:20~14:20 わくわく寄港地 ~ピレウス&イスタンブール~

   14:50~15:30 いくなら知ろう世界遺産の旅~ギリシャ~

   16:00~17:15 イスラエルとパレスチナの紛争に焦点を当てる

   16:00~17:10 アウシュビッツ報告会ミーティング

 

  9時、カミさんに起こされるが、眠い。

 曇り、上空に青空が見える、波穏やか、左手に並走するクルーズ船が見える。

 9時20分、5階のレストランへ行くと閉まっていた、1時間進めることを忘れていたらしい。

止むを得ず、14階で朝食、ご飯、スクランブルエッグ、野菜と肉の煮物、シシャモ、茹で卵、ヨーグルト、オレンジ、パイナップル

 10時30分、帰室、記録と原稿作成

 

16時、アウシュビッツ報告会ミーティング 6階イベントルーム1

次のように決めた。原稿ができている人は読んでもらう。カミさんは咳がひどいので欠席、私は原稿を持参しなかったので次回、ミニフロッピーディスクで渡すことにした。

 

 <流れ>

 1 初めに司会(KとNさん)が全体の流れを説明 

 2 次のキーワードを説明する

   ・ホロコーストについて

 3 1日目の訪問地紹介と感想

   (Kさん)

 4 2日目の訪問地アウシュビッツの紹介と感想

   (Tさん)

   (湯口由紀子)

 5 3日目の訪問地第2強制収容所の紹介と感想

   (Yさん)

   (Tさん)

 6 まとめと感想

   (Nさん)

   (湯口靖彦)

 まとめ 冨岡(ピースボート)

 絵本の読み聞かせ

   「茶色の朝」 Tさん

 最後

    全員舞台で一例

コメント
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