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定年夫婦の暮らし方(店長日記)

盛岡に住む定年夫婦(昭和20年生)の暮らしを分ち合います。

デモクラシーを再考してみよう!

2020年10月26日 | 今日の響いた言葉

NHKカルチャーアワー 2004年 「ヨーロッパ知の巨人たち」 田中浩 から民主主義を読み取る。

冒頭で講座の目的を示している。

本文から「ここ30年ばかりの日本の政治・経済・社会に表出した、目をおおわんばかりの金権腐敗体質、政官財あげての無責任体制、国民の無自覚性は、目先のイデオロギー抗争にばかり目を奪われて、ヨーロッパ・デモクラシーの本質をじっくりと研究・学習してこなかった日本人全体の怠慢のツケが回ってきたものと言えよう。」

 2000年代の日本の状況は田中が指摘した1970年頃の状況とあまり変わっていないどころか悪化しているように思える。民主党が政権を取り、大震災、原発事故があり、自民党が復権し、安倍長期政権、菅政権とますます状況は混迷し、政官財の劣化が進み、独裁、隠蔽体質の強化と悪化しているようにしか思えない。

 田中は続いてヨーロッパ・デモクラシーの思想原理について「いかにして人間が安全かつ幸福に生活できるかの方法とルールを探究する「人間主義」にあり、その目標は、すべての人びとにとっての自由・平等・平和の獲得と保障であった。」

 安全で幸福な生活を得ると言う目的を実現させる手段として自由・平等・平和があると言うことである。

 そして、民主政治がアテネに端を発し、ローマ、イタリア・ルネサンス、宗教革命、イギリス・フランスの市民革命による近代国家が誕生、民主化の方法は拡大していった。民主政治は不動の地位を得たかに見えるが民主政治にも様々な欠点がある。そのため、「知の巨人たち」は民主政治を維持する難しさを自覚し理論や形態について様々な検討を加えてきた、と言う。

 そして田中は民主主義のメリットとして「民主政治にも誤りがありうるのではないか、と絶えず問い直してきた点にある。すなわち、民主主義は、すべての人びとが納得し合意できる「普遍的価値(良いもの)とな何かを探究し(哲学)、状況の変化に応じて、新しい理論や思想を構築しなおし、それに見合う政治、経済制度を柔軟に採用する工夫をしてきた(政治学・経済学)

をあげる。

 

 このことを歴代政権(民主党含めて)に当てはめて評価してみたい

1)すべての人びとが納得合意できる「普遍的価値」を探究、発信しているのか

    ・少数意見を尊重しない政治・多数の奢り政治・責任を取らない政治・派閥の闇政治

    ・普遍的価値観を持っていない政治・口だけで実行しない政治・説得しない政治

    ・知らせない政治・国民を信じていない政治

2)新しい理論や思想を構築しなおす、それに見合った政治経済制度の工夫がなされているのか

   ・都合が悪い理論は排除し、迎合する理論を尊重するご都合主義

   ・責任を取らない無責任主義・間違いを活かせない無反省主義

 

提案

  ◎ 未来の子供達のために日本の国のあり方を振り返ってみませんか? 

  ◎ 私たちにも責任があると思いませんか?

  ◎ そして、少しでも自分ができることを実行しませんか?

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「忘れられた日本人」宮本常一著 岩波文庫 「名倉談議」から

2020年10月06日 | 今日の響いた言葉

「忘れられた日本人」宮本常一著 岩波文庫「名倉談議」から

 愛知県北設楽郡旧名倉村(現設楽町)で宮本が村の生活の調査の一環として村の郷土史家に頼んで、70歳以上の老人4人(金田茂三郎、後藤秀吉、金田金平、小笠原シウ)に寺に来てもらい話に花を咲かせた。話の中で宮本を感動させることがあった。以下、原文。

「そのとき、きいていて大へん感動したのは、金田金平さんが夜おそくまで田で仕事をする。とくに重一さんの家のまえの田では夜八時九時まで仕事をした。重一さんの家はいつもおそくまで表の間に火がついていたので、そのあかりで仕事ができたと言ったら、小笠原シウさんが、それはいつもおそくまで火をつけていたのではなくて、今日は金平さんが仕事をしているから、また夜おそくなろうと、わざわざ明るくしてやっていたとはなし、しかも、この座談会でそれが語られるまで、一方はその好意を相手につたえておらず、相手の方は夜のおそいうちだと思いこんでいたという事実である。村共同体の中にこうした目に見えないたすけあいがあるものだと思った。無論それと反対の目に見えないおとしあいもあるのであるが、、、。」

 なお、名倉談議は他の文章から昭和30年代に行われたと、また、重一さんの親が戸を立てないように(灯りが外に漏れるように)指示したとあります。

 相手に負担を感じさせない助け合いが自然に起こる、それはどのような村でどのように醸成されたのか、宮本の重要なテーマである。

 この人は何に困っているのか、何をして欲しいのかを読み取り、さりげなく(相手に負担を感じさせないように)心を配る「おもてなし」の原点があるように思えた。

 また、より積極的にそうせざるを得ない、そうあるべきまで昇華させた宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」も同根のように思える。

 もちろん、宮本は農村が良いことばかりとは考えていない。封建的で閉鎖的で陰湿な面があったがそう言う面だけでないと言っているのである。

 

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武蔵野美術大学の機関紙に掲載された宮本常一(教授/民俗学)の記事(抜粋)その2

2020年10月05日 | 今日の響いた言葉

「武蔵野美術62」 私の学んだ人-2 宮本常一 から

(その2 柳田国夫)

 宮本常一がいまも私の胸に強くささっているものがある、と前書きして柳田国夫とのやりとりを書いている。

 昭和15年頃か、いろいろの話しの末に「日本軍もシナでずいぶん戦果をあげているようですね」と話したら、先生は眉をひそめて「困ったことだ」と言われ、次のような意味のことを話された。「人間には殺伐の血が流れている、そういう者が昔は武士になった、その武士を殺伐にさせないために儒教でくくりつけてきた。しかし、百姓もせず大工もせず武道の稽古をしては儒教の書物を読む。人間性はゆがめられてしまう、そういう人たちを再編成したのが軍隊だ。軍隊という特殊な社会の中にとじこめておける間はよい、しかしたえず殺しあいの訓練をさせ、武器をもたせてある、しかも軍人の出世するのは戦争以外にない。国の中が平和なら国の外で戦争をする場所をさがす、いったん武器をつかいはじめると、失敗するまでやめられなくなる。近世の戦争で国民と国民の間でおこった戦争はほとんどない、みな軍人がおこしている。そして自分らの手で始末におえなくなると国民をまきこむ。」

ながい話のすえに「民衆は平和がすきなのだよ」といわれた。

軍人は日支事変を自分たちの手で片をつけることができなかった、そしてさらに大東亜戦をひきおこす、ついには国民全体をその中にまきこんでしまう、そのはての敗戦。私は大東亜戦の終わるまで、心の中で柳田先生のいうことばをくりかえし考えて見てきた。時局は柳田先生のいう通りに動いてすべてが終わった。

 昭和15年頃にこのように見通せた方がいたことに感動を覚えます。柳田国夫のように優れた思想家は時代を的確に読め、将来を予測できるのでしょう。

 「国民と国民の間でおこった戦争はほとんどない、みな軍人がおこしている、そして国民をまきこむ」軍隊は軍隊を守るために国民を犠牲にする。国の中が平和なら国の外で戦争をする場所をさがす、今でも状況は同じでは、軍隊(自国だけでなく他国も)は非常に危険なものと肝に命じておかなければならない。

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武蔵野美術大学の機関紙に掲載された宮本常一(教授/民俗学)の記事(抜粋)から

2020年09月20日 | 今日の響いた言葉

「武蔵野美術62」 私の学んだ人-2 宮本常一 から心に残った武蔵野美術大学の機関紙に掲載された宮本常一(教授/民俗学)の記事(抜粋)です。

昭和24年の暮れごろ大阪の漁村で出会った90歳の老漁師の話。

漁師がまだ20歳にならない頃の話、佐野浦の漁師が毎年対馬に漁に出かけるので仲間3人でその後について行くことにした。しかし、小さな船でしかも慣れていなかったために船団に遅れ、1ヶ月ほどたって対馬の厳原に着いた。爺さんたちはブリ漁をしたら、たまげるほどたくさん釣れた。ある日、対馬の西側の海に漁に行ったら海の向こう遥かに山が連なって見えた。土地の人に聞くとそれは朝鮮だという。「ほならひとつ行って見よやないか」ということで3人で船を漕いで朝鮮に渡った。魚は釣るというより勝手に船に乗ってくるほどであった。魚と食糧を交換して、どこに行って大歓迎された、まったく竜宮にいるようなもので、浦島太郎はきっと朝鮮に行って、そこを龍宮と思ったのだろうと爺さんたちは思った。あまり面白いのでもう少し向こうまで行こうということになり次の浦に行く、また、次の浦に行く、そしてまたまた次の浦に行くということをやっている内に冬が来た。そこで、船を浜にあげ、一冬民家を借りて越年した。春になるとまた、少し北に行こうということになり、魚をとって北に北に行くと、また冬がやって来て同じ様に民家に泊めてもらい越年したが、その年の冬はだいぶ寒かった。3年目になってまた、北に行こうといって北に行くと島が少なくなり、長い岬があり、それを回るとまた、深い入江がある。その辺りに行くと住んでいる人も違う、言葉もわからないがシナという国ではないかと思った。しばらく海岸伝いに行くと家がたくさんある川口の港があった。そこで初めて日本人に会った。そしてタンクウというところであることを知った。日本人の話では川を遡ると天津または北京があるがそこまで行くと捕まるかもしれないからここから帰るが良いだろう、南に行けばインドにも行けるが船が小さ過ぎるから出直してくるが良かろうということであったので、そこからまた元きた海を引き返して来た。故郷に帰ったら5年経っていた。シナまで行ったと話ても誰も信用しなかった。

帰って来たらもっと大きな船を作ってインドまで行こうと3人で約束したが、嫁をもらい所帯を持つと身動きできなくなった。「わいはなあ、もう少し歳が若かったら日本を負かしたアメリカへ行ってみとうおます。もう、憲兵という恐ろしいもんいおませんから、一本がさでいけましゃろう、もう婆さんはおらんし、どこで死んでもええ自分やさかい、沖の船の倍ほどのをつくればアメリカへ行けんこともおまへんやろ」

 褌をしめて小さな船を操って中国や朝鮮を行き来いしていたのである。倭寇の原型を見る思いだった。古代から日本列島と朝鮮半島の交流は意外と簡単にやってのけていたのでは。

 

*計算すると1859年頃の生まれ、20歳の時では1879年(明治12年)頃と思われる。

 好奇心と冒険心旺盛な国民性が海洋国家を築いた。

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川柳を一句

2020年06月30日 | 今日の響いた言葉

 川柳を一句     

     杏里さん 安倍のマスクが よく似合い

 

     

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長期安倍政権の本質

2020年03月12日 | 今日の響いた言葉

朝日新聞の多事奏論(2020年3月11日 編集委員 国分高史)で安倍忖度政権の構造を「自発的隷従論」エチイエンヌ・ド・ラ・ボエシから解説していた。同時にストックホルム症候群を思い出した。安倍政権を支えている本質が見えてきたように思えた。

 

「自発的隷従論」エチイエンヌ・ド・ラ・ボエシ

 絶対王政時代の権力は支配する者自身の力ではなく、むしろ支配される者たちの加担によって支えられる。その構造は一人の圧政者は数人の取り巻きを重用し恩恵を与える。取り巻きたちは恩恵を失うまいと圧政者の権力維持に加担する。また、取り巻きは自らの取り巻きに恩恵を与える、このように権力のおこぼれを求めて自発的に隷従する者が鎖のようにつながっていく。

 取り巻きたちの行動原理について「この者たちは、圧政者の言いつけを守るばかりではなく、彼の望む通りのものを考えなけれなならないし、さらには彼を満足させるために、その意向をあらかじめくみとらなければならない。」 (上記記事から抜粋)

 

ストックホルム症候群

 長期間の監禁で被害者が自己保存のため犯人との心理的な関係を築き、共感までいたる心理的作用。生き延びることが目的であったが次第に犯人に心酔してしまう心理的行為。

 

 ラ・ボエンは自由を取り戻すためになすべきことも書き残した。

 「もう隷従はしないと決意せよ、するとあなたな自由の身だ。敵を突き飛ばせとか、振り落とせと言いたいのではない。ただこれ以上支えずにおけばよい。そうすればそいつがいまに、土台を奪われた巨像のごとく、みずからの重みによって崩落し、破滅するのが見られるだろう。」

                             (上記記事から抜粋)

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小田実「なんでも見てやろう」から学んだこと その5

2020年02月05日 | 今日の響いた言葉

小田実「なんでも見てやろう」

 1961年に出版されたベストセラーに青春時代の私も大いに影響を受けた。古本が手に入るので是非、現代の青年にも読んで欲しい。私は小田のモノの見方、考え方は身についてしまったようにも思える。そのいくつかを紹介したい。

 

「貧困について」

 小田はヨーロッパから中東へそしてインドへ流れ着く、インドでは詩人と会見し、文学や政治そして「貧困」が最大の話題となった。『ハダシとボロの召使がここ(詩人宅)にもいたが、あまり気にならず、私は浮き浮きとさえしていた。』 略 『私は満ちたりた気持ちで彼と別れた。』(略)こんな折、『ホテルの前で腰を下ろしたとたん、ホテルの掃除夫からじゃけんに追い立てをくったのである。掃除夫といえば、おそらく例の不可触か、よくてせいぜいカーストの最下層にとどまるであろう。私は追い立てをくったことに怒り、そうした連中に追い立てをくったことで一層怒っている自分(私は人種差別や階級的差別、ましてこのばかげたカースト制度などに強く反対してきたはずであった)に、また腹をたてた。私はたまらなくユーウツになり、あてもなく夜ふけのカルカッタをさまよったのち、とある街路の片隅に性も根もつきはてたかたちで身をのばした。』 略 『私が書きたいことは、そのときに私が胸に感じたことについてである。それは、一口に言って、もうこれはタマラン、ぜがひでも、なにがなんでも、ここから逃げ出したい気持ち、いや、激しい欲望であった。こう書いていても、私は気が進まぬのを覚える。私はなんという卑怯者だろう。ベンガルのえらい詩人とアジアの「貧困」を論じたとき、私はあんなにも雄弁であったではないか。それがいざ貧困に直面すると、眼をむけるどころか、背を向けて一目散に逃げ出そうとする。』

 勇気のある告白だと思う。たてまえを述べる人は多いがほんとの自分をさらけ出す人は少ない、自分もそうだ。

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小田実「なんでも見てやろう」から学んだこと その4

2020年02月05日 | 今日の響いた言葉

小田実「なんでも見てやろう」

 1961年に出版されたベストセラーに青春時代の私も大いに影響を受けた。古本が手に入るので是非、現代の青年にも読んで欲しい。私は小田のモノの見方、考え方は身についてしまったようにも思える。そのいくつかを紹介したい。

 

「人種差別について」

 小田にとって人種差別、貧困は重要なテーマだった。アメリカに渡り、ヨーロッパからアジアを見てこようとした背景であったと思われる。小田を評論から実践に、ベ平連、脱走兵支援になったと思われる。

 アメリカの東部で人種問題を黒人でもなく白人でもない『他人事として第三者として眺めている。高見の見物をしている。』 略 小田だったがミズリー州の片田舎で待合室「白人用」に出会い胸にわき上がってきたことは『正直に言おう、私は何かしらホッとしたのだ。ヤレヤレ、あそこ(黒人用)に入れられなくてよかったという見下げはてたヒキョウないやったらしい気持ちを、私は感じたのである。いや、ひょっとしたら、私はユカイであったかもしれない。私はすでに「彼ら」を「こちらの世界」の眼で、つまり「白人」の眼で眺める、見下ろすことを始めていたのだ。』

 日本人が日本で人種差別を考える原点だと思う。

 

 

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小田実「なんでも見てやろう」から学んだこと その3

2020年02月05日 | 今日の響いた言葉

小田実「なんでも見てやろう」

 1961年に出版されたベストセラーに青春時代の私も大いに影響を受けた。古本が手に入るので是非、現代の青年にも読んで欲しい。私は小田のモノの見方、考え方は身についてしまったようにも思える。そのいくつかを紹介したい。

『近代化』

 アメリカの鉄道が衰退している現状を見て小田実は

  『とにかく鉄道はすでに時代おくれの存在であることが、アメリカに来てみるとよく判る。』

 略 『大鉄道会社のP・R誌を見ていたら、線路工事の写真があり、それには「本線の近代化着々と軌道にのる」と言う説明がついていた。単線を複線にしているところかと思ったら、そうではなく、逆に複線を単線にしているのである。』 略

 『「近代化トハ単線ヲ複線ニスルスルコトデアル」というのがアメリカ以外のところでの常識であろうが、アメリカではその「常識」が通用しない。』

 小田は常識は疑ってかかれと言いたいのだ。日本も鉄道だけではなく地方都市、そして国家の衰退現象が進んでいると言われている。人口が減少することがマイナスと言う発想はやめたほうが良い、かって私が幼い頃は日本が貧しいのは人口が多いからと世間では言っていた。プラス思考で、新しい社を創るチャンスだと考えたらどうだろう。マイナス思考からは何も出てこないからだ。 

 

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小田実「なんでも見てやろう」から学んだこと その2

2020年01月17日 | 今日の響いた言葉

小田実「なんでも見てやろう」

 1961年に出版されたベストセラーに青春時代の私も大いに影響を受けた。古本が手に入るので是非、現代の青年にも読んで欲しい。私は小田のモノの見方、考え方は身についてしまったようにも思える。そのいくつかを紹介したい。

 

『なんとかなるだろう』

『思うに、もしこの私に生活の信条というものがありとすれば、それはこの「まあなんとかなるやろう」であろう。こいつがなかったら、アメリカへ出かけることもなく、そこでノホホンと一年暮らすこともなく、この帰途、日本まであの無鉄砲でユカイでアホらしいコジキ旅行をすることもなかったのにちがいないであろう』

 「何とかなるだろう」は小田の真骨頂を表している。一見すると無計画でいいかげんにも思えるが「なんとかなるだろう」の背景には強固な裏付けがあったことは本を読んでいくうちに分かってくる。何の裏付けがない者には気をつけなければならないが、ある程度の裏付けができたら細かいことにとらわれないで行動する勇気が特に若い人には必要だということだと思う。


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